蛭ヶ岳
1,673m
主要山域
丹沢山塊は東西約50km、南北約30kmで、ほぼ全域が神奈川県に属し、わずかに西側の一部が山梨県と静岡県にかかっている。以前は丹沢山塊を関東山地の一部に含めていたが、山地の形成年代に大きな差があり、山地の形成過程も違うので、現在は区別している。
一般に丹沢山塊は、最高峰の蛭ヶ岳とその西にある桧洞丸との間の金山谷乗越を境にして東丹沢と西丹沢、あるいは表丹沢と裏丹沢とに区別される。これは小田急線からすぐ山に入れるか、あるいは御殿場線経由や新松田から長くバスに乗って入山するかの、便宜的な違いによる区分だったが、それが結果的には開発の差として、山小屋の密度や登山道の整備の度合いなどに現れている。
またこの区分は、山の雰囲気や地形や地質の違いにも及んでいる。西丹沢には丹沢山塊を造る地質の中核になる花崗岩類が露出して、これが浸食に弱かったために一般になだらかな山容になっている。これに対して、東丹沢では花崗岩類は山頂部には現れず、ちょうど花崗岩類を饅頭のアンコのようにして、古い火山岩類で山頂部分ができている。このため、東丹沢は山が鋭くとがり、最高峰の蛭ヶ岳も東丹沢にある。
丹沢山塊は今から500万年ほど前に、フィリピン海プレートに乗って北上してきた島が本州側に付着したものだと考えられている。さらに200万年ほど前になると、伊豆半島が南から付着した。そのため丹沢と本州の間、さらに丹沢と伊豆半島の間には、それぞれの山地から浸食で運び出された石ころや砂などが圧力を受けて褶曲し、低地と小山脈を造った。これが中津川や相模川の丹沢山塊側にある石老山や仏果山などの小山脈と、現在御殿場線や東名高速道路の走る低地と近くの礫岩の丘陵になった。
丹沢の「たん」は谷を意味し、古代朝鮮語のタン(谷)がもとになっているといわれる。本来、東丹沢の札掛辺りの地名であったのが、明治初期の三角測量の結果山名になった。
丹沢山塊のなかで、大山は鎌倉時代から信仰の対象になり、信仰登山として大いに繁栄した。そのほかの山も信仰登山の対象になっていたものが多い。
丹沢山塊の最高峰は蛭ヶ岳の1673mだが、この2000mにも満たない山塊が四季を通じて多くの人々から人気を得ている。それは、首都圏に位置していることのほかに、変化に富んだ山容と深い谷、そして四季折々に変化する木々の姿があるからだろう。稜線近くを覆うブナの林や新緑のころのツツジの花は、ことのほか美しい。年間30万人もの人を迎えるこの山塊がいつまでも自然のままであって欲しいものである。
蛭ヶ岳
1,673m
檜洞丸
1,601m
大室山
1,587m
丹沢山
1,567m
塔ノ岳
1,491m
菰釣山
1,379m
畦ヶ丸山
1,292m
鍋割山
1,272m
大山
1,252m