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主要山域

槍・穂高連峰

槍・穂高連峰

 飛騨山脈の南部にそびえる岩峰群が槍ヶ岳と穂高連峰。日本アルプスという呼び名に最もふさわしい雪と岩の殿堂、3000mを超える巨峰ぞろいである。
 北の槍ヶ岳から南の西穂高岳に至るまでずらりと並ぶ岩峰は、日本の氷河時代に硬い岩のおかげで氷河の鋭い刃でも削り残されたものだ。槍ヶ岳は南の槍沢、東の天上沢、北は千丈沢、西に飛騨沢と4つのカールによって削り残された氷食尖峰で、槍沢のU字谷やモレーンなどはその証人である。田中薫によって調査された南岳の天狗原カールは、氷河公園とも呼ばれるほど、氷河作用の痕跡を残し、カール底湖の天狗池は氷食尖峰の槍ヶ岳を映して静まり返る。
 大キレットも涸沢もすばらしいカールで、蝶ヶ岳から槍・穂高の岩屏風を見ると、カール地形の模型のように並び、壮観である。
 この山脈は、松本平からは常念山脈の壁があって見ることができない。文献としては享保年間(1716年~1736)に松本藩で作った『信府統記』第6巻に初めて上河内、保高岳の名が現れる。第17巻には「白雉4年(653)、穂高大明神を、伊勢国より勧請す。……当国穂高岳に鎮座、此嵩清浄にして、弊帛の如く……」と書かれている。『善光寺名所図会』(1850)には文政元年(1818)に高島章貞が上高地へ行った紀行文「穂高岳記」がある。
 松本藩の御用杣や猟師がわずかに入山しているだけで、山頂を極めるために入山した最初は文政12年(1828)、播隆上人による槍ヶ岳開山であろう。彼は安曇野の小倉村から鍋冠山を経て大滝山の稜線に出て、蝶ヶ岳から梓川に下り、槍沢をつめている。
 日本の近代登山の夜明けが、この穂高連峰から始まったというのも偶然とはいえ、最もふさわしい場所であったといえよう。
 穂高連峰への初登頂は明治13年(1880)ごろ、W・ガウランドが上條嘉門次を案内にして明神岳に登ったらしい。彼はこの山行で初めて「日本アルプス」という呼び方をしている。その名を広めたのがW・ウエストン。彼は明治26年(1893)に前穂高岳に登頂している。後に4年間の記録をまとめ『日本アルプス・登山と探検』として上梓、初めて日本アルプスの名と山々の姿が世に現れたのであった。
 長い島々谷を遡って徳本(とくごう)峠を越えていった日本の近代アルピニズムが、穂高連峰で黎明を迎えてから100年の歳月がたつ。かつて穂高の岩場を目指した登山家は、今はその先にヒマラヤの峰々を見、そのステップとして槍・穂高連峰を登っている。登山基地の上高地や新穂高温泉も含めて、本邦屈指の魅力的な山域といえよう。

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槍・穂高連峰の主要な山

奥穂高岳

3,190m

槍ヶ岳

3,180m

涸沢岳

3,110m

北穂高岳

3,106m

大喰岳

3,101m

前穂高岳

3,090m

中岳

3,084m

南岳

3,033m

西穂高岳

2,909m

焼岳

2,455m