行程・コース
天候
晴時々曇
登山口へのアクセス
バス
その他:
JR青梅線奥多摩駅から西東京バスで東日原バス停下車
この登山記録の行程
西東京バス東日原バス停(08:10)・・・小川谷橋・・・孫惣橋(09:00)・・・天神神社・・・天祖山(11:30/13:00)・・・梯子坂のクビレ(13:30)・・・御供所(15:30)・・・孫惣橋(16:35)・・・西東京バス東日原バス停(17:30)
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
【回想】大学入学後初の山行は、奥多摩の秘境である天祖山に決定。松ちゃん、旗くんの計3名で予定していたが、旗くんは後で判ったことだが寝坊により不参加。小平駅で集合した松ちゃんと西武線拝島行きの2番電車に乗車した。自宅を出た頃は空一面厚い雲に覆われ、ほんの一瞬雨がパラついたが、JR青梅線が山間を縫うようになった頃、青空が顔を出し始め、周囲も明るくなってきた。
こどもの日の奥多摩駅前は予想通り混み合っていた。日原方面行きのバスも通勤ラッシュ並みの混雑だ。終点・東日原バス停に降り立つと、新緑の木々に朝の日射しが反射して眩しかった。春山独特の明るい雰囲気だ。引き続き公衆電話から旗くん宅へ何度も連絡をするも繋がらなかったためついに断念。登山口の孫惣橋へ向けて出発した。歩き始めるとすぐ左手前方に日原の奇岩の稲村岩がそそり立っていた。やはりいつ眺めても迫力満点だ。日原鍾乳洞など観光地が控えている日原街道は車の往来が激しく歩きにくかったが、更に進むと行く手の天祖山が中央奥にどっしりと腰を下ろしていた。小川谷橋で日原鍾乳洞方面の道を右に見送り、ここからは日原川沿いを進む。やがて砂利道に変わり、歩く人の数もかなり減ってきた。天祖山を目指す登山者はそれほど多くなさそうだ。
孫惣橋の手前にある周辺の地図を載せた看板の前を通り過ぎようとした時、そこに立っていた一人の中年男性から声を掛けられた。この方は鷹ノ巣山へ登る予定だったが、人と話しているうちに登山口を通り越してここまで来てしまったらしい。男性は「やっぱり間違いでしたか。今から戻れますかね?」とおっしゃるので、「戻れないことはないですけど、かなりのロスですから苦しいですね。」と答えた。すると、「では私も天祖山に登ります。ご一緒させていただいてもよろしいですか。」ということになり快諾。”旅は道連れ”とはよく言うが、”山もまた道連れ”。ここからは、旗くんに代わりこの男性が加わることになった。孫惣橋を過ぎてすぐのところが登山口だったが危うく指導標を見落とすところだった。
天祖山はガイドブックにも展望は殆ど望めないと記載されていたこともあり、逆に深山の雰囲気を存分に味わえる格好の場所だと気持ちを切り替えて臨んだ。それでも山に登る以上はどうしても展望を求めてしまうのも人情である。木の間ごしから時折石尾根を望む程度の一見味気ない登りを楽しむにはやはり会話が弾むのに限る。同行の男性は日野市在住の髙橋さんという方で、私が禅宗系の大学に通っていることを知ると、初対面ながら鎌倉仏教などの話題で盛り上がり始めた。私も受験期に学んだ日本史の知識を駆使して何とかお話についていった感じだが、理系の松ちゃんは聞き役に徹していた。会話を重ねるうちに、人が宗教に向き合う姿勢の話題に移り、一つは「他の宗教を批判するものではない」こと。そしてもう一つは「他の人に布教するのを目的にするのではなく、あくまで自分自身を高めるために信仰する」ことが大切ではないかとの結論に達した。髙橋さんはそういう点では「私は高弁(明恵上人)に魅かれるものがあります。」とおっしゃっていた。いったいどういうことなのだろうか?
周囲をクマザサに覆われた道を進んでいくと天祖神社の社務所に出た。入山してから僅か数名にしか出くわさなかった静かな登りだったが、社務所のすぐ先にある山頂には予想よりも多くのハイカーが休憩していた。我々も山頂で休憩することとし、大きな天祖神社本殿を取り囲む柵外側の一角に陣取った。3等三角点の天祖山山頂はやはり展望は効かなかった。早速昼食の準備に取りかかる。コッヘルで湯を沸かし始めると、髙橋さんから高弁(明恵上人)のお話を伺った。私が抱いていた高弁に対するイメージは、その主著『摧邪輪』で法然の浄土宗を徹底的に批判した、というものだったが、髙橋さんのお話によると、実のところ高弁は他宗の批判をそれほどしていなかったようだ。弟子を一切持とうとしなかった点(最終的には弟子を持つことになってしまったそうだが)や、布教活動とも無縁だった点で好感を持てるとのこと。さらに、高弁は絵画の才もあったらしい。それも芸術的価値に囚われない、一見すると「子どもでも画けそうな絵」のようにも感じるが、とても自然体の作品で「心が洗われる絵」だったともおっしゃっていた。(芸術だけでなく文学でも宗教でも)価値とは果たして一般的な尺度で測り得るものなのだろうか。いや、一般的に価値があるものと認識されていないものであっても、人に感動を与えられるものは実に素晴らしいし、その人にとってはとても価値あるものなのだ。髙橋さんにとって高弁の絵はそういう存在に違いない。また、髙橋さんのお話の中で最も印象深かったのが「人間にとって一番大切なものは”自信”である。」とおっしゃっていたことだ。これは「一時的なものであったり、物質的なもの、目に見えるものではなくて、どんな状況にあっても決して揺らぐことのない絶対的な自信を持つことが大切。」であると。非常に難しい命題であり、自分は一生かかっても獲得できないのではと思ってしまうほどものすごく壮大なテーマであり目標といえる。
山頂での会話を終え13時に出発。北側にある梯子坂のクビレまでの急坂を一気に下った。鞍部である梯子坂のクビレでは、ラジオを聴いていたお兄さんが「雲取山へは行けますか?」と声を掛けてきたので、3人揃って「無理でしょう。」と答えた。ここからは尾根を外れクマザサの緩い下りがしばらく続いた。右手には木の間ごしに天祖山東面にある採掘現場が露わになってきた。結構上部まで採掘されていることに気づく。途中で樹皮に生々しい長く深い爪痕を発見。ツキノワグマが両腕で爪を立てた痕なのだろう。多摩川北岸の山には確かにクマが生息している証拠だ。あんな爪で一掻きされたら人間なんて一たまりもない。背筋が寒くなる光景だった。一旦、孫惣谷の源頭部の沢すじに出てから再び高度を上げ始めた。道が徐々に不明瞭になり正規のルートを探すため少々時間をかけて辺りを見回す。このルートファインディングには山頂でも少し言葉を交わしたもう一人の中年男性も加わった。そんな中、松ちゃんが道なき場所を掻き分けて下り、沢に出たところ正規のルートが見つかり一安心。ここからはきょう知り合ったばかりの4人による道連れ下山が始まった。もう一人の中年男性は杉並区在住の菅野さんという方でいかにも山慣れしているように見えた。孫惣谷林道を下るにつれ、天祖山東面の大きな傷痕の全容が明らかになってきた。秩父の武甲山同様、石灰岩採掘によるもので仕方がない面もあるが、これ以上信仰の山を傷つけたくないものだ。
普段なら単調で退屈な林道歩きのはずだが、今回は新しく知り合った方々との会話が途切れることなく弾み、新緑と5月の暖かい午後の日射しのもと、終始楽しい林道歩きになった。バス停のある東日原までの道のりを急いでいたが、途中菅野さんが人数分のキリンラガービールを買ってきて下さって、一同「お疲れ様でした!」の発声で乾杯。日原街道を缶ビール片手に益々雑談は盛り上がりを見せた。振り返ると山あいの奥に午後の日を浴びた天祖山が金色に染まっていた。
東日原にたどり着くと、今度は髙橋さんが「もう1本!」と人数分のキリン一番搾りと、さらにつまみの魚肉ソーセージまでご用意いただき乾杯。バスが来るまでの時間を再び缶ビール片手に歓談の時間となった。ここでは髙橋さんがご自身の故郷のお話をして下さった。場所は秋田県との県境に近い岩手県の奥羽山脈の麓、かつては南部藩の隠し領地だったところだ。「良いところですから一度行って見て下さい。」とご紹介いただくと本当に行ってみたい気持ちになった。いつか足を運べる時が来るのだろうか、想像するだけでワクワクしてきた。鷹ノ巣山へ登る予定だった髙橋さんは「道を間違えたおかげで良い登山ができました。」とおっしゃった。本当に楽しいひとときで、私も心底そう思うのだった。
西東京バスでJR奥多摩駅へ。青梅線内では酔いもまわったせいかずっと居眠りしてしまったが、我々2人は拝島駅で下車。髙橋さん、菅野さんからは「お世話になりました。」と有難いお言葉をいただき、こちらも「ありがとうございました。」と深々と頭を下げ電車を見送った。
後日、写真をお送りしたところ、髙橋さんから『明恵』遍歴と夢(奥田勲著/東京大学出版会/1978年刊)をお贈りいただく幸運に恵まれた。これで私も一気に明恵ファンになったことは言うまでもない。
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