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昨日は、コロナ後初めての山行として、木曽駒ケ岳の「聖職の碑」にお参りに行ってきました。
とても良い天気でしたが、森林限界の2,500mを越えると吹きっさらし状態のため、とても風が強く、お線香になかなか火がつかなくて大変でした。(結局、ハイマツの中にかざして何とか成功しました。)
【遭難記念碑(聖職の碑)】標高:2,730m
木曽駒ケ岳遭難事故を永遠に忘れないようにするために記念碑として建立。
(慰霊碑でも殉難碑でもない。)
【木曽駒ケ岳遭難事故】
今から107年前の1913年(大正2年)8月26日 長野県伊那市の中学校による木曽駒ケ岳登山中に起きた大量遭難事故であり、11名(37名中)の生徒や引率の先生が犠牲になった。
(1)当日の天気
日本の南に2つの低気圧があり、登るにつれて急速に天候が悪化し暴風雨へ
(2)当時の登山格好
水戸黄門に出てくる助さん格さんのような恰好。
登山靴はもちろん草履。しかも過酷な登山のため、更に予備の2足を用意。
編み笠と杖と雨具の着ゴザ
(3)泊まる予定だった山小屋(標高2,870m)
到着した際には、山小屋らしき形骸のみだった。
(高さ1m程度の石垣が、四角に囲まれた8畳程度の広さ
その石垣の上に、十数本の角材が置いてあるだけ。)
そのため、切り取ったハイマツと雨具の着ゴザを使って屋根替わりとした。
(4)至急こしらえた小屋の状況
・8畳に37名
・天井の高さ:1m
・小屋にいた時間帯:18時頃 ~ 翌日の明け方
・灯りは提灯1つ
・暖を取るため、火を焚こうとするも全て湿っていてつかない。
・雨漏りが半端ない。
・居眠りとの闘い
ローソクの火の上に湿ったハイマツをくべて、そのハイマツから出る猛烈な
煙によって激しく咳き込み、目を覚ました。
・小屋の水たまり
各自、石を持ち込み、その上に座っていたが、雨漏りのため
明け方になるころには、すでにお尻も浸かり始めていた。
勿論、草履を履いたままの足も水浸し。
(5)事態の急変
上記、過酷な状況の中で一晩を過ごし乗り切ったが、明け方の強烈な寒さにより、それまで頑張っていた一人の生徒が低体温症で亡くなる。
それを契機に全員パニックに陥ったことで、赤羽校長の統率が効かなくなり、引率者の青年たちが我先に小屋を飛び出して、屋根にしていた着ゴザをひっぱがし、と同時に強風が手助けし「あっ」という間に屋根が崩壊した。
その後、暴風雨の中の過酷な下山となり、多くの犠牲者がでた。
【所感】
・コロナ後、半年ぶりの山行としては、行動時間10時間と少々ハードでした。
・人気のない登山道のため、登山口から胸元まである熊笹が茂っており、いきなり藪漕ぎから開始。
・熊笹は素直なためスムーズに前進可能(MTBは大変)だが、熊や猪など野生動物と遭遇する恐怖があり。ホイッスルを鳴らしながらの前進でした。
・森林限界を越えると、風がつよく、晴れた昼間でも空気が冷たいのに、、、事故当時の状況を考えるととても恐ろしく感じた。
・約10年前に発生した我々の未遂事件もかなり危なかったが、標高は低いし、小屋はしっかりしてたし、薪ストーブもあったし、かなり恵まれていたと思う。
・いずれにしても山は危ない。充分な装備と的確な判断を再認識したい。
おまけ
登山口までの林道(約6㎞)が良い。しっかりとした整備された良い林道です。
所々に水を排水するための溝が掘られている(結構深い)ので、普通車は無理だけど、かなり楽しめる。また脇道も何本かあったので、更に楽しめそう。バイクツーリングするには少し遠いのがちと難点。
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