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羽村の堰から福生経由で砂川の金比羅山へ

小作取水堰、阿蘇神社、一峰院、根搦み前水田、玉川神社、玉川水神社、羽村取水堰、中里介山の墓、まいまい井戸、福生アメリカンハウス、水喰土、砂川新田、玉川上水・残堀川立体交差、巴河岸跡、金比羅山、阿豆佐味天神社、砂川平和之礎、国立極地研究所、立川熊野神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇り時々腫れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:武蔵小山→東急目黒線→大岡山→東急大井町線→溝の口/武蔵溝ノ口→南武線→
立川→青梅線→小作

復路:高松→多摩モノレール→玉川上水→西武拝島線→東大和市→小平天然温泉 テルメ小川→蔵出し味噌 麺場→東京都薬用植物園→東大和市→西武拝島線・新宿線→高田馬場→山手線→目黒

この登山記録の行程

小作駅6:48→金刀比羅神社6:50→小作緑地公園6:58→小作取水堰7:08→阿蘇神社7:25→一峰院7:35→根搦み(ねがらみ)前水田7:38→玉川神社7:46→玉川水神社・羽村陣屋跡8:03→羽村取水堰・玉川兄弟の像8:06→羽村稲荷神社8:17→中里介山の墓8:27→羽村駅8:36→五ノ神神社・まいまい井戸8:45→水木公園8:55→リリー・フランキーの巨大壁画9:19→東福生駅9:27→国道16号沿の商店街・福生アメリカン・ハウス9:32→福美ラーメン(忌野清志郎)9:54→水喰土(みずくらいど)公園10:09→拝島駅10:22→昭島温泉湯楽の里10:33→砂川分水・柴崎分水取入口10:53→玉川上水・残堀川立体交差11:10→巴河岸跡11:25→金比羅山(金比羅神社 ・浅間神社・秋葉神社)11:30→残堀川旧水路11:46→阿豆佐味天神社12:02→砂川学習館12:10→平和之礎12:13→国立極地研究所(南極カラフト犬記念像)12:32→旧立川熊野神社跡12:39→立川熊野神社12:48→高松駅12:56

合計6時間8分

コース

総距離
約23.1km
累積標高差
上り約87m
下り約163m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

12月12日(土)は、神奈川県の多摩丘陵が三浦海岸先端を残してだいたい終わったので、先に東京で行っていない多摩地区をやってしまおうと、まず羽村の堰から福生経由で砂川の金比羅山まで歩いて来ました!

金比羅山、立川市唯一の山ってことで気になっていたんですよ。ただそれだけで行くのはしょうもない超低山なので、今回いろいろ繋いで、ようやく行くことが出来ました。

今回のスタートは羽村駅ではなく、1つ先の小作駅です。羽村の堰を調べていたら、その上に小作の堰という狭山湖に水を送るための堰がもう1つあるようなので、そちらを見てから羽村の堰に向かうことにします。

小作スタートだと、他にも寄ってみたい場所ができるので、まず最初に駅東口にある「金刀比羅神社」に行ってみます。

ここは、明治27年に青梅立川間に鉄道が開通・小作駅が開設されたことに伴い、虎ノ門の金刀比羅宮を勧請して創建された神社とのことで、電車なのに海運の神様である金比羅様を祭るのは、恐らく多摩川の水上輸送の安全を守る神に金比羅様を祭っていたので、それになぞらえてのことだろうと思います。

東口から西口に渡り返し、真っ直ぐ進むと、多摩川の河岸段丘の崖の林をそのまま公園にした「小作緑地公園」に突き当たるので、それを下ります。

さらにもう1つ河岸段丘を下ったところに「小作取水堰」があります。ここは最初に言ったように狭山湖(山口貯水池)へ水を送るための堰で、水はすぐ横の沈砂池を経由し、玉川上水のような地上の川ではなくパイプラインで狭山湖へ送られます。

小作の堰から河岸段丘上の奥多摩街道を進むと、「阿蘇神社」に着きます。ここは、平将門や、将門を討った藤原秀郷による社殿造営の伝説が残る古社で、多摩川の氾濫を鎮めるため九州から阿蘇大明神を勧請したとのことですが、少し遠すぎるので、富士山のことを浅間と呼ぶのと同じ感じで阿蘇とも呼ぶ例もあるので、その可能性の方が高いと思います。ちなみにここは社殿が2つあって、上の入口正面にあるのが旧社殿で、多摩川を見下ろす崖の上にあるのが現在の本殿です。

阿蘇神社の少し先にあるのが「一峰院」です。ここも平将門の末裔が開基であると伝えられる臨済宗の寺で、立派な文化財になっている山門があります。

一峰院の前に広がるのが「根搦み(ねがらみ)前水田」です。水田とあるので相模川の田名のような水田地帯だと思っていたのですが、埼玉の巾着田のように半分以上が畑に変えられた、チューリップ畑が有名な観光地になっています。ちょっと残念。

再び奥多摩街道に戻りもう少し進むと、「玉川神社」があります。ここは玉川水神社と名前が似ていて紛らわしいのですが全然別の神社で、明治の神社合併によって生まれたこの地域の氏神様です。江戸時代以前は諏訪大明神あるいは多摩大明神と称していたそうで、言い伝えによると、神奈川で世話になったあの畠山重忠の一族が信濃国一宮・諏訪神社から御分霊を勧請したのが始まりだそうです。でも有名な春祭は「天王祭」といって、八雲神社や八坂神社風の祭を行っているみたいで、よくわかりません。

そして再び多摩川まで下りると、ようやく「羽村の堰」着きます。まず入口にある「玉川水神社」に参拝していきます。ここは、ご承知の通り、玉川上水を護る神社で、玉川兄弟によって創建、幕府によって管理されてきました。その後、管理は東京都水道局に移るが、現在は羽村市民等で作る「水源愛護会」が管理しているそうです。隣に上水を管理するための役人の屋敷や陣屋(水番所)がありました。ちなみに多摩川源流の笠取山麓の水干にあるのはここの分社。

奥多摩街道を渡って、多摩川から「羽村の堰」で玉川上水が分かれる様を見ながら、上水を渡ると玉川兄弟こと玉川庄右衛門・玉川清右衛門の銅像があります。これから奥多摩方面へ行くのか?東京方面に戻るのか?早朝なのに自転車とランナーの団体がいました。群れると他に誰もいなくともマスク着用が絶対になるから面倒だな。

羽村の堰から羽村駅の方へ登って行く途中に「中里介山の墓」がある「禅林寺」があります。ところが墓は寺から一段上がった河岸段丘の上にあり、朝早すぎるせいか中を突っ切って行けそうにないので、先に隣にある「羽村稲荷神社」に行きます。ここは創建年代等は不詳ながら、稲荷社と称して禅林寺の西南あたりに鎮座し、東ヶ谷戸の鎮守だったという特に何もない神社なのですが、建物が非常に立派!ご利益あるのでしょうかね?

さて「中里介山の墓」ですが、山梨の大菩薩峠から移築してきたんじゃないかと思わせるなかなか風情のある墓です。中里介山は、羽村の精米業者の次男として生まれ、生家は自由民権運動の三多摩壮士と呼ばれた活動家たちの溜まり場で、介山自身も左右問わず「大逆事件」のアナキストから国柱会の田中智學あたりまで、幅広い交友関係を持っていたようです。小説『大菩薩峠』は、大正2年「都新聞」で連載が始まり、連載以後は書き下ろし、自費出版の後、春秋社社から出版され大ベストセラーになりました。しかし作品の完結を見ずに59歳で死去し、故郷の禅林寺に葬られたそうです。介山の墓の前からは奥多摩の山は見えるのですが、大菩薩峠までは見えないのがちょっと切ないです。

介山の墓を見たら、羽村駅駅を越えて東口に行きます。東口を出てすぐのところに「五ノ神社」と有名な「まいまい井戸」があります。五ノ神神社はかつては熊野社と呼ばれ、旧五ノ神村の鎮守だったとのこと。まいまい井戸は、河岸段丘の上は水脈まで遠く、深い井戸を掘らなくてはならないため、螺旋状に掘り下げた下に井戸を設けたものです。

羽村駅から再び多摩川の方に戻っても良かったのですが、砂川まで行くとなるとさすがに面倒なので、そのまま河岸段丘の上を行きます。多摩川の河岸段丘なんですが、今登り降りしてきた2つの他に、駅の東側ににもう1つ小さなものがあり、「水木公園」として遊歩道になっているので、行けるところまでそれに沿って行ってみます。昔は100年に1度ぐらい、ここまで水が上がる洪水があったのかも知れませんね。

そしてその遊歩道が終わり、濃厚接触系のクラブやバーが出てくると、基地の街福生に入ります。福生に入るとまず目に飛び込んでくるのが「リリー・フランキーのちょっとエロい巨大壁画」です。どういう契機で描かれたものかはわかりませんが、福生の観光名所になっているみたいです。

巨大壁画から坂を上り、横田の米軍基地との境を通る国道16号に出ます。ここはアメリカンな装飾の店が建ち並び、夕暮れ時なんかに車で通るとネオンサインがキラキラして、とてもエキゾチックな場所なんですが、さすがに午前中のこの時間から開いてる店はなく、いい写真が全然撮れなかったので、しょうがないので裏町に入って米軍ハウスでも探してみます。

米軍ハウスというのは、1951年の朝鮮戦争で基地の人員が激増し、基地内住めない米兵の為に外に作られた住宅のことで、朝鮮戦争が終結し、必要がなくなり、返還されて日本人が住む様になりました。大瀧詠一さんや、桑田圭佑さん、村上龍さんなどたくさんのアーティストや文化人が住んだことでも有名です。現在は老朽化のため、殆どが取り壊され、団地や一般住宅に変わってしまったのですが、探すと福生や瑞穂町の住宅街の中にまだ結構残っています。文化を伝えるという意味で地元が一般解放している建物もあるようです。

といったところで、再び16号に戻ると、アメリカンな店が続く中、突然一件のラーメン屋が現れます。この「福美ラーメン」こそが、あのRCサクセッションの忌野清志郎が生前ひいきにしていたといわれる伝説のラーメン屋で、開いていたら食べてみたかったんだけど、やっぱり午前中なので休み。味はオーソドックスな醤油味と何かに書いてあったのですが、マグロから出汁をとってるみたいです。

福美ラーメンのちょっと先を拜島方面に下ると、さっき言った三段の河岸段丘の一番上の段の下までジワリジワリと高度を上げてきた玉川上水に出合います。このまま登って、拜島駅のところでめでたく武蔵野の台地の上に上がるんですね。めでたしめでたし、となる予定だったのですが、ここで想定外のとんでもない事件が起こりました!それはさっき羽村のまいまい井戸でみたように、台地の上の土は水を通しやすくて、いくら水を流しても全部地面に吸い込まれてしまうということです。そこで再度堀直したわけですが、その失敗した跡が「水喰土(みずくらいど)公園」として拜島駅のすぐ側に残されています。

拜島駅を過ぎると玉川上水は武蔵野台地の上を真っ直ぐ東京都心を目指して流れるようになります。川の左右が遊歩道になっているので、そこを歩いて行きます。

西武線の踏み切りを越え、前に一度行った「昭島温泉湯楽の里」の横を通り、さらに進むと、「砂川分水・柴崎分水取入口」が出てきます。ここは「飲用水」としてとして使われることを前提に認められたもので、田用水ではないものの、水の得にくいこれらの地域の開発に多いに寄与したそうです。ちなみに「新田」=「水田」ととらえがちですが、砂川の場合、新田とは「畑」でした。

その先に出てくるのが、「残堀川と玉川上水の立体交差」です。玉川上水はここで一度地中に潜り、残堀川の下を潜って反対側に抜けています。江戸時代の残堀川は玉川上水と合流していたらしいのですが、明治時代になって川が汚れてきたため、直接多摩川に放流するよう改修されたそうです。

その先、玉川上水が右に大きく曲がっている場所が、「巴河岸跡」です。ここは明治時代初め、玉川上水に舟を浮べ、物資を東京に運ぶために造られた船着き場の跡で、舟運は、明治三年(1870)に開始されましたが、衛生上の理由から、明治五年には廃止されたそうです。

そして巴河岸跡のすぐ横にあるのが、本日の目的地である「金比羅山」です。ここはかつての残堀川が下を流れていた小さな河岸段丘の上に盛り土をしたような形の小山で、高さは下から15メートルほどで、立川市唯一の山です。玉川上水を掘った時の土砂を盛って作ったという説や、富士塚ではないかとの見方もあるようです。頂上への階段の途中に秋葉神社、山頂には浅間神社と金比羅神社が祭られています。

金比羅山からちょっと戻って、かつて残堀川が玉川上水に合流していた跡があるようなので見に行きます。跡は埋め立てられ、道になっています。玉川上水に合流する前はカーブのところを直進して、そのまま金比羅山の河岸段丘の下を通り、砂川三番の方に抜けていたようです。

金比羅山を過ぎると、いよいよ砂川地区に入って行きます。まず最初に向かうのは、「阿豆佐味天神社」です。ここは、砂川に新田を開発した際に狭山丘陵周辺から移住してきた人たちが、瑞穂町の阿豆佐味天神社(村山郷の総鎮守で武蔵国多摩郡八座の一座。武蔵七党の村山党の氏神でもある)から持ってきた神社のようです。境内社の蚕影神社は、カイコの天敵であるネズミをとることから猫を祀っており、「猫返し神社」とも呼ばれています。「ただいま猫」の石像があり、「絵馬」に書いたら、家出した猫が無事に帰ってきたという報告も寄せられているそうす。1956年、砂川闘争の総決起集会が行われた場所としても知られています。

阿豆佐味天神社前のバス通りを渡ると、「砂川用水」や「砂川闘争」などの砂川の歴史がわかる「砂川学習館」があり、さらに畑が多く進む中を南に進むと、「平和の礎の石碑」があります。

平和の礎の碑は砂川闘争20 周年を記念して昭和50(1975)年に建立されたものです。戦後、立川には米軍が駐留しており、朝鮮戦争のさ中の昭和30(1955)年に基地拡張を要求されましたが、砂川町はまちぐるみの反対運動、いわゆる砂川闘争を繰り広げ、昭和43(1968)年に滑走路延長は取りやめとなり、翌年には米軍は横田飛行場への移転を決めたました。ここで重要なのは、沖縄や三里塚(成田)とは違い住民が勝ったということで、平和の礎の石碑の裏には広大な畑と、前には今でも団結小屋のような物が残されています。たぶん住民と結婚してあとをついだ新左翼の人たちがやっているんじゃないかと思います。

平和の礎から広くて新しい道路を渡ると、自衛隊の立川飛行場があり、その東側には返還された基地の一部を一般に解放した再開発エリアがあります。多摩モノレールが通り、立川市役所やららぽーとなどがあります。そういえば拘置所もあった。

その再開発エリアの中にあるのが「国立極地研究所」です。今はコロナで金曜日しか開いていませんが、前に南極カラフト犬の記念像があります。どれがタロウとジロウなのかは、たくさんいるのでわかりませんが、登山に飽きて極地を目指したい人には是非とも訪れてみたい場所です。

そして極地研究所を出て道を渡った場所にあるのが、「旧立川熊野神社跡地」です。「立川熊野神社」は、柴崎新田の開発に伴い創建された神社なのですが、太平洋戦争の米軍の空襲で建物が灰燼と化し、さらに終戦後、境内地が駐留軍に接収され、やむをえず、高松駅東側の新境内地に移転したという神社で、近年、基地が返還されたため、高松駅西側の旧地に戻ることが出来たという数奇な運命をたどった神社です。ちなみに高松駅の東側の戦後造られた神社はそのまま残っており、戻ってきたのは石祠のみです。

数奇な運命といえば、半年前、小池都知事の緊急事態宣言で、前日のホームページに営業中と書いてあったのに閉まっていて入れなかった「小平天然温泉 テルメ小川」に、高松駅からモノレールに乗り、玉川上水駅で西武拜島線に乗り換えて東大和市駅まで行き、これから向かいます。

ここは多摩地区北部ではとても人気の高い日帰り温泉で、建物も非常に立派で、さぞかしゴージャスな温泉なのではと期待して行ったのですが、中はちょっと古びた感じで、天然温泉の風呂の比率が高いのですが、冬場は嬉しい暑湯がなく、高濃度炭酸泉もなく、サウナにテレビもなく、ちょっとイマイチ感のある温泉でした。温泉はやや色が薄い黒湯の弱アルカリ泉で塩気は感じません。料金は土日1050円で、普段はたぶん混んでいるのでしょうが、コロナ第三波で空いてました。

最後にテルメ小川から東大和市駅に戻り、ラーメン屋を探します。東大和は結構ラーメン激戦区なんですが、探すの面倒だったので、駅近くの目立つ看板の「蔵出し味噌 麺場 壱歩 東大和店」という、全国各地の味噌ラーメンを扱ってるチェーン店に入り、「伊勢味噌味噌漬け炙りチャーシュー麺」というのを注文してみました。これは最近食べた味噌ラーメンの中では一番美味しかったです。他にも色々な味噌ラーメンがあるようなので、それも試してみたい気もしたんですが、西武線沿線にしか店舗がないのがちょっと残念。世田谷や川崎あたりでも十分客が入るとおもうんだけどなぁ。

MAP | 羽村市観光協会
http://hamura-kankou.org/map/

福生市観光ガイドマップ「ふっさまっぷ」
https://www.city.fussa.tokyo.jp/sightseeing/amuse/1006328/index.html

たちかわまちの案内人 立川散策コース3|立川観光協会
http://www.tbt.gr.jp/annai22/course03.html

小平天然温泉 テルメ小川 | 東京小平の日帰り天然温泉
http://www.terme-ogawa.com/

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