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日野周辺(西党と新撰組)

久保山公園、石川御嶽神社、諏訪大地主神社、金比羅七ツ塚古墳、東光寺神明社、東光寺、日野宮神社、日野八坂神社、日野本陣跡、新撰組のふるさと資料館、安養寺、八幡大神社、とうかん森、高幡城跡、南平丘陵かたらいの路、平山季重神社、平山季重の墓、平山季重居館( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:武蔵小山→東急目黒線→大岡山→東急大井町線→溝の口/武蔵溝ノ口→南武線→立川→中央線→八王子→八高線→小宮

復路:平山城址公園→京王線→高幡不動→京王バス→百草団地入口→おふろの王様 多摩百草店→ポパイ・ラーメン→中和田天神→京王バス→聖蹟桜ヶ丘→京王線→明大前→井の頭線→渋谷→バス

この登山記録の行程

小宮駅6:55→粟之洲日吉神社7:00→宇津木台緑地・久保山公園7:17→石川神明社7:34→石川御嶽神社7:41→石川天満宮7:54→諏訪大地主神社8:07→七ツ塚ファーマーズセンター・金比羅七ツ塚古墳群8:27→東光寺神明社8:42→東光寺8:54→日野宮神社9:09→姫宮権現社9:26→日野駅9:35→飯塚権現社9:39→宝泉寺9:42→日野八坂神社9:50→井上源三郎資料館9:58→日野本陣跡・日野交流館10:03→佐藤五郎資料館10:09→大昌寺10:14→新撰組のふるさと資料館10:26→山下神明社10:32→別府神社10:50→宮金山神社10:52→万願寺小野神社11:04→安養寺11:07→八幡大神社11:12→土方歳三資料館11:20→とうかん森(土方歳三生家跡)11:25→土方歳三の墓(石田寺)11:32→若宮愛宕神社(小野稲荷神社)11:51→高幡不動駅11:53→高幡不動尊11:58→高幡城跡12:08→南平丘陵かたらいの路12:22→平山城址公園13:11→平山季重神社13:14→平山季重の墓(宗印寺)13:29→平山萬福皇大神(〃)13:34→平山季重ふれあい館(居館跡)13:49→平山城址公園駅13:52

合計7時間2分

コース

総距離
約24.0km
累積標高差
上り約522m
下り約534m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

1月16日(土)は、八王子と大栗川流域をだいたい回ったので「日野」です。

日野は「西党」という八王子の横山党の弟分のようなちょっと地味めの武士団の支配地域だったのですが、この西党、出自を調べてみると実は凄かった。西党の祖先は「日奉氏」という天照大神以前から続く「太陽祭祀」を職業とする一族で、一説によると関東へは武蔵国造(武蔵国の知事のようなもの)として赴任して来た後、土着化したという非常に由緒ある一族だったようです。他の武士団のようなどっかの牧(牧場)の管理人上がりとは階級が違うわけですよ。

そんな彼らが日野を祭祀の本拠地に選んだ理由は、日野から冬至の日の太陽を見ると、富士山の真上に沈むからだと言われています。古代人が夏至や冬至、春分の日や秋分の日の太陽の上る方角や沈む方角を重視していたことは聖地やストーンサークルなどの遺跡がその線上に並ぶことで幅広く知られています。

ちなみに天照大神以前の太陽神というのは、皇室の祖神とは別の純粋な自然神だったと言われています。それを誰かが合体させた。さらに合体後も男性神であったり、複数の太陽神が同時に存在したりと天照大神に落ち着くまでにはかなりの紆余曲折があったようです。

まあそれでも太陽信仰の技術というのは専門家チームに学ばなくてはならず、太陽神が天照大神に確定後、その信仰を整理して日本中に広めるために新たに組織されたのが日奉部だったと考えられています。

そんな日野に行く前に今日は、この前の滝山城の続きで八高線の「小宮駅」からスタートします。小宮駅周辺は台地と低地しかない日野とは違い奥多摩の延長の丘陵地帯がまだ残っていて、それを生かした広い公園や緑地が多いです。

まず最初に駅から崖の上を見上げたところにある「粟之洲日吉神社」ここは粟之洲村の鎮守として元禄年間頃に創建されたということ意外に特にないのですが、場所柄眺めだけは良いです。

続いて「宇津木台緑地」「久保山公園」へ。この2つは繋がっていて、ひよどり山ほどは大きくないですが、丘陵の林の中を散策出来る雰囲気の良い公園です。

橋で広い車道を渡り、また緑地を抜けると「石川神明社」があります。天照皇大神を祀る小さな神社です。

次の「石川御嶽神社」石川村の村社だった以外特にないのですが、山の上に林の中にあり、とても雰囲気の良い神社です。元は近所の西蓮寺で御嶽権現として祀られていたものが、神仏分離令で分かれたもののようです。

次の「石川天満宮」も菅原道真以外良くわからない神社なのですが、眺めだけは最高です。

小宮駅から一回りして、この辺りから日野方面に徐々に下って行きます。下る途中に「諏訪大地主神社」という気になる名前の神社があるので寄ってみます。ここは元は単なる稲荷神社だったところに、諏訪大社の建御名方神と八坂刀売神、建築に関わる大地主神と埴安比売神と屋船神を合祀して再興した神社らしいです。不動産関係者や建築会社・工務店の祈願が多いとのことなんですが、神社そのものが工事業者の庭先にあるような雰囲気なので、仲間内で信仰されてるんでしょうかね。

そして谷地川を渡るといよいよ日野に入ります。入ってすぐあるのが「七ツ塚古墳群」です。ここは7基の古墳があったようなのですが、公園に墳丘が残っているのは3つだけです。横に「七ツ塚ファーマーズセンター」があって、日野産の野菜を直売しています。この遺跡のある辺りが日奉氏の本拠地であったのではないかと言われていて、まだそれほど住宅が立て込んでいないので畑の向こうに富士山を臨むことが出来ます。冬至のダイヤモンド富士が見える頃にはイベントでもあるのかな?

続いて向かうのは、多摩川の河岸段丘上にある「東光寺神明社」ここは、西党の支流立川氏が伊勢神宮を勧請したとも、あの和田義盛の残党が創建したとも伝えられる神社です。

東光寺神明社から少し行った河岸段丘下に「かたくりの群生地」発見!

次の「東光寺」は現存しません。現在ある「東光寺(成就院)」は、同じ場所に造られた別の寺院とのことで、東光寺の子院の1つとのことです。東光寺は西党の祖といわれる「日奉宗頼」の孫の「西大夫宗忠」が居館の鬼門よけに「薬師堂」を建立したのが始まりと言われ、その薬師堂のみが、建て替えられたものなんでしょうが、今も残っています。

そして「日野宮神社」です。ここは日野の語源になったと言われている神社で、先程の「七ツ塚古墳群」同様、日奉氏の本拠地があったと言われている場所です。祭神は天御中主尊、高魂尊、日奉宗頼、日奉宗忠となっています。神社なのに、虚空蔵菩薩、阿弥陀如来座像、阿弥陀如来立像の三体の仏像が残されており、その中のでも虚空蔵菩薩は室町時代の作とされ、古社であることを証明する根拠にもなっています。また虚空蔵菩薩の衣の袖はうなぎに似ていることから、この地区ではうなぎを食べないという伝承が残されています。

次の「姫宮権現社」は公園に建つ小さな祠のような神社なのですが、西党の祖といわれる日奉宗頼の妻を祀ったといわれる神社で、多摩川の自然石に銘が刻まれています。

といった感じで「日野駅」に着きました。ここで日奉氏は一段落です。駅の下をくぐって最初に向かう「飯塚権現社」は高尾山から飯綱権現を勧請したと言われている神社です。

その斜め前にある「宝泉寺」は新撰組六番隊隊長「井上源三郎」の菩提寺で墓と顕彰碑があります。

「日野八坂神社」は日野駅近くにある鉄筋コンクリート製の大きな神社で日野宿及び郷の総鎮守社です。多摩川より発見した牛頭天王像を奉遷し、社殿を建立したと伝承され、日野宮神社の管理社でもあります。新選組の母体・天然理心流の奉納額があり、ここには近藤勇、沖田総司、井上源三郎、佐藤彦五郎の名が記されています。

「井上源三郎資料館」は表札が井上となっていたので子孫がやっているんだと思います。

「日野本陣跡」は都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣建物とのことで、名主を務めていた「佐藤彦五郎」が本陣兼自宅として使用していました。佐藤彦五郎は天然理心流の道場も開き、近藤勇や沖田総司、山南敬助らが訪れるようになって、新選組の基礎となるわけです。前に「日野交流館」という観光案内所もあります。

新撰組の日野の世話役だった「佐藤彦五郎」の資料館もたぶん子孫がやっているんだと思います。この辺りはコロナなのでどこも中までは入らず。

「大昌寺」はその佐藤家の菩提寺です。建立した讃誉上人は西党の支流の立川氏の子孫で、北条氏照につかえた立川能登守の子息といわれています。

「新撰組のふるさと資料館」も入らず。ボランティアの老人が管理しているようなところって、今どうしても遠慮してしまいますよね。

そしてまた河岸段丘を下ります。「山下神明社」は嘘か本当か、壇之浦で破れた平家の落人が日野に流れ着いて始めた神社とのことです。

これで日野駅周辺は終わり、万願寺駅方面に向かいます。「別府神社」は、別府の神という変わった神様を祀っている神社で、府中の国府に対し別の国府という意味で別府という名前がついたという説もあり、気になります。この神社がある「宮」という集落も怪しいのですが、それ以上の伝承は残っていないようです。

宮にはもう1つ「金山神社」もあって、ここは言われも何もわからないのですが、奥多摩方面で金属加工していた連中が流れ着いたか?

さらにどこにも載っていない、Googleマップにだけ出てくる謎の「小野神社」も、宮ではないですが近所にあり、この辺怪し過ぎます。ただこれは個人宅のお稲荷さんみたいな神社だったので、小野神社の氏子の人が持ってきただけなのかもしれません。

広い道の反対側にある「安養寺」と「八幡大神社」に向かいます。「安養寺」は、西党の田村氏の居館跡だといわれる場所で、寺も田村山極楽院ということから、その後、西党由井宗弘の直系の田村安栖が開基したのではないかともいわれています。真言宗智山派の高幡金剛寺の末寺です。

すぐ横にある「八幡大神社」も、由井宗弘の孫、田村駄二郎知実が、男山八幡宮を勧請して社殿を創建したと伝えられる神社です。ただ大がつくわりには普通の神社。

前にも行ったけれど、新撰組の「土方歳三」の生家が資料館になっているので、写真だけ撮って行きます。隣の立派な長屋門は親戚の家。

土方歳三の生家は実は別の場所にあったらしいのですが、多摩川の洪水で流されて今の場所に移転したそうです。その流される前の場所の近くにあるのが「とうかん森」です。「とうかん森」とは「稲荷森」を音読した「とうかもり」からこう呼ばれるようになったと言われていて、この稲荷は土方一族により、代々守護神とされてきたものだそうです。ただ今は木が2本残っているだけで神社はありません。歳三の生家はこの森から北東方向にあったそうです。

ついでに土方一族の菩提寺であり、歳三の墓がある「石田寺」にも寄って行きます。ここも真言宗で高幡不動の末寺で、山号の愛宕山は高幡不動の裏山を指すようです。

浅川を渡り高幡不動駅方面に進みます。駅裏にある「若宮愛宕神社」は、愛宕山(高幡山)山頂に祀られていた愛宕社を合祀ししている神社で、最初は高幡不動の本尊の傍らにある二童子を彫刻した旅僧との不思議な別れをきっかけとして別旅明神社として創建されたとのことです。境内社に「小野稲荷神社」もあります。これも氏子の人が引っ越しの時に持ってきたものでしょうか。

高幡不動駅まで来たら、当然「高幡不動不動尊」こと高幡山明王院金剛寺にも寄って行きます。ここは京都智積院を総本山とする真言宗智山派の別格本山で、奈良時代の創建ともそれ以前の創建とも言われる関東屈指の古刹で、関東三大不動の一つです。境内の土方歳三像が有名ですが、位牌もここに納められているそうです。

高幡不動の裏の高幡山には「高幡城跡」があります。ここは現在、四国八十八箇所のお遍路が東京で疑似体験ができる霊場になっているのですが、高幡氏の居城があったと言われていますが委細は不明です。その後場所的に、様々な勢力が砦として使用していたようです。

高幡山から「かたらいの道」というハイキングコースが平山城址公園まで続いているのでそこに入ります。この道は多摩動物公園のフェンス沿いの道を整備したもので、途中のビューポイントからは奥多摩方面の山々を一望出来ます。

かたらいの道を終点まで行ったら、住宅街を抜け、「平山城址公園」に向かいます。その入口近くに「平山季重神社」があります。平山 季重は、西党では一番有名な武将で、源平合戦の一ノ谷の戦いでは源義経の奇襲部隊の一員として、同僚の熊谷直実とともに先陣争いをした話が有名です。平山季重神社は公園入口の北側の丘陵が少し突き出した丸山と呼ばれるかつては見張り台があったといわれる場所にあり、「日奉明神社」あるいは「日奉神社」とも呼ばれてます。

平山城址公園には寄らずに一旦駅方面に下り、次は「 宗印(禅)寺」に行きます。ここは先日行った柚木の永林寺末の寺なのですが、平山季重を供養するために建てられた大福寺という寺が明治17年廃寺となり、そこにあった「平山季重の墓」「日奉地蔵堂」がこの宗印寺に移転され、見ることができます。またここには「平山萬福皇大神」というかつて天照大神の夫であり、天照大神が偉大すぎるため伏見稲荷に祀られ冷遇されていたという謎の神様を祀る神社もあります。この神様は最初に書いた複数の太陽神の末裔なのかも知れません。

そして平山城址公園駅に向かいます。平山城址公園駅南口ロータリー付近は「平山季重の居館」があった場所とされ、図書館に「平山季ふれあい館」が併設されています。平山城址公園はあくまで物見台や非常時に立て籠る砦で、平山氏の本拠地は駅周辺にあったようです。

平山城址公園駅には何もないので高幡不動駅まで電車で戻り、百草団地行のバスで「おふろの王様 多摩百草店」に向かいます。無料送迎バスもあるんですが、本数が無いので路線バスの方が早いです。ここのおふろの王様は前にも行ったことがあるんですが、温泉ではなく沸かし湯です。一応高濃度炭酸泉とか企画湯とかサウナも2種類あるものの、料金は土日950円沸かし湯としては割高で良く潰れずにやっているな~といつも思うのですが、近所に高齢者の多い大きな団地があるので、それでもっているのかもしれません。でもこの日は緊急事態宣言で高齢者はあまりおらず、その代わりに授業がなく都心にも行けずにヒマな帝京大学生がたくさんいました。大学生が多いから高齢者が少ないってのもあるのかもしれない。

おふろの王様を出たら、高幡不動駅に戻るのもあれなので、大塚・帝京大学駅方面に歩きます。その途中に「塩釜温泉・観音の湯」という温泉スタンドがあり、ここで温泉が出るなら、おふろの王様まで温泉を引けばいいじゃないかと思うんですが、いまだに頑固に沸かし湯で頑張っているのが不思議。ちなみにこの「塩釜」というのは、この辺りで井戸を掘ると塩水が出てきたことから、それを煮詰めて塩をとっていたことに由来するようです。温泉スタンドの横に「塩釜(御手)観音」と言われるお寺もあります。

大塚・帝京大学駅近くまで下りてきたら、この近所で一番人気の「ポパイ・ラーメン」に向かいます。ここは昭和57年から続く、ファミレス風の駐車場を持つ町中華なのですが、ファミレスより値段が安くて盛りも良いということで、帝京大学生中心にいつも混んでいます。ネットで美味しいと書かれていた「中国大陸ラーメン」を注文してみました。これは辛いあんかけの、いうならば酸っぱくないスーラタンメンのようなラーメンで、お酢をかければたぶんスーラタンメンになるのでしょうが、それは客の好みに合わせるというのが店のポリシーのような気がします。

ポパイ・ラーメンを出たら、モノレールで高幡不動に帰るのもやっぱりあれだったので、少し歩いて中和田天神というバス停からバスで聖蹟桜ヶ丘に出ました。

日野市観光協会:日野を歩くアーカイブ
http://shinsenhino.com/archives/spot/walk/

多摩百草店 | おふろの王様
https://www.ousama2603.com/shop/tamamogusa/

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みんなのコメント

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  • 毎度毎度すごいです。
    私にもっと予備知識があればさらに味わい深いレコなのでしょうが

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