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府中周辺(武蔵国衙跡と大國魂神社)

古天神公園、押立神社、桜塚古墳、行人塚、常久一里塚、かなしい坂、瀧神社、武蔵国府八幡宮、天神山、武蔵国衙跡、大國魂神社、宮乃咩神社、高札場、坪宮、高安寺、国司館、家康御殿、三千人塚、下河原駅跡、府中郷土の森公園、是政鹿島神社、大丸城跡、大麻止乃豆乃天神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇りのち雨

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:武蔵小山→東急目黒線→目黒→山手線→新宿→京王線→調布

復路:南多摩駅→南武線→武蔵小杉→東急目黒線→武蔵小山

この登山記録の行程

調布駅6:09→白山宮神社6:13→古天神公園6:23→上石原若宮八幡神社6:53→本村神社7:09→押立神社7:12→桜塚古墳7:26→飛田給駅7:33→行人塚・飛田給薬師堂7:35→車返諏訪神社(浅野長政隠居跡)7:46→車返八幡神社7:54→本願寺7:56→塞の神発祥の地8:02→武蔵野台駅8:06→白糸台駅8:13→彦四郎塚・多磨村役場跡8:16→常久一里塚8:26→清水が丘白山神社8:29→かなしい坂8:33→東郷寺8:34→瀧神社8:45→武蔵国府八幡宮9:14→府中競馬正門前駅9:23→天神山(天神社・六所日吉神社・妙顕神社)9:32→多磨寺跡9:51→明治天皇行在所跡9:54→宮乃咩神社9:59→大國魂神社10:02→高札場跡・御旅所10:14→旧下河原線跡10:24→高安寺(城跡)10:27→坪宮10:46→国司館跡地10:50→府中本町駅10:54→国司館と家康御殿史跡広場10:55→武蔵国衙跡11:02→金比羅堂と妙光院11:13→安養寺10:22→三千人塚10:35→下河原八幡神社11:58→国鉄下河原駅跡12:07→府中郷土の森公園12:29→是政鹿島神社(横山党根拠地、新田)13:01→是政八幡神社13:08→是政駅13:19→南多摩駅13:33→大丸城跡13:39→稲城天然温泉 季乃彩13:41~15:12→大麻止乃豆乃天神社15:20→(うまい)ラーメンショップ 稲城店15:37~15:55→南多摩駅15:58

合計8時間(温泉とラーメン除く)

コース

総距離
約25.2km
累積標高差
上り約182m
下り約179m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

1月23日(土)は、日野に続いて府中の大国魂神社周辺を散策してきました。

大国魂神社は言わずと知れた武藏国の総社で、隣には武藏国の国衙(県庁のようなもの)もあり、古代の武藏国の中心だったわけですが、南北に東山道と鎌倉街道、東西に品川道と甲州街道が通る交通の要衝でもあったため、八王子以上に大規模な戦争の舞台になることが多く、そのわりには誰も城を構えて定住することがなく、ただ荒廃して、わけがわからなくなっているだけという、八王子とは別な形で想像力を刺激する場所です。

府中に行く前に、今日は昨年、調布の下布田遺跡まで行ったので、その続きの上布田遺跡からスタートします。とは行っても上布田遺跡は見るべきものは何も残っていないので、その中の1つである「古天神公園」だけ行ってみることにします。ここは調布の有名な神社である「布多天神社」の旧社地であると言われている場所で、府中崖線上にあります。布多天神社は多摩川の洪水被害を避けるため、今の場所に移転したそうです。遺跡は旧石器や縄文時代の生活跡、5~7世紀ごろの墓や堅穴住居、鎌倉時代から室町時代頃の横穴墓など様々な時代の物が、古天神の周辺から発見されているそうです。

古天神公園に行く途中に「白山宮神社(布田ノ白山神社)」というのがあったので寄ってみたのですが、ここは江戸時代以前より存在して、天王社と御嶽社を合祀した神社らしいのですが、特に布多天神社とは関係なかったようです。

続いて「上石原若宮八幡神社」「本村神社」「押立神社」と回って府中方面に進みます。上石原若宮八幡神社は新撰組の近藤勇の実家があった上石原の鎮守で、幕末に西郷軍を迎え撃つために出兵した際も先勝祈願に訪れているようです。これら3つはいずれも多摩川の洪水被害を受けている神社で、本村神社と押立神社に至っては多摩川の流路が変わったため、村が二分され、多摩川の北側に残された集落が新たに神社を設立したのが起源になっています。国立方面でもあったけど、府中(立川)崖線周辺はそういう話がとても多いです。

続いて「桜塚古墳」へ。ここは墳丘が2箇所ほど残されているという話だったのですが、1箇所所は新しい分譲住宅が建っていて無くなっており、もう1つもたぶんこれなんじゃないかという物しか発見出来ませんでした。7世紀中頃の円墳で横穴式石室の基底部が調査によって見つかっているそうです。

府中崖線から少し離れ、飛田給駅を越えて「行人塚」へ。ここは「飛田給薬師堂」境内にあって、松前意仙という僧侶の入定塚です。実際に骨が発見されているそうです。意仙は元仙台藩士で、この地に庵を結んで薬師如来像を彫り上げた後、薬師像の傍に穴を掘り、お経を唱えながら入定(死去)したと伝えられています。

「車返諏訪神社」は、豊臣秀吉の家臣で五奉行の筆頭だった「浅野長政」の隠居屋敷跡だそうです。織田信長にやられた浅井長政とは違う人なのでお間違いのないよう。

諏訪神社に参拝したら、京王線の全駅中、最ものどかな駅と言われる「武蔵野台駅」周辺に向かいます。ここにはローカルヒーローの「大久保彦四郎」というのがいて、小田原北條氏の一族で、千葉県の市原市出身の武士だったらしいのですが、戦禍で焼けた寺を再興したり、新田を開発したりして、武蔵野台発展のために尽くしたそうです。

まず「本願寺」と「車返八幡神社」です。本願寺はもとは別の場所にあったらしいのですが、大久保彦四郎が兵火で焼けた薬師堂を再建したことから、「彦四郎寺」と呼ばれるそうです。「車返八幡神社」は、本願寺守護神としてに創建された神社で、車返村の鎮守社だったそうです。

武蔵野台駅南口には彦四郎とは関係ないけど、「塞の神発祥の地」という良くわからない石碑があります。「車返」という地名に関係あるのかな?

そして「武蔵野台」駅と西武多摩川線の「白糸台」駅にタッチして「彦四郎塚」に向かいます。普通こういった途中少し歩く乗換駅の間には商店街があって、人がたくさん歩いているものなんですが、ここは商店街もなければ人も歩いてないので、初めての人は道迷いに注意です。まあ農産物の無人販売所はあります。

「彦四郎塚」は、東京都の遺跡には”時代不明の塚(円墳)”として登録されていますが、現地では墓ではなく、彦四郎が別に領地をもらって去るときに、所持の武器等を埋めた場所とされています。現在は小学校の敷地内にあり、子供の遊び場になっています。前には「多磨村役場」がかつてあった場所の石碑もあります。

彦四郎塚から府中方面に進むと「常久一里塚跡」があります。ここは江戸時代初期に整備された甲州古道にある一里塚で、江戸,日本橋からちょうど七里目にあたるということです。

一里塚から再び南に向かうと府中崖線上に「清水が丘白山神社」かあり、その少し東がわから崖線を下る坂道が「かなしい坂」です。このあたりは最初に掘られた玉川上水の流路にあたり、拝島の水喰土ではないですが、水がこの坂あたりで地中に浸透してしまい、工事の責任を問われて処刑された役人たちが「かなしい」と嘆いたことからかなしい坂と呼ばれるようになったとのことです。その後玉川上水は堀直され、今の場所を流れるようになりました。

かなしい坂の悲しみを吹き飛ばすかのように坂下に巨大な山門を見せているのが「東郷寺」です。ここは東郷平八郎の別荘跡に建立された日蓮宗の寺院です。山門は、黒澤明監督の名作「羅生門」やそれに続く「美女と盗賊」のモデルになったといわれます。

東郷寺から府中崖線の下を辿って行くと「瀧神社」に着きます。まだ東府中駅の手前なのですが、ここからいよいよ大国魂神社の領域に入って行きます。「瀧神社」は、大国魂神社の末社として約六百年前に創建した神社で、大国魂神社の例大祭にあたっては、神人、神馬がこの滝で身体を清めるといいます。今も滝という程ではないですが、湧水が湧き出ていて、清水が丘の地名の由来ともなったと言われています。東京競馬場が近いせいか武豊騎手のサインが飾ってありました。

瀧神社から少し行くと「東京競馬場」の正門前に出て、そこから崖線を上がると「鳩林荘」というブリジストン創業者の石橋家が保有する別荘があります。府中崖線を利用した立派な庭園なのですが一般には非公開です。

鳩林荘のすぐ隣にあるのが「武蔵国府八幡宮」です。ここは武蔵国の守護神として大国魂神社に先だって建立されたもので、同様な八幡神社は他の国府にも見られます。個人的な見解を言うと、律令制国家は最初、ここが天皇の支配領域だと示すため「国府」と日本統一を成し遂げた最も偉大な天皇である「応神天皇」を祀る「八幡神社」を起き、民衆に対しては中国からの進んだ文化を伝える「国分寺」を置いて怪しげな民間宗教を廃して教化しようとしたものの、あまりうまく行かなかったので「六所宮(総社)」を造って、民間人の信仰する神々を敬う政策に転化したんだと思います。なお武蔵国府八幡宮の脇を通る細道は古の「品川道」だと言われています。

武蔵国府八幡宮から府中競馬正門前駅を通り、少し行ったところにあるのが「天神山」です。ここは別名「丸山」とも言われ、府中競馬場が出来る前はもっと南につき出していて、下からみるとまさに山のように見える場所で、「六所日吉神社」「天神社」「妙顕神社」の3つの神社があります。ここは個人的な見解を言うと、武藏国府建設にあたり、元からあった邪魔な神社を1ヶ所にまとめた場所なんじゃないかと思います。有名な神社仏閣がある場所というのは縄文・弥生時代からの聖地であることが多く、何らかの神社があったことは間違いないですから。ちなみにこの3つを押し退けて、現在一番信仰を集めていたのは、競馬場の裏ということもあり「馬頭観音」でした。

天神山から街中に入り、「大国魂神社」方面に向かいます。大国魂神社の東側には国府が出来た初期の段階に「多磨寺」という巨大な寺院があったとされ、「京所」=経所(写経所)という地名にその痕跡を残していますが、詳細は良くわかっていないようです。その後国分寺が出来て廃寺になったようです。遺跡の標識もありません。

そして、旧甲州街道を渡った旧伊勢丹の角に「明治天皇行在所跡」があります。府中は旧武藏国府だけあって、天皇も良く訪れていたようで、ここにあった府中宿を代表する商家の田中三四郎家を休憩所や宿所として使っていたらしいです。旧田中家は現在、郷土の森博物館内に移築復元されているとのこと。

そしていよいよ「大國魂神社」に向かうのですが、その入口手前に「宮乃咩神社(みやのめじんじゃ)」という神社あるので参拝していきます。ここは入口手前あるので「宮の前」がなまって「宮乃咩」と言われているのでは?と一般には思われているのですが、個人的には「大国魂神社が出来る前にあった神社」ということで「宮乃咩(宮の前)神社」と呼ばれるようになったのではないかと思っています。要するにこの地の地主神ということです。祭神は天鈿女命(あめのうづめのみこと)で、北条政子の安産を祈願したことから、今は安産の神として柄杓が奉納されていますが、元は産めよ増やせよの子孫繁栄の神で、大国魂神社の有名な「くらやみ祭」を元を正せば、この神社でもっと昔から行われといた祭に由来するのではないかという気もします。

そしてようやく「大国魂神社」です。ここは武蔵国の一宮から六宮までを合祀する「六所宮」とも呼ばれている神社で、古代、国司は任国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたものの、大変なので1ヶ所にまとめて簡単に行えるようにしたとのことで、同じような国内の神を合祀した総社が各国府の近くに設けられました。大国魂神社の名前は六所宮が出来る前に大國魂大神(大国主命)を郷民が祀っていた神社があったのを近代になって復活させたものされていますが、ど田舎の農民がそんな大それた神様を祀るわけがないのでそれは怪しく、六社宮が出来る前にあったのは府中を領土として西党の氏神様であった可能性が高いのではと個人的には思っています。ちなみに「宮乃咩神社」は西党の氏神様が出来るよりもっと昔の神様。で、その神社が摂取されたため代替案としてあきる野に延喜式に記載のない二宮神社が新たに造られ、六社の1つに加えられたのではないかと思います。

あと府中の「小野神社」に「小野神社とはすなわち大国魂神社のことなり」といったような伝承が残されているので、西党の氏神に横山党の氏神が合祀されて、大国魂神社が生まれたのかもしれません。六所宮の元が横山党と西党のハイブリット神社ならば、一宮~二宮の順番も納得行きます。

大国魂神社を出たら「府中高札場」と「御旅所」に向かいます。この2つは同じ旧甲州街道と府中街道の交差点にあります。高札場とは、江戸時代に幕府の政策や禁止令などを墨で書いた板の札(高札)を掲示する施設で、この辺りが府中宿の中心であったことを示しています。また御旅所とは神幸の中継地および目的地となる場所です。

ここから甲州街道を西に少し行くと緑道があり、これは水路の跡ではなく「旧国鉄下河原線跡」です。北に少し行った場所に説明文があります。下河原線は下河原駅から国分寺駅まで多摩川の砂利を運ぶ貨物線として運行が開始され、後に府中競馬に行く旅客線が追加されますが、武蔵野線が開通して廃線となりました。

下河原線跡を過ぎてもう少し旧甲州街道を進むと、今度は「高安寺」があります。平安時代に「藤原秀郷」が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山見性寺に改めたのが始まりとされる寺で、「源義経」も奥州に逃れる際に立ち寄って、武蔵坊弁慶が大般若経を書き写した際に使った言わる井戸も残されています。さらに新田義貞が分倍河原の合戦で本陣を構えて以降、様々な戦の拠点として使われ、別名「高安寺城」とも呼ばれるのですが、籠城戦のできるいわゆる城ではありません。このような性格の寺のため、度々の戦乱で衰退・荒廃してしまったのですが、江戸時代に青梅市にある海禅寺の末寺に入り、宗派も曹洞宗と改めて、ようやく安定したそうです。

高安寺から府中崖線を下ると「坪宮」と呼ばれる大国魂神社の末社で武藏国初代国造である「兄多気比命」を祀った小さな社があります。府中本町駅近くの崖下の非常に地味な場所にあるのですが、武藏国の国司館がすぐ近くにあったので、昔はそんなに地味な場所ではなかったのかも知れません。

武藏国の国司(知事のような存在)の館は、国司館が復元された公園は府中本町駅東口にありますが、遺跡地図を見ると駅の西口にあったようです。でも東口に公園が整備されたせいか、マンションが建っているだけです。

国司館が復元された模型が建っている公園は「徳川家康」の「府中御殿」があった場所です。ここは豊臣秀吉の奥州仕置の帰りに秀吉の宿泊施設とするため、徳川家康が急遽造営した御殿で、その後、鷹狩や鮎漁の際に活用されていまさたが、正保3年の大火で焼け、再建はされませんでした。

国司館まで来て、「武蔵国衙(県庁のようなもの)跡」を行き忘れていたのを思い出したので大国魂神社に戻ります。国衙跡は神社東側にあり、南北約300メートル、東西約200メートルの広い範囲で、大型建物跡や瓦やセン(古代煉瓦)などが多量に見つかっているようです。現在は府中市によって資料館が大国魂神社の隣に建てられています。

国衙をピストン往復したら、府中崖線の下に下ります。その途中に「金比羅堂」があります。実はその昔、大国魂神社は南側の崖下から登って参拝するようになっていたらしいのですが、表向きは奥州に睨みをきかためと言われていますが、たぶん布多天神社他の神社と同じように水害を避けるためと、国衙の役人の便宜をはかるために今の場所に移転し、向きも北向きになったようです。その南から参拝していた時代の名残がこの金比羅堂だと言われていて、少し前まで裏から大国魂神社に行く道も通じていたようなのですが、今は文化財と自然保護のため柵が造られ、行けなくなっています。ちなみに金比羅神が祀られたのは、府中競馬場の南側に多摩川の水運用の港があり、その無事を祈るためと言われています。

金比羅宮の下にあるのが「妙光院」です。真言宗の名刹で、戦国時代には北条氏照も帰依し、徳川家康からは御朱印地15石を寄進されるなど、時の有力者の信仰あつい寺であったようです。

それはそれで良いのですが、その妙光院の下にある天台宗の「安養寺」は、明治維新前に武蔵総社大國魂神社の別当寺だった寺で、本来ならば神社に隣接しているはずなのに、間に妙光院という別の寺が挟まっているのは、何か権力闘争のようなものがあったのではないかと気になります。これは委細不明。

これで大国魂神社を離れて中河原方面に向かいます。すると最初に出てくるのが「三千人塚」です。ここは分倍河原の合戦で亡くなった戦死者3000人が埋葬されたと伝えられていましたが、学術調査を行ったところ、鎌倉から室町時代の有力者一族の墓であったことがわかりました。石碑と高さ10メートル以上のエノキの木が立っています。

三千人塚から中央高速をくぐってさらに南に進むと「下河原八幡神社」という小さな神社が出てきます。ここは多摩市の蓮光寺村の小字の鎮守社だった神社で、多摩川の流路が変わって村が分断され、多摩川の北に残された場所に祀られた神社と言われています。この下河原だけでなく、中河原や四谷も昔はみな多摩川の南側にあったらしいです。

下河原八幡神社のすぐ近所にあるのが、さきほども出てきた「下河原線」の貨物の方の終点であった「下河原駅跡地」です。この駅は多摩川の砂利を運搬するために造られた駅で、地図では駅のあった場所は一目瞭然なのですが、記念碑のような物は何もありませんでした。

下河原駅跡から西武多摩川線の終点の「是政駅」方面に進みます。是政に行く途中に「府中郷土の森公園&博物館」というのがあり、博物館の方でろう梅が満開だったのですが、中を突っ切れかったので、雨が降っていることもあり断念しました。公園の方は特に見るべき物はありませんでした。

そして「是政」です。是政の名前の由来は北条氏照の家臣「井田是政」という人の名前だそうで、氏照の自害後に帰農して荒れ地だった現在の府中市是政の地を開拓し、競馬場の敷地内にお墓があるそうです。

まず最初に「是政鹿島神社」に向かいます。ここからは円形の銅板に三体の小仏像を掛けた験仏が発掘されていて、弘安七年(1248年)の銘があり、「横山屋敷」という地名が残り、横山氏を名乗る旧家もあることから、「横山党の懸仏」といわれており、是政は横山党の根拠地だったという説があります。しかし「西形部宗弘」という文字も読めることから西党の物という説もあり、真相ははっきりはしません。

横山党の根拠地がここにあるなると、武藏国府や六所宮の成立に横山党が深くかかわっていた証拠にもなるのですが、そもそもこの辺りはその時代の多摩川の流路に当たり、是政が下河原のように多摩川の南岸にあった可能性も否定できず、その場合横山党の支配地域である多摩丘陵と地続きになるので、ここに横山党がいたとしても武藏国府に直接支配力を及ぼすのは難しくなります。

是政が洪水多発地域であったことは、すぐ近所にある「是政八幡神社」に洪水により移転した記録が残っていることからもわかります。ちなみにこの神社は、小田原北条の家人の高橋兵部丞吉次が京都の石清水八幡宮の分霊を勧請したのが始まりと伝えられる古社です。

そして「是政駅」にタッチしたら、多摩川を渡ります。

その前に、川崎街道との交差点の先に「大丸城跡」の標識があるようなので、それを見て行きます。この城はこの前の関戸城と同じような砦の見張り場的な城で、「是政の渡し」を監視する拠点として、鎌倉~室町時代に築城されたと言われています。築城者はわかっていません。この城、すぐ近所に「城山公園」という公園があるのでそこにあったのだとずっと思っていたのですが、これから行く「季乃彩」周辺にあったそうです。

「稲城天然温泉 季乃彩」は大丸城があった高台に位置する日帰り温泉施設で、泉質は黒湯のpH8.1のほぼ塩味を感じないナトリウム炭酸水素塩泉です。ここは稲城という辺境にあるにも関わらず、府中~調布に適当な日帰り温泉がないため、いつも混んでいます。数年前に行った時も混んでいましたし、今回も緊急事態宣言中にも関わらず、浴槽はほぼ満員でした。それを除けば、裏山の緑が清々しいとても雰囲気の良い温泉です。

温泉を出たら、前にも来たことがあるんですが、ついでなんで「大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)」にも寄って行きます。ここは「延喜式神名帳」にも記載されている多摩八座のうちの一社です(奥多摩の武藏御嶽神社が式内社の大麻止乃豆乃天神社だという説もあり)。あまり大きな神社ではないのですが、雰囲気は良いので稲城に来た際は寄ってみると良いと思います。

その後、南多摩駅前での「(うまい)ラーメンショップ 稲城店」でラーメンを食べ、南武線で帰りました。

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