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武蔵五日市駅から秋川に沿って

舘谷の塁、大悲願寺、正一位石走神社、伊奈の市神様、瑞雲寺、山田八幡神社、もみじ塚、真照寺、引田八雲神社、引田大宮神社、出雲神社、真城寺、白瀧神社、油平八幡神社、大塚遺跡、秋留台公園、平沢八幡神社、森山神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→新宿→中央線→立川→五日市線→武蔵五日市

復路:牛浜→青梅線→立川→南武線→矢川→国立温泉 湯楽の里→高幡不動→新橋 纏 高幡不動店→高幡不動→京王線→明大前→井の頭線→渋谷→バス

この登山記録の行程

武蔵五日市駅6:20→大悲願寺6:42→正一位石走神社6:53→伊奈の市神様6:59→山田八幡神社7:15→瑞雲寺7:17→山田天神社7:38→もみじ塚7:46→引田城跡7:53→真照寺→7:59引田八雲神社8:11→六枚屏風岩8:17→引田大宮神社8:28→出雲神社8:37→真城寺8:52→白瀧神社9:00→油平八幡神社9:13→大塚遺跡9:28→秋留台公園9:51→平沢八幡神社10:16→森山神社10:30→牛浜駅10:56

合計4時間36分

コース

総距離
約16.0km
累積標高差
上り約203m
下り約268m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

2月27日(土)は、23日に行った秋川南岸の丘陵地帯の反対側の北岸にある神社仏閣などを縦走して来ました!

北岸は河岸段丘があるぐらいでほぼ平地なのですが、丘陵地帯の城跡との関係性などを考えながら歩くと、丘の上を歩いていた時には気づかなかった新しい発見などもあり、結構楽しめました。

山も登っているだけではわからなかったことが、麓の町や集落を歩いていたらわかったってことが良くあるじゃないですか。

スタートは23日と同じ武蔵五日市駅です。高尾神社の方に曲がった場所を反対に曲がって、まずは「大悲願寺」を目指します。ここは五日市の観光では真っ先に出てくるほどの有名な真言宗豊山派のお寺で、山門や観音堂など多数の文化財があります。創建は、源頼朝の命で西党の平山季重が醍醐寺三宝院の僧を招いて開いたと言われており、南北朝時代の足利氏や徳川幕府からも手厚い保護を受けています。また伊達政宗の白萩文書という「先日訪問した折、庭の白萩が見事であったが、その白萩を所望したい」という手紙が残されていることも有名です。この寺は23日に登った網代城山と秋川を挟んで丁度反対側にあり、裏山にある三内神社に「阿伎留城」があったとされていることから、五日市の町の入口を監視する用途も担っていたのではないかという気がします。

大悲願寺から五日市街道に下りると「正一位岩走神社」があります。ここは信州から移住してきた人たちが、戸隠神社の手力男命を勧請して祀ったと言われる神社で、例祭は阿伎留神社の「五日市まつり」、二宮神社の「生姜まつり」とともにあきる野三大まつりとされているそうなんですが、個人的には敵や疫病などを五日市の町に浸入させない強力な塞ノ神のような形で信仰されてきた神社ではないかという気がしています。城や砦と同じような存在。

ところがここで問題発生!五日市は江戸時代以前は地域の中心ではなったらしいのです。石走神社から東に少し行ったところの民家の庭先に「伊奈の市神様」という小さな祠のような神社があります。この神社は、江戸の人口増で木炭の需要が高まり、より木炭の生産地である山岳地帯に近い五日市で開かれる市がこの地域の中心になる前に栄えていた「伊奈の市」を守護する神社だったらしいのです。今、五日市街道と呼ばれる道も、江戸時代以前は「伊奈みち」と呼ばれていたとのこと。

五日市には式内社である阿伎留神社があったり、奥には戸倉城や檜原城があったり、御岳山に道が通じていたりと、古代からずっと栄えていたと思っていたものが、江戸時代以前は特に栄えていなかったとなると、今までの常識が崩れて秋川流域の見方も変わってくるわけですよ。じゃあ中心はどこにあったのか?と考えると、常識的な線として武蔵増戸駅を南北に貫き、上川峠を越えて八王子方面につながっている「鎌倉街道 山の道」が通っていたエリアが一番怪しいということになって、これからそこへ向かいます。

まずは鎌倉街道 山の道が秋川を渡る地点である「山田」という集落へ。ここには「瑞雲寺」という寺と、そこが別当を勤めていた「山田八幡神社」があります。今は巨大な橋が上を通るようになってしまい、河原にひっそりとたたずむ寂れた寺と神社なのですが、「瑞雲寺」は鎌倉公方・足利基氏の母瑞雲尼が開基となって創立したという伝承が残っており、文化財になっている足利尊氏坐像も所蔵されています。「山田八幡神社」も、足利尊氏の家来、景山大炊助貞兼の建立したといわれています。足利将軍家やその母が五日市まで直接来るとは考えられないものの、この街道をとても重視していたことは伝わるわけで、武蔵国守護代としてこの地に赴任してきた大石氏あたりが、足利氏の名前を出すことでこの場所をきっちり抑えようとしたのではないでしょうか。

秋川から五日市街道に戻ったところにある「山田天神社」も足利基氏の母瑞雲尼の創立と言われる神社で、山田下の村社です。

山田天神社から五日市街道を少し進むと「もみじ塚」という道路拡張で周囲を削られた塚があります。かつては塚の中央にもみじの大木があり多くの石像物が立てられていたそうですが、遺跡は発見されていないので、古墳ではなくもっと新しい時代の塚だとされています。ここは可能性として、雹留山や日照山、それとその下にある六枚屏風岩のちょうと真北にあるので、あきる野の台地の上からそれを拝む祭祀場であったのではないかという気がします。それと同時に秋川の向こう側からの敵の浸入をあきる野の台地の北側の平井川エリアにいち早く伝えるための烽火台の役割も果たしていたのではないかという気もします。ここにある程度の高さの土盛りがあれば、両方の川沿いから見ることができますから。

もみじ塚から南に下ると、「引田城跡(志村館)」があったといわれる秋川の河岸段丘に出ます。主の志村館肥前守景元は北条市の配下に入った平山氏の部下だったとのことです。河岸段丘は自然のまま残されていますが、その上下は住宅地で遺構は何もありません。

河岸段丘を下ると、23日も日照山と秋川神明社で出てきた「真照寺」があります。ここは大悲願寺の末の真言宗豊山派の寺なのですが、鎌倉公方の足利基氏が秋川丘陵の渕上の日照山の頂上に再興したという伝承が残っていて、それが享禄4年火災で焼失し、当地へ移転したと言われています。境内の薬師堂は日照山上で焼け残ったのを、現在地に移したとものとのこと。

日照山には、他に「日吉山王社」もあって、これは同寺が別当を務めていた「引田大宮神社」に移されたとのこと。この日吉山王社のご神体は、秋川の洪水で2度も流されて「秋川神明社」に祀られたいわくつきのものです。

「真照寺」と「引田大宮神社」には、あと2つ気になることがあって、まず大宮神社に現存する再興の文書に「日奉宗連」なる西党の祖に良く似た名前が出てくることで、これはたぶん平山氏が日奉氏を名乗ったのだろうと言われていますが、なぜあえて日奉氏を名乗ったのかと考えると、日照山の信仰が寺が出来るよりもっと古い時代から続く西党日奉氏の太陽祭祀に由来するものであったのではないかということ。

もう1つは引田大宮神社は埼玉県の大宮の氷川神社から神を奉祀したと言っているのに、なぜ氷川神社を名乗らないのかということ。要するに埼玉とは別の大宮で、ここの場合、草花にある小宮神社の小宮に対してより大きくて立派という意味で大宮を使ったのではないかということです。もしそうだとすると、日奉氏の日野と並ぶ宗教の中心地がここにあったことになります。

真照寺や引田大宮神社のもっと秋川沿いに「引田八雲神社」があります。ここはさっきの引田城の志村肥前守景元が尾張国海東郡にあった津島牛頭天王社を勧請した神社で、ここが日吉山王社とも言われています。すぐ目の前が秋川の河原で、対岸に名勝「六枚屏風岩」を臨むことができます。

同じような話は、引田大宮神社とその少し上にある「出雲神社」にもあって、引田大宮神社の日吉山王社でない方のメインの神様は、出雲大社の神様を勧請したのが始まりとされているのですが、この周辺は洪水多発地帯なので、流されて分裂したのかもしれません。

秋川から離れ少し東の方に進むと、「真城寺」と「白瀧神社」があります。真城寺は今は臨済宗建長寺派寺院なのですが、かつては大石定久が隠居場所とした戸倉城の下の光厳寺末で、開基は初代鎌倉公方の足利基氏とも言われていますが、一説には北条氏照の家臣、大石遠江守玄光なる人物の再建と伝えるし、真城寺の『過去帳』は、北条氏照が大石遠江守玄光を名乗ったともされています。何はともあれ寺の名前に「城」が入っている時点で怪しく、ここも武将の居館として使われていたのではないでしょうか。裏すぐのところに河岸段丘から豊富な湧水が湧き出している「白瀧神社」があるので、水には困りません。ここは水以前に、日本武尊の御霊迹として村民に崇敬されていたバワースポットですが。

五日市街道に戻り、少し行った場所にある「油平八幡社」は、八王子城陥落後、北条氏側の残党の中村一族がこの地を開拓して作った神社らしいです。台地の上は水が得にくいので開拓する余地があったのかもしれません。

ここからあきる野市役所方面に大きく北上します。市役所の斜め前にあるのが、「武蔵名勝図解」にも「雨間大塚」として紹介されている「大塚古墳」です。これは高さが8mもあって、見上げるぐらい巨大です。当所は古墳と思われていたのですが、それらしきものは発見されず、今は「塚」と言われています。何のための塚なのかが問題なのですが、ここもさっきのもみじ塚と同じように「雨武主神社」がある「明神山」のちょうど真北にあって、山頂からは明神山が非常に良く見えるんですね。だから水の得にくい台地上ということもあって、雨乞いとかの儀式に使われていたのではないでしょうか。それと同時に秋川沿いと平井川沿いの連絡をとるための烽火台としても。

大塚古墳から「秋留台公園」を経由して、平井川の河岸段丘上にある「平沢八幡神社」に向かいます。ここは旧平沢村の鎮守であると同時に滝山城の方位除けの神社として篤く敬われていたそうです。二宮神社と小宮神社を直線でつなぐちょうど中間の平井川を渡る場所にあるので、川を監視する何かが置かれていたのかもしれません。

その先の多摩川近くにある「森山神社」は、元飯綱権現だったらしいのですが、明治の神社合併で草花神社に合祀されたものの、地元民が再び取り返したという根性のある神社です。

多摩川を多摩橋で渡り、河岸段丘を登り、玉川上水を越えると終点の「牛浜駅」に到着。お疲れ様でした。今日は時間が早いので温泉に寄って行きます。でも「昭島温泉 湯楽の里」は先週行ったので、立川から南武線に乗り換えて矢川で途中下車して、同じ湯楽の里なんですが「国立温泉 湯楽の里」に向かいます。駅から歩く時間は変わらないのでこっちでもいいのではないかと。昭島の湯楽の里と国立の湯楽里の違いは、昭島が無色透明のアルカリ性単純温泉なのに対し、国立はやや褐色がかった塩泉だということです。値段は土日、昭島960円、国立980円でほぼ一緒。露天風呂は玉川上水の緑が目に優しい昭島に対し、国立は多摩川沿いの二階にあるので多摩の横山と丹沢が良く見えます。

国立温泉 湯楽の里で汗を流したら、矢川駅はこの前行った町中華ぐらいしかないので、反対側のモノレールの万世橋駅に「魁力屋」があったのを思い出して、多摩川を渡って行ってみたら、ちょうどお昼時で順番待ちになっていて、どこにでもあるチェーン店で並ぶのもアホ臭いので諦めて、結局京王線の高幡不動駅まで歩いて、駅ビルの中の「新橋 纏 高幡不動店」で、ここも不動前にあるんだけれど最近行ってないので、「平子煮干そば」を食べて京王線で帰りました。ちなみに纏のラーメンは、魚介系のあっさり醤油味。

観光マップ】みんなで歩くあきる野百景めぐりマップ
https://www.city.akiruno.tokyo.jp/0000003018.html

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