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陸軍壕~廃線跡~近世城郭跡回遊

下津井電鉄廃線跡・鷲羽山(倉敷市)( 中国・四国)

パーティ: 1人 (マローズ さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

マイカー
その他: 瀬戸中央自動車道児島ICを降りると南下。
トンネルを出た所の扇嵶南交差点は東に折れ、カーブの先のY字路は西に折り返す。
下津井中学校南のT字路を南に折れ、最初に現れる右折道に入る。
吹上港沿いの道路に突き当たると西に折れる。
下津井港西端の四差路は南に折れ、ヴィラプランタンに突き当たると西に曲がり、木里神社南の陸軍壕前に駐車した。

この登山記録の行程

陸軍壕10:36・・・鷲羽山駅跡11:25・・・鷲羽山山頂展望所11:46・・・鷲羽山三角点12:24・・・第一古墳12:49・・・赤穂井戸13:36・・・新庄八幡でトイレ休憩14:07から数分・・・瀬戸大橋架橋記念公園エントランスゾーン駐車場15:03・・・陸軍壕15:30
※タイムは休止時間も含む。

コース

総距離
約11.9km
累積標高差
上り約449m
下り約449m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

倉敷市児島下津井港を起点とする下津井電鉄は、岡山県有数の整備された鉄道廃線跡。大正2年11月に茶屋町・味野間が開通。翌年3月には車庫を擁す下津井まで延長された。
会社では沿線の観光事業にも積極的に取り組み、大室海水浴場や鷲羽山を整備したが、今回の山行ではその整備した鷲羽山ハイキングコースも辿る。
平成2年12月末で下津井電鉄は鉄道事業から撤退、廃線になった。以後、味野から下津井間の6.3kmは「風の道」として整備され、地域の生活路やウォーキングコース、サイクリングコースとして利用されている。
この廃線跡の特徴は未舗装のまま残した区間が多い、ということと、瀬戸大橋や瀬戸内海の景色を堪能できる点だろう。最も景観が優れた地は花崗岩からなる鷲羽山である。

下津井は海岸沿いであるため、戦争末期には陸軍暁部隊が駐留していた。この部隊は広島市宇品に司令本部を置く、本土防衛の船舶部隊の一つで、米軍が上陸時、逆上陸して背後から攻撃する作戦を担っていた。その舟艇格納壕群が下津井電鉄起点の下津井駅跡近くに残っている。
コースは廃線跡の途中で反転し、水路管理道や神社の参拝道等を辿り、近世城郭・下津井城跡へと向かう。戦国期の城跡とは異なり、近世前期の城跡だけに規模が大きく、東西600m、南北90mを誇り、本丸、二の丸、三の丸、中の丸、西の丸と、城壁を擁する城郭が残っている。

[コース]
当初、廃線跡起点の下津井駅跡に駐車しようと思っていたが、「バス転回地につき駐車禁止」の看板があったため、南西の木里神社南に行った。その山際には震洋の格納壕のような素掘りの横穴壕が並んでいたが、後に東方の集落で幕末の下津井砲台跡についての聞き取りをしていた際、その壕群は陸軍暁部隊の壕であることが分かった。
下津井港沿いの下津井バス停の西奥の広場が、下津井電鉄下津井駅跡。駅舎は撤去されているが、西方には車庫が残っており、三両の車輌が見られた。
廃線跡はレールや枕木、バラストは撤去されているものの、未舗装のまま残されている。ここからしばらく廃線跡を辿るが、すぐ県道21号の陸橋をくぐる。

進路が北向きから東に変わると、山際を通るようになり、やがて鞍部に達するが、その頭上には城山跨線橋が架かっている。
そこを過ぎると住宅街を通るようになり、下津井中学校南で東下津井駅跡に到る。この電鉄の駅は始発駅と終着駅を除き、大半がこういう駅舎のない路面電車のような電停である。風の道として整備時、駅名板が再整備されている。その手前には焼き立てパン屋もあるので、小腹がすいた時は利用されたい。
確か、県道393号を横断後、一定区間、舗装されていたと思う。
鷲羽山駅は、鷲羽山を電鉄が観光地化した際、設けられた。ホームの背後には瀬戸大橋が見え隠れしている。
駅跡から鷲羽山遊歩道に入り、階段の先の三差路は東に進む。
緩い右カーブの先で尾根コースとの分岐が現れるが、往路はそのまま直進する。

100mピーク南のコルで尾根道コースに合流するが、その手前の西の山際に壕跡のようなものがある。
標高110m地点には、鷲羽山古墳群第三古墳がある。千数百年前の横穴式円墳だが、どれも墳丘と共に石室も崩れて露出している。
上りの階段の先のY字路を前方左に上がった先が鷲羽山山頂(等高線標高120m)で、展望図盤が設置されている。瀬戸内海の絶景を心ゆくまで堪能したい。
Y字路に戻って先に下るとビジターセンター第一展望台がある。ここか、この南東の左急カーブ付近だったと思うが、瀬戸大橋の展望が最も優れた地がある。そこには「島一つ 土産に欲しい 鷲羽山」という句碑が建っているが、まさしくここからの多島美の眺望は、「思い出」という名の土産になることだろう。
ビジターセンター前の三差路は南に折れ、鷲羽山レストハウス東の第二展望台へと下って行ったが、このすぐ下まで車で上がって来た行楽客でごった返している。この周辺には展望台と観光遊覧船の乗り場があるだけだが、レジャー施設並の賑わいがある。

周辺の景色を楽しむと、レストハウス上の三差路まで戻り、そこからは尾根コースを登り、遊歩道のすぐ上にある112.8m三角点に登る。こちらの方は展望もなく、登頂記念板もなく、ひっそりしている。
第三古墳北西の三差路まで戻ると、尾根コースを進む。等高線標高90mの西端辺りも展望所として整備されており、瀬戸大橋を真下に見下ろすことができる。
鷲羽山駅跡まで引き返すと、廃線跡ウォークを再開する。
瀬戸中央自動車道の巨大な陸橋をくぐると、大畠漁港等が見渡せるポイントがある。この辺りは、住宅街上部の山際を通っているため静かで、潮風を受けて歩く、まさに「風の道」である。
JR瀬戸大橋線を跨ぐ大畠跨線橋東下に琴海(きんかい)駅跡がある。かつては児島競艇場に行く客が大勢乗降したことだろう。
瀬戸大橋線の陸橋をくぐると再び住宅街に入り、また未舗装になる。

進路が北西から西向きに変わろうとする地点に阿津駅跡がある。ホームの東側は住民の花壇と化している。
そこから左手に三軒過ぎた所の十字路で廃線跡と分かれて南に折れる。突き当たりの三差路は南東に進むが、その又の部分には小堂と赤穂井戸がある。赤穂浪士事件後、赤穂の浪士がこの地に流れてきて、利用していた井戸だという。
小径は小堂上を回りこむと、再び南下するが、少々先、右手に倉庫がある変形四差路に達すると、少し引き返す。そして東の山際の藪をかき分けると、水流のない縦に下りる細い水路がある。この水路を少しあがると、水路沿いが平坦になり、水路管理道が現れるので、これを歩く。この道も住宅街の上部を走っているため、比較的眺めが良く、瀬戸大橋線を走る列車を望むこともできる。
この道も進路が南東から南向きに変わろうとする手前で、四差路に到る。ここは右折した。本当は直進して車道に出た後、西に折れれば、上り坂もなく、楽なのだが、トイレがしたくて、西の丘の上に鎮座する新庄八幡宮境内に向かったのである。勿論、トイレがあるかどうかは分からなかったが、社務所(無人)がある位だから、参拝客用のトイレもあるだろうと睨んだのである。境内からは瀬戸内海もある程度望めたので、小休止を取った。

八幡からは南の参道を下り、児島インター交差点に出ると南下する。
旧道の方の扇の嵶トンネルを抜けると西に折れ、鷲羽山ハイランド駐車場の西方から、瀬戸大橋架橋記念公園の小径へ左折して下る。小径は往路くぐった城山跨線橋を渡る。
少々先の三差路は東に折れ、記念公園エントランスゾーン駐車場(トイレあり)から西の階段を上がり、下津井城跡へ向かう。道沿いには土塁や空堀もあったように思う。
地形図の城跡マークが記載されてある所には、本丸より見応えのある、高い城壁を擁する西の丸がある。
標高89mの城山山頂が本丸跡でその一角には天守跡もある。この地に城がいつからあったのかについては記録がないが、文禄年間(1592~96)、宇喜多秀家が既存の城を改修したことが伝わっている。

関ヶ原の合戦で宇喜多氏が排除され、小早川秀秋が岡山城主になると、重臣の平岡重定を下津井城代として置いた。この時、近世城郭に改修される。
慶長7年(1602)、秀秋が病没し、跡継ぎがなく小早川家が断絶すると、家康の外孫・池田忠継が備前藩主となり、下津井城は一族の赤穂城代・池田長政に預けられる。
家康は下津井城を西国大名に対する戦略拠点とするよう、長政に命じ、城は大改修され、現在の規模になるのである。
城は寛永16年(1639)に廃城になるのだが、最後の城主・池田由成は大石内蔵助の母方の祖父にあたる。こういうこともあり、一部の赤穂の浪士が児島に流れてきたのだろう。

本丸の東には三の丸、中の丸と続いているが、西の丸のような見応えのある遺構はないだろうと思い、西の丸まで引き返し、西に下って車道を横断後、ミニ霊場参拝道に左折し、下津井二丁目の集落に下り立った。後は南下して県道21号に出ると西に折れ、駐車場所へと戻った。

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