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高坂城跡~小代氏館跡~勝呂氏館跡~大堀山城跡~大穴城跡

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パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

快晴

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→池袋→東武東上線→高坂

復路:若葉→東武東上線→坂戸→坂戸天然温泉 ふるさとの湯→横浜家系ラーメン坂戸家→坂戸駅→東武東上線快速→和光市→地下鉄副都心線元町・中華街行→渋谷→東急東横線→学芸大学

この登山記録の行程

高坂駅6:12→高坂城跡(高斉寺)6:21~28→高坂弐番町遺跡(さくら坂公園)6:31→高坂6号墳6:38→東光院6:40→高坂神社(高坂9号墳)6:46→高坂10・11号墳6:52→大黒部愛宕神社6:56→高坂12号墳(消失)6:58→小代氏館跡(青蓮寺)7:09→正代御霊神社7:12→浅海氏屋敷7:43→坂戸市立歴史民俗資料館8:03→勝呂廃寺跡8:05→勝呂氏館跡1(宗福寺)8:12→勝呂神社8:21~30→塚越城跡(西光寺)8:36~9:06→大宮住吉神社9:12→塚越神社9:23→勝呂氏館跡2(大智寺)9:43→竹ノ内館跡10:11→在家館跡10:19→広谷北城跡10:23→大堀山城跡10:37→広谷宮前館跡10:43→往還上館跡10:53→大穴城跡11:05→宮廻城跡11:30→若葉駅11:54

合計5時間42分

コース

総距離
約21.2km
累積標高差
上り約57m
下り約55m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

10月2日(土)は、城跡や古墳があり過ぎてまとまらなかった坂戸の東側がようやくまとまったので行ってきました。

スタートは東武東上線の高坂駅です。まず都幾川の河岸段丘上にある「高坂城(館)跡」へむかいます。ここは「高坂刑部太輔」の居館跡です。高坂氏は秩父平氏の一族である江戸氏の流れをくむ豪族で、武蔵平一揆の乱で河越氏とともに足利氏満に背き敗れ、遠方に領地替えになったそうです。その後、戦国時代に松山城の戦いで北条氏政がここに陣を敷き、現在残る土塁や空堀はこの時のもののようです。と書きたいところだったのですが、最近修復したのが見え見えで、東松山市は観光地化するつもりなんでしょうか?

現在、館跡には江戸時代に創建された「高済寺」という曹洞宗の寺が建っていて、土塁の上にには今川の重臣で後に徳川に仕え、安土桃山時代に高坂の領主だった加々爪隼人・同民部少輔の墓も残されています。

高済寺から出るとすぐ先にに親水歩道のある「さくら坂公園」があります。その中に「高坂弐番町遺跡」という古墳時代後期の円墳が残っています。ここでも中世の堀の跡が発見されており、高坂氏の居館はここにあったのではないかという説もあるそうです。

親水歩道を南に進むと「東光院」という寺の前に「高坂6号墳」があります。ちなみには東光院、比企西国三十三所観音霊場になっている以外は、特に何も無い元禄時代創建の天台宗の寺です。

東光院で川から上がって住宅街の縁を進むと「高坂神社」があります。坂上田村麻呂が当地を通行の際、日本武尊が東夷征伐の折にここに陣地を置いたという故事に因んで社を建立し、高坂氏も祈願所としていたという神社です。神社の横に「剣前古墳(高坂9号墳)」という古墳もあります。源頼朝が奥州征討の折には「猿田彦の面」を奉納したという伝承も残っています。

高坂神社から南に進むと道の両側に「高坂10号墳」「高坂11号墳」があります。高坂11号墳右に曲がると「大黒部愛宕神社」という神社があり、ここにも愛宕山という墳丘が存在していたようなのですが、残念ながら道路拡張掘り崩されてしまったそうです。土中から金環が出たと伝えられています。

大黒部愛宕神社の斜め前に「高坂12号墳」があるはずだったのですが、掘り崩されて跡形もなくなっていました。

大黒部愛宕神社から今度は東に進むと「青蓮寺」という天台宗の寺があります。ここは「小代氏館跡」があったと言われており、弘安4年(1281)の板石塔婆が残されています。板石塔婆には、小代氏四代目重俊の仁徳を慕って、また祖先の供養のため、縁ある小代氏一族関係者が力を合わせてこの板碑を建立したといったような事が刻まれているそうです。小代氏は武蔵七党・児玉党の一族で、浅羽氏や越生氏の父でもある入西資行の次男遠弘が、小代(正代)郷に住して小代を名乗ったことに始まります。子孫は鎌倉幕府から肥後国野原庄(熊本県荒尾市)の地頭職に任ぜられて、当初は地頭代に所領の管理を任せていたのですが、幕府から蒙古襲来に備えるため肥後国行を命じられ、一族で移り住み、その後長らくその地で勢力を持っていたそうです。

青蓮寺のすぐ近所に、たぶん元は境内にあったのでしょうが、「正代御霊神社」という小代氏が創建したのではないかと言われている神社もあります。ここは御霊神社としては珍しく鎌倉権五郎景政ではなく、源悪源太義平を祀っています。頼朝の兄である悪源平は近隣の大蔵合戦で活躍したので、比企郡周辺では人気があったのかもしれません。

そしてしばらく広大な田んぼの中を歩き、越辺川を渡って東松山市から坂戸市に入ります。

渡ってすぐ「浅海氏屋敷」という武田の家臣の末裔の屋敷があります。ここには子孫の方が今も住んでいます。

さらに田んぼの中を進むと、坂戸総合運動場の先に小学校の古い校舎を再利用した感じの「坂戸市立歴史民俗資料館」があり、その南東側の旧勝呂公民館分館の敷地内に「勝呂廃寺跡」があります。ここは飛鳥時代の終わり頃(680年頃)建てられた埼玉県内最古といわれる寺院の跡で、県の史跡に指定されているとのこと。五重塔の部品も発見されたそうです。

その南西にある曹洞宗の「宗福寺」が「勝呂(すぐろ)氏館跡」です。現在は幼稚園を経営しているようで、運動会の真っ只中でした。勝呂氏は武蔵七党・村山党の流れを汲む一族で、勝呂の地に代々住み、吾妻鏡に恒高とその子頼高は承久の乱で討死したという記述が残されています。その子孫である勝呂豊前守は小田原北条氏の家臣になり、その時代の屋敷がここにあったようです。北条氏滅亡後は千葉の上総久留里藩里見家に仕えたとのこと。遺構は残っていませんが、宗福寺の境内に板石塔婆と説明書きがあります。

宗福寺の次は「勝呂神社」に向かいます。ここは勝呂氏の氏神で「勝呂神社古墳」の上に建てられています。崇神天皇の時代に四道将軍の建渟河別命はここを本拠地に東夷を平定し、その後都へ戻るも、再びやって来てこの地に定住し村の発展に尽くしたので、亡くなった後、村人たちは広大な陵墓を築き、東北鎮護の神として祀ったのが神社の始まりだとのことです。その後、加賀の白山比咩神社の分霊を勧請して、勝呂白山権現と呼ばれていたそうです。明治維新後に村社となり、名前を今の勝呂神社に改めたとのこと。勝呂神社古墳は直系50m高さ42mの巨大な古墳だったそうで、神社の境内に置かれている勝運霊石や緑泥片岩の板3枚は石室のものだったと言われています。ただ近所にある胴山古墳の石も混じっているとのこと。

勝呂神社から小さな川を1つ渡ったところに「西光寺」という曹洞宗の寺があり、ここの裏の林の中に「塚越館(城)跡(西光寺城)」があったと言われています。詳細不明の城跡なのですが、小田原北条氏の支配期に太田道灌の曾孫の太田資正の配下であった比企氏の家臣「小島氏の居館跡」なのではないかと言われてます。林の中には墓の奥から入ることが出来て、土塁や空堀を確認できます。また西光寺本堂裏には勝氏ゆかりの貞治5年(1366)の宝篋印塔があり「勝次郎左衛門入道頼阿」と刻まれているそうなのですが、これは発見できませんでした。代わりに小島家の墓にあった一番古そうな宝篋印塔でも。

西光寺のすぐ前にあるのがこの辺りでは一番大きな神社である「大宮住吉神社」です。近所のおじさんが安倍元総理も参拝に来たと教えてくれました。ここは天徳3年(959)に山田長慶という人物が、水害や干害に苦しむ村人を救うため、下関の住吉神社(※大阪の住吉大社ではない)の分霊を奉遷したのが始まりとのことなので、下関繋がりで安倍元総理が来たのでしょうか?その後、源義家が奥州征討の際此地に訪れた際に、越辺川と荒川が増水して渡れずしばらく滞留し、逆徒征討祈願とともに「干満祭」と称して河川減水祈願を行ったという伝承も残っていて、その時に、義家が腰掛けた塚がここの地名である塚越の由来だそうです。そのこともあってか、源頼朝の命により北武蔵12郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社に選ばれ、室町時代中期には足利持氏によって社殿が再建されています。

大宮住吉神社から少し南西に行ったところにある「塚越神社(義家塚)」はその義家が腰掛けた塚に造られた神社です。大宮住吉神社に合祀されてはいるのですが、わずかながら塚が残っているので、その上に小さな社が建てられています。この塚は当然ながら古墳で横穴式石室が見つかっているそうです。

そしてさらに西へひたすら進むと「大智寺」という山門までは普通なんですが、本堂がキリスト教の礼拝堂のような真言宗智山派の寺があります。この寺のある場所に宗福寺に移る以前の「初期の勝呂氏の居館」があったと言われています。『新編武蔵国風土記稿』にも「思ふに此寺地は勝呂氏の祖先居住の社にてはなきか」と記されています。大智寺は一時期衰退し、徳川時代に長崎奉行だった黒川丹波守正直が再興したため、墓所も残されています。

大智寺を出て富士見工業団地の横を進むと下広谷の城跡が7つまとまってある地区に着きます。大谷川対岸の大穴城跡を含めると8つです。

まず工業団地の片隅に「竹ノ内館跡」があります。ありますといっても工場にになってしまったので、遺構も何も残っていません。標識もありませんし、誰の館かもわかっていません。

工業団地を抜け、圏央道をくぐると、住宅に挟まれた林の中に「在家館跡」があります。ここも誰の館かわかっていおらず、堀の跡が残っているとのことだったのですが、はっきりとした物は発見できませんでした。

再び圏央道をくぐると「広谷北城跡」があります。ここも林の中に堀と土塁が残っているとのことだったのですが、道路よりも一段低い湿地帯になっていて、さすがに中に入ることは出来ず、確認は出来ませんでした。ここも居住者不明の城です。

そして「大堀山城(館)跡」です。ここは下広谷に残る委細不明の7つの遺構群の中で唯一案内板が建てられている城跡で、従来、河越氏館(南3km)に近いため河越氏関連の城とされてきましたが、15~16世紀の陶器や古銭等が発見されたため、すぐ西側に川越と鉢形や五十子を結ぶ旧街道が通っていることもあり、現在は享徳の乱から長享の乱にかけて川越城に拠点を置いていた扇谷上杉氏の城であったと考えられているそうです。でもあるはずだった散策路もなく、蜘蛛の巣をかきわけて藪の中に入るのも限度があるので、手前にある土塁と堀ぐらいしか確認は出来ませんでした。

残り4つです。次は「広谷宮前館跡」です。ここは大堀山城跡の東側にあるはずだったのですが、墓地と産廃業者の残土置場になっていて、中に入って確認はすることが出来ませんでした。唯一確認出来たのは墓地と産廃置場を分ける残土を高く積み上げた土塁のような物だけです。たぶんうるさいとか汚いとか言われたんでしょうね。

また先程の旧街道に戻ると今度は「往還上館跡」があります。ここも民家と畑のこ間に残された小さな林なです。外から堀の跡のような物を確認することが出来ますが、農業用の水路の跡だった可能性が高く、城の遺稿ではないと思います。在家館跡とここは規模も小さく大堀山城の近所に独立してあるので家臣の居館であった可能性が大きい気がします。

そして大堀山城に敵対するとしたらうってつけの位置にあるのが大谷川を渡った対岸にある「大穴城跡」です。ただ江戸時代に直参旗本の本多久蔵秀玄の陣屋があったということしかわかっておらず、それ以前にも城があったと思われるのですが残念ながら記録が残っていません。現在は「大穴城跡広場」という公園になっていて、公園内には何もないのですが、公園の隣に土塁が残っています。ただ川が近いので氾濫防止のための堤の跡である可能性もあります。

そして最後、西側の少し離れた場所にあるのが「宮廻城跡(広谷南城跡)」です。ここは埼玉県により広谷南城の発掘調査が行われ、1400年代に造られた城だということが判明しています。1400年代というと上杉禅秀の乱から永亨の乱・享徳の乱を経て長享の乱辺りまでの埼玉中心に関東一円でドンパチやっていた時代で、砦のような簡易的な城もたくさん造られたので、その1つではないかと考えられています。ここは南側に農家が数件続く高速道路沿いの屋敷森で、南側から行くと農家の庭や畑で入れないのですが、北側の高速道路沿いの道から中を確認することが出来ます。今日は空振りが多かったのでここも何もないだろうと思っていたら、意外にもしっかりとした土塁と堀の跡を確認することが出来ました。この辺り圏央道や工業団地が出来て、元の地形がわかりにくくなっているのですが、基本的に大谷川に対してゆるやかな微高地になっているので、そこに土塁を足して防御としたのだと思います。

ここからさらに河越城まで行こうと当初は思っていたのですが、距離があるし、ここまででもてんこ盛り過ぎるので、今日は「若葉駅」まで行って終了とします。

でも若葉駅は坂戸駅までひと駅なので、坂戸でこの前行った「坂戸天然温泉 ふるさとの湯」で汗を流して帰ります。ここは前も書きましたが平日750円、土日850円の「薄緑色」のpH8.5の弱アルカリ性・低調性のナトリウム・塩化物温泉で、露天風呂から高麗川の眺めが良いなかなか気分爽快な温泉です。坂戸駅から早足で15分、ゆっくり歩いても20分で着きます。帰りは無料送迎バスも利用出来ます。

坂戸駅は乗換駅のわりにラーメン屋が貧弱な駅なのですが、この前来た時に発見しておいた「横浜家系ラーメン坂戸家」に今日は最後に行ってみます。ここはごく普通の家系のラーメン屋なのですが、ラーメン注文するとライス無料なので、普通盛りでお腹がいっぱいになる学生向けの店です。実際、15時という時間的なこともあるのでしょうが客のほとんどが近所の大学生でした。

城跡ほっつき歩きプラン 東松山市
http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/plan-saitama/plan-saitama-higasimatuyamasi.html

城跡ほっつき歩きプラン 坂戸市
http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/plan-saitama/plan-saitama-sakadosi.html

坂戸市観光ルートガイド
https://www.city.sakado.lg.jp/soshiki/25/407.html

坂戸 天然温泉ふるさとの湯
http://www.furusatonoyu.com/

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