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富士見市~志木市あたりの城跡

打越館跡、下鶴間氷川神社、殿山遺跡、上鶴間諏訪神社、瑠璃光寺、多門氏館跡、上南畑氷川神社、難波田城跡、水宮神社、水子陣屋跡、水子貝塚、水子城跡、いろは樋、田子山富士塚、引又河、大應寺、旧村山快哉堂、宗岡天神社、羽根倉浅間神社、羽根倉古戦場跡、関根庫館跡( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇りほんの少し雨

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:学芸大学→学芸大学→東急東横線/地下鉄副都心線直通和光市行→和光市→東武東上線→志木

復路:宗岡蓮田→国際興業バス→志木駅→味噌ラーメン専門店 日進堂→東武東上線→和光市→地下鉄副都心線→渋谷→東急東横線→学芸大学

この登山記録の行程

みずほ台駅6:14→打越館跡6:24→来迎寺6:33→下鶴間氷川神社6:37→殿山遺跡6:49→上鶴間諏訪神社6:56→上鶴間氷川神社6:57→瑠璃光寺7:06→多門氏館跡7:12→下南畑氷川神社・山形樋管7:30→難波田城跡7:43→水宮神社・大應寺8:16→水子貝塚8:21→上水子氷川神社8:26→城の下観音堂9:06→いろは樋の大桝9:26→田子山富士塚9:35→引又観音堂・引又河岸宛9:44→旧村山快哉堂9:49→宗岡天神社9:54→おふろの王様 志木店10:04~11:50→羽根倉浅間神社12:05→羽根倉古戦場跡12:25→関根兵庫館跡12:33→宗岡蓮田バス停12:37

合計4時間37分

コース

総距離
約17.6km
累積標高差
上り約58m
下り約73m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

10月16日(土)は、相変わらず足のマメが潰れたところが痛いので、また距離を短めにして富士見市と志木市あたりの城跡を回って来ました。スタートは東武東上線のみずほ台駅です。

駅北口を出たら真っ直ぐ進み、みずほ台中央公園のところで左折すると「みずほ台小学校」があります。ここは「打越館跡」という旧石器時代や縄文時代の富士見市を代表する遺跡群が発見されていいるそうなんですが、遺跡からは戦国時代頃の溝跡や地下式土坑も発見され、在地土豪の「打越館」という館があったとされています。出土した遺物などから15世紀から16世紀頃のものと推察されるそうです。ただ学校のグランドに整地されてしまっているので、遺構は残っていません。

続いて江川という小河川の河岸段丘下って登り返すと、天台宗寺院の「来迎寺」という寺と、その少し先に「下鶴間氷川神社」があります。この2つにも「御庵(ごあん)」と呼ばれる在地土豪の館跡の伝承が残っていて、鶴間地区の開発の中的に担った横田家の先祖の館だったのではないかと言われています。ただ詳しいことはわかっていないそうです。また御庵には縄文時代早・前・中期の集落跡、平安時代の集落跡「御庵遺跡」という遺跡も発見されています。

「下鶴間氷川神社」は武蔵国一の宮氷川神社を勧請して創建された神社で、上鶴間氷川神社と共に明治期には地域の神社を合祀して村社に列格されたそうです。

もう一度名前のわからない小さな川の谷に下ると、対岸の崖上に「富士見台中学校」が見えて来ます。ここで発見されたのが「殿山遺跡」です。縄文前期の貝塚をともなう集落跡と奈良~平安時代の横穴墓をともなう集落跡の上に戦国時代の城跡などが重なっていて、城跡は「鶴馬(間)城跡」「宮崎館跡」とも言われています。南北にクランク状の約2mの堀が発見されたそうです。ここには「多門成正」が鶴馬村に館を構えた天正19年(1591)頃に、下鶴馬の地を知行した「宮崎備前守」が館を設けたという伝承が残っています。

ここも遺構は残っていないのですが、この辺りの台地の突端にはことごとく古代の遺跡と武士の館跡が発見されているのは凄いですね。

富士見台中学校からもう少し北に進むと「上鶴間氷川神社」と「上鶴間諏訪神社」が並んであります。この辺りの他の氷川神社の成り立ちと一緒だとすると、諏訪神社のあったところにたぶん後から大宮の氷川神社を勧請したものだと思います。

それで「上鶴間氷川神社」は先ほどの下鶴間氷川神社と同じような上鶴間村の村社なのですが、より古くからあったのではないかと思われる「上鶴間諏訪神社」には太田道灌が江戸城築城後、その出城の候補地としてによりこの辺りを検分したた際に、疫病に苦しむものが多数あり、その有様を見た道灌の配下が、京都から三頭の獅子頭と山の神面を譲り受け、字和田戸(現渡戸)の名主繁右衛門の屋敷へ里人を集めて獅子舞を教えて、社頭で悪疫退散の舞を奉納させたところ、病に苦しむ者達は日ならずして快癒したという伝承が残っています。ここも、城があったわけじゃないのですが、すぐ下に湧水がある台地の突端なので、まあそういうことがあっても不思議ではないと思います。あと諏訪神社は、神仏分離まで瑠璃光寺が別当を務めていたものの、明治以降は江戸時代に名主であった加治家が社家を務めているとのことなのですが、この加治家は飯能の丹党の加治氏と関係がありそうな気がします。

「瑠璃光寺」は安元2年(1176)寂の實圓という僧侶が創建した天台宗寺院なので、場所的に次に行く「多門氏館跡」と関係ありそうなのですが、境内に古碑一基ありというだけで詳しい記録は残っていないようです。天台宗ということで、元は本山修験の寺院だったという可能性もありますね。

そして「多門氏館跡(鶴馬館)」です。ここは現在は住宅地で何も残っていないのですが、明治に書かれた地元の記録『鶴間原稿』には「多門左次兵衛屋敷」として「要地、浮島に似たり」とあるらしいので、沼城のようなものだったと推察されます。多門(おかど)氏は徳川の旗本で、徳川家康の関東入府に伴い、天正十九 年(1591)にこの地に領地をたまわり、多門平次郎(平左衛門)成正が館を構えたとのことなのですが、広い範囲に堀や土塁が発見されており、最初は小田原北条氏の家臣上田氏が城を築き、その一部を多門氏が利用したとも考えられているそうです。

多門氏館跡から国道254号の橋で「新河岸川」を渡ります。新河岸川は入間川がまだ荒川と交わらずに隅田川を経由して東京湾に注いでいた時の流路をベースに水運のために改良された運河のような川で、上流の川越と下流の浅草の高低差がほとんどないため、下流から上流へも楽々進むことが出来たそうです。

新河岸川を渡ると「下南畑氷川神社」があります。ここも大宮氷川神社を勧請して創建された神社なのですが、「初期の難波田氏の館」がこのあたりにあったのではないか、もしくは難波田氏の親族の居館があったのではないかとも言われています。ただあまりに新河岸川が近いので、住むには危険な気もします。

実際問題として、下南畑氷川神社の前には下南畑地区を洪水から守るために排水を新河岸川へ落として逆流を防ぐための「山形樋管」というものの跡が残っています。

下南畑氷川神社から次は難波田城跡「難波田(なんばた)城跡」に向かいます。この辺りは川の氾濫原の低地で、広大な水田地帯になっているのですが、水害が多かったせいか古くからの農家はみな50cm~1mぐらい土盛りをして島のようになった場所に建てられており、沼城と言われる難波田城跡も同じような構造の上に造られています。

難波田城公園には朝早すぎて入れなかったのですが、外から堀や土盛りの形状を確認することはできました。ここは東側の水堀や土塁を復元した城跡ゾーンの他、西側には古民家を移築して農村風景を復元した古民家ゾーンや富士見市の歴史を解説する難波田城資料館もあって、城跡以外も楽しめるようになっています。また池は蓮や菖蒲の名所でもあるそうです。

難波田城は、武蔵七党村山党の金子家範の子小太郎高範を祖とする難波田氏の居城で、難波田氏は鎌倉時代に金子家範の子、高範が当地を与えられ地名を苗字として館を構えたのが始まりと言われています。この城跡は、戦国時代に扇谷上杉氏の重臣として活躍した難波田弾正の本拠地だったそうです。難波田氏没落後は、この辺りは松山城の上田朝直の一族の上田周防守左近の知行地となり、小田原北条氏の『小田原衆所領役帳』にも小机衆の上田左近が難波田の領主であったことが記されています。ただ一時期、太田道灌の曾孫で難波田氏の娘婿の「太田資正」が難波田城を支配していたという記録も残っていて、戦国期には城の所有者は二転三転していたようです。難波田氏はその後、秀吉の小田原征伐の一環で東松山の松山城が落城した時に難波田城も廃城となります。廃城後の江戸時代は十玉院(※明治の廃仏毀釈で廃寺)という修験道の寺院になっていましたが、そのお陰で城の形状が良く残っていたため、昭和36年、埼玉県旧跡に指定され、公園として整備されました。

難波田城公園から再び新河岸川を渡って戻ると水子地区に入ります。この水子地区ですが、名前から類推するとドロドロの低地に思えるのですが、予想に反して台地の上の高台でした。

新河岸川の河岸段丘を登って最初にあるのが「水宮神社」という神仏習合の神社です。正式名称を摩訶山般若院水宮神社というそうなのですが、ここは元々本山修験の修験寺摩訶山般若院として創建されたお寺で、明治の神仏分離令によって天照大神ほか五柱を奉斎する水宮神殿になったものの、平成5年に再び元の形に戻したそうです。小さな神社かと思ったら結構立派な神社で、狛犬の代わりに狛蛙がいることがチャームポイントらしいです。また水子らしく水子供養も有名だそうです。

水宮神社の隣りにあるのが「大應寺」です。こちらも立派な真言宗智山派の寺院です。境内が水宮神社と繋がっている感じなので、神仏分離令で真言宗になって、以降そのままなのでしょうか?

そして「水子貝塚」です。「縄文ふれあい広場 水子貝塚公園」として整備されているのですが、またも時間が早すぎて開いていませんでした。しょうがないのでまた外から眺めながら進んだのですが、ここは縄文時代前期(約5500~6500年前)を代表する貝塚として、昭和44年、国の史跡に指定されています。公園の中には、復刻された縦穴式住居と富士見市内の考古資料を中心に展示している「水子貝塚資料館」があります。

水子貝塚公園からもう少し先に行った場所にあるのが「上水子氷川神社」です。ここには「水子御陣屋」という江戸時代の寛政5年(1793)に尾張藩の鷹場陣屋として造られた陣屋があったそうです。鷹狩りというと丘陵地帯のイメージが強いのですが、この辺りは湿地帯で水鳥が豊富だったため、それを獲物としていたようです。陣屋をやっていた増田家がまだ近所あるそうなのですが、ここは標識が出ていなくて確認できませんでした。

水子貝塚公園は上水子氷川神社の帰りにもう一度見たら、まだ開園15分前なのに開いていて中に入ることが出来ました。でも広場しかないので、入っても見るべきものはあまりありません。

水子貝塚公園から東に進むと「城の下観音堂」という江戸初期の千手観音菩薩立像を奉った観音堂があります。この辺りに難波田城と志木柏城、所沢の滝の城の三城間の連絡用の「水子城」があったと言われています。根拠は唯一「城の下」という地名だけなのですが、水子貝塚からこの辺りまでは高台になっているので、城があったとしても不思議ではないかもしれません。あとここからも「観音前遺跡」という弥生時代後期~古墳時代前期の環壕集落跡、古墳時代後期の集落跡、平安時代の集落跡が発見されているらしいです。

城の下観音堂から一直線に柳瀬川と新河岸川の合流点を目指します。この合流点付近に「引又河岸」という河岸場(船着場)があります。内陸との交通の便に恵まれていたため、最盛期には所沢、小平、武蔵村山等を越え、遠く青梅や八王子へ運ぶ荷物も取り扱っていたそうです。柳瀬川がどの程度水運に使えたかは良くわかりませんが、柳瀬川~空堀川沿いを進めば、水の心配なしに箱根ヶ崎あたりまでは行くことが出来ますね。

柳瀬川を渡って引又河岸エリアに入ると、まず最初にあるのが「いろは樋の大桝」という野火止用水の水を対岸の水に困っていた宗岡村に引くために考案された筧(かけひ)です。大桝は用水の水を掛け樋に送り出すために、一度水をためておくための物で、江戸時代の木製のレプリカと明治31年に造られた金属製の物が展示してあります。「いろは」と呼ばれるわけは木製の懸け樋は48個の樋をつないたものであったためということで、長さが100間以上もあるということから百間樋とも呼ばれていたそうです。

いろは樋の大桝から道を渡ると「市場跡」の案内板があり、その周辺に古い商店や屋敷の門なとが点在しています。この辺りは物流拠点ということで、たいへん栄えていた場所だそうで、年に何度も市が開かれ、商店も軒を連ねていたそうです。しかし鉄道の普及で水運が使われなくなると衰退を余儀なくされたということです。ちょっと観光地っぽい場所なのですが、史跡としては川越程は重要でないし、駅からも遠いので、地元の人の憩いの場以上になるのは難しいかな~という気がします。ただ雰囲気は良いので穴場!

レトロ商店街から住宅街を突っ切って進むと、「敷島神社」があり、ここの境内には「田子山富士塚」があります。これは古墳の上にさらに土を盛って造られたと言われる富士塚で、高さも約8.7mほどあり、埼玉に現存する富士塚の中では最大級のものということなのですが、残念ながら登山禁止になっていました。ただ石造物の数と種類、細工は他の富士塚と比較しても並はずれていて、当時の引又河岸の豊かさが忍ばれるそうです。

富士塚の裏から柳瀬川と新河岸川の合流点が見渡せる場所に出ると「引又観音堂」があります。これは聖観音と両脇に馬頭観音だけの素朴な物なのですが、新河岸川で水難に遭った人の霊を供養するために祀られたもだそうです。その隣に「引又河岸跡」(船着場)のポールが立てられています。引又河岸が最も繁栄したのは幕末から明治初期にかけてで、その後、大正時代に東上鉄道(現:東武東上線)が開通して、舟運の衰退ととともに衰退したということです。

あと柳瀬川と新河岸川の合流する突端に「いろは親水公園」という見晴らしの良い公園があり、その中に「旧村山快哉堂」という昔の薬屋の店舗が移築復元されています。これもたぶん市場跡の商店街にあったものなんじゃないかと思います。

もう1つ橋を渡って新河岸川の対岸に行くと「宗岡天神社」という江戸の湯島天神を分祀したと伝えられる神社があります。ここには別に代々名主を務めていた木下氏の先祖の山口大膳(武蔵七党村山党の山口氏の一族)が山口(現所沢市)から来住した際に出身地の氏神を分祀したという言い伝えも残っています。山口大膳には「山口大膳と荒井仁右衛門の決闘」という民話も残っているそうなので、居館跡もありそうなのですが、今回調べた範囲では見つかりませんでした。ただ柳瀬川沿いの交易路が江戸時代以前から使われていたとするならば、村山党の山口氏の子孫がこの辺りに住んでいてもなんら不思議はありません。

宗岡天神社から北に進むと志木高校入口バス停があり、その先から右手の路地に入って少し行った左側に「おふろの王様 志木店」があります。建物が平屋でこじんまりとしているので見落し注意!今日はここで汗を流して行きます。料金は平日800円、土日900円。泉質はナトリウム-塩化物・炭酸水素塩温泉(弱アルカリ性低張性温泉)で、場所がら塩泉かと思っていたのですが、色の薄い黒湯でした。この日はさすがにみんな緊急事態宣言明けになれてきたとみえて、午前中なのに結構混んでいました。

お風呂の王様を出たら志木駅の方に戻らずに、荒川にかかる羽根倉橋を目指します。まず橋のたもとに「羽根倉浅間神社」という溶岩をコンクリートで固めた富士塚のある浅間神社があります。ここは源頼朝が建久4年(1193)に富士の裾野で狩りをした際、それに付き従った農民には賦役の代償として田の年貢が免除されたため、それを記念して祀られた神社とのことなのですが、何度か移転しているので、元々この地にあったものではないようです。富士塚も最初、明治5年から同13年まで9年間かけて築かれたものを、荒川の改修によって移転させられた後、昭和48年にさらにもう一度移転させられているので、まだ残っているというのは奇跡的なことなんじゃないかと思います。

国道463号の下をくぐり、荒川の土手に上がって羽根倉橋をさいたま市との境まで進んで荒川大河ぶりを堪能したら、元来たの方に戻って強引に富士見市運動公園に下りると、「羽根倉古戦場跡」の案内板があります。ここは南北朝時代、難波田九郎四郎と高麗彦四郎経澄の戦いがあった場所で、この当時、将軍の足利尊氏と弟直義との間で諍いが続き、関東の武士団もそれぞれ両派に分かれて争っていたのですが、尊氏方に属していた高麗経澄が宇都宮氏討伐に下野に向かうのをやめて進路を反転し、直義党の根拠地である鎌倉を攻撃するために鎌倉街道を一路南下しようとしたのを、直義側の難波田九郎三郎が迎え撃ったのがこの戦いだそうです。結果は難波田勢の敗北で多くの部下が討死したとのことです。ちなみに高麗経澄ですが、秩父平氏の一族が高麗郷に移住して高麗氏を名乗った子孫と言われており、渡来人の高麗氏とは関係はないようです。たた秩父平氏が渡来人の高麗一族と姻戚関係を結んで高麗氏を名乗った可能性はあるということです。

最後に、羽根倉古戦場跡の南東側の荒川の河川敷のグランドにも、「関根兵庫館跡」という武士の居館があったと言われています。現在はNTTグランドで、当然ながら何も残っていませんが、かつては河川敷に土塁や構え堀の一部が残されていたそうです。館跡の東方の荒川の河岸には「兵庫野」という字があって、関根兵庫一族が開拓したものといわれ、この関根氏は岩附の太田氏の家臣との説があり、上宗岡に子孫の関根家も残っているようです。

河川敷から堤防に上がって、さっき確認しておいた「宗岡蓮田」バス停から志木駅へバスで戻ります。このバスは1時間に4本程度あるので、時刻を確認しておかなくとも乗れます。志木駅は慶応大学附属志木高校があるせいか、東武東上線らしからぬ山の手っぽい雰囲気の駅で、東上線の下町っぽい雰囲気が苦手な女性が住みには良いところかもしれません。

でも学生が多いのでラーメン屋も多く、その中で「味噌ラーメン専門店 日月堂」という店に入ってみました。普通の味噌ラーメンを注文してみたのですが、激戦区らしく色々乗った結構凝った感じの味噌ラーメンで美味しかったです。ただバターが入っているのか?スープがかなり甘めだったので、メニューにピリ辛とか激辛があったらなお良かった気がしました。まあ唐辛子を振りかければいいだけの話なんですが。

富士見お散歩マップができました
https://www.city.fujimi.saitama.jp/shisei/19chikatu/osanpo-map.html

志木市観光協会 | 志木市の魅力を余すことなくご紹介します。
https://kanko-shiki.com/

志木店 | おふろの王様
https://www.ousama2603.com/shop/shiki/

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装備・携行品

みんなのコメント

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  • 目黒駅は品川区さん、こんにちは

    いつもながらすごいです。このシリーズをまとめたら、そのまますばらしい郷土史と(ハードな)ウォーキングガイドになりそうです。

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