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吉備路・桃太郎伝説

鬼ノ城山(総社市)( 中国・四国)

パーティ: 1人 (マローズ さん )

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行程・コース

天候

曇り

登山口へのアクセス

電車
その他: JR吉備線足守駅下車

この登山記録の行程

足守駅(2時間ほど)皇の墓(1時間15分ほど)鬼ノ城山(1時間少々)服部駅
※コースの詳細記録は取っていないため、コースタイムやコース図が実際とは異なる箇所があるかも知れない。

コース

総距離
約18.8km
累積標高差
上り約572m
下り約567m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

[150トンの巨石文明遺跡と2.8kmの古代城壁]
桃太郎の三大伝説地(高松、犬山)の内、最も有名なのが江戸後期の上田秋成のオムニバス小説「雨月物語」にも題材として取り上げられた岡山県の吉備路に伝わる温羅(うら)伝説。これは吉備津神社の「吉備津宮縁起」と吉備津彦神社の「吉備津彦神社縁起」に記されていること(両者の内容は異なる箇所あり)だが、日本書紀にある四道将軍による国内平定に関することと663年、白村江の戦いで大和朝廷軍が唐・新羅連合軍に敗れた後、国内各地に築いた朝鮮式山城の一つ、鬼ノ城(きのじょう)を元にして誕生しているように思われる。鬼ノ城が築かれた鬼ノ城山(397m)の麓は古代、海で、山は鬼ケ島とも呼称されていた。

日本書紀では崇神天皇10年の9月、朝廷は大彦命を北陸道へ、武渟川別(たけぬなかわわけ→大彦命の子息)を東海道へ、吉備津彦を西海道へ、丹波道主を丹波道へ派遣し、当該地方を平定したとする。
この吉備津彦とは正確には「大吉備津彦」(温羅の「古吉備津彦」と分ける形で)で、孝霊天皇の第二皇子、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)のことで、香川県高松市の桃太郎伝説の主人公・稚武彦命(わかたけひこのみこと)の兄にあたり、奈良県の大神神社の祭神・大物主神の義弟でもある。

前述神社縁起の内、一般に知られているのは吉備津宮縁起の方。それでは崇神天皇の頃、温羅という百済の王子が空を飛んで吉備にやってきて、新山に居城、岩屋山に楯を築き、周辺の村々や朝廷への貢物を略奪したり、婦女子を誘拐する等していたため、吉備の代表者が朝廷に窮状を訴え、五十狭芹彦命が温羅を退治しに来たとする。命の従者には宮中の番犬の管理責任者・犬飼健(たける)と元、朝廷に給仕する鷹匠で猿回し芸の元祖・楽々森彦(ささもりひこ)、宮中で雉に似た鳥を飼育していた留玉臣(とみたまおみ)がいた。尚、犬飼健は、五・一五事件で暗殺された犬養毅首相の先祖だとされている。

命は吉備の中山に布陣し、片岡山に石楯を築き、鬼ノ城の温羅一味と対峙する。最初は矢合戦だったが、命と温羅が放った矢は空中で衝突し、落下した。
そんな折、住吉の神が出現し、命に一度に二矢を放つことを進言する。そこで命がその通りにすると、一矢は空中でかみ合ったものの、もう一矢は見事温羅の左目を貫いた。
温羅は雉に化けて山中に逃げたものの、命は鷹となって追う。次に温羅は鯉に化身し、自らの左目から流れ出た鮮血で赤く染まった血吸川を下って海に出ようとしたが、命は鵜になって追跡し、遂に温羅を咥え、捕獲した。
温羅は観念し、自分の尊称である吉備冠者(吉備津彦)を命に献上したが、命は温羅の首を刎ねた。

ところが温羅の首は串刺しにして晒された(岡山市楢津首部)ものの、唸り続けた。そこで犬飼健が番犬に食わしたが、髑髏になってもおさまらなかった。
命は思案し、髑髏を吉備津神社御釜殿の釜の地下八尺を掘って埋めた。しかしそれでも唸り声が止むことはなかった。そんな折、温羅が命の夢に出てきて「我妻である阿曽郷祝(ほうり)の阿曽媛に御釜殿の神饌を炊かせよ。もし世に事あれば釜の前に参りたまえ。幸いあれば裕に鳴り、禍あれば荒々しく鳴ろう。」と語った。
命は早速阿曽媛を探し出し、神饌を炊かせたところ、唸り声は止んだ。これが今に続く神事・鳴釜神事の起こりである。神事に使用する羽釜は温羅の末裔と伝えられる総社市西阿曽の鋳物師が奉納し、御釜殿に仕える巫女「阿曽女」(あぞめ・「炊女」とも書く)も阿曽地区の女性から選ばれるようになっている。

吉備津彦神社縁起も似たような内容だが、温羅についてはあまり悪人として扱われていない。ある日、朝廷への貢物を運ぶ列に温羅とその仲間が通りかかり、貢物の行先を聞こうとしたところ、運搬者たちは温羅たちの風貌を見て鬼と勘違いし、逃げてしまう。以後、鬼が村人を襲う、という噂が流布し、朝廷から五十狭芹彦命が派遣される。以後の展開は吉備津宮縁起とほぼ同じだが、決定的に違うのは、温羅たちは命から罪を許され、吉備国の統治を任されたという点。言うならば吉備津宮縁起は勝者からの視点で描かれ、吉備津彦神社縁起は敗者の視点によるものと言えるだろう。つまり、温羅一味は悪党ではなく、土豪的存在だったのではないだろうか。両神社の社格差や権力者からの神社の庇護の差異も関係しているかも知れない。
尚、温羅一味は武装したタタラ製鉄集団だったともいう。同様の集団はジブリアニメの「もののけ姫」にも出てくる。

今回の山行ではいくつかの温羅伝説地を巡るが、その中で最も見応えのある遺構は鬼ノ城山に築かれた鬼ノ城、次いで岩屋山の「鬼の差上げ岩」だろう。前者は高さ6mの城壁が2.8kmに亘って山を巻き、城内規模は29ヘクタールにもなる。日本最大級の古代山城である。
後者は先史の巨石文明遺構を温羅伝説にあてたもので、重量150トンに及ぶドルメン。
その両者のみの探訪なら、中腹の駐車場から簡単に登れるが、麓に点在する伝説地を巡るため、吉備路自然歩道を組み入れ、足守駅を起点にした。

[コース]
駅から南の国道180号に出て西進すると、北側の田畑の中に、五十狭芹彦命の異母弟にあたる若健吉備津彦命の子・吉備武彦命を祭神とする矢喰神社がある。この社は造営年代不詳だが、かなりの古社で創建当初は矢喰宮と言った。この地が温羅と五十狭芹彦命の矢が空中で衝突して落下した地点だとされている。境内には数個の巨石があり、その上に落ちたと言われており、かつては矢が当たった跡が目視できたという。
神社の西からは、温羅の左目から流れ出た血で真っ赤に染まったという血吸川沿いを遡る。少し遡ると、阿曽媛の故郷・阿曽地区。昭和末頃の文献では、阿曽地区で鋳物業を営んでいたのは一軒のみと記されていたと思うから、温羅末裔の鋳物師はもういなくなっているかも知れない。

阿曽を過ぎると鬼ノ城のある奥坂地区で、山間に入るが、道の呼称は「吉備路自然歩道」。しかし実際は舗装道路。
血吸川を挟んだ東西の尾根が接近した辺りの西側に穴観音がある。石室の壁面に観音像を刻んだ横穴式古墳を擁す仏堂があるのだが、なぜか写真を撮っていない。これは当時、堂内の古墳開口部がよく見られなかったということと、案内板にこの周辺に「穴観音古墳群」があることが記されてなかったことが影響しているだろう。現在であれば事前に郷土文献をいくつか入手し、歴史研究家的探訪を行うのだが。
穴観音から200mほど北上した西側には阿弥陀原古墳群4号墳が開口している。羨道の長さは5m半ほど、高さは2m少々という規模。

阿弥陀原地区から道は北西に向きを変えるが、もしかしてここから山道に変わったかも知れない。道はやがて血吸川を渡って北側を並行する谷を遡り、尾根を越えると再び血吸川沿いを遡り、やがてまた川を渡り直し、西に切れ込む谷を遡る。
岩屋寺を目指していたのだが、当時の写真を見ると先に史跡である「皇の墓」に寄っている。記憶ではこの墓に到る前、複数方向の道の選別に思案し、近くにいた老婆に尋ねると家でコーヒーを入れてくれた。現在では道標や案内板の数も増えているはずだから、迷うことはないだろう。
皇の墓がある地も岩屋寺の寺域だが、これは文武天皇の皇子の墓。皇子は7歳時、この寺を開き、後に善通大師となった。但し、この卵塔自体は後世の南北朝時代に建立されたもの。

岩屋寺はこの北東にあるが、一旦道を少し引き返してから北上したのか、山中に近道があったのかどうかは覚えていない。
寺は無住になっているので小堂だが、石垣は城壁を彷彿させる立派なもの。
この周辺の山を岩屋山と言うが、すぐ近くに例の先史巨石文明遺跡のドルメン「鬼の差上げ岩」(ドルメンの天井石)がある。この下部が岩屋になっていることから、この石組全体を「鬼の岩屋」と呼ぶ。

この天井石は温羅が持ち上げたものという伝説になっているが、その規模は縦15m、横5m、厚さ5m、推定重量150トンという巨大さ。このような巨石を組上げる技術が、温羅が存在したよりはるか昔の紀元前にあったということは驚き。しかし、ドルメンではないが、人の手によって移動された石造物では日本最大級の900トンという遺跡が関西にある。それを巡るハイキング記録もいずれ投稿する予定。
天井石の上には登ることもでき、周辺の山並みを望見することができる。

ここから道沿いには巨石や奇岩怪石が次々と現れる。「鬼ノ餅搗岩」は、その名の通り、搗いた餅を捏ね棒によって巻いたような形をしている。
「八畳岩」は全国各地にある同名の岩のように、天辺が平で自然の展望台になっている。
「屏風岩」は側面から見るとハープのような形状。他にも奇岩があり、展望が開けた箇所も多い。

東方には当山行一番のポイント、鬼ノ城が聳えている。城壁は鬼ノ城山の8合目から9合目にかけて、山の周囲を取り囲んでおり、石積みの上に盛土をして、高さは6mにも及ぶ。谷部には五つの水門、三ヶ所に城門跡が推定されている。
城壁で一番見応えのある箇所は「屏風折れの石垣」という所で、離れた所から見るとまさに「天空の城」。ここに「温羅遺跡」と刻まれた石碑が建っていたと思う。第一展望台のある所が山頂。その他、構造物の礎石や磨崖仏もあった。
‘00年代には三層構造の西門が復元され、展望舎等も新設されている。

山頂からは南西に下って再び吉備路自然歩道の車道に出る。そこから谷沿いをほどなく下った所の西側に「鬼の釜」なるものがある。直径185cm、深さ104cmの底が抜けた鉄鍋で、享保7年(1722)10月、湯釜谷に転がっていたのを村人が現在の場所に運んで設置したもの。その運搬時、底が抜けた。伝説では温羅たちがさらってきた人間をこの釜で煮て食べたのだとしているが、実際は、東大寺再建の大勧進となった重源が備前に赴任した折、浄土思想の普及を図って建設した湯屋の湯釜ではないかとされている。
天井河原キャンプ場まで下りて来ると、天井川松並木を通り、服部駅へと向かう。

尚、この後、どの駅で借りたかは忘れたが、レンタサイクルを借り、国分寺やコウモリ塚古墳(石棺現存)、造山古墳(日本で四番目の大きさ)、鯉喰神社(鵜に化けた五十狭芹彦命が鯉の温羅を咥え挙げた場所)等を巡った。

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登った山

鬼ノ城山

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