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志木市・富士見市・ふじみ野市の残り(1/2)

大山石尊大権現、塚の山古墳、館氷川神社、宝幢寺、城山貝塚、柏の城跡、長勝院旗桜、水谷たんぼ、水子氷川神社、性蓮寺、水子八幡神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

快晴

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:学芸大学→東急東横線副都心線直通和光市行→和光市→東武東上線→志木

移動:みずほ台→東武東上線→ふじみ野(1/2に続く)

この登山記録の行程

志木駅6:10→大山石尊大権現6:23→鎌倉街道(羽根倉道)案内板6:25→大塚第六天神社6:27→塚の山古墳6:32→背戸湧水(にしはらの森)6:34→館氷川神社6:45→宝幢寺(大石四郎屋敷跡)7:00→城山貝塚7:08→柏の城7:11→大堀跡7:15→長勝院旗桜7:18→富士見橋7:31→性蓮寺7:45→水子八幡神社7:51→水子氷川神社7:55→みずほ台駅8:13

合計2時間3分

コース

総距離
約7.2km
累積標高差
上り約29m
下り約26m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

10月30日(土)は、志木市・富士見市・ふじみ野市の足のマメが化膿して削った残りの分がバラけてあったので、2つに分けて回って来ました。

前半は、東武東上線の志木駅西口からスタート。この間来た時は知らなかったんだけど、志木駅は志木市にはなく新座市にあるらしいです。

西口を出て電車の進行方向に進むと、まず「大塚古墳群」というかつて古墳がたくさんあった場所に着きます。現在は宅地化が進んで、塚は1つしか残っていないのですが、塚の上にあったのではないかと言われている小祠が幾つか残されています。

その1つ目が「大山石尊大権現」です。これは名前の通り神奈川県の大山講の物なのですが、石尊大権現というのは、その昔大山山頂にあった磐座のことで、明治になって神仏分離&廃仏毀釈が行われる前は、関東の至るところに祀られていた物だそうです。

次に「鎌倉街道案内板」があります。この鎌倉街道は鎌倉街道上道と奥州街道をつなぐ「羽根倉道」という柳瀬川沿いを通るバイパスで、先週大和田宿で川越街道と交差していた道の延長になります。

その先にある「大塚第六天神社」という小さな神社もたぶん古墳の上にあったもので、昭和43年に志木第二小学校が建設された際に建築会社の社長が学童の交通安全のために社殿を再建したとのことなのですが、たぶん学校建設の時に神社があった古墳を掘り崩した業者が祟りを怖れて祀ったのだと思います。

そして大塚古墳群の中で唯一残されている「塚の山古墳」です。高さ約3m、径6~7mの小円墳だったらしいのですが、多少小ぶりになって公園の中にありました。遺体や遺物の埋葬された痕跡がないので、人工の塚ではないかとも言われているそうです。

塚の山古墳から「にしはらの森(西原斜面林)」という河岸段丘の林を整備した緑地公園沿いに進みます。その途中に「背戸湧水」という湧水があります。この湧水は水道が出来るまで飲み水に使っていたそうで、名前の「背戸(せど)」は地主さんの屋号だそうです。

東武東上線の線路を渡り東側へ行くと「館氷川神社」があります。ここは柏の城とを築いた藤原長勝が大宮氷川神社を勧請して貞観年間(859-877)に創建したと言われる神社で、館之郷(館村・中野村・引又村・針ケ谷村・北野村)の総鎮守でした。また別に新座郡の郡司高野大膳亮師之が郷村の鎮守として氷川神社を勧請したという説もあります。ここにはは富士塚もあります。

館氷川神社の次は真言宗智山派寺院の「宝幢寺」です。この寺は大石信濃守宗虎の子息「大石四郎」の屋敷跡だと言われています。大石信濃守宗虎は北条氏照に家督を譲った大石定久の弟で八王子市の柚木にある大石氏の菩提寺「永林寺(由木城)」の南を流れる大栗川の対岸に屋敷跡があります。大石四郎は北条の重臣・松田康久の子(松田惣四郎)で、宗虎の養子なってから大石四郎を名乗るようになります。落城後に宝幢寺が建てられたと言われています。なお宝幢寺の寺伝には大石信濃守信(政)吉という宗虎とは別名の大石家の家系図にない人物が柏の城の主として出て来て、柏の城の落城後この場所に移ったとされていますが、宗虎と同一人物であるのか否かについては諸説があるようです。

少し戻って志木中学校の角に行くと「城山貝塚」の案内板があります。ここは縄文海進の最盛期に形成された斜面貝塚で、ヤマトシジミなどの淡水系の貝が積み重なって出来ているそうです。付近では住居跡も発見されているとのこと。

志木中学校から河岸段丘を登って上の志木第三小学校へ向かうと、学校の角に「柏の城」の案内板があります。この城は、在原業平の座所として設けられたという伝説や鎌倉時代に二階堂氏が築城したという説もあるのですが、一般的にはこの地に幾つもの伝説を持つ土豪「藤原長勝」が最初に城を築き、その後、大永4年(1524)に大石定久の弟で山内上杉氏の重臣の大石信濃守信吉(宗虎)が改修を加えて居城にしたと考えられています。さらにその後、大石氏が小田原北条氏に従ったため、北条方の城となり、豊臣秀吉の小田原攻めで落城して廃城となったと言われています。遺構は、志木第三小学校(本丸跡)やその東側(二の丸跡)と南側(三の丸跡)に住宅地が造成されたためで残っていないのですが、唯一「大堀跡」という堀を埋め立てた道がマンションの脇に残されています。

小学校の西側にある志木市の共同墓地も城跡の一部で、ここは共同墓地になる前に「長勝院(廃寺)」という寺があったらしいのですが、そこに「長勝院旗桜」という樹齢400年以上の一重咲きの花に雄しべの一部が花弁状に変わった旗弁(1~2枚)を生ずる珍しい旗桜(ヤマザクラの一種)があります。この墓地は柳瀬川の河岸段丘上にあるので眺めが良いです。

墓地から柳瀬川に降りて「富士見橋」を渡ります。富士山が良く見えるのでこの名がついたとのことだったのですが、建物が増えて少し横に行かないと良く見えません。富士山の反対側には「水谷田んぼ」という住民パワーで宅地化を免れている田んぼがあります。でもじわじわ工事が進んでました。

富士見橋を渡り、反対側の河岸段丘上に登ると水子地区に入り、まず日蓮宗の「性蓮寺」があります。ここは難波田城主上田周防守の菩提寺で、墓である五輪塔も残されているそうなのですが、標識がないのでわかりませんでした。またこの寺も水子にあるので、水子供養が名物だそうです。

性蓮寺の裏にある「水子八幡神社」は、その昔、鎌倉街道羽根倉道沿いにあって、騎乗したまま社前を通ると神が怒って落馬させるので、現在地に遷座されたという伝承が残されている神社です。

水子八幡神社に行ったので、ついでに「水子氷川神社」にも寄って行きます。こちらは武蔵国一の宮大宮氷川神社を勧請して弘治元年(1555)に創建された水子村の総鎮守だった神社です。ここにも浅間塚(富士塚)があり、地元の水子八景の1つ「富士の暮雪」になっているとのことだったのですが、塚は存在していませんでした。でも柳瀬川の河岸段丘上にあるので、前の建物が無ければ富士山は見えるはずです。

今日は余りをつないだコースなので、ここまででいった絞めてみずほ台駅に向かい、電車で2駅先のふじみ野駅まで移動します。

志木市観光協会 | 志木市の魅力を余すことなくご紹介します。
https://kanko-shiki.com/

富士見お散歩マップができました
https://www.city.fujimi.saitama.jp/shisei/19chikatu/osanpo-map.html

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