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足利基氏館跡から笛吹峠経由で青鳥城跡

足利基氏館跡、比企大神(判官塚)、岩殿熊野神社、巌殿観音堂(岩殿山正法寺)、物見山、奥田氷川神社、笛吹峠、神戸神社、唐子神社、下唐子古墳群、唐子若宮八幡神社、青鳥城跡( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→池袋→東武東上線→高坂

復路:野天風呂蔵の湯 東松山店→柏崎バス停→東武バス→東松山駅→東武東上線→和光市駅→副都心線→渋谷駅→東急東横線→学芸大学駅

この登山記録の行程

高坂駅6:33→足利基氏館跡7:04→弁天池(鳴かずの池)・阿弥陀堂の板石塔婆7:10→比企大神(判官塚、比企能員)7:21→正学院・正存院7:26→岩殿熊野神社7:28→巌殿観音堂(岩殿山正法寺)7:35→物見山(標高135m)7:41→地球観測センター8:06→奥田・氷川神社(坊主山、東園寺跡)8:28→笛吹峠(峠の平1、2号墳)8:57→神戸神社9:43→唐子神社10:04→下唐子2号墳10:10→下唐子1号墳(御嶽山古墳)10:13→若宮八幡古墳10:30→青鳥城跡10:45~11:25→野天風呂蔵の湯 東松山店12:09

合計5時間36分

コース

総距離
約18.4km
累積標高差
上り約346m
下り約337m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

1月22日(土)は、高坂駅西口から足利基氏屋敷跡と岩殿観音経由で笛吹峠まで行き、帰りは青鳥城跡に行って来ました!青鳥城跡からは森林公園駅に出る予定だったのですが、時間が早かったので、先々週も行った野天風呂蔵の湯 東松山店にまた寄り道して来ました!

「高坂駅」西口を出たら、「高坂彫刻プロムナード」というちょっとエロい彫刻がたくさんある緩やかな坂道を物見山方面に向かって一直線に進んで行きます。「高坂」の名前の由来はまさにこの坂道にあって、都幾川の低地から物見山や笛吹峠のある丘陵地へのなだらかな坂が延々と続いているところからつけられたと言われています。

そして関越道を越えて少し行ったあたりで、新道から分かれて川沿いの岩殿観音に通じる道に入ると、まず最初に「足利基氏館跡」があります。ここは狭山市にある「入間川御陣」のもう1つの候補地で、初代関東管領の「足利基氏」が武蔵武士掌握のために鎌倉を出て6年間拠点を構えた館の跡と言われています。狭山市の方が候補として有力なんですが、高坂側の論拠としては足利基氏が反乱を起こした下野の芳賀伊賀守高貞を岩殿山の合戦で貞治2年・天平18年(1363年)に撃ち破ったことが挙げられていて、土塁と堀も残っています。ただこの合戦終了後、基氏は下野へ陣を進めているので、長期間基氏がこの地に住んでいたかどうかは疑問が残ります。

足利基氏館跡のすぐ先にあるのが「弁天沼(鳴かずの池)」です。普段は水があるのですが、真冬の渇水期のせいか水がありませんでした。ここは征夷大将軍の坂上田村麻呂が岩殿山の悪竜を退治し、首を埋めたと伝えられる伝承が残る池です。名前の通り、池の真ん中には弁財天か祀られています。「鳴かずの池」の由来は竜が恐くてカエルが棲みつかないことからつけられたそうです。

弁天沼の傍らにあるのが「阿弥陀堂の板石塔婆」です。この板碑は高さ2.6m、最大幅58cmあり、東松山市で2番目に大きな板碑だそうです。応安元(1368)年八月二日の銘と共に大日如来を表す種字(アーンク)が刻まれています。

弁天池の先で脇道に入り高台に登ると、大東文化大学のキャンパスの横に、「比企大神(判官塚)」があります。判官塚の判官は源頼朝の乳母の夫で鎌倉殿の13人の1人である「比企能員」のことであると言われていて、比企能員の孫の「員茂」が1218年頃、能員の菩提を弔うために岩殿観音の南東の南新井に塚を築いたそうです。しかし大東文化大学キャンパス造成のためここに移転させられました。そのためか石祠も新しいものになっています。この近所に塚を造った「員茂の居館」もあったのではないかといわれています。

もう一度、さっきの岩殿観音へ通じる道に戻ります。この参道には寺院が多いのですが、岩殿観音は修験道の聖地だったらしく参道に幾つもの寺の跡が残っています。「正学院」と「正存院」もその中の1つで、今は小さなお堂ですが、共に修験道の開祖役ノ小角を開基とする「本山修験宗」の寺院だったそうです。「本山修験宗」とは聞きなれない宗派ですが、明治維新後の廃仏毀釈で一旦廃宗にされ、終戦後の昭和21年に復活した宗派らしいです。ちなみにその間は2つ共天台宗に籍を置いていたとのことです。

その少し先に「岩殿熊野神社」があります。ここも熊野神社とつくことでわかるように修験道の神社です。旧称は八王子権現社と称していたそうです。岩殿山の地主神として岩殿観音堂とほぼ同時期の養老年中(717-724)に創建された由緒ある神社で、当時天台宗だった岩殿観音堂の影響で、比叡山の地主神である八王子権現社を祀ったのではないかといわれています。

そして「岩(巌)殿観音堂(岩殿山正法寺)」です。ここも天台宗系の本山修験の寺院かと思いきや、別当寺の正法寺は真言宗智山派の寺院のようです。まあ有名な聖地の場合、複数の宗派が寺院を構えるのは相模の大山や秩父の武甲山のように普通に行われてきたことなので、ただ管理者真言宗ということなんだと思います。岩殿観音と正法寺の創建年代は不詳ながら、養老年間(717-724)に逸海という僧が正法庵と号して草創し、その後坂上田村麻呂・利仁将軍などが再興して利仁山と名付けたという伝承が残されています。その後源頼朝の命を受けた「比企判官能員」が再興したものの、戦国時代の戦禍に巻き込まれ、天正2年(1574)に僧榮俊が中興開基、天正19年(1591)に徳川家康より寺領25石の御朱印状を拝領し、やっと安泰を得ます。なお、坂上田村麻呂が桓武天皇の勅命によって延暦10年(791)奥州征伐に向かう途中、この観音堂に通夜し悪龍を退治したという伝説も残されています。

岩殿観音の上にあるのが「物見山」135mです。標高は低く現在は園地化されていますが、奥武蔵の山並みが丘陵地帯へと変わり、その丘陵地帯が低地に落ち込み最後の高まりとして、聖地として崇められるには十分な山です。「物見山」の名前の由来は坂上田村麻呂が東征の際、この山に登り四囲を眺めたことに由来するとのことなのですが、場所的に鎌倉時代~戦国時代に複数の武将が物見台として使用したことはまず間違いなく、それで自然に物見山と呼ばれるようになったのではないかと思います。

物見山から笛吹峠へと続くハイキングコースに入ります。このハイキングコース前半の南側一帯は「石坂の森」と呼ばれる里山を生かした自然公園としてと鳩山町によって整備されています。南に下ってみても楽しいのだろうけれど、あまりに大回りになるので、今日は通過するだけにします。

石坂の森を過ぎると次は「地球観測センター」の縁に沿った道に入ります。ここは地球の環境状態を、人工衛星から観測するリモートセンシング技術の確立・発展のため、1978(昭和53)年10月に設立された研究所とのことで、パラボラアンテナが何本も建っています。東京天文台のように野辺山や乗鞍岳まで行かなくとも、埼玉のこの辺りまで来れば、十分な電波が入るということなんでしょうね。

笛吹峠へ直接向かわずに一旦下に下りて「奥田氷川神社」に寄っていきます。ここには「坊主山」の中腹にあって「奥田の城郭類似遺構」という土塁の遺構が神社の東側の山林に残っているらしいのですが、見た範囲ではたいした物は見つかりませんでした。もう少し行った藪の奥にあるのかな?しかしこれは『風土記』に記載のある「東圓寺跡」ではないかといわれていて、城館の遺構ではないようです。ただときがわ町の慈光寺のように僧兵を揃えて武装していたま寺院もあるので、ここもそのような寺院であった可能性もあります。「奥田氷川神社」について少し記しておくと、この神社は、天平年中(729-49)に、村内に疫病が流行した時、武蔵国一の宮氷川神社に使いを遣わして祈祷を行い、その霊爾を奉迎して小詞を建てて奉祭したことに始まるということです。

奥田氷川神社から下の車道に戻り、これを登っていくと「笛吹峠」80mに着きます。車道が通っているので、登山対象になるような峠ではないのですが、自転車やバイクのツーリングには、トイレや駐車場もあっていい場所です。笛吹峠には旧鎌倉街道が通っていて、鎌倉時代には畠山重忠を始めとする数多くの武士が行き来していたらしいです。北麓に坂ノ上田村麿の伝承も残っているので、峠の歴史は鎌倉時代以前にさかのぼるのかもしれません。また岩殿観音から慈光寺へ続く「巡礼街道」という東西の道も通っています。

笛吹峠で有名なのは「笛吹峠の戦い」で、これは正平7年(1352)に、新田義貞の三男「新田義宗」らが「宗良親王」を奉じて「足利尊氏」の軍勢と戦った「武蔵野合戦」の最後の合戦で、この戦い敗れた義宗らは越後国に、親王らは信濃国に落ちのび、関東の南北朝時代が完全に終わります。かなりの激戦だったようで、車道を通す工事の際に大量に人骨が出土したそうです。「笛吹峠」の名称の由来は、この戦いの最中に、月明かりに誘われて宗良親王が笛を吹いたという伝承から来ているそうです。

笛吹峠にはそれ以外にも「峠の平1、2号墳」という2つの古墳が駐車場の脇に存在しています。1号墳は円墳で径9.5m、高さ2.5mあり、2号墳は円墳で径15m、高さ3.5mで、大刀なとが出土していることから、坂ノ上田村麿の伝承はあながち嘘ではないかもしれません。

笛吹峠から先はは大藏館や菅谷館を回って武蔵嵐山駅に向かうのがハイキングコースの順路なのですが、そちらはこの前行ったので、ゴルフ場沿いの道を東松山駅方面に向かいます。丘陵地帯から下りたところに「神戸神社」という気になる名前の神社があるのでまずは寄っていきます。ここは一木から三体の像を彫り、1つは尾張国津島の地に、1つは上野国瀬良田の地に、1つはこの武蔵国神戸のこの地に祀られた牛頭天王社であるとされ、明治初年に八雲神社と改称された後、明治40年に氷川社、愛宕社、日吉社を合祀し現在の神戸神社と改称したそうです。成り立ちから察するにあちこちに領地を持っていた古代の貴族の荘園の鎮守として創建されたのかもしれませんね。

神戸神社から広い水田地帯を横切り、都幾川を渡ると「唐子神社」と「下唐子古墳群」があります。まず「唐子神社」に寄っていきます。ここは古墳群とは関係ないのですが、時の領主「左兵衛佐藤原重時」が、秩父郡の「椋神社」の分霊を勧請して応永18年(1411)に白髭大明神と称して創建したという伝承が残っています。徳川家康の関東入国後には、地頭の「菅沼越後守定吉」が社殿を再建しているそうです。

「下唐子古墳群」は9基の古墳が現存しているそうなのですが、全部まわるのも大変なので行けるところだけ寄っていきます。「下唐子2号墳(冑塚古墳)」は、送電線鉄塔の下にある直径37mの円墳で、元は2段築成で横穴式石室があったそうなのですが、今は小さな土盛りが残るだけです。

下唐子2号墳の少し北には「下唐子1号墳(御嶽山古墳)」があります。ここは2号墳よりかなり大きい直径37mの円墳で、塚上に御岳神社の石碑が残されています。

最後に、下唐子1号墳から唐子中央公園を横切って進むと「若宮八幡古墳」があります。ここは下唐子古墳群中の塚原支群の主墳として位置づけられている円墳で、径34メートル、高さは4.5メートルあり、墳頂には「若宮八幡神社」が建てられています。あと南側に回ると石室が外から観察できる形で残されています。

そして今日のメインである「青鳥城跡」です。ここは
土類や堀などの状況から、松山城主・上田朝直の家臣「山田伊賀守直安」の居城ではないかと言われていますが、それ以前にも城として使われていた可能性が高く、『源平盛衰記』に寿永2年(1183年)源頼朝が青鳥野に陣をとったとの記述があり、これが青鳥の地名の初見とされています。さらに昔の天長年間(830年頃)に青鳥判官「藤原恒義」の館があったという伝承も残っています。現存する土塁や堀は、過去に存在した館の跡を城に南北朝~戦国時代に拡充整備したものではないかといわれていて、太田道灌が陣を敷いたという説も、武蔵松山城を攻める北条氏康方の城だったという説もあります。その後いったん廃城となるものの、豊臣秀吉の小田原征伐では前田利家が廃城となっていた青鳥城跡に陣を置き、武蔵松山城を攻めています。松山城自体が時代の情勢よって城主を何人も変えている城なので、松山の対岸にある青鳥城が同じような運命をたどったのは自然な流れだったのかもしれません。

「青鳥城跡」はネットで検索すると「私有地なので中に入れず良くわからない」という記述が多いのですが、2022年現在、北側に続く長大な堀と土塁は西端の直角に折れ曲がっているところから1/3ぐらいのところまでは刈り払いがしてあって、堀の中を歩くことが出来ます。またその先には一部分だけ木や竹を刈り取って土塁を復元したような場所もあります。本郭を四角く取り巻く堀と土塁も同じように刈り払いがしてあって、本郭の中は桜の木が植えられた園地として整備されています。ただ城跡全体の順路を示す標識は、まだ整備途中なのか、存在しておらず、自分で見るべき場所を探して歩かなくてはいけません。春になってコロナが一段落すればもっと見学しやすくなっているのかも。

青鳥城跡を見終わってまだ11時半なので、森林公園駅に向かう予定を変更して、先々週行った「野天風呂蔵の湯 東松山店」にまた寄って、汗を流してから帰ることにしました。青鳥城跡から蔵の湯までは、多少距離があるものの、国道254号を一直線に進めばいいだけなので、詳しい地図が無くとも行けます。「野天風呂蔵の湯 東松山店」はこの前も書きましたが、と一本松の蔵の湯や小江戸はつかり温泉と経営母体が一緒の日帰り温泉で、大人平日650円、土日770円。泉質はやや黄色がかったナトリウム・塩化物強塩泉で、かなりしょっぱく、若干鉄味がします。温泉の浴槽が露天風呂に1つしかなく、それ以外は沸かし湯なのが珠に傷なのですが、値段が安いまあしょうがないかといった感じです。マンボウでうんと空いてるかと思って期待して行ったら、混み具合は、時間的に混んではいなかったのですが、この前と変わりませんでした。埼玉も、山や観光地は別として、ここいらまで来ればあまり関係ないですからね-。

蔵の湯からまた東松山駅まで歩いて戻るのは面倒だったので、バスを調べたら13時35分というちょうどいい時間の便があったので、表の広い道に出たところにある「柏崎バス停」から東武バスで東松山駅に出ました。東松山駅は上福岡駅と同じような飲み屋ばっかり多い駅で、そういう店はランチタイム過ぎるとやってないので、しょうがないのでまた「餃子の満州 東松山店」に入って、今回は「タンメンと餃子のセット」を食べて帰りました。満州のラーメンは餃子のオカズという位置付けなのか妙に薄味なので、元々塩味のタンメンの方がしっくり来る気がします。

【公式】蔵の湯 東松山店
http://www.kuranoyu.net/higashimatuyama/

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