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日本最大級超古代石造物と飛鳥路

岩船山(橿原市)、甘樫丘(明日香村)( 東海・北陸・近畿)

パーティ: 1人 (マローズ さん )

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行程・コース

天候

晴れ時々曇り

登山口へのアクセス

電車
その他: 近鉄吉野線岡寺駅下車

この登山記録の行程

岡寺駅(20分数分)益田岩船(1時間10分ほど)高松塚古墳(30数分)鬼の俎板・雪隠(40数分)石舞台古墳(約30分)飛鳥坐神社(20分ほど)甘樫丘(40分ほど)近鉄橿原神宮前駅
※当時の資料やコース図は廃棄しているため、コースタイムは正確ではない。また、益田岩船から牽牛子塚古墳までと、マルコ山古墳から於美阿志神社までのコースも作図は実際とは若干異なるかも知れない。

コース

総距離
約17.3km
累積標高差
上り約392m
下り約397m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

[現代技術も通用しないオーパーツと飛鳥史跡巡り]
「オーパーツ」とは当該地に当該時代、当時の技術では存在し得なかった人工遺物及び加工された遺構のこと。中でも石造物に限定すれば、世界最大のものはレバノンのバールベックの石柱と思われ、推定重量は約2,000トン。日本最大級の一つは橿原市の岩船山にある益田岩船で、推定重量約900トン。これは日本三奇の一つ、兵庫県の「石の宝殿」を400トンも上回り、世界最大のクレーン、NASAのロケット移動用クレーンをもってしても吊り上げは不可という超ド級の謎の先史石造物。

岩屋山東方は「古代史跡巡り」では関西随一の人気を誇る明日香村で、高松塚古墳や石舞台古墳を始めとした多数の古墳、各天皇陵墓、幾何学的模様や異形の石造物群、寺社等、村内の史跡を巡る周遊歩道(車道の区間あり)が整備されており、休日には多くの歴史ファンが訪れる。
探訪日は、コース途中にある飛鳥坐(あすかにいます)神社の御田祭に合わせた。境内には多数の陰陽石が祭られているが、毎年2月第一日曜のこの祭りでは、天狗とお多福の面をつけた者が夫婦和合の所作をする神事を行い、多くの参拝客で賑わう。

[コース]
岡寺駅から益田岩船までは、一般的な飛鳥路からは少し離れているため、訪れる者は少ない(現在は分からないが)が、多分、道標は出ていたのではないかと思う。
「南妙法寺町」バス停が側にある交差点を左折するとほどなく、右手の公園から岩船山へ上がる石段が現れたと思う。
益田岩船は山の頂上下方、標高130m地点にある。東西の長さ11m、南北8m、高さ4.7mの花崗岩を加工したもので、上面には一辺1.6m、深さ1.3mの方形竪孔が二個開いており、孔の両側には溝が掘られている。

この遺構については昔から、弘仁13年(822)に築造された益田池の記念碑(弘法大師による)の台石とする説が言われてきたが、肝心の巨大な碑本体が存在せず、台石にしてはあまりにも巨大過ぎる等の疑問があり、現代では自然暦観測石説や物見台を兼ねた水槽説、二個の穴に蔵骨器を納める火葬墳墓説、製作途中で中止された古墳説、禊場説等が唱えられており、果ては電磁気発生装置説まである。

この遺構が有名な(全国的にはあまり知られていないが)石の宝殿と決定的に違う点は、宝殿が側の岩盤を削り出して製作したのに対し、岩船は他所で加工して、ここまで運搬している点。NASAを超えるクレーンが古代に存在していたとすれば話は別だが、人力で運搬するには、ピラミッド並の作業員の動員が必要だったかも知れない。つまり、相当な地位の権力者によるものである。
蘇我氏または物部氏が製作したとする説もあるが、そのような記録が見当たらないことからすると、先史時代のオーパーツである可能性が高い。

コースは岩船山頂を越えていたのか、直下を通過していたのか記憶にないが、杉・桧の植林帯を通り、コルからは山腹を走る横道になり、やがて牽牛子(けんごし)塚古墳の道標のある分岐に出て、その古墳に寄る。7世紀後半、真弓丘陵に築かれた二段八角形墳で、一辺12.2m、対角線長33m。中央内部には凝灰岩を刳り貫いた横口式石槨があるが、下部にある柵の隙間からごく一部を見られるに過ぎない。

本道の分岐に戻り、南下を再開するが、ほどなくしての分岐で、鑵子(かんす)塚古墳の道標が出ていたと思う。しかし写真を撮ってないので、「またどうせ柵があって内部見学はできないだろう」と思い、寄らなかったのかも知れない。その古墳は6世紀後半のもので、直径23m、高さ5mの円墳。玄室の北と南に羨道がある横穴式石室を擁す。

そこから東西に走る道路を横断し、墓地を抜け、地蔵の建つ四差路に出て、尚も南東へ道なりに進む。
櫛玉命神社がある三叉路に出ると、西に折れる。池の窪集落センターのある三叉路に道標が立っていたと思うが、そこを北に折れ、マルコ山古墳に寄る。
その古墳は202.6m峰から北東に伸びる尾根の南斜面に築かれた二段六角形墳。但し、上段の墳丘がドーム型なので、一見すると円墳に見える。築造年代は7世紀末から8世紀。径23m、高さ5.3mで、先週投稿した二上山石切場から切出した凝灰岩を組んだ横穴式石槨を擁す。
棺と共に金銅六花形飾金具が出土した他、副葬品として金銅大刀金具や金銅製尾錠もあり、被葬者は天武天皇に関係する皇族ではないかと言われている。

マルコ山古墳から次の史跡までのコースの記憶はないが、最短ルートで行くならば、櫛玉命神社の三叉路から東に進み、南北に走る道路に出ると南に折れ、踏切を東に渡り、線路の東に並行する道路に出ると一旦北に折れ、川を渡るとまたすぐ東に折れ、北岸を進む。
南岸を走る道路に合流すると東進、檜前(ひのくま)の住宅街を通り、南北に走る道に到ると南に折れ、次の三差路とその次の三差路を左折する。
四差路に出ると南に折れる。ほどなく於美阿志(おみあし)神社が現れるが、ここまで来れば歴史ファンの姿を見かけることもある。

この神社は元々現在地のやや西にあり、現、神社の建つ地にあった檜前寺の守護社だった。神社の祭神は阿智使主(あちのおみ)神夫妻二柱。檜前寺は東漢(やまとのあや)一族の氏寺だが、そこは応神天皇20年9月に渡来した一族の祖・阿智使主の住居跡でもある。阿智使主の祖先は漢人で、祖国の戦乱から逃れて百済に移り、その後、百済の友好国・日本に渡来したものと考えられている。

応神帝は阿智使主と、彼と共に渡来した者たちに使主という姓を与え、檜前郷に土地を与えた。一族は東漢直と称し、朝廷の外交文書を取り扱う職を代々継ぐことになる。そして蘇我氏が政権を握ると連携し、勢力を拡大していくのである。
神社境内には重要文化財に指定されている十三重石塔が建っているが、その側にかつて檜前寺の塔が聳えていた。石塔の南側が金堂跡である。

境内の見学を終えると神社前の三差路を北に折れ、次の三差路は東に折れる。
広い道路を横断し、尚も東進すると文武天皇陵の道標が現れたと思うので、それに従い、北に折れる。文武帝は先週投稿した二上山の登山記録で触れた草壁皇子の子・軽皇子で、15歳で即位し、文武天皇となった。大宝律令の制定や、断絶していた唐との国交正常化等を成し遂げた。
天皇陵の北側にあるのが有名な高松塚古墳。石槨内の壁画はあまりにも有名。丘陵の南西斜面に築かれた二段の円墳だが、見た目には方墳のように見える。下段径23m、上段径18m、高さ8.5mで、周囲に幅2.5mの周溝が廻らされている。

その他の説明は有名につき、しないが、この古墳はオカルト界でも有名。「高松塚の21日の呪い」として。実は、古墳の壁画の発見や発掘に関わった人物が、発見から2年の内、当該月の「21日」に不可解な死を遂げているのである。その数5人。壁画が発見されたのが’72年3月21日だったのである。
更に今から数年前、この件を雑誌に書いたライターも、死ぬまでは至らなかったものの、原稿提出前日、急に呼吸困難に陥り、救急搬送されている。入院中、毎日壁画の女官が夢に現れたという。その詳細は→ほんとにあった高松塚の「21日の呪い」http://ameblo.jp/kochi-romp/entry-10998704109.html

古墳周囲を一周すると、高松塚壁画館から遊歩道を北に進み、高松塚が築かれた尾根の一つ北の尾根に築造されている中尾山古墳に向かう。
中尾山古墳は三段の八角形墳で墳丘径19.4m。横穴式石槨を擁すが、棺ではなく、火葬骨の蔵骨器を納めていることから、7世紀末から8世紀初頭の築造と考えられている。
中尾山古墳からは更に北の尾根を横断し、川の右岸沿いを走る道路に出ると西に折れる。そして吉備姫王墓や欽明天皇陵の道標が建つ十字路を北に折れる。

吉備姫王は孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の生母だが、陵墓より墓域にある四体の「檜前の猿石」の方が有名。これは北にある欽明天皇陵の南側水田から元禄15年(1702)に出土した謎の石像群で、どれも高さは1m弱ほど。皆、異形の姿をしているが、猿の姿のものは一体だけで、他は庚申、山王権現、翁に見立てられている。
製作者や製作年代、製作目的等は不詳だが、「今昔物語」にも「石の鬼形」という表現で記述されていることから、中世のある時期まで、どこかに整然と置かれていたことが窺える。

欽明天皇陵は全長140mの前方後円墳で周濠を巡らせているが、南側がやや削られているため、元々の全長はもっと長い。葺石が良好な状態で残っているらしいが、宮内庁管理のため、確認する術はない。
昔この陵墓では、長大な木柱を立て並ばせる奇怪な祭祀が行われていたようだが、これは推古天皇28年(620)10月、葺石改良工事の際、氏ごとに大柱を古墳の上に建てさせた、という日本書紀の記述に由来しているものと思われる。

この辺りから観光客や歴史ファンの姿が多く見られるようになるが、道は田園の中、東進する。
右手に休憩園地を過ぎ、左手に石仏を見送ると猿石よりはるかに見応えのある石造物が現れる。道の北側には「鬼の俎(まないた)」、南側には「鬼の雪隠」。可笑しな名称の遺物だが、明治31年から宮内庁が欽明陵の陪冢(ばいちょう)の一つとして管理している、古墳の石槨である。鬼の俎は石槨の底石で、全長4.3m、幅3.3m。雪隠は蓋石で、底石に合わさる部分が1.3m刳り貫かれている。扉石は明治以前に割って他所に運搬した模様で残っていない。

その側で道は三叉路になっているが、引き続き、右の飛鳥周遊歩道を行く。少々行った先の右手奥にこんもりした天武・持統天皇陵が現れる。天武帝は飛鳥浄御原(あすかきよみはら)律令や行政単位の設定等、律令国家体制の基盤を作った。伊勢神宮の式年遷宮も制定している。
その妻・持統帝は天武帝の崩御後、皇后の身分のまま政権を担い、息子である草壁皇子を即位させるべく、大津皇子を処刑する等したが、草壁皇子が早逝してしまったため、自ら飛鳥浄御原宮で即位した。藤原京に遷都したことでも知られる。遷都から3年後、孫である軽皇子(文武帝)に譲位している。

合葬された天武・持統陵は明治13年に「阿不畿乃山陵記」が発見されるまで、見瀬丸山古墳に比定されていた。その記録は文暦2年(1235)に盗掘された際の実見記録で、玄室には金銅製の棺台の上に朱塗りの木棺が安置されており、その前に銅製の容器に入った蔵骨器があったという。前者が天武帝の棺で後者が火葬された持統帝のものとされている。

陵墓からは北東へと下って道路に出て北に折れ、角に駐車場やトイレがある十字路に出ると東に折れる。
角に舟形光背の地蔵が建つ分岐を過ぎると、またまた左手に見甲斐のある大きな謎の古代石造物が現れる。高さ約2m、長さ約4.3m、幅約2.7mの花崗岩を加工した亀石である。亀に見えることからそのように呼称されているが、顔の部分は蛙にも見える。両側下部に切断跡があるため、翼があったのではないかと言われることもある。7世紀頃の製作ではないかと言われているが、記録はない。
この亀石、元々は東に向いて置かれていたというが、次第に南方向に回転して行き、現在は南西に向いている。これが真西を向いた時、飛鳥は泥の海と化す、という伝説がある。

コースは天王社を過ぎ、トイレを過ぎると、斉明天皇の飛鳥川原宮跡に建つ弘福寺(ぐふくじ)に到るが、なぜか写真を撮っていない。恐らく飛鳥坐神社の御田祭の開始時間を気にして、いくつか素通りした史跡があったのだろう。
その南方、田畑の奥に建つ寺が欽明天皇の別宮跡で、聖徳太子生誕地として有名な佛頭山橘寺。聖徳太子創建七ヶ寺の一つでもある。

推古天皇14年(606)7月、太子は勅命により、ここで一切経の中の勝鬘(しょうもん)経を三日間、講読したが、その時、天から庭に蓮華の花が降り、南の山に千仏が光り輝いて出現し、太子の冠に日・月・星の光が点滅したという。その太子の冠に光を照射した三光石や蓮華塚が寺の庭に残っている。

創建当時は66もの堂塔を擁す大寺だったが、落雷や戦火で何度も焼失し、現在は藩政期に再建された太子殿その他の小堂が見られるのみ。
本尊は太子座像だが、如意輪観音像の人気も高い。
ここの五重塔跡塔心礎石は変わっていて、礎石の掘り込みの形が橘の花弁。他にも講堂礎石や飛鳥特有の異形の石像・二面石もある。二つの顔が背中合わせになった高さ1mほどの像で、人間の善悪を表現したものだとか、男女合体の道祖神だとも言われる。

寺は東門から出て、飛鳥川に沿う周遊歩道を歩き、川を遡る。道から岡寺の三重塔が見えているが、岡寺の参拝は後日、別のハイキング時にする。
川は玉藻橋で渡るが、今の地図を見ると、手前の橋袂に祝戸展望台がある。写真は撮っていないが、当時これがあったか否かは不明。
橋の先にあるのが、最も観光客が多い石舞台古墳。墳丘の盛土が流失した一辺50mの方墳だが、石室の規模は日本最大級で、全長19m、玄室の長さ7.5m、幅3.5m、高さ4.7m、総重量は2,000トンに及ぶ。
蘇我馬子の墓ではないかと言われてきたが、石棺がないため、神殿説もある。

石舞台から先のルートも記憶が定かではないが、周遊歩道ではなく、西方の派出所や南都銀行のあるバス道を北上したのではないかと思う。
天理教岡大教会を右手に過ぎるとほどなく、酒船石の道標が現れる。この石も巨大な摩訶不思議な花崗岩の石造物で、全長5.5m、幅2.3m、高さ1m。上面には円と直線からなる幾何学図形の溝が掘られている。かつては古代の酒造施設跡説や薬の調合台説、生贄台説、天体観測・暦説等々があったが、現在では付近の複数箇所から古代の導水・湧水施設跡遺構が発見されたことにより、古代庭園遺構説が有力視されている。

北上を再開し、T字路を右折するといよいよ、周辺が祭り気分で高揚して賑わっている飛鳥坐神社である。平素は閑散とした観がある神社だが、元々式内社で社格は高い。創祀時期は詳らかではないが、天長6年(829)、神託により、高市郡賀美郷甘南備山から現在の鳥形山に遷座されたことが「日本紀略」にある。
藩政期は高取藩主により庇護され、末社80社を数えた。現在でも48社が現存する。
境内には大小多数の陰陽石が祀られており、子授けの神として信仰が厚い。

御田祭は、天狗、お多福、翁の面を被った者が神楽殿で行う神事で、最初は農耕の所作をする。それが終わると天狗とお多福が夫婦和合の様を行い、翁が囃し立てる。昭和の半ば頃まではお多福は当然、地元の女性が演じていたが、昭和後期以降は恥ずかしさから、男性が演じている。
和合の所作が終わると、お多福が「福の紙」を股間にあて、精液を拭き取る仕草をする。その紙を持ち帰った女性は子宝に恵まれるという。神事の詳細は→http://ameblo.jp/kochi-romp/entry-10687610116.html
余談だが、現代でも沖縄の島の中には、「所作」ではなく、実際に和合を行う神事があるという。

神事が終わり、境内の陰陽石等の見学も終えると来た道を少し引き返し、日本最古の仏像「飛鳥大仏」で知られる飛鳥寺(鳥形山安居院[あんごいん])に寄る。
6世紀、百済から伝来した仏教の受容を巡って政争が起こり、蘇我氏が勝利する。蘇我馬子は甥の崇峻天皇が即位すると我が国初の本格的寺院の造営を発願、推古天皇4年(596)に完成した。法興寺、またの名を飛鳥寺と言った。10年後には聖徳太子の命により、本尊となる銅仏が製作される。それが銅造釈迦如来坐像、通称:飛鳥大仏である。
都が平城京に遷都されると養老2年(718)、法興寺もその機能は移転され、元興寺と改称された。が、元の場所の堂宇はそのまま残され、本元興寺と呼ばれるようになった。

現存する寺の仏像としては他に藤原時代の木造阿弥陀如来坐像、室町時代の弘法大師坐像と聖徳太子孝養像等がある。太子像は、16歳時、用明天皇の病気回復の祈願を行っている姿だという。
私が本堂に上がった時は、飛鳥大仏の前で住職らしき方が参拝客に説法を行っていた。大仏の写真を撮りたかったが、ここでフラッシュを焚くと皆、一斉にこちらを見て、眉をひそめそうな気がしたので、涙をのみ、絵葉書を買って我慢することにした。今なら少しは心臓に毛も生えているので、そのようなことは気にしないのだが。

境内を西に抜けた先には、皇極天皇4年(645)、中大兄皇子や中臣鎌足によって飛鳥板蓋宮で暗殺された蘇我入鹿の首塚がある。暗殺の際、刎ねられた入鹿の首がここまで飛んできたとも、首が鎌足を追いかけてきたからここに供養塔を建てたとも言われているが、塚の五輪塔は鎌倉時代のものと言われている。
尚、この辺りは中大兄皇子が蹴鞠の会を催していた地でもある。

首塚からは西の道に出て北に折れ、東西に走る道路に出ると西に折れる。
道路が右にカーブする、その右手に飛鳥水落遺跡がある。日本書紀に記されている、斉明天皇6年(660年)5月、中大兄皇子が製作した日本初の水時計(漏刻台)跡に比定されているのである。
基壇は一辺22.5m。四囲には貼石を施した溝が巡り、基壇上には二層の建物が建ち、地下には樋や銅管が埋設されていたという。

コースは道路の右カーブが終わると、甘樫橋で飛鳥川を渡る。目の前に広がるのが万葉集にも詠まれた甘樫丘(147.7m)。ここは蘇我蝦夷・入鹿父子の屋敷跡であり、允恭天皇が415年、氏姓の乱れを正すため、盟神探湯(くがたち)の儀式を行った場所でもある。「氏」は血縁を中心に構成された集団で、「姓」(かばね)とは、臣、君、連等、家柄や職能を示す称号。煮えたぎる湯の中に腕を浸けさせると、氏姓に偽りのある者は火傷をする、という荒唐無稽で理不尽な検査法である。

丘の頂上には展望台が設置され、飛鳥の里を一望できる。大和三山から二上山、三輪山も遠望できる。
ここから駅に帰るまでもいくつか史跡はあるが、もう夕刻故、バス道を橿原神宮前駅へと向かった。

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シャツ アンダーウェア ダウン・化繊綿ウェア ロングパンツ 靴下 レインウェア
登山靴 バックパック 水筒・テルモス ヘッドランプ 帽子 グローブ
地図 コンパス ノート・筆記用具 腕時計 カメラ 非常食

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