行程・コース
天候
晴れのち曇り
登山口へのアクセス
バス
その他:
近鉄大阪線桜井駅から奈良交通バス・多武峰方面行に乗車し、多武峰バス停降車。
この登山記録の行程
多武峰バス停(5分)談山神社(40分弱)御破裂山(30分弱)談山神社(1時間40分ほど)岡寺(15分ほど)板蓋宮跡(17分ほど)石神遺跡(40分ほど)橿原神宮前駅
※当時のコース図等は廃棄しているため、コースタイムやコースは、実際とは異なる部分があるかも知れない。
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
藤原鎌足の霊廟を擁す多武峰(とうのみね)は、談山神社周辺の地を指し、社殿や塔の朱と、約3,000本の楓の紅葉の紅が相まって県下屈指の名所として名高い。が、今の新緑の季節にも朱色はよく映え、年中県内外の観光ツアー客が訪れている。
神社背後の談山(かたらいやま・566m)は、鎌足と中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺のクーデターの談合 (謀議)場所として知られており、その尾根の最高所・御破裂山(ごはれつやま・607.7m)には鎌足の墓所(一説には子の不比等の墓とも)があるが、近年(かなり前かも知れないが)、御破裂山北側に展望台が設置され、当方が登った時と比べ、登山者の数は倍増している。
御破裂・談山下山後は飛鳥の里へ向かうが、この2日前の飛鳥の史跡ハイキング時、時間的都合で寄ることができなかった、西国観音霊場第七番札所・岡寺に寄る。冬期は拝観できない寺の本尊である弘法大師作の如意輪観音坐像は、塑像としては日本最大。
他にも寺域には岩窟の中に石像を安置した奥の院や龍を封じ込めたという池があり、見所も多い。
[コース]
当日はハイキングする前、まず近鉄大阪線長谷寺駅で下車し、長谷寺に参拝後、門前町で米粒が残った見た目がどぶろくのような酒(小瓶)を買ってデイパックに入れ、桜井駅に移動後、バスで多武峰へと向かった。
多武峰バス停から屋形橋を渡り、緩やかな上り坂を上って行き、東大門をくぐって社域に入る。
ほどなく左手に重文指定の鎌倉時代後期作の摩尼輪塔(まにりんとう)が現れる。笠をかぶった八角柱の石塔で梵字が刻まれている。町石と兼用になっているようである。
神社へと上がる石段はすぐ先。
オフシーズンとは言え、名所故、それなりの観光客はいる。
正面には三間社春日造で極彩色の本殿、両側には宝庫、西側には観光パンフレット等に必ず掲載される、高さ13mの朱塗りの十三重塔が聳えている。
神社縁起によると、天智天皇8年(669)10月、鎌足が死去すると次男の藤原不比等は、摂津の阿威山に埋葬した。が、長男・定慧(じょうえ)が唐から帰国すると、二人は協議し、多武峰に改葬、唐の宝池院の塔婆を模して十三重塔を建立、妙楽寺を創建した。
大宝元年(701)には塔の東に聖霊院を建て、鎌足の木像を安置した。この聖霊院の後身が現在の談山神社である。
更に延長4年(926)には惣社が創立されると、談山権現の勅号が下賜され、神仏習合の形態を取って行く。
鎌足の木像が背後の山、御破裂山の山名の由来であることは広く知られている。「大織冠神像破裂記」によると、昌泰元年(898)2月7日、突然、御破裂山が鳴動し、鎌足の木像の首が破裂したという。この現象は慶長12年(1607)まで続き、その回数は35回を数えた。国家に大事がある予兆だと言われている。
御破裂山山頂には鎌足の墓所があるため、十三重塔西方から参拝道が続いているが、当日、この道を登る者は皆無だった。
コース途中の分岐東方に談山があるが、まず最高所の御破裂山を目指した。所々石段のある道である。
談山分岐を過ぎると、展望が開ける箇所があり、音羽山や経塚山、熊ケ岳方面を望むことができる。
御破裂山山頂下方には石段と鳥居がある。山頂の墓所からの展望はなく、写真も撮っていない。現在の三角点からの展望については分からないが。
後年、設置された北の展望台からは大和三山をはじめとした眺望が開けているという。
下山は元来た道を引き返し、談山に寄る。その山頂も「御相談所」の碑が建つのみで展望はない。現在はベンチや案内板が新設されている模様。
また、今は談山神社から談山や御破裂山に登る際は、入山料を支払わないといけないようになっているかも知れない。
道路まで下りて来ると西に進む。
城の虎口のように両側に石垣がある所を抜けた箇所が西大門跡。その西方が「西口分岐」。私が歩いた当時はここから、そのまま道なりに西に進むコースが主流だったが、現在は細川山、藤本山、岡寺山へと続く尾根コースが整備されており、多武峰と飛鳥を結ぶハイキングの流れが変わっている。
当コースは車道の区間が多いものの、前回の投稿で触れた、刎ねた蘇我入鹿の首に藤原鎌足が追いかけられて逃げたコースであり、途中にその伝承を示す遺物もあるため、伝説好きの方に取ってはいいだろう。
西口分岐から歩道だったのか、もう少し先からだったのかは忘れたが、最初は下り勾配の舗装道になっている。
自然の歩道になると岩盤が露出した道になり、雑木や竹林の中を下って行く。
再び車道になり、ほどなく行った所に鎌足ゆかりの式内社・気都倭既(けつわけ)神社がある。ここの社叢を「茂古(もうこん)の森」と言うが、刎ねた入鹿の首に追いかけられた鎌足は飛鳥板蓋宮からここまで逃げて来て、「ここまで来たら、もう追いかけて来んだろう、もう来んだろう。」と言ったという故事から「もうこんの森」と名付けられたのである。
そう言って鎌足が安堵して腰掛けた石が「鎌足公腰掛け石」として、境内の道路寄りに残っている。
道中には常夜燈や道しるべ、石仏等があるが、この道は飛鳥と多武峰を結ぶ細川郷の細川道で、主要往還だった。
このハイキングコースは石舞台古墳へと続いているが、古墳の東方から北に折れ、尾根を乗り越えて岡寺に到る道がある。多分、狭い道路だったのではないかと思う。
寺は正式名を「東光山真珠院竜蓋寺」と言い、大宝3年(703)に義淵(ぎえん)僧正が勅願により創建した。正式寺名は義淵僧正の龍退治に由来する。飛鳥の地を荒らし、村人らを苦しめていた龍を、義淵僧正がその法力をもって寺境内の池の中に封じ込め、大きな石で『蓋』をし、改心をさせたという故事である。
その池は『龍蓋池』として残っており、蓋である要石を触ると雨が降るという言い伝えがある。
寺の本尊は弘法大師作の日本最大塑像(土で造った像)である如意輪観音座像で、高さは約4.9m。しかし冬期は非公開なので、拝観できなかった。
他の見所としては、境内の高い所にある岩窟に造られた奥の院が挙げられるが、その参道の中ほどには「大和名所図会」にも描かれた弘法大師ゆかりの瑠璃井があり、現在も井戸は清らかな水を湛えている。
奥の院は這って入るほどの大きさの、岩盤に掘られた岩窟で、奥には石造の弥勒菩薩座像を安置している。その像は見た目には比較的新しい。
昭和61年に再建された三重塔は、私が訪れた時分には内部は非公開だったが、現在は扉絵や壁画が描かれており、毎年10月第3日曜日の開山忌に公開されている。
寺を出る頃には夕刻となり、他の史跡を見て回る時間は殆どなかったが、兎に角南西へ道路を下り、明日香村中心部に出て、北に折れる。その角辺りに南都銀行明日香支店(現在、移転している)があったと思うが、町並み景観に配慮して、門とATMコーナーが山門風の造りになっている。
岡寺駅へと伸びる道路との分岐に来るとその道路に左折し、最初の十字路(だったと思うが、北側に郵便局がある)を北に折れる。
住宅街を抜けた先にあるのが、中大兄皇子と鎌足が蘇我入鹿を暗殺した飛鳥板蓋宮跡であり、貼石の溝や大井戸を巡る敷石等の遺構を見学できる。
板蓋宮は舒明天皇が崩御した翌年の皇極天皇元年(642)、宝女王(皇極天皇)が9~12月までの間に造営するよう、命じた宮で、農繁期の農民たちにとっては恨めしい作業となった。が、当然、三、四ヶ月で宮が完成するはずはなく、結局、宝女王が宮入りしたのは翌年4月だった。
「板蓋(いたぶき)」とは、屋根が瓦葺きではなく板葺きだったことから名付けられたものだが、現在、この跡地は「飛鳥宮跡」と呼称されるようになっている。それは舒明帝の飛鳥岡本宮跡と板蓋宮跡、天武・持統帝の飛鳥浄御原宮、斉明・天智帝の後飛鳥岡本宮跡の遺構がそれぞれ重なり合っているからである。
それらの遺構の内、最も様相が明確なのが板蓋宮跡で、内裏があった内郭、大極殿(だいごくでん)のエビノコ郭、官衙の外郭等が検知されている。その大極殿で入鹿は暗殺されたことになっているが、当時、宮殿施設に大極殿のような施設は存在せず、「日本書紀」等に記されている内容は後世の誤った知見によるものだと言われている。実際の暗殺現場は天皇の起居空間である大殿だろう。
板蓋宮跡からはハイキングコースが北西の南北に走る道路に出ている。その道路からのコースも記憶が明瞭ではないのだが、やや北に歩いてから西に折れる道に入り、飛鳥川に到った可能性がある。その岸にある弥勒石に寄った。仏の形をした高さ約2.5mの石で、仏堂型覆屋が建てられており、下の病気にご利益があるとされているが、本来、この石は石仏ではなく、飛鳥川の堰の一つ、木葉堰の構造物である石柱だったとされている。
後世、堰が不要になり、石柱の一つを仏像に加工したものと思われる。
そこからは少し引き返し(この辺りのコースも明確には覚えていないが)、北に折れ、ほどなくの分岐で飛鳥川の支流沿いを北上する狭い道に入る。
バス道を横断し、前回の投稿で解説した水落遺跡の東側を北上して行くと、石神遺跡がある。この遺跡からは明治35~36年にかけて、古代庭園の噴水施設遺物である須弥山石と石人像が出土した。この出土物は日本書紀に記述がある斉明天皇時代の饗宴施設の石造物と見なされている。
そこからはそのまま直進し、十字路に出ると西に折れる。
前方、道路の北側に小丘が見えているが、これを雷丘(いかづちのおか)という。雄略天皇時代(5世紀末)、天皇の命で廷臣の少子部栖軽(ちいさこべのすがる)が、空で暴れる雷を捕らえにいくことになった。栖軽は鉾を手に空に向かって呼びかけると、小丘に異形の生物が落ちてきた。栖軽は直ちに捕らえて天皇に差し出したが、天皇はその不気味さに恐れをなし、放してやった。
その後、栖軽が急死したので、天皇は丘に墓を造り、記念碑柱を建立した。ところがまたもその碑柱に異形の雷が落ち、裂け目にはまって動けなくなった。それを聞いた天皇は雷を気の毒に思い、また逃がしてやった。それ以来、この丘を雷丘と呼ぶようになったという。
この「雷」の姿形については伝わっていないが、岩手県花巻市にある雄山寺には、「雷神」という体長約60cmの正体不明の生物のミイラが保管されている。雷丘の生物がこのミイラと同じ種かどうかは確認する術がないが、謎多き古代史、それが「飛鳥」である。
Ps:次回投稿予定の「近畿の山」の登山記録では、禁足地として一般の者が登ることが許されないスーパー低山に登った後、奈良時代の「仏教ピラミッド」等を巡る独特なコースを紹介する予定。
フォトギャラリー:16枚
装備・携行品
シャツ | アンダーウェア | ダウン・化繊綿ウェア | ロングパンツ | 靴下 | レインウェア |
バックパック | 水筒・テルモス | ヘッドランプ | 帽子 | グローブ | 地図 |
コンパス | ノート・筆記用具 | 腕時計 | カメラ | 非常食 |
みんなのコメント