行程・コース
天候
晴れ
登山口へのアクセス
マイカー
その他:
高知市神田本村のファミリーマート高知神田店南東の信号交差点を東に折れ、土佐ぽかぽか温泉南東の信号交差点を右折。すぐ先の三叉路は南に折れる。
右手に「デイサービス・パートナーズ」を過ぎて最初の右折道に折れ、突き当たりの分岐は南に折れてすぐまた西に進み、えぼし団地災害避難所に駐車したが、地権者に駐車禁止である旨、告げられた。但し、今回は特別に駐車を許された。
他の駐車可能場所は記録本文に記述。
この登山記録の行程
えぼし団地災害避難所(4分)和霊神社(13分)石積み堰横の四差路(17分)石土教奥の院(7分)高知青少年ふれあい広場分岐(11分)展望台(14分)烏帽子山・白土峠上り口(25分)柏尾山城跡堀切(40分)烏帽子山(18分)吉野分岐四差路(8分)宇津野分岐(22分)宇津野山(20分)皿ケ峰分岐(13分)吉野越十字路(6分)春野広域農道(9分)吉野川の飛び石(11分)加尾の庭前(12分)高座古墳(11分) えぼし団地災害避難所
//合計タイム4時間21分
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
[マイナールート回遊で龍馬と乙女姉弟の伝承地を巡る]
高知市街地は北と南を、それぞれ東西に走るスーパー低山群山脈に挟まれているが、南の方を「南嶺」と呼ぶ。西から柏尾山(323m)、烏帽子山(358.7m)、鷲尾山(306m)、宇津野山(256.3m)と続き、宇津野峠を経て浦戸湾へと下りている。
典型的な里山だが、昭和42年、烏帽子山から宇津野山周辺山域の約15.8㎢が「鷲尾山県立自然公園」に指定された。
植生ではヤマモモや椎、カシ、孟宗竹等があり、所々大木や可憐な小花も見られる。
この南嶺とその北麓には坂本龍馬と姉の乙女の伝承が複数ある。南嶺では、烏帽子山西の白土峠と東の鷲尾山で、乙女が拳銃をストレス解消に撃っていた、ということが坂本家に代々伝わっており、また、大正時代に刊行された「維新土佐勤皇史」にも記載されている。
烏帽子山の北方の登山道沿いにある和霊神社は龍馬の先祖が宝暦12年(1762)、勧請した社で、龍馬は脱藩の前日、ここに参って祈願している。
その和霊神社へ参る日、龍馬は酒を持って「吉野の桜」に花見に行っているが、最近、その桜が一本だけ現存していることが分かった。
更にその西方には、龍馬の初恋の人と言われている平井加尾(かお)が明治の一時期、居住していた屋敷跡があり、近年、その跡地に料亭「加尾の庭」が建てられ、当時の庭園を見物しながら食事できるようになった(予約制)。
また、南嶺は戦争末期、四国防衛軍の絶対防衛ラインに設定されており、本コースでも複数の塹壕や砲台跡を見ることができる。
[コース設定と駐車場所]
コースとしては和霊神社から白土峠に登り、柏尾山を往復した後、烏帽子山に登り、鷲尾山まで縦走してから宇津野山を往復し、吉野川に下り、「吉野の桜」、加尾の庭を通り、起点に戻るという半回遊コース。このコースは、街中に残る歩道を歩く「まち歩き」を楽しむこともできる、当方の独自設定コースである。
尚、コースの作図は大成園背後の丘陵の展望台を入れるのを忘れてしまった。当サイトの地図は部分修正ができないため、そのままにしている。
駐車場所についてだが、麓のコース近辺で駐車できる所は、復路の吉野川の飛び石箇所の上流、車道終点の鷲尾山ハイキングコースの案内図板が建っている箇所しかない。そこを起点とした場合は、先に麓の吉野の桜や加尾の庭等を巡った後、和霊神社から白土峠に登ることになる。
公共交通機関利用時は、起点の最寄りのバス停は「神田本村」。そこから和霊神社上り口までは前項のマイカーでのアクセスの道路を進んでもいいし、バス停南の五差路を東に折れて少し歩くと、次々と和霊神社の道標が現れるので、そのコースを辿っても良い。そのコースについては、高知市観光課等に照会すれば良い。
[コースガイド]
今回、特別に駐車させて貰ったえぼし団地災害避難所は、かなり広いので、市が地権者から三台分位借りて、和霊神社に参る龍馬ファンの利便性を良くしてあげればいいと思うが。
神社上り口には鳥居と龍馬の逸話を記した案内板が建っているからすぐ分かる。但し、その記された逸話の一部には誤りがある。それには、龍馬は神社に参った際、水谷山(才谷山)の桜を見に来た旨、記されているが、本当の伝承は「吉野の桜」である。水谷山も字は吉野だが、それならば「水谷山の桜を龍馬が見に来た」という伝承になっているはずである。しかし飽くまで伝承は「吉野の桜」。昭和10年まで、吉野川沿いにあった桜並木のことである。
また、龍馬が神社参拝と花見をしたのは脱藩当日だと言う者もいるが、命を懸けて先を急ぐ時に脱藩ルートとは逆方向の吉野に行くはずがない。龍馬記念館も脱藩前日説を採っている。
和霊神社には石段を上ること数分で到着する。拝殿と本殿が一緒になった茶堂風社だが、毎年、全国から龍馬ファンが訪れており、3月24日の脱藩日には脱藩祭も開催され、市長等も参加している。ただ、龍馬が脱藩したのは旧暦の文久2年3月24日であり、新暦では4月22日にあたる。
神社を後にして、石垣沿いを進むとY字路に到る。一見すると左に上がる道が烏帽子山へ至る道のように思えるが、ここは右の道に下った方が良い。
道は植林の中、北西から南西へと進んで行き、高神川の砂防ダム側の三叉路に出る。このやや下方に車道が通っているが、それは私道なので一般車両の通行はできない。
三叉路からは当然、川沿いを遡るが、左手の砂防指定地境界標柱の先がまた三叉路になっている。ここは薄い踏み跡である左側の道に入り、再び樹林の中を進む。この踏み跡は高神川の右岸(東岸)を一直線に上っているが、一般のハイカーはまず辿らないコースである。
しばらく薄暗い植林帯を上がると石積みの堰側の四差路に出る。多分、東の道が和霊神社に繋がっていたはずである。
森林基本図をよく見てなかったせいで、ここは道なりに直進してしまったが、西に折れる道が白土峠の道に繋がっている可能性がある。
この直進道と、地形図に記されている白土峠の道は近接して並行しているため、2万5千図程度の縮尺の地図では見分けがつきにくく、国土地理院の作図者も2本は記載せず、歴史のある白土峠の道のみを描いたのだろう。
岩石群の箇所を過ぎると右下に池が見える。山中に現れる池はどことなく神秘的。
そこを過ぎて樹林帯を抜けると車道になり、東側には広大な造成された削平地が広がっている。
道は右カーブを描き、向きを西に変えるが、ほどなくの分岐で南東に折れる歩道に入る。ここで白土峠の道と合流する。龍馬の姉・乙女が歩いた道なのだが、乙女は土佐勤王党党首の武市瑞山(半平太)の妻・富子と親友で、二人して歩いたこともあったようである。
この道は藩の役人が書簡等を送るのに利用されていた往還で、定期的に麓の村人に道の整備が義務付けられていた。
再び車道になると、左手奥に石土教奥の院の鳥居が見える。地形図にも神社マークが記載されている小ピークに、社務所のような建物と祠のような小社があるが、展望はない。トイレはあるが、女性なら、この後に通る福祉牧場・大成(おおなろ)園のトイレで用を足すといいだろう。
南下を再開するとすぐ高知青少年ふれあい広場分岐があり、案内板が建っている。ここから寄り道をして、215mピーク北の220mピークに建つ展望台に登ってみる。市街地の好展望が広がっている可能性が高いからである。
その西に折れる道に入り、右手に鉄塔巡視路、左下にトイレ、右手にアスレチックの案内板を過ぎるとY字路に達するが、ここは当然、前方右上の道を進む。
215mピークと220mピークとのコルの分岐に到ると舗装が途切れるが、ここは北東に折り返す尾根道を登る。
道中、あちこちにツツジが咲いているが、こんな市街地の裏山にツツジの群生があるとは意外。
頂上の展望台にはすぐ着く。展望は期待以上で、高知市街地を一望できる。この後、登る一等三角点峰の烏帽子山も間近に見える。
展望を楽しむと東側の尾根道を下りるが、こちらの道沿いにもツツジが群生している。こんな展望や花の美しい丘陵に人っ子一人いないとは解せないが、今が昼時だからかも知れない。
進路が南から西向きに変わった地点の南側に鉄塔があるので、遊歩道と分かれて鉄塔巡視路に左折し、元来た舗装道に下りた。
案内板の建つ三叉路まで戻ると南下をまた始めるが、すぐ先にコース中、一番きれいな(と思う)トイレがあるので、用をたすと良い。
トイレの南にはふれあい小牧場がある。’90年代に訪れた時は山羊やクジャク等がいたが、今はガランとしている。
その南の建物では以前、アイスクリームや牛乳その他の乳製品を販売していたが、これもやめているようである。アイスを食べながら休止したかったのだが。
連続する三叉路と四差路を直進して「テレビ高知」のテレビ塔管理車道に入ると、ほどなくして歩道が左に分岐する。道標は立ってないが、これが白土峠の峠道兼烏帽子山登山道である。
樹林帯に入ると左右、二手に赤テープがついているが、西側の谷沿いを回りこむ道が白土峠の峠道。
谷からその西の尾根沿いを登るようになると、道が堀切状になっている。車社会が到来するまで、何百年と、何十万もの人々が行き交っていたため、踏圧で地面が抉れているのである。戦時中は兵隊も歩いていた。
少し登ると道はテレビ塔管理車道のヘアピンカーブ部をかすめて、車道の東沿いを並行するようになるが、ここから峠までの区間は、昭和40年代、テレビ塔車道の工事によって削られて消滅しているのである。
柏尾山へは一旦車道に出て、切通し部から西の尾根に入るが、その切通し部が白土峠跡である。昭和半ば頃までは、峠に榎の大木があり、目印になっていたという。
峠から春野町側に下る道は’90年代半ば、歩いたのだが、車道から見下ろす限りでは、道の痕跡は全くなく、藪に覆われている。
峠跡から柏尾山までの尾根は近年、様変わりした。いくつもの地デジテレビ塔や携帯電話の電波塔等が林立し、「電波塔銀座」たる観さえある。電波塔管理車道も柏尾山までの中間地点辺りの稜線まで延びている。但し、その車道は、一般車の通行はできない。
それでも尾根道は藪化することなく、残っている。起伏も比較的少ない。
柏尾山の少々手前には月石という立方体の大石がある。古文献には月の形に似ているから名付けられた旨、記されているようだが、一体、これのどこが月なのか、よく分からない。
この月石は展望岩となっており、大成園上の展望台より、はるかに優れた市街地の眺望を得ることができる。
現在、この石を柏尾山の「仮の山頂」とせざるを得ない。それは’99年か’00年頃、地権者である関西砕石社が山頂周囲に有刺鉄線を張り巡らせ、立入禁止にしたからである。それまで、柏尾山頂は高知市街地を望む一番の展望所だった。登山口の一つが拙宅から車で数分の所にあることもあり、’90年代、全ての登山道を調べて登った。
立入禁止措置が取られて以降、山頂は藪化が進行し、現在では例え中に入れたとしても、藪漕ぎすら困難なジャングル状態になっている。そんなこともあり、私は春野町が高知市と合併する前、春野町の広報紙にこの柏尾山のことを書いたのである。
有刺鉄線下には南北朝時代の柏尾山城跡の堀切が残っている。
堀切を確認すると白土峠跡まで引き返し、テレビ塔車道を少し上り、登り易い所から尾根に上がり、烏帽子山登山道に入る。車道沿いの崖状の際を尾根道が走っている。植林が長い年月を経て、尾根道に木の根状になっている箇所も所々見られる。
更に登って行くと右手の斜面に陸軍が掘った塹壕が現れる。複数の塹壕が連結する交通壕だが、経年で内部に土砂が溜まり、浅くなっている。
烏帽子山直下にテレビ高知のテレビ塔があるが、戦時中、そこには海軍第23突撃隊所轄の烏帽子山見張所があり、土佐湾や上空を監視していた。23突については、これまで何度か触れたと思うが、回天、震洋、魚雷艇隊等からなる特攻部隊で、司令本部は須崎市箕越にあった。高知市内では浦戸に回天基地、御畳瀬に震洋基地、浦戸の対岸の種崎に呉海軍工廠高知分工場があった。浦戸には当時の浦戸隊本部宿舎や回天搭乗員宿舎、御畳瀬には震洋格納壕等が残っている。
テレビ塔のすぐ上が烏帽子山頂で、石鎚山遥拝所の一つでもある。石土神社の左奥に一等三角点標石が埋設されている。
近年、山頂東の春野町側の木々が伐採された模様で、南方の土佐湾側の展望がある程度開けている。
ここから鷲尾山までの稜線は、特に潮風が心地良い。5年前の8月中旬、ニュース番組のコメンテーターの紹介で、日刊スポーツの記者を烏帽子山から鷲尾山まで案内した時も、記者は「まるで自然のクーラーのよう」と語っていた。普通の標高300m台の山ではあり得ないことである。
緩やかだった尾根道が、急な下り坂になる手前辺りだったと思うが、右手地面に直径1m少々の円形の窪みが現れる。これは周囲の状況(地形や周辺の塹壕の造り具合等)からみると、歩哨用蛸壺壕跡だと思われる。蛸壺壕とは、一人用の竪穴陣地のこと。つまり、米軍が上陸することを想定し、備えた見張である。この先には、尾根を横断した塹壕も微かに残っている。どちらも土や枯葉が堆積しているため、戦跡の知識がない者は気を付けて見ないと分からない。
烏帽子山と鷲尾山とのコルは十字路になっており、三方向の道標が立っている。北に下る道が、坂本乙女が登った道だと思われる。そしてここから鷲尾山までも確実に乙女は何回も歩いている。「維新土佐勤皇史」によると、乙女はよく夜に登山して、鷲尾山で拳銃を撃っていたそうである。日中に発砲すると、役人に通報され兼ねないからだろう。
鷲尾山頂は高知市一の絶景である。昔は360度の展望を誇っていたようだが、現在でも土佐湾側に180度以上、開けており、前述の記者も「高知市にこんな素晴らしい所があるとは」と感嘆の声を上げていた。
山頂の西寄りにある円形の浅い穴は、陸軍の小型高射砲台跡。昭和30年代半ば頃までは側にトーチカもあったようだが、ここは対空監視哨跡である。
鷲尾山は柏尾山同様、最も登山回数が多い山なので、見慣れた景色に足を止めることなく、宇津野山方向へと進んで行く。
東方の尾根の分岐地点には道標がないが、コースは北に下る方。東の道は送電鉄塔巡視路である。
少し下った所のY字路では、「宇津野」方面の道標に従い、右折する。
宇津野山は二つのピークからなる山で、西側の258mピークには送電鉄塔が建っている。昭和50年頃までは好展望だったようだが、現在、樹林に囲まれて何も見えない。
そこから三角点の設置された東のピークはすぐだが、尾根道に三角点が埋設されており、周囲が特に広くなっている訳ではないので、あまり山頂の風情も展望もない。
公共交通機関をアプローチに利用し、龍馬関連史跡に興味がない方は更に東の宇津野峠まで行き、孕西町へ下ると良い。峠の手前には簡易展望所があり、浦戸湾の景色が広がっている。
尚、宇津野峠の峠道は、地形図には横浜側のみの道しか描かれていない。宇津野峠は長宗我部元親公が初陣で越えた峠である。
マイカー利用者は宇津野山から引き返して、前述の宇津野の道標のあるY字路と245mピークとの中間にある三叉路まで戻り、北西方向へ下る。その分岐には筆山・皿ケ峰方向の道標が出ていたかも知れない。
トラバース気味に進んでいた道は分岐で尾根に乗り、「吉野」の道標が立つ、十字路の吉野越まで下る。そこは吉野方向の西へ下る。
陰気な道だが、前方が明るくなると春野広域農道(産業道路)に出る。ここからのコースは一般のハイカーが辿らない道なので道標はないが、少し西に進むと、ガードレールが途切れた箇所があり、ゴミの投棄を注意する看板が立っている。その看板とガードレールの端との間から下る。
踏み跡は極めて薄いが、下方に見える枯れ木や土、石ころが堆積した涸れ沢のような箇所が峠道である。いかに歩かれてないかが分かる。
さきほどの道にもまして陰気な道だが、やがて堆積物は少なくなり、普通の峠道になる。
樹林を抜け出すと草地の道になり、コンクリート護岸の吉野川に突き当たる。橋はなく、長方形のコンクリートの飛び石が設置されている。ただ、水かさがあり、常に飛び石は水に浸かった状態。但し、増水してない限り、ミドルカット以上のトレッキング・シューズなら普通に渡ることができる。ローカットのシューズでも、若干爪先立ち気味にすれば渡れる。
もし雨後等で水かさが心配であれば、広域農道を鷲尾トンネル方向に進み、鷲尾トンネル北口の鷲尾山登山口の北方から西に下る小径を辿れば良い。この道が前述の車道終点の鷲尾山ハイキングコースの案内図板が建っている箇所に繋がっている。
吉野川沿いの道路を北上して行くと対岸に桜の木がいくつか見られるが、それは戦後、住民が個人的に植えたもの。「吉野の桜」は昭和10年、一斉に伐採された後、松が植えられた。航空機等の燃料として使用していた松根油を抽出するためである。しかし戦後、川岸がコンクリート護岸になる際、全て伐採されている。
そんな中、「吉野の桜」の生き残りが一本でもある、ということは奇跡的なこと。松に植え替えられるまでは両岸に約300本の桜があり、花見の時期は遠方からも大勢花見客が来て、賑わっていたという。
その生き残りの桜は左手の住宅街が一旦途切れた所にある。そこは私道を含んだX字路になっており、東側の私道の突き当たりには小さな神社が建っている。
その桜は、樹高はあまり高くないが、樹皮を見ると古木であることが分かる。「龍馬桜」と名付けては如何だろうか。
X字路はそのまま吉野川沿いを進み、東方山際に吉野神社が見えると、その参道入口の斜め向かいから吉野川を西に渡る歩道に折れる。
両側に家々が建て込んだコンクリート舗装の生活路だが、再び車道になって西進を続けてほどなくすると、左手に「加尾の庭」のランプ看板が現れる。その加尾邸跡の「庭」は戦前、土佐の三名園の一つに数えられた位、有名で、板垣退助や牧野富太郎博士も訪れている。庭園の歴史や加尾のことについての詳細は→http://ameblo.jp/kochi-romp/entry-11484217323.html
尚、庭園の鑑賞はここで食事する者だけが許される。食事の予約は088-855-3221まで。
加尾の庭前を過ぎると再びコンクリート歩道になるが、この辺りの道沿いには庭木や生垣があり、風情がある。
再び車道になって川を渡った所の三叉路は南に折れ、次の三叉路も南に折れ、東西に走る道に突き当たると西に進む。
変形の四差路に来ると西端の道を北上するが、左手に一軒を過ぎた角を西の小径に折れる。するとすぐまたY字路になり、ここは左の道を進む。北側の畑には各種の花が咲いており、南の川側にも自生している花がある。
入山を禁止する看板の所まで来るとT字路になっており、北側には稲毛大明神の鳥居が建っている。
鳥居をくぐり、参道を社殿前まで進み、そこから社殿右から裏に回る小道に入る。左手にすぐ高座古墳が現れる。古墳時代後期(6世紀後半から7世紀前半)の横穴式石室を擁す直径10mの円墳。玄室や羨道の状態は良好のようだが、如何せん、入口に土砂が堆積しているため、奥の状態を確認することはできない。
そこからは田の石垣沿いを通り、東に曲がるとまた車道に出る。
左手に豪家を過ぎた所の三叉路は西に折れる。その次の三叉路はどちらの道でも良いが、左の道を進んだ。
南北に走る道に突き当たると北に折れ、すぐ主要道に出て西に折れる。
進路が北西方向に変わると、ほどなくして和霊神社の道標が現れたはずである。高神川沿いを遡るとすぐえぼし団地災害避難所に帰り着く。
フォトギャラリー:50枚
装備・携行品
シャツ | アンダーウェア | ロングパンツ | 靴下 | レインウェア | 登山靴 |
バックパック | 水筒・テルモス | ヘッドランプ | 帽子 | グローブ | 地図 |
コンパス | ノート・筆記用具 | 腕時計 | カメラ | ナイフ | 行動食 |
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