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全山芝生の若草山と巨大こけし型石仏

若草山(奈良市)( 東海・北陸・近畿)

パーティ: 1人 (マローズ さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 近鉄奈良線終点奈良駅下車

この登山記録の行程

近鉄奈良駅(25分ほど)東大寺大仏殿(27分ほど)奈良市水道高地区配水池(12分ほど)若草山北上り口(30分ほど)若草山鶯陵碑(17分ほど)若草山南入口(13分ほど)仏頭石(12分ほど)春日大社(30分ほど)近鉄奈良駅
※当時のコース図等は廃棄しているため、コースやタイムが一部、実際とは異なる箇所があるかも知れない。

コース

総距離
約10.4km
累積標高差
上り約404m
下り約404m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

奈良市のシンボル山・若草山(341.8m)は毎年の山焼きで知られる芝生山だが、古代は樹林が茂り、三笠山或いは葛尾山とも呼称されていた。山頂には全長107mの前方後円墳・鶯(うぐいす)塚古墳があり、墳丘からは奈良・京都の両盆地を一望できる。
当日は特に若草山登頂を目的としたものではなく、奈良公園周辺の「ぶらり見て歩き」的散策で、東大寺の各堂宇の拝観や吉城川(水谷川)沿いにあるこけし型石仏等を探訪した。
尚、この周辺は以前も述べたように何度も訪れているため、添付写真には撮影時期が異なるものがある。

[コース]
近鉄奈良駅から登大路を東進して行く。
奈良国立博物館の道路を挟んだ北東に氷室神社があるが、「氷室神社縁起」絵巻によると、この神社は元々後述する吉城(水谷)川上流の月日磐側に和銅3年(710)、氷を貯蔵する氷室を護る神として祭られ、毎年、氷は平城宮へ献氷されていた。現在地に移ったのは平安京遷都後の貞観2年(860)で、社殿建立は更に時代が下り、建保5年(1217)のこと。現在でも毎年5月1日、献氷祭が実施されている。
藩政時代末に造替の三間社流造り・桧皮葺の本殿や楼門は県の文化財に指定されている。

神社から吉城川を渡り、東大寺南大門をくぐる。この国宝指定されている巨大な門は鎌倉時代初期に再建されたもので、入母屋造本瓦葺・五間三戸の重層門。内部両側には運慶・快慶らが造立した、勇ましい国宝の木造仁王像が参拝客を見下ろしている。
参道十字路南東角にある本坊は昭和26年に再興された。境内には天平時代の経庫や聖武天皇殿がある。
十字路北西角の真言院は弘法大師ゆかりの寺。

右手に鏡池を過ぎるといよいよ大仏殿入口の中門で、この門は回廊で大仏殿と繋がっている。中門と回廊は宝永5年(1708)の再建。
大仏殿は言わずと知れた世界最大の木造建築物だが、正式には東大寺金堂と言い、宝永6年に再建された。
大仏(盧舎那仏)自体も金堂同様、何度も戦火で焼かれている。それでも、台座の南東と南西の蓮弁数葉は鋳継されながら、天平時代当初のものが使用されている。
大仏脇侍の西側の虚空蔵菩薩は宝暦2年(1752)、東側の如意輪観音像は享保15年(1730)の再興。
かつて四方に睨みをきかせていた巨大な四天王像は二体のみ残る。

大仏殿西の松林の先には戒壇院がある。鑑真和上により造営されたものだが、享保16年(1731)に再建された。多宝塔内には四天王像や各如来が安置されている。
戒壇院北東の勧進所のある地は元々、鎌倉時代、俊乗上人が東大寺再興のため、勧進所を置いた所だが、藩政時代の東大寺再興時も勧進所が設置された。
天皇殿に安置されている僧形八幡神坐像は10月の転害会時に開帳される。

大仏殿の北沿いを東に行くと、道の南側には多くの堂宇が建ち並んでいるが、神禅院前のY字路から前方左に上がる道に興味を覚えたので登ってみた。記憶が定かではないが、下から山腹を見上げた際、削平地が見えたので、展望が開けているのではないかと思ったのかも知れない(記憶違いかも)。
「まんなをし地蔵」の箇所かその先で四差路になっていたのではないかと思うが、そこを北に折れて行った先が前述の削平地である。が、そこにあったのは戦前に造られた奈良市水道高地区配水池で、樹林に覆われ、展望は皆無だった。

四差路まで引き返すと、一旦東に上がって世三所観音まで行ったのか、南西の道を下りて行ったのか、記憶が定かではない。南西に下りると、お水取り行事がよく全国ニュースで取り上げられる二月堂に到る。堂は東大寺二世・実忠和尚が天平勝宝4年(752)に創建したものだが、現在の寛文9年(1669)に再建された建物は当初の堂宇よりはるかに大きい。四方が回り縁の舞台造りで、西側に展望が開けており、東大寺や興福寺等の各伽藍を一望できる。拝観は無料。

前述のお水取り行事とは毎年3月1日から15日まで行われる修二会(しゅにえ)の中の行事のことで、正確には「おたいまつ」行事と「お水取り」行事に分かれる。前者は18時半ないし19時半(日によって異なる)から、10本ほどのたいまつを僧が担いで舞台に上がる。特に12日夜の人出が多く、境内は身動きができないほどごった返す。
後者は13日午前2時頃、二月堂西下の若狭井から一年分の香水(こうずい)を汲む。実忠和尚が二月堂創建の年に初めて修二会を執り行った際、十一面悔過会(けかえ)を厳修時、全国の神名を唱えて勧請すると、若狭国の遠敷(おにゆう)明神だけが遠敷川で釣りをしていたため遅れた。それを他の神に咎められた明神は、遠敷川から水を今から送ると言い、祈念すると二月堂下の大岩が鳴動し、白黒二羽の鵜が現れ、そこから霊水が湧き出たという。それが今の若狭井で、年に一度、この行事の時だけ水が湧き出るという。

二月堂の南には三月堂(法華堂)、その西には四月堂(三昧堂)がある。前者は国宝で、天平時代の寄棟造りの本堂前に鎌倉時代、入母屋造の礼堂が新設されている。本堂の本尊・不空羂索(ふくうけんさく)観音立像、塑像である日光・月光の両菩薩立像、四天王像、梵天・帝釈天像、密迹・金剛力士像も皆、国宝。同じく国宝である本尊背後の厨子内の塑像・執金剛神立像は毎年12月16日の開山忌にのみ開帳される。

後者は「三昧堂」が正式名称で、鎌倉時代のものだが、後世、度々改修されている。法華三昧会を4月に執り行うことから、四月堂と呼ぶようになった。本尊は重文の千手観音立像。
三月堂から南下すればすぐ左手に手向山八幡宮が現れる。ここには東大寺中門から一直線に参道が続いている。手向山(若草山南西斜面の標高260m前後から下の林野名)山麓に鎮座することから、この名称が付いているが、元々大仏殿の守護神として、大仏殿の側に天平勝宝元年(749)12月、宇佐から勧請されて創建された。治承4年(1180)、平重衡による兵火で焼失後、源頼朝が東大寺を再建する際、現在地に遷して再建されている(今日の文献では、建長2年[1250]、北条時頼によって遷座されたとするものあり)。

本殿は入母屋造檜皮葺で、三間社を三つ接続して合の間を設けているが、当時、その写真は撮らず、楼門側の宝庫と経庫の写真を撮っている。これは正倉院のような校倉だったからだろう。
毎年10月5日の八幡神を宇佐から迎える神幸を再現する碾磑会(転害会:てがいえ)では、東大寺の佐保路門が御旅所になっていたことから、その門を転害門と呼ぶようになった。

余談だが、明治28年10月26日、正岡子規は松山から東京へ向かう途次、東大寺に立ち寄り、転害門隣の宿・對山楼に宿泊し、有名な句の着想を得た。「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」。そう、この「柿」とは、對山楼(跡地は料亭に)で所望した御所柿のことで、鳴った鐘とは、東大寺鐘楼に吊られていた鐘だったのである。
28日、子規は法隆寺を訪れたが、子規の自筆俳句集「寒山落木」巻四では、ここの茶店で前述の句を詠んだことになっている。
私も奈良公園で句を詠んでみた。「柿食えば 柿がなくなり 法隆寺」「柿食えば 梨も食えよと 法隆寺」。前者の句はこの世の全てのモノは、いつかは消え去る運命の無常のものである、ということを詠んだもので、後者は法隆寺のおもてなし(梨にかけている訳ではない)の心を表したものである・・・・?

八幡宮を過ぎると土産物屋等が建ち並ぶ通りになるが、この途中から若草山登山道は始まる。但し、当時のコース図等は廃棄しているため、具体的な往路・復路は思い出せない。現在、ネットで見ると入口専用と出口専用ゲートがあり、入山料を徴収しているようだが、それらについても全く記憶にない。地元の園児が遠足で来ていたから、てっきり無料だと思っていた。因みに中国・四国地方の県庁所在地近くにある好展望のスーパー低山では、入山料を取るケースは殆どない。

北の入口専用ゲートからのコースは手向山を通って尾根に乗り、標高260前後で出口専用ゲートに続く道と合流し、そのまま尾根を登って山頂へと到る。全山芝生故、遮るものは何もなく、市街地の胸のすく展望が終始広がる。かなり上方にも鹿がいるため、弁当を広げているハイカーや行楽客にちょっかいを出すこともある。

山頂の鶯塚古墳は羨道入口が開口している訳ではなく、見た目にも前方後円墳の形状が分かり辛いため、言われないと分からない点もあるが、墳丘全面に葺石が確認されており、各種埴輪や内行花文鏡、石斧等が出土している。
後円部の頂上が山頂にあたり、藩政時代に建立された鶯陵碑と、端には三角点がある。「鶯陵」となっているのは、かつてはこれが元明天皇陵に比定されていたからだが、現代ではその説は否定されている。尚、この鶯塚は清少納言の枕草子にも出てくる。
山頂からは奈良市一の絶景が広がる。

往路と復路との合流地から復路に下り、南東から南西に斜面を下っている途中のコース近くに、春日大社末社の野上神社と石荒(いしこう)神社が並んであったと思う。この両神社は、毎年1月第四土曜日(かつては1月15日)に行われる若草山の山焼きと密接な関係がある。
山焼きの起源には諸説あるが、東大寺と興福寺の寺領境界争いについて、宝暦10年(1760)、奈良奉行所が、毎年山焼きをして、そこを両者の緩衝地帯とするよう指導した説が最も有力視されている。両者の争いがなくなって以降も、害虫や害鳥を排除するため、山焼きは続けられたとも言われている。

1月15日に山焼きが行われていた頃は、東大寺と興福寺の宗徒が野上神社に浄火をもたらし、祈願後、注連縄に火を移して山焼きが開始されていたが、現代でもこの儀式が続いているか否かは不明。尚、1月15日は野上・石荒神社の例祭日でもある。
石荒神社も昔、野上神社のような社殿があったが、近代以降、御神体の霊石のみになっている。この神前では、春日大社が造替を行っていた時代、大工が「荒神祓」を受けてから作業に取り掛かる習わしになっていた。それは、大社造営時、ここで陰陽師が祈願していたことが風習となって残ったもの。
土産物屋や旅館が建ち並ぶ道に戻ると、春日大社方向の南東に進み、「古都の宿・むさし野」の少々先の三叉路を道なりに左にまがる。
吉城川沿いの三叉路から東が「春日山周遊道路」だったと思う。

200数十メートルほどその道路(当時、未舗装だったと思う)を進むと、左手に「春日山原始林」の石柱があり、その右後方に奇妙な形の石仏群がある。最も目をひくのは、高さ109cmの六角柱のこけし型石仏「仏頭石」。永正17年(1520)の銘があり、仏頭下の各面には、十一面、准胝、如意輪、聖、千手、馬頭の各観音像が半肉彫りにされている。
仏頭石の側には、倒れた板状の石仏もあるが、これは「洞の地蔵」という。安山岩の板碑状の石に、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵が薄肉彫りされたもので、建長6年(1254)の銘がある。

仏頭石に到る道の途中だったか、過ぎて少し行った所だったかは忘れたが、道沿いに昔の道しるべが現れる。右と左、それぞれの方向の行先を刻んでいるのだが、左の行先は判読できない。右の行先は「本宮七本杉」と記されている。これは御蓋山山頂北西にあった(現存しているか否かは不明)七本杉のことである。これは以前投稿した御蓋山の復路のことを指しているのか、それとも、南側から山に登る道がかつてあったのかは分からない。

更に川を遡ると左手上方に料亭旅館・月日亭が見えてくる。元々は明治36年、奈良県知事の迎賓館として建てられた建物だったが、今日でも関西の財界人等がよく利用している。
月日亭上り口手前辺りに道しるべや石燈籠があったと思う。記憶は薄らいでいるが、当時の写真を見た限りでは、その石燈籠は道の常夜燈ではなく、神燈のような印象を受ける。この下方、吉城川には月日磐という石があるはず。当日はその石の存在に気付かなかったのか、写真は撮っていない。月日磐は1mほどの大きさの川に浸かった石で、団子のような模様が彫られているようだが、これは円の「日」と、三日月の「月」に分かれる。よく石燈籠の火袋の窓として彫られているものである。

この側に前述の氷室神社と氷室があった。氷室は「吉城川氷室」「春日氷室」「水谷氷室」等と呼ばれた。神社が遷座されて以降も、祠か何かがあり、信仰対象になっていたのだろう。だからこそ、神燈が今に残っている。
因みに月日亭は和風レストラン的料亭として市内等に何店舗か展開している。私も市の中心街等の店舗を平成初期、よく利用していた。

月日磐の道しるべ近くから、吉城川の支流・御手洗川が分かれていたと思うが、この川に沿う小径がある。地形図では車道として描かれていたかも知れないが、倒木等があり、また幅員も狭く、車が通行できる状態ではない。近代に造られた俥道かも知れない。この道は春日大社の裏に繋がっているが、もし明治期に造成されていたとすれば、奈良県知事や要人らが、人力車に乗って行き来していたことだろう。

Ps:5月30日、高知県内の道なき藪の無名峰・庵沢山下山時、足を痛め(何十回も転倒しながら下山)、ギブスを2日前までしていたこともあり、投稿をしばらく休んでいました。しばらく熾烈な藪漕ぎを要するハードな登山は控えます。

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登った山

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最適日数
日帰り
コースタイプ
周回
歩行時間
5時間10分
難易度
★★
コース定数
22
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