すべての登山者が憧れる山・剱岳。その頂を踏むことなく、奥深くへと入り込む静かな縦走路があるのを知っているだろうか
室堂から欅平まで、山の頂を踏むことなく、渓谷を歩き、峠を越える縦走路。「岩と雪の殿堂」を開拓してきたクライマー、大正時代の鉱山労働者、そして戦前の過酷な発電所建設に従事した労働者――。さまざまな背景の人々が歩いた道をたどる。昨秋の取材の様子を、編集部・高橋楓のレポートでお届けしよう。
文=高橋楓(編集部) 写真=星野秀樹
別山乗越を過ぎたころに、ようやくガスが晴れて、剱岳が見えた。いかにも厳しい、岩の山だ。剱岳には登ったことがない。怖そうだな、と積極的に行く気持ちにならずにずいぶん経つ。そして、この取材も剱には登らず、ぐるりと眺めるルートを選んだ。
真砂沢から先、池ノ平や仙人池周辺は、奥剱とも裏剱ともいわれている。表の前に裏を行くことになるわけだが、まあ正しい順番なんてないのだし。
アイゼンをつけて、剱沢雪渓を下っていく。途中で平蔵谷、長次郎谷が左手に現われる。あの先はクライマーが進む道だ。私はクライミングの経験がほとんどないので、クライマーはかっこよく見える。剱岳にもつイメージもそのままだ。硬派で近づきがたい感じ。話してみるとやさしくて、芯が通っている。これから歩くトレイルでは岩を攀じ登ることはなく、ただ彼らの世界の片鱗を感じ取るだけだ。
真砂沢ロッジは、クライマーの登山基地でもある。ここから先ほど通った長次郎谷などに取り付き、剱へ向かうのだ。同行の写真家・星野さんは山岳部の学生のころからよく泊まったそうだ。あの石垣の上で裸踊りしたり、社会人とバトルしたなあ、と思い出を話してくれた。
オーナーの坂本さんは、「真砂から先は別世界」だと言う。ここがそのスタート地点。明日からは別世界を歩くのか。
★今回の行程
1日目:室堂ターミナル・・・雷鳥沢・・・別山乗越・・・剱沢・・・真砂沢ロッジ(宿泊)
2日目:真砂沢ロッジ・・・仙人新道・・・仙人峠・・・池の平小屋(宿泊)
3日目:池の平小屋・・・仙人池ヒュッテ・・・仙人温泉・・・仙人谷ダム・・・阿曽原温泉小屋
4日目:阿曽原温泉小屋・・・水平歩道・・・欅平
真砂の先の、別世界
翌日、小屋を出て雪渓を下り、しばらく沢沿いの道を歩く。沢にせり出した岩場の道を恐々越えて二股の吊橋を渡ると、仙人新道の登りが始まる。行程は下りが多いが、ここは急登でつらい。展望のよいベンチで休憩する。
ゲトゲの八ツ峰が見えた。上は少し雲がかかっている。 それにしても人に会わない。途中で仙人池ヒュッテの志鷹さんとすれ違ったきりである。室堂にはあんなにたくさん人がいたのに。なるほど、別世界か。
仙人峠に着くころには、八ツ峰は雲の中だった。池の平小屋の周辺はミヤマキンポウゲの黄色いお花畑になっていて、のどかな雰囲気だ。
ここは大正時代の鉱山の飯場だったらしい。池ノ平山で採掘されるモリブデンは自動車や航空機などに使われる鉱物で、第一次世界大戦当時、日本は各国からの軍需に沸いていた。戦後、需要が落ち込み、鉱山は閉鎖されたという。飯場は、北方稜線を歩く登山者の求めで、山小屋として残されたのだという。
天気がよければ、池ノ平山に行こうと思っていたが、どうにもパッとしない天気なので断念する。あいた時間で、冬は杜氏として働く小屋番の鈴木さんが仕込んだという日本酒をいただく。夏はビールもいいけど日本酒も最高だ。体にスッと入る。
酒をちびちびやっている向こうで、鈴木さんが厨房にもぐったり出たりと忙しそうにしている。時折ボランティアスタッフが来るものの、基本的には鈴木さんが食事の仕込みから掃除に風呂の用意、なんでもひとりでこなすという。
鈴木さん力作の夕飯はなかなか手が込んでいた。メインはチキントマトハーブ煮クレオパトラニードル風。耳慣れない名前にどこかの地方の料理名かと思ったら、岩峰の名前だよ、と星野さんに教わる。勉強不足でした。
夕方になると雲がようやく下がって、八ツ峰が見えた。桃色と菫色がぼんやりまざった空。チンネの下の特徴的な雪形は、「モンローの唇」というらしい。なるほど、唇に見える。
翌日以降の記事はワンダーフォーゲル6月号で!
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