観天望気でも防げたかもしれない2012年8月18日の槍ヶ岳落雷事故。その原因は、東と西からやってきた上空寒気

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天気図を見ても雷への顕著なリスクは見られないものの、2012年8月18日は山(槍ヶ岳)と街(大阪)で2件の落雷事故が起きていた。この原因を探ると、日本の遥か東からやってきた上空の寒気と、西からやってきた上空の寒気により、落雷リスクが非常に高くなっていた。そのメカニズムを解説する。

 

ヤマケイオンライン読者の皆様、山岳防災気象予報士の大矢です。 夕立は夏の風物詩ですが、夏山で雷に遭遇すると本当に恐いものです。特に間近で「ドドーン、バリバリ」と鳴られた時には生きた心地がしません。今回は2012年8月18日に槍ヶ岳で発生した落雷事故について解説いたします。


先に答えの一つを出しておきます。実は当日の早朝には既に、大気の状態が非常に不安定なことを『観天望気』で知ることができました。下記の写真1は、落雷事故の当日の早朝に東邦大学医学部の西穂高診療所から撮影された写真です。

写真1:2012年8月18日の早朝に湧き立つ塔状積雲(写真提供/東邦大学医学部 西穂高診療所Webサイトより)


このように、上に向かって発達する積雲は「塔状積雲」と呼ばれていて、上空寒気によって大気の状態が不安定なため上昇気流が発生していることを示しています。しかも――、

気温が低く上昇気流が起きにくいはずの早朝から発生している ⇒ 大気の状態が非常に不安定、と分かるのが観天望気なのです。

もう1つ写真から分かることは、地平線から雲海の間が霞んでいてぼやけていることです。これは下層に湿った空気が入っていることを物語っています。上空寒気と下層の湿った空気のセットが、積乱雲の発達をもたらします。観天望気の知識があれば、防ぐことができた事故だったのかもしれません。

 

2012年8月18日に槍ヶ岳で発生した落雷遭難事故の概要

2012年8月18日は上空寒気と下層の湿った空気によって、全国的に大気の状態が非常に不安定になりました。実はこの日、平地でも14時過ぎに大阪の長居公園で落雷によって10名が負傷、そのうち2人の女性が死亡するという落雷事故が起きていました。当日、長居公園ではEXILEなどの野外ライブがあって多数の人がいましたが、亡くなった女性2人は、雷雨を避けるため公園の木の下で雨宿りしていて、落雷の側撃を受けています。

この落雷事故のパターンは、2002年8月2日に塩見岳で発生した落雷事故(1名死亡、4名負傷)と全く同じです。雷が鳴っていて落雷のリスクがある時には、絶対に木の下で雨宿りをしてはいけません。木の近くも危ないので、自分の背より高い木からは4m以上離れましょう。なお、塩見岳の落雷事故については、ヤマケイ文庫のドキュメント気象遭難(羽根田治/著)に詳しく取り上げられています。

本題の落雷事故が発生した槍ヶ岳ですが、この日は槍ヶ岳や穂高岳でもお昼頃に雷雨となっていましたが、雷が収まりかけた頃に槍ヶ岳の穂先に登ったパーティーが頂上から下りてくる途中で落雷に遭って、1名の方が亡くなっています。

前回の記事で書きましたように、落雷するのは積乱雲の直下だけではありません。ましてや、槍ヶ岳の穂先はそれ自体が巨大な避雷針のような形をしているため、完全に積乱雲が去るまでは登らない方が無難です。

★前回記事:2012.5.28の尾瀬の落雷事故の教訓――、「SSI」を活用して雷を予測しよう

 

2012年8月18日の気象状況:地上天気図で分かること

落雷事故の当日12時の地上天気図を図1に示します。日本の遥か東に太平洋高気圧の中心があって、日本付近は気圧の尾根かつ高気圧の圏内にあるように見えます。アムール川下流には上空寒気の存在を示す「前線の無い低気圧」がありますが、日本付近からはかなり離れています。

この時の気象状況としては、私でも地上天気図を見ただけでは、槍ヶ岳や大阪の長居公園で落雷事故が起きるほど不安定な天気になったことを読み解くことは困難です。

図1:2012年8月18日12時の地上天気図。落雷のリスクがあるようには見えない(出典:気象庁)

 

やはり上空寒気を知るための武器は「高層天気図」

上空寒気の存在は、今回の事例のように高層天気図を見ないと分からないケースが多いです。2012年当時は、気象予報士向けの分かりにくい白黒の高層天気図しかありませんでしたが、今では、以前にも紹介したGPV気象予報などのサイトで、カラーで分かりやすい高層天気図を誰でも無料で見ることができます。

通常、上空寒気は500hPa天気図で確認します。GPV気象予報のWebサイトでは過去に遡って高層天気図を見ることができませんので、気象庁の解析データを使って落雷事故が発生した8月18日の朝9時の500hPa天気図を作成してみました(図2)。

日本の東の「」が太平洋高気圧の中心です。太平洋高気圧は背の高い高気圧ですので、500hPa天気図でも気圧が高くなっています。そして日本の南にある「」が上空寒気の元凶である寒冷渦(寒気を伴う上空の低気圧)です。

図2:2012年8月18日9時の500hPa天気図。日本の南海上に寒冷渦があるのがわかる(気象庁データを基に大矢にて解析)


地上天気図でも、前線を伴わない低気圧によって寒冷渦の存在を推定することができますが、この事例のように地上天気図ではまったく低気圧ができないこともよくありますので要注意です。

前回の記事で取り上げました2012年5月28日の尾瀬での落雷事故のように、5月の終わり頃は上空寒気による落雷リスクの目安は500hPaで-18℃以下ですが、気温が高くなる夏の時期は500hPaで-6℃以下が目安となります。500hPa天気図では、警戒すべき-6℃以下の上空寒気が日本付近を広く覆っていることが分かります。

 

日本の南海上の上空寒気は遥か東からやってきた成層圏の渦が起源

寒冷渦の寒気の源は北極圏にありますので、通常では寒冷渦はもっと北の方に出現します。ところが、この事例の寒冷渦は沖縄の緯度よりも、さらに南に中心があります。いったい、この寒冷渦はどこからやってきたのだろうか――、これが2012年以来の私の疑問でした。

今回の落雷事故について、上空の渦の解析をやってみて初めて、その答えが分かりました。おそらく、この落雷事故に関して私の他にこの観点から解析した人はいないと思われます。

その答えは「成層圏の渦」にありました。雲ができて雨を降らせる日常の気象現象が発生するのは対流圏で、夏なら地上から上空13,000mぐらいまでの高さになります。その上には成層圏と呼ばれる大気の状態が非常に安定な層があります。その成層圏で低気圧の渦が発生すると、そのすぐ下の対流圏の上部の気温が下がります。それが寒冷渦となって、地上に不安定な天気をもたらします。

この寒冷渦の発生メカニズムは、偏西風の蛇行が滞ることによって日本付近でよく発生する寒冷渦の発生メカニズムとは違います。「成層圏」の渦によって発生する寒冷渦は、地上天気図にも表れず、気象をある程度知っている人ほど盲点になるので要注意です。

上空の渦を渦位というパラメータで解析した結果を図3に示します。渦が強い所ほど渦位の値が大きくなります。北極圏の成層圏の渦は日本の遥か東で南下して、太平洋高気圧(図4にある)の南側を流れる東風に吸い寄せられ、流されて日本の南海上までたどり着いています。

日本の遥か東を大回りして、東からやってきた成層圏の渦による上空寒気が、槍ヶ岳と大阪の落雷事故の犯人の一人だったわけです。

図3:成層圏の渦の様子。日本の遥か東を大回りして、成層圏の渦による上空寒気が流れ込んでいる(相当温位350Kの渦位、気象庁データを基に大矢にて作成)

 

上空寒気をもたらした犯人はもう一人は、西からやって来た!

そして実はもう一人の犯人がいました。通常は500hPa天気図で見つかるはずの上空寒気ではなく、もっと上空の300hPa(上空約1万m)の上空寒気を伴う気圧の谷です。図4に解析結果を示します。500hPa天気図では見られない、日本海から南に伸びているトラフ(気圧の谷)と上空寒気が明瞭です。

図4:2012年8月18日9時の300hPa天気図(気象庁データを基に大矢にて解析)


これは私も盲点でした。太平洋高気圧と、さらに上の(1万mより上にある)チベット高気圧とのコラボレーションによる猛暑については、ある程度気象に詳しい方ならご存じと思います。しかし、500hPaの上空寒気と、500hPaでは分からない300hPaの上空寒気とのコラボは、私は今回初めて見ました。これも、これまで誰も明確に説明していません。

そして結果として図5に示すような広い範囲で、大気の安定度を示すSSI(ショワルター安定指数)が低くなっており、特に中部山岳から関西ではSSIがゼロ以下であり落雷リスクが非常に高いエリアになっています。残念ながら、2つの落雷死亡事故は起きるべくして起きた事故でした。

図5:2012年8月18日9時のSSIの様子。中部山岳から関西では落雷リスクが非常に高くなっている(気象庁データを基に大矢にて解析)


東から来た上空寒気と、西から来た上空寒気――、ともに500hPaより更に上空の現象が原因です。それがたまたま同じ日に日本付近で出会うことによって、山岳では槍ヶ岳で1名、平地では大阪の長居公園で2名の尊い命を失う落雷事故に繋がってしまいました。

このような過去の悲惨な事故は決して忘れてはならず、その裏には人の判断ミスだけでなく、今回の事例のように顕著な気象現象が起きた原因が隠れていると考えております。

所属する岐阜大学を拠点として、過去に遡って遭難事故を解析することによって、少しでも山岳遭難事故を無くしていくことが私の心からの願いです。

 

プロフィール

大矢康裕

気象予報士No.6329、株式会社デンソーで山岳部、日本気象予報士会東海支部に所属し、山岳防災活動を実施している。
日本気象予報士会CPD認定第1号。1988年と2008年の二度にわたりキリマンジャロに登頂。キリマンジャロ頂上付近の氷河縮小を目の当たりにして、長期予報や気候変動にも関心を持つに至る。
2021年9月までの2年間、岐阜大学大学院工学研究科の研究生。その後も岐阜大学の吉野純教授と共同で、台風や山岳気象の研究も行っている。
2017年には日本気象予報士会の石井賞、2021年には木村賞を受賞。2022年6月と2023年7月にNHKラジオ第一の「石丸謙二郎の山カフェ」にゲスト出演。
著書に『山岳気象遭難の真実 過去と未来を繋いで遭難事故をなくす』(山と溪谷社)

 ⇒Twitter 大矢康裕@山岳防災気象予報士
 ⇒ペンギンおやじのお天気ブログ
 ⇒岐阜大学工学部自然エネルギー研究室

山岳気象遭難の真実~過去と未来を繋いで遭難事故をなくす~

登山と天気は切っても切れない関係だ。気象遭難を避けるためには、天気についてある程度の知識と理解は持ちたいもの。 ふだんから気象情報と山の天気について情報発信し続けている“山岳防災気象予報士”の大矢康裕氏が、山の天気のイロハをさまざまな角度から説明。 過去の遭難事故の貴重な教訓を掘り起こし、将来の気候変動によるリスクも踏まえて遭難事故を解説。

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