2018年7月28日の富士山の遭難事故――、台風が異常な経路を取った理由は?

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今回取り上げるのは、常識では考えられないような進路をたどった2018年7月の台風12号が引き起こした、富士山での山岳遭難事例です。なぜ異常な進路をたどり、それにより何が起きたのかを分析します。

 

ヤマケイオンライン読者の皆様、山岳防災気象予報士の大矢です。今回は台風の山岳遭難事例について取り上げたいと思います。2019年は台風19号が大きな被害をもたらせましたが、この事例では麓だけでなく、南アルプスを中心に多くの山域で登山道が崩壊するなどの被害をもたらしました。山では決して出会いたくない忌まわしい気象現象の一つが台風だと思います。

台風による山岳遭難事例として、第5回目のコラム記事では台風が北海道に再上陸したことによって発生した2002年7月のトムラウシ遭難事故について取り上げましたが、今回はもっと異常な進路を取って2018年7月末に富士山での遭難事故をもたらした、台風12号について取り上げたいと思います。

図1: 2018年7月28日12時の台風12号の気象衛星画像(出典:NASA EOSDIS Worldview

 

遭難事故の概要と気象状況から見えてくるもの

まずは事故の概要から説明します。静岡県からの業務委託を受けて2018年7月27日未明から富士山山頂付近で、登山客の誘導やマナー啓発をしていた警備会社の男性2名は、28日午前10時に勤務を終え、午後1時から2時に下山する予定でした。しかし、台風12号が接近する予報であるため、予定を早めて午前11時45分頃に山頂から下山を開始しました。

しかし、天気は急激に悪化、午後1時40分頃に御殿場口の6合目(標高約2950m)にいた2人から「強風で歩けなくなった」との119番通報。2人は県警山岳救助隊と合流して5合目まで下山したものの、午後10時20分頃に2人のうち71歳のNさんの容体が急変し、搬送先の病院で死亡が確認されたのでした。死因は冷たい雨と強風にさらされたことによる低体温症でした。

 

2018年7月28日の遭難当時の気象状況

2018年7月25日3時に発生した台風12号 JONGDARI(ジョンダリ)は、27日に小笠原諸島の東を北上し、進路を西寄りに変えて28日午後には伊豆諸島に接近(図2)、台風12号はそのまま西に進んで29日1時頃に強い勢力のまま三重県伊勢市付近に上陸しています。

図2:2018年7月28日12時の地上天気図(出典:気象庁) ※ピンクは強風が吹いた推定範囲


当時の富士山頂付近の気象状況を解析してみますと、図3に示すように標高約2000m以上では台風の接近とともに、12時(図の03z)以降は急激に風が強まっていることが分かります。

図3:富士山山頂付近の風速の解析(気象庁データに基づき大矢解析)


これが台風の恐さです。広い範囲で強風が吹く温帯低気圧と違って、台風の暴風や強風は狭い範囲で吹くため、台風が接近してくると急激に強まります。図2の地上天気図で風が強いのは、等圧線の間隔が狭くなっているエリア(ピンクの塗り潰し部分)です。したがって、図2を見れば12時以降は富士山付近の風は急激に強まることは予測できます。『台風が接近してくる時の風は急激に強まる』ことを肝に銘じていただきたいと思います。

 

2018年台風12号の経路と例年の台風の経路

図4に台風12号の経路を示します。図5の日本付近に接近する台風の通常の経路と比較して、いかに異常な経路を取ったかということが分かると思います。日本付近で西に進む「迷走台風」は過去にもありますが、これほど見事に反時計回りに進んだ台風は珍しいです。ただし、気象庁は26日頃から台風12号が西に進むという進路予報を出しており、台風12号の進路自体は気象庁の台風予報を見ていれば把握することはできました。

図4:2018年台風19号の経路(出典:デジタル台風)

図5:例年の台風の経路(出典:気象庁)

 

富士山は台風12号の危険半円だった

さらに今回の富士山での遭難事故で不運だったことは、台風12号が富士山の南を西に進んだために、富士山は台風12号の「危険半円」になってしまったことです。

図6のように台風の進行方向に対して右側で風速が強まる危険半円になりますので、日本付近で北東に進む通常の台風だったら、台風の東側で危険半円になります。ところが、今回は台風が西に進んだために通常とは違って台風の北側が危険半円になってしまいました。

台風の危険半円についての正しい知識があれば、下山時刻を早めるか、無理せず山小屋に避難することによって防ぐことができた事故だったかもしれません。

図6:台風の風の特徴(危険半円と可航半円) (出典:警視庁警護部災害対策課twitter

 

何が台風12号の異常な進路に影響したのか・・・、今回も影武者「寒冷渦」がいた!

第5回目のコラム記事の2002年7月のトムラウシ遭難事故でも台風の進路に寒冷渦が影響していましたが、今回の台風12号の進路を文字通り「振り回した」影武者も寒冷渦です。

★第5回目のコラム記事/2002年7月のトムラウシ山遭難事故の教訓

それも、よりによって前回の2012年8月の槍ヶ岳での落雷事故をもたらした寒冷渦と同様に、地上天気図に全く痕跡を残さず、はるか上空の成層圏からやってくる渦が原因である質(タチ)の悪い寒冷渦です。上空のサイレント低気圧、またはゴースト低気圧と呼んでも良いかもしれません。

渦の強さと大気の安定度の掛け算である「渦位」というパラメータ(これは覚えなくて良いです)で上空の渦の様子を見ると、日本の東で成層圏から千切れた渦が寒冷渦となって西日本の南に進んで、台風12号をハンマー投げのように振り回しているかのようです(図7)。

図7:台風19号と寒冷渦による上空の渦(パラメータ:渦位)の様子(気象庁のデータの基づき大矢作成)


図7の通り、上空では台風12号の渦より、影武者である寒冷渦による渦の方がはるかに巨大です(これは記憶に留めておいてください)。寒冷渦は巨大なので重くて台風から風の影響ではほとんど動かず、台風だけが寒冷渦からの風によって流されるため、地上天気図で見ると、あたかも台風12号は迷走したかのように見えたのです。この様子は、下記の動画で確認すると、もっとわかりやすいと思います。


このような過去の山岳遭難事故を、山岳気象の観点と防災の観点から丁寧に紐解いていくことによって、山岳遭難事故を少しでも無くすことに繋げていきたいと願っております。

仕事であれ、趣味であれ、山に登るということを通じて同じ思いを分かち合える「山の仲間」です。その尊い命が失われたことを決して無駄にしてはならないと思います。今後も岐阜大学工学部応用気象学の吉野先生の研究室での研究を更に進めていきたいと思います。

 

プロフィール

大矢康裕

気象予報士No.6329、株式会社デンソーで山岳部、日本気象予報士会東海支部に所属し、山岳防災活動を実施している。
日本気象予報士会CPD認定第1号。1988年と2008年の二度にわたりキリマンジャロに登頂。キリマンジャロ頂上付近の氷河縮小を目の当たりにして、長期予報や気候変動にも関心を持つに至る。
2021年9月までの2年間、岐阜大学大学院工学研究科の研究生。その後も岐阜大学の吉野純教授と共同で、台風や山岳気象の研究も行っている。
2017年には日本気象予報士会の石井賞、2021年には木村賞を受賞。2022年6月と2023年7月にNHKラジオ第一の「石丸謙二郎の山カフェ」にゲスト出演。
著書に『山岳気象遭難の真実 過去と未来を繋いで遭難事故をなくす』(山と溪谷社)

 ⇒Twitter 大矢康裕@山岳防災気象予報士
 ⇒ペンギンおやじのお天気ブログ
 ⇒岐阜大学工学部自然エネルギー研究室

山岳気象遭難の真実~過去と未来を繋いで遭難事故をなくす~

登山と天気は切っても切れない関係だ。気象遭難を避けるためには、天気についてある程度の知識と理解は持ちたいもの。 ふだんから気象情報と山の天気について情報発信し続けている“山岳防災気象予報士”の大矢康裕氏が、山の天気のイロハをさまざまな角度から説明。 過去の遭難事故の貴重な教訓を掘り起こし、将来の気候変動によるリスクも踏まえて遭難事故を解説。

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