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「笛吹川を遡る」 ~日本に、世界に「沢登り」を誕生させた登山~

Yamakei Online Special Contents
ガイド・記録 2020年08月03日

日本で独自に発展した山の楽しみ方、「沢登り」。その魅力を知る山岳ガイド「風の谷」を主宰する山田哲哉さんが、そもそもこの「沢登り」という楽しみ方がどうやって始まり、深まっていったのか、明治・大正期の偉大な登山者の足跡を追いながら紹介する。

 

冒険心をかき立てる田部重治の記録「笛吹川を遡る」

1970年、今から50年前の5月の末、僕は、はじめて憧れの笛吹川東沢を訪れた。晩春の奥秩父の南面の谷は1800mを越える辺りから雪が見え始め、水師沢を分けて最後の滝場に入る手前から、谷は雪渓状に残雪で覆われていた。ザクザクのザラメ雪は一歩ごとに膝までもぐり、その下には沢水が流れている。見上げる両岸は見事なシャクナゲが飾っていた。

残雪にはところどころ、青氷の部分が出てきて、いよいよ終了点が見えてきた。水源は苔むした岩の間から沁み出す物と思っていたのが、山小屋の水揚げポンプだったのは、ちょっと拍子抜けしたが、長い笛吹川の源に辿り着いた嬉しさと達成感でいっぱいだった。

ここからは雪が消えて、シラビソの森の中を稜線に出る。地下足袋のまま急ぎ足で登り着いた山頂は、午後の遅い光の中にあった。

僕の目を奪ったのは、南アルプスと八ヶ岳の展望ではなく、今、まさに苦闘を強いられてきた足元に緑の谷となって食い込む、笛吹川東沢釜ノ沢の深淵の谷。僕が、この笛吹川に向かったのは、「笛吹川を遡る」という美しい文章に惹かれたためだった。

田部重治の「笛吹川を遡る」を記した文学碑


「笛吹川を遡る」は、日本登山界の黎明期に、本格的な登山を始めたばかりの英文学者・田部重治によって書かれた笛吹川東沢の登山の記録である。まだ「登山」という文化は始まったばかり。山仕事や、測量や、猟師などと違い、登山そのものを目的に山に登る「登山」は、資料も先達もいない手探りの冒険だった。1929年に第一書房から発刊された『山と渓谷』に掲載された生き生きとした文章は、渓谷遡行という新しい分野に挑戦した3人の登山者の、素晴らしい冒険の記録だ。前夜、夜行列車に乗り込み、夜明けの塩山駅から遥か彼方の奥秩父の谷を目指して笛吹川沿いの秩父往還を歩き、今はダムに大部分が沈んでしまった広瀬の集落まで歩いて笛吹川の遡行に取り掛かるのだった。

この紀行のハイライトである「ホラの貝のゴルジュ」で「見よ!笛吹川の渓谷は狭まりあって見上ぐるかぎり上流の方へ障壁をなし、その闇に湛える流れの紺藍の色は、汲めども尽きぬ深い色をもって上へ上へと続いている」とある。僕が中学生の時には国語教科書にも登場した、笛吹川との出会いと感動は、時を隔てても、せつせつと、山に向かう者の胸を打つ。

ホラ貝のゴルジュ


この「笛吹川を遡る」の登山としての素晴らしさは、現在ではクルマで通り抜けてしまうアプローチをていねいに歩き(もちろん、他に交通手段がなかったのだが)、茶屋に立ち寄って朝食を食べ、笛吹川に入り、川から谷、谷から沢、さらに水源までを遡りきる、というところにある。

川の一生を辿って行くような山旅の魅力を強く感じさせてくれる山行は、本来、あるべき「沢登り」「山旅」の原点を教えてくれる。

当時の田部たちのパーティーは、「ホラの貝のゴルジュ」下で焚火を囲んでビバークし、東沢から信州沢を水源まで辿り、奥秩父主脈を越え、さらに現在の長野県川上村梓山の白木屋(現在は建て替えられ綺麗になって営業中)に宿泊し、十文字峠を越えて栃本~秩父と周って帰京する。甲州(山梨)、信州(長野)、武州(埼玉)とわずか2泊で歩ききる健脚ぶりを見せた。

しかも、遡行図どころか、地図さえもなく、唯一の情報は白木屋主人・安次郎からの伝聞だけだった。資料、情報が少ないから、強い意志と、体力と、冒険心を支えとする本来あるべき登山の力が必要だったはずなのだ。

二俣から見上げる鶏冠尾根

 

今なお魅力的な笛吹川遡行。その美しさを紹介

今でもまだ、笛吹川の遡行は沢登りとして、他に比類ない素晴らしさをもっている。現在の一般的な登山者は、「西沢渓谷入口」バス停から歩き始める。二俣に至り、沢に降り遡行を開始する。見上げると遥か上に、奥秩父唯一の岩稜である鶏冠尾根が岩峰を林立させている。この東沢の遡行は、山の神まで廃道寸前の登山路がある。その遡行前のアプローチでさえ、左右から滝となって注ぐ、鶏冠谷、清兵衛沢、ホラの貝沢、鷹見岩沢のひとつひとつの個性ある谷との出会いの道だ。

「山の神」から本格的な遡行に入る。青みがかった水の色、花崗岩が作る白い岩の輝きは、見事だ。優美な乙女ノ滝となってそそぐ乙女ノ沢、巨大なナメ滝となって明るくスラブを見せる東のナメ、西のナメとの出会いを経て、甲武信岳から流れ落ちる釜ノ沢出合へと到着する。

東のナメ/魚止めの滝


田部パーティーは、最初の訪問では、「遡行不能」と伝えられた釜ノ沢を避け、信州沢から奥秩父主脈を目指したが、その後、この釜ノ沢も再訪して完全遡行している。魚止ノ滝から始まる千畳のナメ、両門ノ滝へと至る核心部の美しさは、その花崗岩の白い明るい輝きもあって、奥秩父でも最高の谷である。

千畳のナメ/両門ノ滝


途中、やや冗長な広河原のゴーロを歩き終え、再び滝場が始まる。苔むした原生林の中に笛吹川水源である甲武信小屋の水場へと登り着き、遡行を終える。明るい谷と言われる笛吹川でも、やはり谷間を遡ってきた者の目には、甲武信岳山頂からの360度の圧倒的な展望はまぶしいほど見事で、素晴らしいルートからの登山に、大きな達成感があるはずだ。

笛吹川を遡り、360度展望の甲武信ヶ岳山頂に立つ


「沢登り」とは、そもそも何なんだろうか? 川、谷、沢を水源まで遡行し、山頂に立つ登山形式だ。

他の国にもあるのかも、知れないが、僕たちは「日本独特の登山形式」であると教えられてきた。日本のように、国土の7割近くを森林が覆い、標高2500m付近までは木々が生えた山では、登山道が整備される以前は、目指す山頂に、最も確実に登れるのは谷、沢だったはずだ。

もちろん、谷には滝、釜、激流、ゴルジュが存在し、それらを乗り越え、突破することなしには山頂へは登れない。しかし、その難所は、いずれも美しい雄大な滝であり、底知れぬ釜であり、ヒタヒタと歩くスラブの滑らかな岩場であり、左右に広がる「斧一本入ったことのない原生林」なのだ。

田部たちが笛吹川でおこなった山旅は、まさに日本で、そして、おそらく世界で最初の「沢登り」だったはずだ。

千畳のナメ

 

冒険心をくすぐる「沢登り」を、もっと多くの人に体験してほしい

僕が、登山を始めた五十数年前、登山の世界では確固とした登山形式として「沢登り」が、多くの人々によって行われていた。この笛吹川東沢釜ノ沢にしても、山の神まで登山道が整備され、西沢渓谷との周遊登山路もあり、核心部にはペンキでマークが付けられ、夏の盛りには点々と遡行者の姿があった。丹沢、奥多摩でも沢登りの人気は高く、丹沢の水無川本谷、勘七ノ沢などには滝登りの順番待ちさえあった。

残念ながら、いつしか登山道を踏み越えた「沢登り」という冒険的登山形式は、徐々に廃れて行ってしまった。

「沢登り」は、登山道のある登山ではない。滝一つを、どう越えるのか? をとっても、訪れた者の感性や、センス、志向によって大きく登り方は異なる。傾斜の強い個所を避けたい者は、左右のヤブの中に安全な登路を見つけ「巻き」をしても良いし、流れの横の岩壁を登攀しても良いし、シャワーを浴びながらド真ん中の水流を突破しても良い。

核心部をどう乗り越えるか? は、それぞれの個性と志向によって変わり、どう登っても刺激的で楽しい。

それがいつしか、沢の滝、釜、ゴルジュが連続して、水流と格闘できる部分だけを楽しみ、その部分が終われば、安全な登山道を通って下山してしまうのが「沢登り」になってしまったように感じている。現在の「沢登り」は必ずしも山頂に立つための手段ではないのだ。

魚止めの滝上部


しかし、田部たちが未知、未開の「俺達が、遡るのが、人類初めての経験ではないのか?」と冒険として挑んだ笛吹川東沢は、まさに山頂に至る最も魅力的な登山ルートとして遡行された。

僕は、これまでの登山人生で、いかなる年も必ず、年一回は笛吹川を遡行し、谷の中に泊まり、甲武信岳に登っている。ここには、沢登り本来の姿があり、登山の本質としての「工夫をして、苦労をして山頂に立つ楽しさ」があると信じている。

「笛吹川を遡る」の中に描かれた美しい渓谷の姿と、それに挑んだ田部達の気持ちは、現在でも、この谷に遡行に訪れた者と同じであると、そう信じたい。

 

書籍紹介

ヤマケイ文庫
『山と溪谷 田部重治選集』

価格:本体940円(税別)
体裁:文庫版384ページ
詳細URL:http://www.yamakei.co.jp/products/2811047360.html

amazonで購入  

山田哲哉さんの著書
『奥多摩 山、谷、峠、そして人』

価格:本体1600円(税別)
著者:山田哲哉
体裁:四六判224ページ
詳細URL:http://www.yamakei.co.jp/products/2819280680.html

amazonで購入 楽天で購入

 

記録・ルポ 沢登り
教えてくれた人

山田 哲哉

1954年東京都生まれ。小学5年より、奥多摩、大菩薩、奥秩父を中心に、登山を続け、専業の山岳ガイドとして活動。現在は山岳ガイド「風の谷」主宰。海外登山の経験も豊富。 著書に『奥多摩、山、谷、峠そして人』『縦走登山』(山と溪谷社)、『山は真剣勝負』(東京新聞出版局)など多数。
 ⇒山岳ガイド「風の谷」
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