厄除け登山で山の神仏から元気をいただく! ~江戸庶民のレジャーランド!? 丹沢・大山で参詣の足跡を巡る~

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山岳ガイド&巡礼先達である太田昭彦ガイドの知識を通じて、新型コロナ退散を祈願し、心と身体の免疫力を上げる新時代の登山スタイルを提唱する連載。第4回目の今回は、神奈川県・丹沢山塊の大山で江戸時代から続く「大山詣」について。その名残りを太田ガイドの案内で探訪します。

文=鷲尾太輔

 

丹沢山塊の東部に位置する大山。山麓から中腹の大山阿夫利神社までケーブルカーが通り、山頂からの富士山や相模湾の眺望も優れていることから、首都圏のハイカーに人気の山です。

実はこの大山、江戸時代から山岳信仰の対象として多くの人々に親しまれていました。その賑わいぶりは、江戸の人口が100万人の当時、山頂への登拝が許された夏だけで20万人が訪れたというほど。2016年には「江戸庶民の信仰と娯楽の地」として日本遺産にも認定されています。

今回は太田ガイドの案内で大山を探訪。敢えて山頂まで行かず、登山を目的とする時には通り過ぎてしまうスポットを辿りながら「大山詣」の歴史を紐解く山旅を楽しみました。そこから浮き上がって来たのは「山岳信仰=修行」という概念を覆す、娯楽の地であるという大山の意外な側面だったのです。

今回歩いたルート(ヤマタイムにて作成)

 

ケーブル手前でバスを途中下車?いにしえの玄関口から始まる大山詣の名残り

太田さんと待ち合わせしたのは、大山最寄りの小田急線・伊勢原駅。駅前にも江戸時代から参詣者で賑わった様子が伝わる看板などが設置されています。

伊勢原駅前にある看板

 

いにしえの玄関口・大山駅

伊勢原駅から大山ケーブル行の路線バスに乗り込みます。ところが太田さんが降車ボタンを押したのは、終点の大山ケーブルバス停の4つ手前にある大山駅バス停。一緒に下車したものの、駅という名前が付いているのに広場しかありません。一体ここにどんな歴史があるのでしょう。

太田さん:現在の大山観光電鉄ケーブルカーが開業したのは1965年、大山詣の長い歴史の中では比較的最近です。それ以前は国鉄で東京駅から平塚駅まで行き、神奈川中央交通バスに乗り換えてこの大山駅まで、という経路で参詣者は大山を訪れたのです。国鉄と神奈川中央交通が「連絡運輸」という形をとっていたので、東京からここまでの切符が買えたんですよ。

大山駅バス停

 

鈴川と“水の山”大山の深い関係

バス道路をいったん離れ、大山を源流とする鈴川を渡ります。大山旧参道はこの鈴川沿いに続き、周囲には宿坊や大山阿夫利神社社務局が。大山ケーブルバス停に直行すると、バスの車窓からはなかなか気づかないこの鈴川。しかし、大山の信仰の起源と深い関わりがある存在だったのです。

太田さん:大山の別名は「雨降山(あふりやま)」。相模湾の湿った空気が大山にぶつかって雨雲になり、鈴川をはじめ山麓に水の恵みをもたらす存在であったことが、大山信仰の起源と考えられます。山頂で縄文土器が発掘されたことからも、その歴史はかなり古いと言えるでしょう。
特徴的な三角錐の山容は相模湾を航海する際のランドマークでもあり、農業・漁業いずれに携わる人々からも信仰の対象だったのでしょうね。

鈴川を渡って大山旧参道へ

 

伝統芸能・大山能狂言の起源

旧参道沿いにある大山阿夫利神社の社務局には能舞台が隣接しています。伊勢原市の無形民俗文化財に指定されている大山能狂言が演じられるのがこの能舞台。そこで太田さんが教えてくれたのが、その起源となった興味深いエピソードでした。

太田さん:かつての大山には修験道の行者である山伏と、山中の社寺に勤める僧侶が共存していました。ところが徳川家康は、山伏たちが比叡山のような僧兵となって幕府と敵対関係になりかねないと懸念したのです。そこで山伏をこの山麓に下ろして住まわせ、山中の僧侶と明確に区別しました。山麓の宿坊も、山伏たちが始めたものなのです。
こうした経緯から山中の僧侶と山麓の山伏の関係は険悪で、争いが絶えなかった時代も。そこで幕府は武力でなく能の技で競うことを提案し、両者に能を教えました。結果として能を通じて交流を深めた両者の敵対関係も解消され、大山詣に訪れる人々のエンターテイメントにもなりました。そして、今日に至るまで大山能狂言が継承されてきたのです。

大山阿夫利神社社務局の能舞台

 

宿坊と講の深い関わり

大山を訪れた参詣者が宿泊するのが宿坊、現在でも参道には多くの宿坊が軒を連ねています。その周囲には「大山参詣○回記念」など参詣者が奉納したと思われる石碑や石柱が。どうやらそれぞれの宿坊に、いわゆる常連さんが存在するようです。

太田さん:宿坊の主は御師(おし)と呼ばれ、今で言う神主です。それぞれの宿坊に神殿があり、参詣者はここでお祓いを受けてから御師の先導で大山に向かったのです。江戸時代、大山への登拝が許されたのは夏の短い期間。それが終わると御師たちは関東一円を行脚し、大山の功徳を説いて回りました。今でいう営業活動ですね。
当時は単独で旅をするのが困難な時代だったので、講を組織してお参りをしたのです。ひとつの講と親しくなれば毎年参詣者が来てくれることになり、御師の行脚にも力が入ったことでしょう。
宿帳を辿れば、江戸時代から現代まで200年以上も同じ宿坊に宿泊している講もありますよ。

参詣者が奉納した石碑と宿坊

 

大山講を支えた人々とは…?

大山に限らず、富士山・御嶽山など多くの山々を目指す人々が結成した講。大山講に集ったのは、いったいどんな人々だったのでしょうか。

太田さん:“水の山”であった大山の信者、まず多かったのは「火事と喧嘩は江戸の華」の言葉で知られる火消しの人々です。また山頂の御神体は石尊大権現という巨岩であったことから、石工をはじめ職人も多く訪れました。火消しや鳶職人などは屋根の上に登って仕事をする人々、江戸の町からも目立つ大山を信仰したのかもしれませんね。

火消しの組が奉納した石碑

 

侠気あふれる江戸っ子気質な信者の晴れ舞台!愛宕滝・良弁滝

大山旧参道に接する愛宕(あたご)滝・良弁(ろうべん)滝。参詣に訪れた人々が水垢離(みずごり)と称する、滝の冷水を浴びて身を清める儀式を行なった場所です。しかし前述のように“粋でいなせな色気”を重んじた江戸っ子気質の人々にとっては、別の目的でも晴れ舞台でもあったようです。

太田さん:水垢離をするには、上半身の着物を脱いでいわゆる「肌脱ぎ」になる必要があります。そこで火消しや職人たちが見せたかったのは、自らの肌に描かれた彫り物(入れ墨)。特に火消しの間では水を司どるとされ現代も神社の手水によく見られる「龍」の彫り物が流行していました。目立ちたがりであった彼らが、彫り物を露わに水垢離をする姿は、当時の浮世絵にも表現されていますよ。

浮世絵・御贔屓大山有瀧壷(3枚組)【神奈川県立図書館 神奈川県郷土資料アーカイブより】

 

豆腐は大山登山の最強の行動食! とうふ坂

旧参道はやがてバス道路に合流しますが、歩みを進めると再びいにしえの参道と分岐します。その名もずばり「とうふ坂」。道幅は狭く人通りもまばらでしたが、沿道には宿坊も多く風情あふれる道です。

太田さん:往時の参詣者は宿泊した宿坊や豆腐坂遠藤の宿坊から冷奴をもらい、それをすすりながらこの坂を登り大山をめざしたようです、たんぱく質が主原料で水分も豊富な豆腐は、暑い時期に大山へ登拝する人々にとって、心強い行動食になったのではないでしょうか。

往時の風情を留める豆腐坂

 

大山詣の歴史を知れば楽しさ倍増!こま参道〜大山寺〜大山阿夫利神社

大山ケーブルバス停から先は、大山登山の際に誰もが通る道。しかし太田さんのお話を聴きながら歩くことで、その道のりは新たな発見に満ちたものになりました。

往時の面影を残す登山道を歩く太田さん

 

大山土産の定番・こまは「大山の木の恵み」

大山ケーブルバス停から大山ケーブル駅へ至るこま参道。土産物屋・茶店・宿坊が立ち並び、大山登山の現代の玄関口として賑わっています。大山参詣の土産物の定番・大山こまは大山に生育しているミズキの木材を原料として造られる伝統的な玩具。その起源は何なのでしょう。

太田さん:江戸時代、大山山麓には木地師の集団が住んでいました。良質な木材を求めて各地を転々とするのが木地師の一般的なスタイルでしたが、大山は良質な木材が多いことから定住したと考えられます。大山への参詣者が増え、土産物として木地師たちが考案したのが大山こまなのです。
こまは「回すと金回りが良くなる」と参詣者に喜ばれた縁起物、講の代表として訪れた人々が、地元で留守番している講の仲間や家族への土産物としても手頃なアイテムだったのでしょうね。

こま参道の入口

 

大山グルメの定番・豆腐は「大山の水の恵み」

こま参道を歩いていて見かけるもうひとつの名物が大山豆腐。宿坊での本格的な豆腐懐石から茶店での手軽な一品まで、様々な形で味わうことができます。きれいな水は豆腐づくりに欠かせないものですが、原料となる大豆にも秘話が隠されていました。

太田さん:大山山麓の宿坊には、宿泊料として金銭だけでなく地元で採れた大豆を奉納して宿泊した参詣者も多かったようです。この大豆と大山のきれいな水から必然的に産まれたのが大山豆腐。こまが木の恵みなら、豆腐は水の恵み、いずれも大山でなければ創ることができなかった名物ですね。

太田さんと賞味した豆腐の田楽

 

大山寺の三代目住職は弘法大師・空海

大山ケーブル駅からはケーブルカーの他に男坂・女坂のふたつの登山コースがありますが、太田さんが目ざしたのは女坂。中腹にある大山寺をはじめ信仰の歴史を辿るにはもってこいのルートです。大山寺の開祖は山麓にある良弁滝の由来にもなった奈良時代の僧侶・良弁僧正(ろうべんそうじょう)。そして意外にも、三代目の住職は弘法大師・空海だったのです。

太田さん:空海が開祖(初代住職)とされる寺院は全国にありますが、三代目というケースはとても珍しいですね。この縁起から、大山の山中には現在も弘法大師の足跡が随所に残っていますよ。

大山寺の壮大な本堂

 

大山寺の参加型厄払い・かわらけ投げ

大山寺で体験できる個性的な厄払いの儀式がかわらけ投げ。かわらけと呼ばれる素焼きの土器を2枚1セットで授かり、崖下に向かって投げます。どんなご利益があるのか、太田さんにもかわらけを投げてもらいながら教えてもらいました。

太田さん:1枚は赤い輪に向かって投げ、そこを通ると願いが成就すると言われています。もう1枚は下の岩に向かって投げ、当たって砕けると厄が祓われます。おっと…2枚とも外れてしまいましたね。でも大丈夫! 投げるだけでも十分に厄払いのご利益があるのですよ。

かわらけ投げのターゲット

 

参詣を飽きさせないためのアトラクション・女坂の七不思議

女坂には七不思議と言われる名所が点在、弘法大師ゆかりの伝説が残るスポットもあります。山麓から順番にご紹介しましょう。

女坂の七不思議

  1. 弘法の水:全国に多く残る、弘法大師が杖を突いた場所に水が湧いたという場所。大山では山伏の喉を潤すために設けられたのでしょう。病人が多い地域では、弘法大師は温泉を湧出させたそうですよ。
  2. 子育て地蔵:当初は普通のお地蔵様として安置されたが、いつの間にかその顔が童子に変わっていたという伝承が残る地蔵。子どもの健やかな成長を守って欲しいという願いが現れていますね。
  3. 爪彫り地蔵:弘法大師が一夜にして道具を使わず爪で彫ったという伝説の残る地蔵。四国八十八ヶ所にも、同じ伝承を持つ地蔵が複数あるそうです。
  4. 逆さ菩提樹:幹の上部が太く下部が細いことから逆さに生えているように見える樹。現在は二代目で、一見、そうは見えませんが、初代はその様子がもっと顕著だったのかも知れません。
  5. 無明橋:大山寺の先にある赤い橋。ここを渡る時に会話をすると、自分が落ちたり落とし物をしたりするそう。無明とは悟りが拓けていない状態、無駄な会話を慎み修行に励むよう諭す場所です。
  6. 潮音祠:祠に近づいて耳を当てると遠い潮騒の音が聞こえるという場所。往時は祠の入口がもっと狭く、空気の流れで実際に潮騒のような音が聞こえたのではと太田さんは推測しています。
  7. 眼形石:十一面観音が安置された巨石の一部が人の眼の形をしており、触れると眼病予防に効能がある石。眼の病が多く症状も深刻・治療も大変だった江戸時代には、ありがたい存在だったのでしょう。

太田さん:大山に限らず、登拝は体力的にはしんどいもの。要所要所に設けられたこうしたアトラクションは、疲れを忘れさせる効果もあったのでしょう。またこれらの場所で体験したことは、地元で待つ講の仲間への土産話を充実させることにもなります。観光地でおなじみの絵葉書も、自分が見た風景や名所を実際に見せることで、土産話を盛り上げるために作られたのが起源ではないでしょうか。

潮音洞に耳を澄ます太田さん

 

振り返ると相模湾の眺望・江ノ島と大山の関わり

大山阿夫利神社が近づき、参道の階段から振り返ると相模湾や江ノ島の見事な眺望が広がります。江戸時代には大山詣の帰路に江ノ島に立ち寄る人が多かったようですが、どうやら観光地同士の連携があったようですよ。

太田さん:大山に祀られているのは大山津見神(おおやまつみのかみ)という男の神さま、ひるがえって江ノ島の祀られているのは弁才天という女の神さまです。
男神だけをお参りすると「片参り」になるという信仰から江ノ島に立ち寄る習慣が産まれたのですが、江戸時代の旅人にとって風光明媚な江ノ島も訪れることは旅の楽しみでもあったのです。
ちなみに富士山の御祭神・木花咲耶姫(このはなさくやひめ)も大山津見神の娘である女の神さま。富士登山の後にも、大山への両参りが行われました。
その背景には、大山・江ノ島・富士山それぞれの地域が両参りを推奨するという活動が。お互いがお互いを宣伝することで、旅人たちの周遊を促したのです。

相模湾と江ノ島の眺望

 

大山信仰の起源と歴史が満載!大山阿夫利神社拝殿は地下が必見

大山でもひときわ大きな社殿が大山阿夫利神社拝殿。まずお参りした後にぜひ訪れたいのが拝殿の地下。ご神域のため写真はありませんが、大山信仰の起源や歴史を知る遺構が盛りだくさんです。

太田さん:まずこの泉ですが、大山の湧水の源なのです。この水が沢となって山を下り鈴川へと注ぎ込む、「水の山」大山の水の恵みを象徴する存在ですね。
そして奥に立ち並ぶのが木製の太刀、源頼朝が武運長久を祈願して自身の太刀を奉納したのが始まりです。江戸時代の人々もこれにあやかり参詣の際に木太刀を持参しましたが、そこは負けず嫌いで見栄っ張りの江戸っ子気質。次々と大きさを競い合うようになり、最長では7m程の木太刀を担いで大山に訪れた人々もいたようです。

日本遺産に選定された ~巨大な木太刀を担いで「大山詣」~ を表現した石像

 

両扉が開いているのを見たことがありますか? 大山山頂へ向かう登拝門

大山阿夫利神社から山頂へ向かう登山道の起点が登拝門。常に片方だけが開いていますが、実は両扉が開く期間があるそうです。

太田さん:現在はこの状態が通常ですが、江戸時代は基本的に両扉が閉まっていました。山頂への登拝が許された7月下旬から8月中旬の約20日間だけ、門が開かれたのです。現在でもこの期間に大山へ訪れれば、両扉が開いた状態を見ることができますよ。

片方だけが開いた登拝門

 

江戸庶民の娯楽でもあった大山詣を追体験してみませんか?

今回の太田さんとの山旅では大山信仰の起源だけでなく、この地が大山詣という江戸庶民の娯楽の場所であったということも実感できました。

太田さん:江戸時代でも、庶民のお参りの主役は富士参詣だったと思われます。しかし富士山は時間や体力も必要で、さらに江戸から富士山麓(駿河国)へは通行手形の発行が必要でした。ところが隣国にある大山(相模国)は手形も不要。比較的手軽に旅ができたことから、信仰の地であると同時に娯楽の地にもなったのでしょう。
現在なら首都圏から日帰りも可能、冬場は積雪や凍結のリスクがある山頂まで行かなくても、今回のように大山詣を存分に追体験できるのです。
今回の記事を参考に信仰の歴史を知って頂き、江戸庶民のレジャーランド・大山を訪ねてみて下さい。

大山阿夫利神社拝殿

 

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プロフィール

太田昭彦

高校ワンダーフォーゲル部時代に登山の魅力に目覚め、社会人山岳会で経験を積み、旅行業から山岳ガイドに転身。また、20歳の時に高野山で十善戒を授かってから神仏とのご縁が少しずつ深まり、42歳で巡礼先達の道を歩み始める。登山教室「歩きにすと倶楽部」を主宰して登山者に安全で正しい登山知識・技術を伝達しつつ、地元埼玉の秩父三十四観音霊場をはじめとする巡礼の道を歩く人々を先導する「語り部」としても活躍中。著書に『ヤマケイ新書 山の神さま・仏さま 面白くてためになる山の神仏の話』(山と溪谷社)ほか。

(公社)日本山岳ガイド協会認定山岳ガイド・埼玉山岳ガイド協会会長・四国石鎚神社公認先達・四国八十八ヶ所霊場会公認先達・秩父三十四ヶ所公認先達。
https://www.facebook.com/alkinistclub

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