狩猟者を追い そしてまた自らも…『狩猟に生きる 男たち・女たち』

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評者=麻生弘毅

狩猟に生きる 男たち・女たち

著:高桑信一
発行:つり人社
価格:1980円(税込)

 

山のあるべき姿を追求し、登山道を離れて渓谷へ。そこで藪に消え入ろうとするかつての生活道、仕事道に出合う。往時の痕跡を頼りに地図にない径をたどる先には、山を精神の拠り所とし、自然から生活の糧を得る、人々のたくましい営みがあった─。

50年にわたる登山と知見を筆に託し、血肉の通った文章で旅を、山の風土を描く高桑信一さん。その最新刊は狩猟をテーマに、山と人のありように思いをめぐらせている。

先史時代から続く狩猟に変化が訪れたのは、稲作と、殺生を禁ずる仏教の普及によるという。肉食が表向きに禁じられ、江戸時代の鉄砲改めなどにより、庶民の非武装化は進む。それでも、田畑を動物たちから守る必要から、狩猟は山里に深く浸透していた。戦後、銃規制はより厳しくなり、毛皮の需要がなくなることで、狩猟は生業から獣害対策とスポーツハンティングへと姿を変えていった。そんななか、著者は現代に残るマタギの香りを求めて、日本各地の狩猟者をたずねてゆく。

マタギとは、かつて東北地方の山間に暮らした狩人集団。大型獣をはじめ、岩魚やきのこ、山菜などを暮らしの糧にしていた。「山立根本之巻」という巻物をもつ彼らは旅先での猟が許されており、そうして出先で猟を行なうなかで、各地の山人に卓越した猟の手法と行動様式が伝わっていったという。その核となるのが自制。それは未来にわたり山の幸を享受し続けるために生まれた、生き抜く知恵だ。とはいえ、それはマタギの系譜を継ぐ猟師にだけ宿る精神ではない。働くことがすなわち生きることである山の暮らしには、巻物がなくとも、おのずから自然への畏敬が生まれた。

─マタギたちが抱いていた精神と山の獣たちへの哀惜を背負おうとするのなら、誰もがマタギの末裔を名乗っていいのだと私は思う─

それは、借り物の自然保護思想にはない、山に生きる掟ともいえる。しかし、そんな狩猟の現場を知らない行政と自然保護団体がツキノワグマの生息数を想定し、捕獲数を争う現実がある。そこに必要なのは猟師の知恵であり、熊猟を禁ずることは集積された英知の断絶を意味する。

─このままでは、熊よりも先にマタギたちが滅んでしまうかもしれない。それは熊の生態を知る集団の壊滅であり、むしろ保護されるよりも野放しにされてしまうことになる熊のほうが、よほど不幸なのではないか─

ところで、高桑さんには自らが渓へ分け入り、思いを瑞々しく描く紀行文と、山の暮らしや仕事を記録するふたつの作品群があるが、本書はどちらの顔も併せもつ一冊となっている。20年にわたる狩猟取材のさなかで自らも狩猟免許を取得。猟銃を手にし、昨年からは罠猟も始めている。すなわち、大半は狩猟の歴史を踏まえ、客観的に分析したドキュメンタリー。ライフル銃の使用や有害駆除をめぐるくだりでは、ときに舌鋒鋭く切りこんでもいる。一方で、自身の猟については趣を変え、その筆致はやわらかく、温かい。未知未踏を求めたという若き日から半世紀がたち、いまは猟銃がピッケルであり、竿なのかもしれない。獲物の多寡は問題ではない。古希を迎えた登山家はそれでもひとり山に分け入り、動物たちを追う。

─山中にいたいのだ。もっといえば、山のなかで生活して猟をしたいのである。(中略)一歩でも二歩でも山に近づき、獣たちと同じ空間に泊まって彼らを追いたかった。(中略)そんな私の匂いに違和感を覚えなくなった獲物がいて目の前に現れてくれたなら、私の思いは極まるだろう─

 

評者=麻生弘毅

1973年生まれ。長い山旅や、カヤックによる旅、沢登りが好きなフリーランスライター。著書に『マッケンジー彷徨』(枻出版社)。 ​​​

山と溪谷2021年6月号より転載)

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