クジラを解剖した後のヤバすぎる悲劇…動物解剖学者の“ニオイのお悩み”とは?

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日本一クジラを解剖してきた研究者・田島木綿子さんの初の著書『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること』が発刊された。海獣学者として世界中を飛び回って解剖調査を行い、国立科学博物館の研究員として標本作製に励む七転八倒の日々と、クジラやイルカ、アザラシやジュゴンなど海の哺乳類たちの驚きの生態と工夫を凝らした生き方を紹介する一冊。発刊を記念して、内容の一部を公開します。第1回は、時間との勝負のストランディング、切っても切れない「ニオイ」のお悩み…。

 

 

ストランディングは突然に

私の研究室では、毎週水曜日にスタッフ総出で博物館業務を行っている。博物館業務とは、標本にまつわる作業である。標本を作製し、整理し、管理する。本人の研究に関係しない標本であっても、博物館として保管・管理する標本は膨大であり、そうした作業を水曜日に総出で行っている。

しかし、1本の電話で、そうした日常は一変する。ストランディングの一報だ。ストランディング(stranding=漂着、座礁)というのは、クジラやイルカなどの海の哺乳類が、海岸に打ち上げられる現象である。

ストランディングの発生は予測不能だ。いつ、どこで、どんな種類の海の哺乳類がストランディングするのか、報告が入るまで誰にもわからない。私が学生の頃、ドラマの主題歌で『ラブ・ストーリーは突然に』という曲が流行ったが、まさに「ストランディングは突然に」なのである。ひとたびストランディングの報告を受けると、すべての作業を即中断し、その対応に取りかからなければならない。なぜなら、ストランディング調査は、時間との勝負だからだ。

海の哺乳類は、死体で漂着する場合が多く、時間が経てばその個体の腐敗が進み、病理解剖が難しくなる。

出発前の準備はまさに戦場だ。午前中に電話が入り、その日の夜には調査現場近くの宿泊施設にいることもしばしばである。それでも最近は、博物館の車を使えるようになった分、移動はラクになった。

私がこの活動を始めた頃は、電車で現場まで向かうのが当たり前だった。2001年3月に、オウギハクジラが日本海側で1週間に12頭ストランディングしたときも、調査道具をパンパンに詰めた大きなリュックサックを背負い、両手に重い工具箱とバケツを持って、指がちぎれそうになりながら満員電車を乗り継いで行かなければならなかった。

これは私たちにとって大変なだけでなく、周りの乗客にとっても迷惑千万である。ひたすら「すみません」と連呼しながら移動したものだ。夜行バスや寝台列車での移動も珍しくなかったが、荷物を持ち歩かずにすむだけで、天国に思えた。

 

 

調査後の温泉施設で異臭騒動

現場でのストランディング調査は、ニオイとの闘いでもある。

海岸に打ち上がったクジラやイルカの死体は、刻々と腐敗が進んでいく。死後まもない個体なら、家庭で魚をさばくときに経験するような血生臭さ、あるいは内臓のニオイがする程度だが、腐敗が進んだ個体からは、それはそれは恐ろしい強烈なニオイがする。

「臭い、臭い」といいながらも、解剖でひとたびその腐敗個体にふれれば、自分も同じ穴のムジナである。全身にニオイがまとわりついて、私たち自身も同じニオイの発生源となる。ゾンビに嚙まれてゾンビになるが如し、である。

そのため、調査がいったん始まると、途中で現場を離れることはほとんどできない。感染対策としてマスクや手袋を着用し、食料も含めて、必要なものは事前に準備しておくが、唯一、回避できないのがトイレである。

さすがにその場ですますことは無理なので、近くの公衆トイレをお借りすることになる。もちろん、肉片や血のついたカッパ、長靴、手袋などは外し、周囲にニオイがつかないよう細心の注意を払う。それでも、解剖中に顔や髪の毛に飛び散った血しぶきに気づかぬまま公衆トイレへ入り、驚かれることもしばしばである。

 

 

さらに、調査を終えて帰るときも、異臭問題はまだ続く。
博物館の車で帰るときは問題ないが、調査地が遠方の場合、ホテルに宿泊することがある。この場合は、トイレの比ではないほどニオイ対策に神経をすり減らす。

ホテルへ入る前に、カッパなどは密閉度の高い袋に入れ、衣類も着替え、手をしっかり洗い、顔についた諸々のしぶきも拭き取り、髪の毛には除菌消臭剤を「これでもか!」というくらい振りかける。

それでも、完全にニオイは取れない。そのため、チェックインのときは、ニオイを分散するために1人ずつ時間差でホテルへ入るようにしている。エレベーターに乗るときも同様だ。

調査を終えた直後に、飛行機で帰るときはもっと大変である。かりに着替えもせず、そのまま飛行機に乗ったら、異臭騒ぎで離陸できなくなるのは間違いない。そもそも、搭乗手続きの時点で完全にアウトだろう。そのくらいのニオイなのである。

では、どうやって飛行機で帰るのかというと、飛行場へ行く前に、地元の温泉施設でニオイと汚れを洗い流すのだ。じつは、ここでも一悶着ある。

ホテルにチェックインするとき同様、事前にニオイ対策をしてから受付をすませ、女湯へ向かうのだが、温泉施設というのは脱衣所にも湯気が充満している。その湯気に乗って、私たちの体に染みついているニオイが、脱衣所中に拡散し始めるのだ。

そのため、周囲の人が気づく前に、脱衣所でも必ず分散して位置取りをし、素早く衣類を脱ぎ、洗い場へ移動する。それでも異臭騒ぎが頻繁に起こる。異臭を感じた人たちは、まずロッカーやごみ箱を確認し始める。おそらく、赤ちゃんのおむつや吐しゃ物がないかチェックしているのだろう。次にトイレのドアを一つ一つ開けて確認する。

施設のスタッフを連れてきて、外から異臭が入るのを防ぐために窓を閉めることもある。「ああ、それは逆効果なのに……」と伝えたいが、自分たちが異臭源だとわかって追い出されると飛行機に乗れなくなる。「どうぞお許しを」と心の中で謝罪しながら、そそくさと洗い場へ急ぐのである。

そうした経験を何度も繰り返すうちに、脱衣所から洗い場までは、息つく暇もないほど迅速に、そしてニオイを周囲に振りまかないために動作は小さくする、といった所作を身につけたのである。

男性スタッフに聞いてみると、男湯で異臭騒ぎが起こったことは一度もないとのこと。驚きである。ニオイを感じるセンサーに性差があるのだろうか。あるいは、嗅覚の問題ではなく、許容度の違いなのだろうか。

 

※本記事は『海獣学者、クジラを解剖する。』を一部掲載したものです。

 

『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること~』

日本一クジラを解剖してきた研究者が、七転八倒の毎日とともに綴る科学エッセイ


『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること~』
著: 田島 木綿子
発売日:2021年7月17日
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【著者略歴】
田島 木綿子(たじま・ゆうこ)

国立科学博物館動物研究部研究員。 獣医。日本獣医畜産大学獣医学科卒業後、東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学専攻にて博士課程修了。 大学院での特定研究員を経て2005年、テキサス大学および、カリフォルニアのMarine mammals centerにて病理学を学び、 2006年から国立科学博物館動物研究部に所属。 博物館業務に携わるかたわら、海の哺乳類のストランディングの実態調査、病理解剖で世界中を飛び回っている。 雑誌の寄稿や監修の他、率直で明るいキャラクターに「世界一受けたい授業」「NHKスペシャル」などのテレビ出演や 講演の依頼も多い。

海獣学者、クジラを解剖する。

日本一クジラを解剖してきた研究者・田島木綿子さんの初の著書『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること』が発刊された。海獣学者として世界中を飛び回って解剖調査を行い、国立科学博物館の研究員として標本作製に励む七転八倒の日々と、クジラやイルカ、アザラシやジュゴンなど海の哺乳類たちの驚きの生態と工夫を凝らした生き方を紹介する一冊。発刊を記念して、内容の一部を公開します。

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