山に生きた学生登山家『燃えあがる雲 大島亮吉物語』

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評者=飯田年穗

燃えあがる雲 大島亮吉物語

著:深野稔生
発行:白山書房
価格:1980円(税込)

 

 昨今、大学の山岳部は部員不足に悩んでいるところが多いと聞く。しかしその部室が青春の熱気にむせ返っていた時もあった。そんな時代の慶應山岳部員だった大島亮吉。本書は、その短くも鮮烈な輝きを放った生涯を軸に、同時代を生きた学生登山家たちの〈青春群像〉を描いたものだ。

 大島は1899年に生まれ、1928年、積雪期の前穂高北尾根を登攀中に命を絶つ。29年の生涯だった。近代アルピニズムの影響に直接さらされ転換期を迎えていた日本の登山シーンを、フロントランナーとして数々の先駆的な登山を成し遂げ駆け抜けていった。

 各大学の山岳部が産声をあげたこの時期、登山の舞台の主役は学生たちだった。特に大島の周りには、槇有恒、鹿子木員信、板倉勝宣、松方三郎といった登山史を飾る精鋭がそろっていた。

 金剛杖がピッケルに、草鞋が革靴に代わり、アイゼン、スキーの使用、冬季登攀、バリエーションルートの開拓、岩のクライミング、さらには単独行にまで挑戦していた。日本の登山史から見れば、もっとも華やかな時代だったと言っていいのかもしれない。大島はその立役者の一人だった。

 そうした〈山に生き山に逝いた悩める一青年の物語を、古い記憶としてここにとどめおく〉のだと、登山史を研究する著者は言う。だが、それは登山史的な知識を披瀝してみせることではあるまい。登山家でもある著者は、変貌する登山の世界が発信する新たな問いに向き合った大島たちの若々しい応答の消息を、自らも追体験しようとしているようだ。

 いまだ手垢のつかない新鮮な山との出会いの感動、冒険が生の状態で残されていた時代だったのだ。知識や情報が増え装備やテクニックが進化すれば、それにつれて冒険が冒険のままでありえる領域は狭くなってしまう。

 たしかに遭難のリスクは減るだろう。今の目で見れば、彼らのやっていたことは無謀登山のそしりを受けてしまいかねない。事実、かけがえのない友を山で失ってもいた。

 それでも、と大島はおのれの想いを吐露している。〈死ということをふかく考えても、それを強く感じても、なお青春のかがやかしさはその暗さを蔽うてしまう〉。だから、これを甘いロマンチシズムと言ってしまうまい。

 大島は勉強家だった。特に、登山のことはもちろんだが、さらに広く西欧の文化や思想について学んでいた。ヨーロッパ・アルプスをじかに経験する機会はもたなかったものの、身近にはその経験者がいたし、数カ国語を習得することで海外の知識や情報を貪欲に吸収し、国際的な視野を獲得しようと努めていた。アルピニズムとの出会いは大島にとって、山の世界への新たな夢を待望させる啓示だったのだ。

 登山には大義名分や功名を求めてしまいがちだが、むしろそうした競争心から自由になった時、本物の山登りができるはずだ。それを大島は〈おのおのの登山者が心のうちに聳えている未知未踏の山〉に登ることと表現した。私たちにも共感を呼ぶ言葉だろう。

 当時としてはハイレベルなクライミングを実践していた大島だったが、そのかたわら、ふとした想いを書きつけたりもしていた。〈わたしのような貧乏な登山者はこれと言って家への土産を買うこともない。ただあの鋭い都会人に、やわらかい山中の風でも持って帰ろうよ。さあ、樹々よおまえたちの袖の蔭から、おまえたちの持ち合わせの霧や青嵐をわたしの魂の袋にそそいでくれないか。〉

 こんな甘やかな精神のつぶやきを、本書を読んだ方々ならば、今度は大島の作品集『山』(ヤマケイ文庫)をひもといてみてはどうだろうか。

 

評者=飯田年穗

1948年、東京生まれ。明治大学名誉教授。日本山岳会会員。フランスを中心とする西欧近代文化・思想を研究。著書に『問いかける山』(木魂社)、『語りかける山』(駿河台出版社)、共訳に『ボナッティ わが生涯の山々』(山と溪谷社)。 ​​​

山と溪谷2021年10月号より転載)

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