炭焼きから林業への転換期。高度経済成長期前夜の昭和30年代、炭焼きの青年が見た風景とは

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

炭焼きの家に生まれ育った著者・宇江敏勝さんが山の生業や暮らしを綴った記録文学の名著『山びとの記』がヤマケイ文庫で復刊。初版が刊行された40年前、すでに失われつつあった山の営みと文化を本書から一部抜粋して紹介します。

炭焼きから林業へ。昭和33年、日本は高度経済成長期を迎え、里山にも変化が訪れます。

 

現在も宇江さんが暮らす中辺路町野中の風景。向こうは西ン谷(写真=著者提供)

 

私は高校を卒業すると、田辺市で小さな会社に就職したが、三カ月いただけでそこをやめた。仕事や人間関係にも、あるいは町の生活にも魅力を感じなかったのである。ほかにもっとよい勤め口を見つけようという意欲もなかった。そのころ父母は西ン谷で炭を焼いていた。せっかく高校を出してやった息子がまた山へ帰るということについては不満に思ったことだろう。だがもう父は若くはなかったから、新たに労働力がふえるというのは歓迎すべきことでもあった。

町から帰ると、さっそく私は西ン谷へ向かった。昭和三十二年、季節は初夏であった。谷峡の道を奥へ辿ってゆくと、淵の澱みの底まで陽光が映え、山のあちこちには木の花が白く盛り上っていた。青葉吹く風を胸一杯に呼吸して、懐かしさに私の心は弾み、帰るべきところへ帰ってきたという思いがした。

当時の西ン谷には、地元の農協の世話で十数家族が稼ぎに入っていた。山林を区分けしてそれぞれ窯を持っているのだった。学童たちは坂の多い山道を一時間以上歩いて、里の小中学校へ通っていた。パルプ材を伐採する業者も入り、一○人程度が住む労働者の飯場もあった。パルプ材は谷の土場までキンマで集材し、そこから里の道路までは山を越えて長い架線で搬出していた。木炭もやはりキンマで土場まで出し、パルプ業者に運賃を払って架線に積んでもらった。その架線は、後に植林のための物資運搬でまた利用することになる。

はじめ私は父の窯を手伝ったが、炭山が広かったので、半年後にはさらに山の中腹に登ったところに、もう一つ窯を築いた。父の窯とは丘を一つ越えて、三○○メートルほど隔たっていた。窯のそばには自分の小屋を建てて、一人で住むことになった。だが窯の操作にはまだ自信がなかったので、むつかしいところは父に見てもらい、その代償に私は父の窯の木こりもした。

そのころには、私どもは里で比較的便利なところに、小さな家を手に入れていた。ようやく人並みに里の住人になっていたわけである。以来、山中で暮らしていても、そこを戸籍上の住所として今日にいたっている。和歌山県中辺路町野中一○七一番地である。もちろん母も山小屋へ来て仕事を手伝い、弟や妹はそこから学校へ行くこともあった。

俵詰めにした木炭は、キンマ道までは肩に背負って下した。中学生の弟も手伝った。そこから架線の土場まで、キンマを曳くのは私の役目であった。キンマというのは長さ一丈(約三・○三メートル)ほどの橇のことである。幅一メートル余の橇道をつくり、そこには橇が土にめりこまないように、五〇センチ前後の幅に横木を並べてあった。それを盤木といった。盤木の上を橇を滑らせるわけである。キンマ道は集材の土場から谷奥へかけて距離にして二キロほど入っていた。崖や谷を渡らねばならないところは橋を架け、かなり危険なところもあった。パルプ材も木炭も、そのキンマ橇で曳いて運んだのである。

キンマには一度に二〇俵近い炭を積んだ。曳き綱を肩にかけ、梶棒を握りしめ、身体を傾けて曳くのである。キンマ道は水平もしくは下り勾配につくられている。水平な道で重いときには、盤木に機械油を塗って滑りやすくした。そのうえ力をふり絞って曳かねばならなかった。道が下り勾配になると、こんどは逆に橇が勢いづいて走ろうとする。ブレーキをかけながら梶棒を操ってそれを制御するのがまた大変だった。操作を誤ると、キンマもろとも谷底に転落することにもなりかねない。帰りはからになったキンマをかついで戻った。それは樫の木で頑丈につくられており、相当な重さで肩にくいこんだ。

キンマ曳きのほかにきつい作業といえば、やはり窯出しと窯くべである。親子で二つの窯を焼いていると、その両方の窯出しが重なることもあった。ぶっつづけに二つの窯の炭を出し、そのうえ木入れをして、昼夜そしてつぎの日の昼も働きつづけたことがある。きつい作業はもちろん苦痛に感じたが、そのために意気銷沈するということはあまりなかった。私は二十歳だった。若い肉体は痛めつけられても一晩眠ると疲れも癒え、その後ではさらに力を増して甦った。

二十歳の私は、自分の人生をどういうふうに考えていただろうか。読書の癖はすでに身についていた。ときおりバスで往復四時間ほどもかかって、町の高校へ行き、重いほどの分量を借りてきた。それをランプの明りで読んだ。机も椅子も木を切って自分でこしらえたものである。山へ木を伐りに登るときもポケットに文庫本を入れて、しばしば仕事をさぼって読みふけった。文学書をはじめとして、哲学や宗教に関するものも多かった。経済学の古典なども、文庫を買って読もうと試みた。知識欲や思考欲は旺盛だったが、たとえばPさんのように学歴を得て有利な職業に就こうなどとは考えてもみなかった。社会というものには興味があったが、自分がそこで拘束されることを想像すると、踏みこんでゆこうという気にはなれない。よい地位や富を手に入れるなど、くだらないことに思われた。私は自然に対していつも共感をおぼえ、そのなかでの精神の自由ということを大切に考えていた。それは若者らしい観念的な美意識であった。炭焼きもまた社会からひどく拘束された存在であるということを、知らないわけではなかったのだが。

昭和三十三年ごろになると、西ン谷の炭焼きも減りはじめた。早く焼き終わった者から山を去るのである。時あたかも全国的に木炭の生産が急下降を始めた時期であった。われわれの地方でも、炭焼きから他の職種への転業が目立った。私のような若者はすでに少数派であったから、窯を捨てるのは主としてつぎの壮年層である。近代化の波が山村までも押し寄せ、山小屋暮らしの味気なさが際立って感じられるようになったことも、それに拍車をかけた。いわゆる経済の高度成長時代が、もうすぐそこまできていた。

都市の住宅建設や製紙産業の好景気にともなって、木材の需要はひきつづき増大していた。だが戦後十数年間の濫伐によって、山間奥地の木材の蓄積も底の見えた状態であった。当然一方では植林が促進されていた。植林すべき面積は広範囲にわたり、山村の人びとの主な職場となったのである。窯を離れた炭焼きも、多くはそこに吸収されていった。

人工造林はそれ以前も一部の山林家の手で行なわれていたが、地域をあげて取り組むようになったのは、昭和二十年代の後半からである。植林すべき山は、里の近くにもあった。一つは採草地である。それまで田畑に入れる肥料として草を刈っていた野原が、化学肥料の普及によって、荒れ地となっていた。つぎに自家用の薪や炭をとっていた山があった。私どもの村でも昭和三十年代のはじめにはプロパンガスが使用されるようになり、薪山を残しておく必要がなくなった。植林をすれば国から補助金があり、わずかな面積でも商品として売買されるようになった。

造林は里近くから、さらに奥山へと拡大されてゆく。そこには戦前戦後の需要期に、炭をとったあと放置された雑木山があった。またパルプ材を濫伐した跡地は山崩れをおこして、治山治水の面からも植林を急がねばならない。これまでの自然林を伐り払い、それに替えて主として杉と檜を植えた。それはわずか二、三十年のあいだに、広大な山々の景色を一変させる出来事であった。

西ン谷も例にもれず、炭焼きが引揚げるのを待って、植林事業が計画されていた。昭和三十三年、ほかの人びとと前後して、私どもも西ン谷での炭焼きを終えた。それから父はさらに谷から出た本流の川のそばで窯を築いた。西ン谷で稼いでいた人びとは方々に散って、ある者は父のようにべつの山で炭焼きを続け、ある者は造林の労働者として傭われた。田辺市に出て保険会社のセールスマンになり、顔見知りであることを頼りに、私のところへ勧誘にきた男もいた。

私は父と別れて地元の森林組合に傭われることになった。造林の作業員として、一年後にふたたび西ン谷に入ることになるのである。だがそれを限りに炭焼き仕事と訣別したわけではない。造林のあいまにしばしば父の炭窯を手伝うのである。その後も父は、中辺路町内の宇井郷、高尾山と窯を移してゆき、遠く熊野川町日足の山へ出向いていたこともあった。さらにまた町内の上地にもどって、昭和四十三年十月二十七日の死ぬ前日まで炭焼きを続けた。もはや老人であったから、私もときどき様子を見にゆき、長くて二、三カ月、短くて一夜の窯出し作業をともにした。二人分の一夜の焼酎の量を三合と決め、ランプや松篝りの明りの下で飲み交した情景はいまも忘れがたい。しかし炭焼きに関してはひとまずここで筆をおく。

※本記事は『山びとの記 木の国 果無山脈』を一部掲載したものです。

 

『山びとの記 木の国 果無山脈』

郷愁を呼び覚ます、記録文学の名著。
紀伊半島で育まれた山林労働の歴史と文化、そして思考。
奥深い熊野の山小屋から生まれた稀有な山の自叙伝がヤマケイ文庫で復刻。

編集部より

このたび弊社では、宇江敏勝さんの『山びとの記』をヤマケイ文庫に収録・刊行しました。

先祖代々、炭焼きの家に生まれ育った著者が、山仕事に従事するかたわら自らペンをとった記録文学は1980年に中央公論社から刊行されたのち、2006年に新宿書房のシリーズに収められたものです。

初版から40年たちますが、在りし日の伝統的な山の生業や暮らしを克明に記した本作は、昭和の貴重な林業史となっており、また、“山びと”としての来し方を振り返る文章は静謐であたたかく、日本の風土や自然に対する郷愁を呼び覚ましてくれます。


『山びとの記 木の国 果無山脈』
著: 宇江 敏勝
発売日:2021年9月18日
価格:1100円(税込)​

amazonで購入


【著者略歴】
宇江敏勝(うえ・としかつ)

1937(昭和12)年、三重県尾鷲市の炭焼きの家に生まれる。和歌山県立熊野高校を卒業後、紀伊半島の山中で林業に従事するかたわら、文学を学ぶ。作家、林業家。新宿書房より、「宇江敏勝の本」シリーズ(全15冊)、「民俗伝奇小説集」(全10巻)などがある。

山びとの記

郷愁を呼び覚ます、記録文学の名著。 紀伊半島で育まれた山林労働の歴史と文化、そして思考。 奥深い熊野の山小屋から生まれた稀有な山の自叙伝がヤマケイ文庫で復刻。

編集部おすすめ記事