ピオレドール生涯功労賞受賞者・山野井泰史の軌跡を振り返る 〜ダイジェスト〜

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

文=萩原浩司

ブリアンソン近郊の登山道でトロフィーを掲げる山野井泰史
ブリアンソン近郊の登山道でトロフィーを掲げる山野井泰史

2021年11月27日、山野井泰史さんは「クライミング界のアカデミー賞」とも称されるピオレドール(金のピッケル)賞の生涯功労賞を受賞しました。これは、アルパインクライミング界で著しい業績を残し、次世代のクライマーたちに多大なる影響を与えた者に対して贈られる賞で、これまでにラインホルト・メスナーなど12名のクライマーが受賞しています。13人目の栄誉を受けることになった山野井さんは、事実上、クライミング界のレジェンドに肩を並べることになったわけです。これを機に、あらためて山野井さんのクライミング人生を振り返ってみることにしましょう。

Part 1

小学生のころの山野井泰史さん

山野井さんは小学生のころから山好きな叔父に連れられて山に親しんできました。写真は小学校5年生、11歳のときに登った奥多摩の山での一場面。その翌年にテレビで放送されたフランスの山岳映画「モンブランへの挽歌」の、ヨーロッパ・アルプスの美しい映像に魅せられて、将来はクライマーになると心に決めたのです。

ロッククライミングに目覚める

中学生時代にロッククライミングを始めます。最初は近所の石垣登り、それから日和田山や鋸山のゲレンデでトレーニングを積み、3年生のときに社会人山岳会の日本登攀クラブに入会。谷川岳の一ノ倉沢や穂高岳の滝谷、屏風岩など、日本を代表する岩場を登るようになります。八ヶ岳の冬季登攀など、本格的なバリエーションルートにも挑戦するようになりました。高校生になると、谷川岳のクラシックルートをロープなしで単独登攀する等、一足飛びにクライミングのグレードを上げていきました。この頃の彼の過激な登り方を見ていた周囲のクライマーたちは、彼を「天国に最も近い男」などと呼ぶようになります。

冬の八ヶ岳、赤岳山頂にて(1981年)
冬の八ヶ岳、赤岳山頂にて(1981年)

ヨセミテ渓谷でのクライミング修行の日々

高校を卒業すると、渡米してクライマーの聖地・ヨセミテでのクライミング生活を送るようになります。84年から87年まで、各年3ヶ月ほど、現地でアルバイトをしながら長期滞在。当時、最も難しいとされていたグレード5.13の「コズミック・デブリ」を目標に登り続けて登攀に成功します。5.13というグレードは、当時の上限だったのです。

しかし同ルートが再登者によって5.12dにグレードダウンされたことを知ると、翌年、5.13bのグレードが確定されているコロラドの「スフィンクス・クラック」に目標を再設定。ロサンゼルスの中華料理店で皿洗いのアルバイトをして資金を貯め、3月15日、カリフォルニアからコロラドへと車で移動して4月1日、完登。5.13の実力を証明しました。続いての目標はビッグウォールへの挑戦です。エル・キャピタンの「ラーキング・フィア」(Ⅳ/5.10、A3)の単独第3登を果たしたのち、余勢を駆って渡欧。87年には「ドリュ西壁 フレンチダイレクト」の単独初登に成功します。

84年に登ったセパレート・リアリティ(5.11b)
84年に登ったセパレート・リアリティ(5.11b)

1988年 バフィン島トール西壁単独初登

山野井さんが次の目標に掲げたのが、カナダ北極圏のバフィン島にそびえるトール西壁でした。スノーモビルを使って海を渡った後、10日間歩いてようやくその姿を目にすることのできる巨大な岩壁です。通信手段もなく、事故を起こしても救助が望めない僻遠の地で、山野井さんは標高差1400mの岩壁を8日間かけて単独での初登攀(通算第3登)に成功しました。頻発する落石に怯え、風雪に痛めつけられ、孤独に耐えながらの32ピッチ、5.9、A4(オリジナルピッチ数11)の登攀でした。この記録はクライミング専門誌『岩と雪』131号に大きく取り上げられ、「ソロクライマー・山野井泰史」の名は広く知れ渡るようになるのです。

バフィン島の巨大岩壁、トール西壁に向かう
バフィン島の巨大岩壁、トール西壁に向かう

1990年 フィッツ・ロイ冬季単独初登攀

カナダ北極圏バフィン島トール西壁を登った後に彼が目指したのは、南米パタゴニア地方、フィッツ・ロイの冬季単独登攀でした。1989年に挑戦したときは、マイナス30度の寒気、風速30メートルの強風といった過酷な気象状況と、猛烈な孤独感に襲われて断念。90年に再挑戦して雪辱を果たすことになります。「嵐の大地」と呼ばれるパタゴニア地方の、厳冬期という最も厳しい自然条件の下、地域特有の烈風をかいくぐっての歴史に名を残す登攀でした。

フィッツ・ロイをバックに(1989年)
フィッツ・ロイをバックに(1989年)
1989年、冬季単独初登攀をめざして
1989年、冬季単独初登攀をめざして
パタゴニアの岩峰、フィッツ・ロイ
パタゴニアの岩峰、フィッツ・ロイ


*****

Part 2

1992年 アマ・ダブラム西壁冬季単独初登

北米と南米で多くの登攀記録を残した山野井さんは、91年からヒマラヤの高峰を目指すようになります。高所の経験を積むためにブロードピーク(8047m)にノーマルルートから登ったのち、目標とした山は峻険な山容で知られるガッシャブルムⅣ峰(7925m)の未踏の東壁。しかしトレーニングを兼ねた冬の富士山での歩荷仕事中に落石に遭い、左足を骨折。約半年間のリハビリ後、目標をメラ・ピーク(6473m)西壁の新ルート開拓と、アマ・ダブラム(6812m)西壁の冬季・単独・アルパインスタイルでの登山計画とします。

メラ・ピークでは壁に取りついて6日目、ようやくヘッドウォールにたどり着くのですが、登路に予定していたクラックが見当たらずに断念。下山後、アマ・ダブラムに転進し、西壁の冬季単独初登に成功します。西壁全体を見ても、冬季通算第2登の記録となりました。

アマ・ダブラム西壁の登攀ルート
アマ・ダブラム西壁の登攀ルート

1994年 チョ・オユー南西壁新ルート単独登攀

世界で6番目に高いヒマラヤの高峰、チョ・オユー(8188m)は、8000m峰のなかでは比較的登りやすく、公募登山隊がエベレストに登る前のトレーニングの山として多くの人に登られていました。しかしそれは北面のノーマルルートの話。山頂の南側は切り立った壁になっており、先鋭的なクライミングを目指すアルパインクライマーにとっては、より困難で美しいルートを切り拓くための絶好のカンバスでもあったのです。山野井さんはチョ・オユーの南西壁に、単独で、アルパインスタイルによる新ルートからの登頂に成功します。

当時、8000m峰を新ルートから単独で登った記録は、ラインホルト・メスナーのナンガ・パルバット西壁などごく一部に限られており、画期的な登攀であったことは間違いありません。29歳の山野井さんにとって、ヒマラヤでのひとつの大きな夢がかなった瞬間でもありました。

単独・アルパインスタイルで新ルートを拓いたチョ・オユー南西壁
単独・アルパインスタイルで新ルートを拓いたチョ・オユー南西壁
チョ・オユー頂上に立つ山野井さん
チョ・オユー頂上に立つ山野井さん

1996年 マカルー西壁への挑戦

1996年には当時、いや、現代でも「ヒマラヤ最大の課題」と呼んで差し支えないであろうマカルー(8463m)西壁に挑戦します。しかし標高7300m付近でヘルメットに落石を受けて登攀の継続を断念。アクシデントを理由にした撤退となってしまいましたが、山の困難度と自分の技術・体力・スピード・精神力の測り方を間違えていたと後に述懐されています。翌97年にはチベット奥地の難峰、ガウリシャンカール(7134m)の未踏の北東稜を目指しますが、雪質が不安定であったために断念。98年はマナスル(8163m)北西壁新ルートに挑みますが、標高6100m付近で雪崩に流されて埋没し、パートナーの妻・妙子さんに掘り出されて九死に一生を得ました。99年にはフランスの山岳雑誌から見つけたビッグウォール、ソスブン無名峰(6000m)に向かうのですが、激しい落石の危険から登攀を断念しています。96年以降、98年春にクスム・カングル(6367m)東壁で満足のいくフリー・ソロで成功した以外は、主目標の敗退が続いていました。

マカルー西壁の登攀ルート
マカルー西壁の登攀ルート
マカルー西壁に挑む
マカルー西壁に挑む

2000年 K2南南東リブを無酸素・単独登頂

2000年。「稀代のアルパインクライマー」と誰もが認めるポーランドのクライマー、ヴォイテク・クルティカからの誘いがあり、二人でK2(8611m)の未踏の東壁を目指すことになります。しかし現場でルートを仔細に観察すると、どうしても雪崩の危険を避けられそうになく、東壁の登攀は断念。帰国するクルティカと別れた山野井さんは、南南東リブからの単独登頂に計画を変更します。ベースキャンプをひとりで出発し、29時間後には標高7900メートルのショルダーに到達。そのまま48時間で登頂を果たしました。もちろん酸素は使っていません。これは同ルートの当時の最速登頂記録でもありました。

ベースキャンプから見たK2
ベースキャンプから見たK2
K2山頂の山野井泰史
K2山頂の山野井泰史

2002年 ギャチュン・カン北壁第2登

ギャチュン・カン(7952m)は、8000m近い標高を持ちながらも急峻な岩壁を擁した険しい山容で知られる山です。山野井さんは未踏の北東壁を単独で登る計画を立てていたのですが、実際に目にした北東壁には手掛かりとなる岩の節理が少なく、下降のことを考えると単独での挑戦は危険と判断。ルートを北壁に変えて、妻の妙子さんとともにスロヴェニア・ルートの第2登へと計画を変更します。

2002年10月5日にベースキャンプを出発。3日後、標高7500mから頂上を目指し、山野井さんだけが登頂に成功します。しかし同夜から天候が悪化。翌日は激しい風雪の中の下降となってしまいます。雪崩の巣と化した北壁で雪崩に飛ばされ、ロープ1本で宙吊りとなりながらもふたりは危地を脱出。さらに高所ビバークの影響で一時的に視力を失いながらも冷静に懸垂下降を続け、10月13日、ベースキャンプへの帰還を果たしました。

しかし生還の代償は大きく、重度の凍傷に侵された指は切断せざるを得ませんでした。山野井さんは右の足指のすべてと、手の指を5本失うことになったのです。

ギャチュン・カン北壁
ギャチュン・カン北壁
生還の代償として、凍傷に侵された指の切断は免れなかった
生還の代償として、凍傷に侵された指の切断は免れなかった


*****

Part 3

2005年 復活の登攀。ポタラ峰北壁単独初登

2002年のギャチュン・カンからの生還は、山野井さんのその後のクライミング人生に大きな影響を及ぼすことになりました。手足で計10本の指を失った翌年は、奥多摩のハイキングから再出発。地道にトレーニングを続け、2年後の2004年にはクライミングも5.11まで登れるようになります。そしてリハビリを兼ねて訪れた中国・四川省のトレッキングで目にしたポタラ峰(5428m)北壁に単独で挑戦します。しかし結果は散々で、標高差800mの岩壁の3割も登ることができませんでした。このときの反省を生かしてクライミング、特にクラック・クライミング技術を強化します。国内では瑞牆山の難ルート「現人神」(5.12c)に成功し、満を持して2005年7月にポタラ北壁に再挑戦。時折り冷たい雨が降る悪条件のなか、7日間をかけて初登攀に成功します。山野井さんはこのルートを「加油(中国語でジャイオ=頑張れの意味)」と名付けました。

ポタラ峰北壁全景と登攀ルート
ポタラ峰北壁全景と登攀ルート

2011年 タフルタム北西稜敗退

2009年、9年ぶりにヒマラヤの高峰、クーラ・カンリ(7538m)を単独で目指しますが、雪崩の危険が高く、目標をカルジャン(7221m)に変更します。しかしそれまでに経験したことのない高山病の症状が現れて登攀を断念。2008年に奥多摩の山道でランニング中に熊に襲われたときの後遺症(顔面を噛まれ、顔に70針、右腕に20針を縫う重症だった)のために、スムーズな鼻呼吸ができなくなっていたことが影響していたのかもしれないと述懐しています。

2年後の2011年には、パキスタンのタフルタム(6651m)の美しい山容に魅せられて単独登攀に挑みますが、核心部の手前にて敗退。カルジャン同様、高所順応能力が著しく落ちているのを痛感されます。下降中に、高峰での単独登攀に対する未練をきっぱりと捨てることになりました。

鋭く美しいタフルタムの山容
鋭く美しいタフルタムの山容

2012年 ヨセミテでヘブン(5.12d)に成功

タフルタムでの敗退以降、高所登山、ビッグウォール、アイスクライミング等、すべての分野において、凍傷で指を失う前のレベルに近づけたいとの思いを整理し、課題をひとつに絞るように考えを変えていきます。その目標とはヨセミテのヘブン(5.12d)。2010年、12年ぶりにヨセミテを訪れて挑戦しますが、このときは登ることができず。2012年、国内でのトレーニング成果を試すべく再訪して5日目のこと、執念のクライミングで完登を果たしました。余勢を駆ってカナダのバガブー山群でサウスハウザータワーのカタルーニャルートなどを登攀。それからスコーミッシュの岩場に向かい、ゾンビルーフ(5.13a)のレッドポイントにも成功します。

3年越しの美しい課題、ヘブン(5.12d)を完登
3年越しの美しい課題、ヘブン(5.12d)を完登

2013年 ペルーアンデスでのふたつの登攀

2013年、山岳会の後輩にあたる野田賢とともにアンデスの遠征に向かいます。以前から注目していたプスカントゥルパ東峰(5410m)南東壁とトラペシオ(5653m)南壁を登攀。高所順応のために登ったピラミデ(5885m)も含め、3山の登頂に成功しました。プスカントゥルパ東峰とトラペシオ南壁は新ルートからの登攀になります。これらの登攀で、山野井さんは第8回ピオレドール・アジアを受賞。実は山野井さんは2011年にピオレドール・アジアの生涯功労賞を受賞していたのですが、そのときの「僕はまだ現役なんだけどな…」という発言を、実際の行動で示すことになったわけです。

プスカントゥルパ東峰南東壁
プスカントゥルパ東峰南東壁
困難を極めたトラペシオ南壁の下降
困難を極めたトラペシオ南壁の下降

2017年 インドヒマラヤ ルーチョ峰初登頂

2017年8月、後輩の古畑隆明とともにインドヒマラヤの無名峰(5970m)の初登頂に成功し、ルーチョ(ラダック語で角の意味)と命名します。ふたりはその前年、遠山学と3人でエベレスト近くのアビ(6097m)に挑み、5650m地点で敗退した経験があったため、その雪辱を晴らすという意味でも幸せな初登頂となりました。

ルーチョの登攀ルート
ルーチョの登攀ルート

そして今……

2020年、山野井夫妻は長年、住み慣れた東京都奥多摩の山中から静岡県伊東市に住まいを移しました。現在は家の近くにある城ヶ崎海岸の岩場で、新たなルートやボルダーの課題を作り続けています。現在の海外の目標は、イタリア・オルコ渓谷のグリーンスピッツ(5.13d)。2度の挑戦を退けてきたこのルーフクラックに、今後も挑み続ける予定だそうです。

そして将来、コロナ禍が落ち着いた暁には、ヒマラヤやアンデスの高峰にきっと彼は戻ってくることでしょう。アジア地区からは初、そして歴代最年少のピオレドール生涯功労賞受賞者となった山野井泰史さんの、今後の活躍に期待したいものです。

2021年、城ヶ崎海岸、「炎の導火線(二段)」を完登する
2021年、城ヶ崎海岸、「炎の導火線(二段)」を完登する

プロフィール

萩原浩司(はぎわら・ひろし)

1960年栃木県生まれ。青山学院法学部・山岳部 卒。
大学卒業と同時に山と溪谷社に入社。『skier』副編集長などを経て、月刊誌『山と溪谷』、クライミング専門誌『ROCK&SNOW』編集長を務めた。
2013年、自身が隊長を務めた青山学院大学山岳部登山隊で、ネパール・ヒマラヤの未踏峰「アウトライアー(現地名:ジャナク・チュリ/標高7,090m)」東峰に初登頂。2010年より日本山岳会「山の日」制定プロジェクトの一員として「山の日」制定に尽力。
著書に『萩原編集長危機一髪! 今だから話せる遭難未遂と教訓』、『萩原編集長の山塾 写真で読む山の名著』、『萩原編集長の山塾 実践! 登山入門』など。共著に『日本のクラシックルート』『萩原編集長の山塾 秒速!山ごはん』などがある。

Yamakei Online Special Contents

特別インタビューやルポタージュなど、山と溪谷社からの特別コンテンツです。

編集部おすすめ記事