第1章 ルートと計画|宗谷岬から襟裳岬~670㎞63日間の記録~

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北海道の宗谷岬から襟裳岬へ、積雪期の分水嶺をたどる670kmの単独行。2ヶ月余りに及ぶ長期登山の成否は、その計画にかかっていた。いつ歩くか、北上か南下か。食料はどれだけ必要か。登山計画を練り上げ、食料のデポなど、納得のいく計画ができあがるまでには1年半を要した。第1章では、ルートの決定と食料計画立案を振り返る。

文・写真=野村良太

2016年3月、大雪山系ニペソツ山。
雪山の魅力は筆舌に尽くしがたい

 

第1章 ルートと計画

計画を思いついたのは序章で紹介した、工藤英一氏の著書『北の分水嶺を歩く』(山と溪谷社)であとがきを読んだのがきっかけだった。だから通過ルートに悩むことはなかった。北海道を南北に連なる稜線を一つなぎに縦走する。北海道最北端の宗谷岬を出発して南端の襟裳岬まで。総距離670㎞の間に、街はない。いくつかの峠を除けば、ひたすらに山岳地帯が続いている。こんな魅力的なラインはほかにないのではないか。とはいえ本当に一気に縦走できるのだろうか。どれだけ綿密に準備をしても成功率はせいぜい30~40%程度だろう。一方でこれまでの長期縦走の経験値や体力・技術のバランスを考えれば、やるなら今だ。それがこの計画への第一印象だった。

計画に当たって考える必要があったのは大きく分けて以下の5点だ。

①日数は何日確保するのか

②1日当たりの食料

③出発の時期

④出発する場所(宗谷岬から南下、または襟裳岬から北上)

⑤デポの数

一つずつ、今回の計画と、その判断に至った経緯を記したい。

まず①の日数についてだ。この判断こそが今回の計画の最大の肝となっているといってよい。北海道の雪山において、40㎏を超えるザックを背負っての縦走は、これまでの経験上、1時間に1㎞からせいぜい2㎞進むのがやっとであることが多い。つまり、1日10時間行動したとしても十数㎞進むのが限界で、670㎞歩くとなると計算上は50日程度が必要となる(13㎞×50日=650㎞)。だが、これはあくまでも机上の空論であり、実際には前日の降雪でラッセルが深ければ、10㎞も進めないことなど充分にあり得る。もちろん悪天候で停滞すれば、その日の移動距離はゼロだ。天候と雪が許せばスキーで20㎞進める日もある一方、日高山脈はその険しさから、順調に行っても10㎞も進めないだろう。そのような経緯から、今回の計画では理論上可能だと考えた50日に対して2週間分の予備日を含めた64日間での計画とした。


宗谷岬から襟裳岬への分水嶺を示すライン。
計670kmに及ぶルートだ


そして②の食料について。1日当たりのカロリーについてはこれまでの経験則をベースに3000kcal以上は必要であると考えた。そのあと参考にしたのは、極地探検をしている冒険家の食料事情だ。彼らはたいてい1日5000kcal程度準備している。それでも一日に7000kcal消費するからどんどん痩せていってしまう。彼らの舞台は−30℃を下回る世界である一方、こちらはせいぜい−20℃程度であること、彼らはそりなどを使っているのに対して、こちらはザックですべてを背負わなければいけないことから、3500kcal/1日とすることで落ち着いた。

食料はできるだけ軽くてカロリーがあるものだけで構成した。500kcal/100g未満のものはできるだけ使わないと決めたが、例外としてビタミン不足解消を意識してフルーツグラノーラを追加。気休め程度に一日一錠のビタミン剤(マルチビタミン)も準備した。主食は1食100gのアルファ化米を1日3食(64日間で192食分)だ。おかずとなるのは学生時代から作っていたペミカン約30〜40g(アメリカ先住民の伝統的な保存食を日本風にアレンジしたもの。豚ひき肉を炒めて水分を飛ばし、塩胡椒で味付けした後に牛脂やバターで固める。水分がなくなることで腐りづらくなり、また軽量化することもできる)だ。アルファ米、ペミカン、それに乾燥野菜と高野豆腐をジェットボイルにひとまとめに入れ、フリーズドライのスープで雑炊のようにする。


準備した食料は全部で50㎏超。
マヨネーズは先輩ガイドから受け売りのこだわり

学生時代から長期山行のたびに作るペミカン。
この後カリカリになるまで炒めて水分を飛ばす


調理ストーブはジェットボイルのみ。燃料節約のため、雪を溶かして作った水でアルファ化米を戻す。お湯だと15分で戻るが、水なので1時間待つ。あとは具材を入れ、ジェットボイルに移して食べごろの温度まで上げるだけだ。こうすれば水を沸騰させる必要がないので、ガス缶1つで7〜10日もたせることができる。64日間の計画なので燃料は9缶+予備の小缶を準備した。

行動食はもっぱらビスケットとチョコレートにナッツ類。そのほかに紅茶用の砂糖を3㎏、カロリー要員としてマヨネーズ2.2㎏などを用意した。64日間毎日ほとんど同じものを食べ続けることになる。バリエーションにははなはだ乏しいのだが、そこは我慢するほかない。食料計画の反省と考察はまたの回でじっくり記したい。

次に考えるのは③出発の時期だ。まず知っておく必要がある事実として、今回の670㎞に及ぶルートにおいて、登山道が整備されている区間は大雪山などのメジャールート以外にはほとんどない。そして、ほとんどの登山道がない区間(全体の90%)は夏には鬱蒼としたヤブに覆われており、雪の積もる時期にしか縦走することはできない。このことから、大まかに積雪期に縦走するということは迷わなかった。しかし、具体的に何月何日に出発するのかというのが、悩みの種だった。③を考えるに当たって、④南下or北上の選択はこの計画を支える重要な背骨となるはずだ。考慮すべきは、時期による山域ごとの積雪量と、標高にも依存する融雪スピード(残雪量)だ。北海道分水嶺は大きく分けて以下の3つの山域に分類することができる。

●比較的積雪は多いが、標高が低く融雪が早い道北エリア(宗谷丘陵・北見山地)

●2000m超えに加えて多雪のため雪不足は心配ないが、気象条件が厳しい大雪山エリア(石狩山地)

●太平洋側に面し比較的少雪な一方、技術的難易度の高い日高山脈エリア(日高山脈)

悩みに悩んだ結果、積雪が充分にある時期に道北を越え、技術的難易度の高い日高を雪が落ち着く後半に回すことができることから、南下を選んだ。日高が5月にずれ込むと今度はヤブこぎの心配が出てくるから、4月末から64日逆算して、2月26日に出発することに決めた。

最後は⑤デポの数だ。ここで考えるべきは背負える重量に限界があるということだ。単独知床半島全山縦走(2019年2月20日〜3月4日、13日間)や単独日高山脈全山縦走(2019年3月14〜30日、17日間)といったこれまでの経験から、一度に背負える重量の限界はおよそ45㎏程度だという感覚を得ていた。50㎏になると歩けなくなるわけではないが、それまでに比べると明らかにペースが落ちるのである。食料を増やしたせいでペースが落ちて日数が増えるのでは本末転倒だ。①日数は64日間、②食料は3500kcal/1日と決めたので、総計約22万kcal、重さにして50㎏を越える食料を準備した。食料を除いた登山装備が30㎏近くあるので、一度に持てる食料は最大で15㎏ほどだ。

これらを勘案して、宗谷岬の出発時は17日分を背負い、第1デポ地点をピヤシリ山避難小屋(210㎞地点、9日分)、第2を天塩岳避難小屋(314㎞地点、10日分)、第3をヒサゴ沼避難小屋(424㎞地点、8日分)、第4を佐幌山荘(481㎞地点、20日分)と決める。1か所当たりのデポの重量は8〜15㎏程度だ。佐幌山荘以降、日高山脈の区間にもう1カ所置けると理想的だったのだが、日高はその原始性ゆえ、稜線上に一切小屋がない。紛失などのリスクの高いデポは設置しないこととした。


食料はExcelでカロリー計算をして
どのデポにどれだけ置くかを準備した

最初のデポ地点となったピヤシリ山避難小屋。
デポはすべて事前に自分で行なった


このように書き連ねると、計画が成功したことを知っている読者の皆さんは、さも緻密な計画通りに事が運んだかのように錯覚するだろう。確かに今回の計画では結果的にこれらの判断が功を奏したと思っている。

だがその裏には、ちょうど1年前の、大失敗ともいえる撤退が大きく関わっている。この挑戦は、そのことなしでは語れない。次回は、そのあたりについて詳しく記したい。

プロフィール

野村良太(のむら・りょうた)

1994年、大阪府豊中市生まれ。日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡ、スキーガイドステージⅠ。大阪府立北野高校を卒業後、北海道大学ワンダーフォーゲル部で登山を始める。同部62代主将。卒部後の2019年2月積雪期単独知床半島全山縦走(海別岳~知床岬12泊13日)、2019年3月積雪期単独日高山脈全山縦走(日勝峠~襟裳岬16泊17日)を達成し、「史上初ワンシーズン知床・日高全山縦走」で令和元年度「北大えるむ賞」受賞。2020年卒業。2021年4月、北海道分水嶺縦断途中敗退。2021年春からガイドとして活動を始める。2021年4月グレートトラバース3日高山脈大縦走撮影サポート、6月には大雪山系大縦走撮影サポートほか。2022年2〜4月、積雪期単独北海道分水嶺縦断(宗谷岬~襟裳岬670km)を63日間で達成。同年の「日本山岳・スポーツクライミング協会山岳奨励賞」「第27回植村直己冒険賞」を受賞した。

積雪期単独北海道分水嶺縦断記

北海道の中央には宗谷丘陵から北見山地、石狩山地、日高山脈が連なり、長大な分水嶺を構成している。2022年冬、雪に閉ざされたその分水嶺を、ひとりぼっちで歩き通した若き登山家がいた。テントや雪洞の中で毎夜地形図の裏に書き綴った山行記録をもとに、2ヶ月余りにわたる長い単独登山を振り返る。

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