北アルプスの自然に囲まれた土地で、「小さな農」から少しずつステップアップ。
自治体からのサポートを受けながら憧れの「半農ライフ」を実現しませんか?
市民農園で和気あいあいと野菜づくり
大町市
みんなでサツマイモを収穫
松川村
ワイン用ブドウの収穫
池田町
古民家のある穏やかな農村風景
小谷村
大根の種まき
白馬村
冷涼な気候がきりりとしたりんごを育てます
大町市
移住者グループで、初めての米作り
松川村
秋の田園風景
池田町
壮大なアルプスの雪景色を望む
小谷村
冬に備えて沢庵漬の準備
白馬村

取材・文=大関直樹 構成=ヤマケイオンライン編集部 写真=熊野淳司(インタビュー)、北アルプス広域連合 取材協力=北アルプス広域連合

自然豊かな地方に移住して、何か新しいことを始めたいと考えたとき、真っ先に思いつくことが「農業や自給農」ではないだろうか。自分の手で育てた野菜や果物で季節の移り変わりを感じ、旬の味覚を楽しみながら身も心も健康になる。そんな生活をしてみたいと思っている人は多いだろう。以前なら、知識ゼロで「農ある暮らし」を始めるのはハードルが高かったが、最近は地方自治体に就農相談窓口が設けられるなど、「半農ライフや就農」に対する支援制度が充実してきた。支援金など資金面でのサポートを受けられることもある。そこで、北アルプス山麓の5市町村に「農ある暮らし」の現状について聞いてみた。


小谷村 小谷村は傾斜地に位置する集落も多く耕地面積が小さいため、農業で生計を立てるのは難しいですが、家庭菜園ならば可能です。ただし、野生鳥獣(ニホンザル、ツキノワグマ、カモシカ、ニホンジカ、イノシシなど)対策が必要です。その方法として電気柵がありますが、小谷村は豪雪地のため季節ごとに設置と撤去を行なう労力が必要です
白馬村 「半農ライフ」という言葉は、時代の流れにより職業やライフスタイルが多岐にわたるようになって生まれてきたものだと感じます。民宿発祥の地とも言われる白馬村は、冬季は民宿、それ以外の季節は農業という暮らしが昔から営まれてきました。そのため、改めて「半農ライフとは?」と尋ねられると考えてしまいますが、自然と向き合いながら晴耕雨読のライフスタイルということになりますでしょうか。白馬村には農業を教えてくれる先生はたくさんいますし、市民農園もあり、先輩移住者との交流もできたりするので充実した「半農ライフ」を送ることができると思います
大町市 大町市は、冷涼で晴天率の高い「気候」、良質な「土」、そして自慢の「水」に恵まれています。特に寒暖差のある気候が生んだりんごを始めとし、北アルプスの恩恵を受けて育った農作物の味は格別です。朝採りのキュウリやナス、完熟トマトなど、自分で作った野菜は逸品中の逸品といえるでしょう。「もっと美味しく作りたい」、「畑の隅にブルーベリーを植えてみよう」など、「農ある暮らし」は、わくわくしかありません! 雑草や害虫、有害獣との格闘はつきものですが、大町市は、畑で汗を流す暮らしが日常的に楽しめる場所です。もし、野菜づくりに失敗しても、ご近所からおすそ分けなんてこともよくあります(笑)
松川村 松川村は、安曇野の原風景を残す村として、美しい田園景観が広がっています。「農ある暮らし」を求める移住希望者は多く、本格的に就農を目指す方から家庭菜園を楽しむ方まで、ニーズは多様です。未経験でも気軽に取り組め、田舎暮らしを堪能できるのが「農ある暮らし」の魅力だと思います。また、隣近所からの野菜のおすそ分けも田舎のコミュニティならではの良いところでではないでしょうか
池田町 近年、「農ある暮らし」を実践する移住者が増えています。シニアライフをお過ごしになる方、子育て世代の方など様々ですが、手塩にかけて育てた収穫物を食べる喜びは、都会ではなかなか味わうことができない経験だと思います。スーパーで買うことが当たり前と思っていた野菜やお米を、自身が栽培することで季節の移ろいを肌で感じるでしょうし、育てることの苦労も知ることになると思います。そんな場所が、自宅や近隣にあることは、豊かな生活だと思いませんか? 自宅の敷地内に家庭菜園があるのが理想ですが、そうでなくても、池田町では市民農園や農地を借りることで「農ある暮らし」を実践することが可能です

最近注目されているライフスタイルに「半農半X」(はんのうはんエックス)がある。これは、自分が食べる分の小さな農業をしながら、自分の好きなことと両立する生き方のことだ。5市町村の回答を見ると、そんな暮らしが実現できそうなことがわかる。ただし、移住後に「農ある暮らし」を始めるといっても、家庭菜園なのか農業で収入を得たいのかによって、やるべきことが変わってくる。まずは各自治体の就農支援センターなどに相談してみるのがよい。農地の賃貸や売買は農地法によって定められており、農業委員会を通じた手続きが必要なこともある。



小谷村 小谷村では、水田を希望者に貸し付けて水稲作付けを行なう田んぼオーナー制度があります。初心者でも安心して作付けできるように地元農家の皆さんが指導してくれ、小谷村へ来ることが困難なときは地元農家さんが田んぼの管理をしてくれます。100㎡あたり、2万8000円で1年間オーナーになることができます。田んぼオーナー制度を通じて農業を体験していただくことができます
白馬村 市民農園「はくば」で1区画(約100㎡)を年間500円で募集しています(定員になり次第、締め切ります)
大町市 たかね市民農園を、1区画(40㎡~60㎡)あたり年間4000円ほどで利用できます。移住者の方は、この農園を1年間無料で利用できるサービスもあるほか、「たのしい野菜づくり教室」も開催されるので、農作業初心者の方も気軽に取り組むことができます。また、美麻地区には、滞在型市民農園(クラインガルテン)があり、「農ある暮らし」を二地域居住で楽しむことができます
松川村 松川村では、有機野菜に取り組む野菜づくり教室を定期的に開催しています。また、ちょっとした農地を持ちたい方には、市民農園が村内に2ケ所35区画あり、気軽に取り組めます。ほかにも「安曇野ちひろ公園」では、野菜の収穫体験やその野菜を使った保存食体験なども行なっています。もし、野菜づくりで困ったときは、村営農支援センターやJAで野菜づくりのアドバイスもしています
池田町 池田町には、北アルプスの絶景を望む場所に、市民農園「池田町ふれあい農園」があります。JA大北では、野菜作りの研修会の開催や、農作業のアルバイトの紹介なども行っています。有機農業を体験・習得できる町内の団体などもあります

市民農園とは、地域住民などが自然に親しむために自家用野菜・花の栽培を行なったりする小規模農地のこと。長野県内の市民農園は、市町村が開設しているものが約7割で、 JA(農業協同組合)や農家によるものが約3割となっている。面積は 1 区画 50~100m²が多く、募集時期や賃貸料は自治体等によって異なるので、利用を希望する場合は、問合わせてみよう。大町市のように簡易宿泊施設つきの滞在型市民農園(クラインガルテン)が開設されている自治体もある。長野県の移住ポータルサイト「楽園信州」では、県内のクラインガルテン施設の一覧ページがあるので、興味のある人はチェックしてみるとよい。



小谷村 農地付きの空き家バンクはなかなかでてきません。今後、空き家バンクにてご案内できる場合もありますので、お気軽にお問い合わせください
白馬村 白馬村では、農地転用や住宅用地を購入などの自宅敷地を確保してからでないと、自分専用の農地を手に入れるのは難しいです。農業体験については、村内に大規模農家さんが何名かいらっしゃり、播種期や収穫期に人手が必要になるのでそのタイミングで相談するのが良いかと思います
大町市 家庭菜園を楽しめる畑付きの空き家は人気があり、空き家バンクに登録されるとすぐに流通していくケースは多くみられます。ただし、畑付きではなくても住みながら地域の人とつながりを作ることで、無償もしくは安価に畑を借りるということは難しいことではありません。不動産物件情報については、市移住情報総合サイトに掲載していますので、ご活用ください
松川村 空き家バンクに登録されている中古物件には農地付きの物件もありますが、件数はそれほど多くはありません。農地付き物件をお探しの場合は、お気軽に村の担当までご相談ください
池田町 空き家バンクに登録された物件で、中古住宅に付随する小規模な農地であれば、農業委員会の許可を得た上で取得することが可能です。これまでにも、農地付き空き家を購入し、「農ある暮らし」を楽しんでらっしゃる方が多くいらっしゃいます。詳しくは、町ホームページ「空き家バンク」をご覧ください

農地付きの空き家は、家庭菜園を始めたい人にとっては、農地を探す手間がかからないので見逃せない物件だ。ただし、家庭菜園規模の農地でも取得には農業委員会の許可が必要なこともある。実際の探し方としては、「各市町村名 空き家バンク」で検索するとよい。また、長野県全体なら移住ポータルサイト「楽園信州」の空き家バンクページで「家庭菜園・畑付き」を選ぶと、希望する物件を見つけやすい。一般的に空き家バンクに登録されている物件は、相場よりも安めなので住居費を抑えられることが多い。その反面、あまりに安い物件は、状態が悪い可能性もあるので、必ず現地に行って確かめることが必要だ。



小谷村 小谷村では個人農業は難しいものの、集落営農で農業をしている地域もあります。集落営農に参画することで地域の人たちと交流が深められるかもしれません
白馬村 市民農園は募集がかかるとすぐに枠が埋まってしまうため、年度の切り替わりの時期にはアンテナを高くして情報収集をすることをおすすめします。また、何でも作付できるわけでもないので、やってみたい作物がある方は事前に農政課に相談してからが良いでしょう
大町市

●新規就農者へのサポート
就農後1年以内の新規就農者が、営農用の機械及び資材を購入する経費に対し、1/2(上限30万円)を助成します。

●有機農法に取り組みたい方へのサポート
有機農法に取り組む農業者が、有機JASによる認定及び信州の環境にやさしい農産物認証のために支払う経費に対し、1/3以内(上限5万円)を助成します。
上記のほかにもさまざまなサポートがありますので、ご相談ください

松川村 「農ある暮らし」のニーズに応じた相談をお受けいたします。本格的に農業を取り組む方には、新規就農助成制度や機械購入補助などがあります。家庭菜園での「農ある暮らし」では、市民農園のあっせんや営農指導なども行なっています。また、農産物の直売所が村内に点在していますので、自分で育てた野菜を出荷することも可能です
池田町 役場営農支援センターにご相談いただければ、その方のご希望のスタイルに応じて、適宜、関係団体や関係者にお繋ぎします

国や各自治体は、新規就農者をサポートするさまざまな制度を設けている。例えば、「農業次世代人材投資資金」は、就農のための準備や収入が安定するまでの支援として、年間最大150万円を最長7年間もらうことができる(原則50歳未満)。ほかにも大町市のように各自治体によって独自の制度もあるので、まずは移住を希望する市町村の窓口で相談してみよう。また、長野県で農業を始めたい人に向けて、地域の農業生産の状況や支援制度や就農相談会などの情報がまとめて掲載されている「デジタル農活信州」を利用するのもひとつの方法だ。「農ある暮らし」を実践するためのガイドブックをダウンロードできるほか、北アルプス地域での「農ある暮らし」の事例紹介動画を見ることもできる。



小谷村 小谷村では、「農業をやってみたい」という人たちが一緒に農業を学べる機会を設けるため、勉強会など気軽に参加できる企画を随時開催しています。こうした機会を利用しながら農業と少しずつ触れ合っていき、農地の取得など準備を進めていくとよいと思います
白馬村 まずは、ネットで就農についての様々な情報を集めてみてください。農業で起業するのは、やってみないと分からない事ですが、必ず成功するというものではないですし、成果がすぐにでるものでもありません。それでも頑張ってみたい、根気は誰にも負けない、という方は是非、村に相談してください
大町市 まずは地域の特色を知り、地元農家とのつながりを持つことが、「就農」への第一歩だと思います。技術を身につけ、農地の賃借をして、市の就農支援制度や県の農業大学校の研修制度なども活用しながら地盤づくりをするのがいいでしょう
松川村 就農したい方向けの新規就農支援制度がありますが、補助要件などの条件もありますので、希望される方はお気軽にご相談ください。まずは、就農への想いをお聞かせください!
池田町 お米を栽培するのか、野菜を栽培するのか、果樹を栽培するのか、まだ決まっていない方、特定の作物を栽培したいと経営計画を練っている方、いろんなケースがあると思います。どのような場合でも、まずは池田町営農支援センターにお気軽にご相談ください。皆様の状況に応じ適切なアドバイスを行ないます

「農ある暮らし」を実現するためには、まず自分がどのようなスタイルで農業に関わりたいのかを明確にしておくことが大切だ。家庭菜園なのか、農家でアルバイトをしてノウハウを学びたいのか、自分の仕事(=半X)に農業(=半農)を組み合わせるのかを決めておこう。さらに、どんな野菜や果樹などを育てたいのかも考えておきたい。その後は、自治体や長野県の就農相談に足を運んで、研修や農業体験講座など、実践的な栽培技術を学べる場所を教えてもらうとよいだろう。



小谷村 小谷村は特産品である「雪中キャベツ」や「小谷野豚」などの魅力ある農産物があります。それらの生産に携わりたいという若い世代の方は、ぜひご相談いただきたいです
白馬村 オンシーズンはスキー場、オフシーズンは田んぼ。自然と対話しながらの生活は厳しい一面を見せながらも充足感あふれる生活になることでしょう。 市民農園から始めるもよし、思い切って農家さんに弟子入りするもよし、さまざまな形態の農ある暮らしが出来るかもしれません。まずは白馬村へ相談を!
大町市 大町市では、農業に係る関係機関で様々なサポートを行なっています。若い世代の方をはじめ、定年後に帰農したいとお考えのみなさん! 北アルプスの麓、水のおいしい信濃大町で「農ある暮らし」、「半農半X」を始めてみませんか!
松川村 松川村は、美しい田園風景が広がり、安曇野の原風景を守り続けています。そして、守り続けたからこそ存在する開放的な街並みや景色があります。この景色を守りながら、おいしい空気、清らかな北アルプスの雪どけ水、大地が育んだおいしいお米が自慢の村です。ぜひ、「農ある暮らし」が日常である住民や先輩移住者と一緒に、『農』を少しずつ生活の中に取り入れてみませんか?
池田町 池田町では、「農ある暮らし」を希望して移住される方が増えています。自宅敷地内で畑を耕している方もいれば、近隣の農地を借りて、ご自宅で消費する分はもとより、直売所等に出荷している方もいます。農地を借りて耕作をしたい場合(利用権の設定)は、役場営農支援センターにお気軽にお問い合わせください。北アルプスの絶景のもと、池田町で「農ある暮らし」を実践してみませんか?

北アルプスの山麓に位置する5市町村は、豊かな水と寒暖差のある気象条件に恵まれていることから、米やりんごなど豊かな自然を活かした農業が展開されている。北部の小谷村や白馬村では、雪の中で熟成させたキャベツやダイコンなどの越冬野菜が名物。南部の大町市、池田町、松川村では名産品のそばのほか、高原野菜や大豆ども栽培されている。長野県は、平均寿命が男女ともに全国でトップクラス(2020年は、男性が82.68歳で第2位、女性が88.23歳で第4位)だが、その理由のひとつは、大自然に育まれた新鮮な野菜や果物を日常的に食べられるからかもしれない。


アンケートの回答から、移住者が「農ある暮らし」を始めることに関して、5市町村ともサポート体制が整備されているのがわかる。まずは、どんな「農ある暮らし」を実践したいのか、イメージを明確にしてから、自治体の窓口に相談に行ってみよう。そのとき、移住を考えている市町村に、助成金などを含めてどのようなサポートがあるのかを確認しておくことが大切だ。また、移住支援をしてくれる定住促進アドバイザーのなかにも「農ある暮らし」をしている人は多いので、体験談を聞いてみるのもいいだろう。また、5市町村以外に長野県でも「農ある暮らし相談センター」を設置しており、農業に関心のある移住者からの相談を積極的に受け付けているので、参考にしてみるとよい。

2022~2023 移住者インタビュー
半農半Xで「豊かなセカンドライフ」を実現
鴛海仁さん、あかねさん
大町市在住
 
鴛海 仁(おしうみ ひとし)さん  あかねさん

仁さんは、福岡県生まれ。あかねさんは、愛知県生まれ。いつかふたりで長野に住みたいと思っていたところ、愛犬の健康問題をきっかけに移住を決意。現在は、大町市で家庭菜園を楽しみながら、仁さんは公園管理、あかねさんは販売員の仕事をしている。夢がかなった現在の暮らしは、「とにかく楽しい!」とのこと。

地方に移住をしたら、家庭菜園にチャレンジしたいと考えている人は多いだろう。自分の手で育てた新鮮な野菜を収穫して、すぐに食卓へ並べられるのは、移住の醍醐味ともいえる。地方では、農地と空き家がセットになった移住物件が多いので、気軽に家庭菜園を始められることが多い。愛知県から大町市に移住した鴛海(おしうみ)さん夫妻も畑付きの古民家を購入。張り切って畑仕事をスタートしようと思ったが、知識も経験もなかったため、悪戦苦闘。そんなときに手を差し伸べてくれたのが、お隣に住む親切なご夫婦だった。そして、ご夫婦と交流を深めるうちに、地元を愛する気持ちが自然に生まれてきて、気がついたら地域に溶け込んでいたという。今回は、憧れだった“農ある暮らし”を手に入れた鴛海さん夫妻に、お話をうかがってみた。

慣れない農作業は失敗することも多いが、いつも笑顔が絶えない鴛海さん夫妻。奥に見える家が、購入した古民家

夢だった移住を真剣に考えだしたきっかけ

「私は愛知県生まれなのですが、小さな頃からスキーが大好きだったので、大きくなったらスキーができる地域にお嫁に行きたいと思っていたんです。でも、結婚しても自分の地元に住み続けることになるとは、全くの予想外でした(笑)。だから、雪のあるこの地域へ移住してくることは、昔からの夢だったんです」と、鴛海あかねさんは明るく笑った。

夫の仁(ひとし)さんは、福岡県出身。就職で愛知県に来て、あかねさんと知り合い結婚した。夫妻の間にはふたりの娘さんがいるが、小学生のときから『将来の夢は移住すること』だと話していたという。

「娘たちも幼かったので〈ふーん〉っていう反応でしたね。当時は、愛知県に家を建てたばかりだったこともあって、私たち自身も移住に対してそれほどリアリティがなかったんです。ただ、『言わないと夢って叶わないね』って夫婦で話していたので、職場の人たちにも『いつか移住する!』と宣言していました」(あかねさん)

そんな夢がにわかに現実味を帯びてきたのは、2頭の飼い犬の体調が悪くなったことがきっかけだった。アスファルトの道が多い愛知県で散歩をしていたところ、1頭が地面からの反射熱で熱中症になってしまったのだ。それを機会に移住先を真剣に探し始めた。移住の条件は、①スキーができて、②愛犬にとって環境がよく、③DIYが可能な古民家があること。この3点だった。

「まずは愛知県に近い駒ヶ根から攻めて、だんだん北上してきました。手段はネットで調べて、現地に通って確かめるという方法です。安曇野もいいかなと思ったのですが、最近すごく人気なので冷めてしまって…。そこでもう少し田舎がいいかなと思って、池田町や松川村で、移住体験をさせていただきました。そのときは、友だちもできたりして住みやすそうだなと思ったのですが、私たちの求めていたDIY可能な古民家物件がなかったんですよ」

困ったときはいつも助けてくれる、宮澤一弘、文子さん夫妻と一緒に

そんなとき、ネットの空き家バンクを調べていたら、大町市内で条件に合いそうな物件を見つけた。当時はコロナ禍だったので、市役所職員の方がリモートで内見させてくれたが、実際に見てみないと判断できない。そう思った鴛海さん夫妻は、すぐに現地に足を運んだ。

「ワンコと一緒に白馬にスキーに行ったんですけど、その帰りに外だけでも見てみようと思って立ち寄りました。すると、ワンコがどうしても、ここがいいみたいな感じで喜んだんです(笑)。そこからは早かったですね。すぐに条件を確認して不動産屋さんに行って契約しました」(あかねさん)

「物件を見に行ったときに、近所の方がたくさん集まってきてくれたんですよ。『家買うのか? 買っとくれ!』って言われて(笑)。物件を探していろいろなところに行きましたが、そんなことを言ってもらうのは初めてでした。これはきっと縁があるなと思いましたよ。近所の方との触れ合いが、この家を買うことを後押ししてくれた部分もあります」(仁さん)

1 いつも明るいあかねさんと優しそうな仁さん。まさにおしどり夫婦
2 広々とした鴛海家のリビング。大きな窓からは陽光が差して明るい
3 家のDIYは、まだまだ進行中。仁さんが仕事の合間を縫って手がけている
4 冬の寒さをしのぐために、薪ストーブは必需品

自分たちの弱さを晒すことで助け合う

そのとき集まった近所の人のなかに、後に鴛海さん夫妻の移住生活をいろいろな面でサポートしてくれる宮澤一弘(かずひろ)さん、文子(ふみこ)さん夫妻がいた。宮澤さんの家は道路を挟んだ鴛海さんの家のほぼ向かいにある一番近いご近所さんだ。大町市生まれの一弘さんは、地元の消防署に勤めながら先祖代々伝わる畑を守ってきた。

「正直なところ、移住してきて近所の人が怖かったらイヤだなと思っていたんです。でも、宮澤さんが本当によくしてくれました。最初は、プライベートなことは聞かない方がいいのかなと思っていたのですが、宮澤さんの方から色々と教えてくださって(笑)。ということは、私たちもカッコつけずにさらけ出した方がいいんだろうなって思ったんです」(あかねさん)

都会ではある程度の距離感を持って人と接するのがマナーだ。しかし、地方では「腹を割って話す」ところから、ご近所付き合いが始まる。そんなことに気づかせてくれたのも宮澤さんだった。最初は、ご近所の人に挨拶だけをしておけば、無難に生活できるのではと思っていたが、相手の懐に飛び込むことで、移住生活が本当に楽しくなってきた。

「ネットには移住に失敗したとか、いろいろな体験談が出ているじゃないですか。最初は、『何か怖いね、組(集落にある自治組織)にも入らんでおこうか』と思ったんですけど。でも、宮澤さんを始めとした地域の人たちが、本当にいい人たちばかりで。組の人たちが、道でお掃除などをやっているのを見ると、私も一緒にやらせて欲しいっていう気持ちが自然に出てきました」(あかねさん)

組で草刈りをすることになったとき、鴛海さんが愛知県から持ってきた道具を持ち出そうとしたところ少し違ったようで、「うちの道具を使いなさい」と近所の人が優しく声をかけてくれた。あまりにお世話になっているのも悪いと思い「こういうのを買った方がいいんですね」とたずねると、「いいだ、いいだ。家にあるやつ持ってけ!」と言ってくれた。そういうやりとりをしているうちに、夫婦そろって「すみません、甘えさせていただいて」っていう言葉が自然に出てくるようになった。都会では人に甘えたり迷惑をかけることを極力避けることが身についていたが、ここではお互いに助け合わなくては生活することができない。そんな暮らしが、いつしか心地よいと思うようになってきた。

「挨拶をするだけで、いろいろな話をしてくれるんですよね。本当にお名前も知らなくて、散歩のときに挨拶を交わすだけの人もいるんですが、ときどき野菜をいただいたりして。『どなたかわかりませんけど、ありがとうございます(笑)』って感じです」(あかねさん)

「都会だと道で会った知らない人に挨拶をすると、怪訝な顔をされることがあるじゃないですか。でも、こちらでは挨拶をすることで、どんどん人の輪が広がっていくんですよ。そこは、移住して私たちの意識が大きく変わった部分ですね」(仁さん)

1 鴛海家の一員である「との」と「まる」。二匹とも移住後はとても元気になった
2 畑に植える野菜の種類をもっと増やすことが、あかねさんの目標
3 畑で採れたきゅうりとミニトマト。色が鮮やかで見るからに美味しそう
4 「との」と「まる」と散歩にでかける。今日は名古屋から遊びに来ていた娘さんも一緒だ

50歳を過ぎて始めた家庭菜園の楽しさ

鴛海さん夫妻は、移住をするにあたって自分たちの食べる野菜は、少しでもいいから自分で耕した畑で作ってみたいと思っていた。すると、購入した家は、幸運にも畑付きだった。ところが喜んだのもつかの間、これまで農作業をしたことがなかったので、どのようにするとよいかまったくわからなかったのだ。

「すべて宮澤さんに相談して、教えてもらいました。大根と白菜とキャベツを作りたいと思ったので、それを宮澤さんに話したら『苗があるから買ってこい』って言われたんです。ホームセンターで探してみると、キャベツと白菜の苗はあったんですけど、大根が無いんですよ。仕方なくて近くにいたおばちゃんに聞いたら『そんなもの探しとったら一生ないわ!』って言われました(笑)。大根って苗じゃなくて、タネなんですよね。50歳になってこんなことも知らないなんてと、ふたりで大笑いしました」(あかねさん)

1年目は、大根などのほかにナス、きゅうり、トマト、じゃがいも、春菊、野沢菜を栽培してみた。きゅうりを収穫してみると、スーパーで売っているのとはちがって、トゲがたくさんついている。恐る恐る食べてみたら…、みずみずしく香りも濃厚で、美味しかった。しかも、愛犬たちも畑で採れた野菜を美味しそうに食べるのには驚いたという。 「白菜を外に干していたら、いつのまにか2匹のワンコが、競うようにしてバリバリと食べてしまいました。それまで、犬が白菜を食べるなんて見たことがなかったので、びっくりしました。水分もあってシャキシャキしているので美味しいんでしょうね。自分たちで作っているから農薬の心配もないですし、ワンコたちは本当に健康になったと思います」(あかねさん)

今後は、もっと野菜の種類を増やしていきたいというのが鴛海さん夫妻の夢だ。そのためには宮澤さんに教えてもらうばかりではなく、自分たちでもまわりの家の畑を観察するようにしている。

「畑に野菜を支えるために支柱を立てるのも初めてだったので、散歩しながらいろいろと見て回りました。真っ直ぐ立てればいいのかなって思っていたんですが、斜めにしてあったり、クロスに組んであったりとか、みなさん工夫されているんですよ。たまたま畑にいる人に『これってこういうふうにした方がいいですか』とか、声をかけたりすると親切に教えていただいたりとか。そこで知識を仕入れて、自分たちの作業に生かしています。知り合いのおばちゃんにも『とにかくやってみろ、失敗しないとわからないから』と言われたんですが、確かにそうだなって思うんですよ」(あかねさん)

ほかにも、近所の畑を見て、どんな野菜のタネをどんな時期に蒔いたらいいのかも気になっている。ただし、ふたりとも仕事をしているので、気づいたときには適期を逃してしまっていることも、よくある。「仕事が休みのときの来週にタネを買いに行けばいいか」と思って、ホームセンターに出かけてみると、すでに売り切れのこともあった。

「やっぱりタイミングが大切なんだなと実感しました。近くのおばちゃんが「畑日記」をつけていると言っていたので、私も始めました。タネを蒔いたり苗を植えた時期に、「こんな失敗をしちゃった」とか「これが枯れちゃった」とかを書いておくと、参考になるんですよ。自分の頭で覚えておきたいなと思うんですけど、老化でどんどん忘れていきますからね(笑)」(あかねさん)

1 移住後、初めての壁と床作りに挑む /  2 ウッドデッキも自分たちの手で制作
3 天井の板をぶち抜いて「天井あらわし」に変えた /  4 初めての白菜収穫。「との」様も大満足
5 北アルプスが見える窓に自作のカウンターを設置した
(写真提供・CAP=鴛海仁・あかね)

失敗したことは、すべて笑い話に!

こうして、おふたりの話をうかがっていると、とにかく明るく、笑いが絶えない。自分たちが無知だったことや失敗してしまった経験も、すべて笑い話にすることで、落ち込まずに解消しているのだ。実際、移住してきてからふたりともよく笑い、よく話すようになったという。

「失敗したってリカバリーできたらいいんですよ。深刻になっても物事は解決できないので、クヨクヨ考えずに誰かに教えを請うようにしています。こんなことをやっちゃったっていう失敗も宮澤さんに話したりすると、トラウマになることがないんですよ。もし今年(2021-2022年)はうまくクリアしても、来年は違うことで失敗が待ってると思っています(笑)。でも、そういう困ったことになっても、宮澤さんのように教えてくれる人が近くにいるのは、本当に心強いですね」(あかねさん)

愛知県から大町市に引っ越してきた当初、鴛海さん夫妻は雪が降っているのを見ても「そのうち太陽が出たら溶ける」と思ってほったらかしにしていた。ところが、翌朝になると雪が凍ってしまって、雪かきができる状態ではなくなっていた。そんなときにも宮澤さんは、すぐに除雪機を出してくれて雪を片付けてくれた。

「本当に自分たちだけでどうしようもなくなっちゃって、泣きそうでした。宮澤さんに『すいません、これからは毎日雪かきします!』って言って甘えました。でも、今年は本当に雪が多かったみたいで、それを経験したから多分来年は大丈夫なはずです(笑)」

鴛海さん夫妻には、農作物の種類を増やしていくのと並行して取り組みたいと思っていることがある。自宅のDIYだ。移住して以来コツコツと改造してきたが、一度全部の壁を取っ払って自分の思ったとおりに組み立て直して、おしゃれな家にしたいと考えている。そのための知識や技術を習得するために土木・造園関係の仕事に就いた。

「私たちは、給料にこだわりはないです。もう散々働いてきたので、好きなことをしていいんじゃないって思っています(笑)。収入のいい仕事を求めるなら都会で暮らした方がいいのでしょうが、楽しむためにこっちに移住してきたので。私の仕事は、特産品ショップの販売員なので通年なのですが、主人の仕事は雪が降る季節はお休みなんです。だから、その期間に家の改築をやってもらったらいいかと思っています。」(あかねさん)

お話をうかがっている大きなテーブルの横には、ガラス越しに白馬岳が見えるカウンターがある。これも仁さんの手作りだ。

「ここで飲む酒が美味いんです。夕方になると白馬が赤く色づいて。先週には、花火が上がっているのが見えました。季節によって見える景色が違うんですよね。山の景色は本当に日々変わってゆく。これから冬になりますが、雪形を眺めながらの酒を飲むのが楽しみです」(仁さん)