移住者インタビュー
Interview
IKEDA
長野県池田町

取材・文=大関直樹 写真=矢島慎一 取材協力=池田町役場企画政策課

坂井直之さん (47) 絵美さん (47)
Sakai Naoyuki / Emi

池田町から見える山並みに一目惚れして民宿をオープンさせた坂井さん夫妻。
コロナ禍という想定外の状況でも精神的に豊かだから前を向いて歩いていける。


北アが一望できる景色を見て池田町に移住を即決!

「北アルプスの端から端まで、見渡せるってすごいですね!」

池田(いけだ)町にある民宿『山想』(さんそう)の大きな窓からは、蝶ヶ岳(ちょうがたけ)から白馬三山(しろうまさんざん)まで北アルプスの長大な連なりが一望できる。これまで取材で北アルプスには何度となく登ったが、こんな大パノラマは見たことがなかった。

坂井直之(さかい・なおゆき)さんと絵美(えみ)さんの夫妻が、埼玉県川越市から移住してきたのは2020年のこと。そして2021年1月に、“北アルプスに癒される民宿『山想』”をオープンした。

「最初は、『星が見える宿』をやりたいなと思っていたんです。そこで『日本一星空が美しい』ことを謳っている長野県阿智村も考えたのですが、お互いの両親が住む埼玉県からは少し遠いなと思っていたところ、妻が突然、池田町を見つけてきました(笑)」(直之さん)

移住先を探していた絵美さんは、長野県の移住ポータルサイト『楽園信州』を調べた。そこには池田町の移住希望者向けのパンフレットがアップロードされていたが、掲載されていた写真に目が釘付けになったという。

「北アルプスがドーンとこんなふうに見えるところがあるんだ!と思って。私たちは二人とも池田町のことを全然知らなかったんですが、すぐに移住案内ツアーに申し込みました。でも待ちきれなくなって、その週末に下見に来ちゃいました(笑)。すると、この景色だったので。もう他には考える余地がなく、『ここだ』って思いました」(絵美さん)

1 すべての部屋から北アルプスが一望できる『民宿 山想』(住所=長野県北安曇郡池田町会染3614-2 HP=http://minsyuku-sansou.com/
2 ご近所さんの手作りという木彫りの看板。坂井さん夫妻の「山への想い」が感じられる
3 共用スペースにある薪ストーブは、心も体も癒してくれる
4 ご夫婦で山好きというだけあってダイニングには登山地図がずらりと揃っている

移住をするなら定年後ではなく今がいい

直之さんと絵美さんは、ともに川越市で生まれ育ち、お互いが26歳のときに結婚。直之さんは川越市役所に、絵美さんはケーブルテレビの会社に就職し、30代から夫婦で登山を楽しむようになった。目標は日本三百名山で、これまでに130座ほど登ったという。

「北は北海道、南は鹿児島まで各地の山を登ってきたんですが、『そろそろ落ち着くか』ということで、北アルプスエリアを選びました。南アルプスや中央アルプスなども考えましたが、やはり憧れの北アルプスの麓に永住の地を構えたいという思いがありました」(直之さん)

絵美さんも、小諸市のケーブルテレビ局にいたこともあって、長野県に親近感があった。いずれ二人が定年退職したら、老後は自然豊かな環境で山を見ながら暮らしたいなと思っていた。ところが、40代半ばに差しかかり、考えが変わってきた。

「移住するのであれば、定年後ではなくてもう少し若くていろいろできるうちのほうがいいのかなと思い始めました。起業しようとも考えていたので、定年退職後だと体力的に厳しい。親もまだ元気だし…といった条件も重なって。『今だな』と思って、会社を思い切って辞めちゃいました」(絵美さん)

地方へ移住する人は、借家や小さな家から生活をスタートする人が多い。そのなかで、いきなりこれだけ立派な民宿を始めるというのは、すごい。事前に相当、準備をしたのだろうか?

「移住のために準備をしたというよりは、ある程度お金が貯まったので移住に踏み切れたというのは正直あります。20代の頃は夫婦で沖縄と海が大好きで、沖縄への移住も考えた時期もありました。しかし、そのときは全然貯蓄もなかったし、沖縄に移住した人の2/3が帰ってきちゃうという話も聞いて。だから移住に対して甘い考えというのは、最初からありませんでした」(直之さん)

資金面も含めて20代の頃から移住の計画を立てていた直之さんと絵美さん。昨年10月に民宿を始めるための資金を計算してみると、なんとか軌道に乗せられそうだとわかった。しかし、実際に建築工事が始まると、考えていた予算をオーバーしてしまう。そこで助かったのが、県や町からの補助金だった。

「ここで起業するにあたっては、いろいろなところからサポートをいただきました。それなりにハードルもありましたが、県や町の担当者さんの協力のおかげで審査をクリアすることができました」

「山想」が誇る北アルプスの展望。緑豊かな池田町の街並みの向こうに、前山の有明山と大天井岳、燕岳、餓鬼岳など北アの大パノラマが広がる

適度に気にしてくれるその距離感が心地いい

当初は民宿が完成する秋に移住しようと考えていた二人だったが、町の移住準備住宅が空いていると知り、春に移り住むことにした。そこから工事現場に通い、外壁を塗るなどの作業をしているうちに、自然とご近所さんと言葉を交わすようになっていった。

「ほぼ毎日通っていたので、お互いに挨拶をするようになりました。そのうち私たちの顔を覚えていただき、『どう?進んでる?』とかいう感じで話しかけてくださって。そんな感じで数カ月間を過ごしている間に、ご近所さんも『あの人たちが移り住むんだ』とわかって、安心してくださったみたいで。最初は、地域に溶け込めるかが不安でしたが、だんだんと心配はなくなっていきました」(絵美さん)

また、移住を決めた地域には登山サークルがあり、そこに誘ってもらったのもご近所さんと親睦を深めるいい機会になった。

「みなさんと一緒に雨飾山(あまかざりやま)や燕岳(つばくろだけ)に登りました。戻ってきたら外でバーベキューしたりして、親交を深めさせていただいて。移住者が素直に『仲良くなりたい』っていう気持ちを出していると、親切にしてくださるんだというのは実感しました。だから、教えていただくことに対しては『そんなふうになっているんですね』と素直に聞く姿勢も大切だと思います。そうすると、地元の方もいろいろと教えてくださるし、野菜を持ってきてくださるし(笑)」(絵美さん)

地方移住者の悩みの一つが、地域の人との距離感だ。しかし、池田町で二人が住んでいる地域は、「放っておかれてもせず、適度に気にしてくださるという心地いい距離感」(絵美さん)だという。

「民宿の建物の脇にはクルマを置いているんですが、クルマがないと『あれ、出かけてたの?』と時々言われるんですよ。でも、全然嫌な気はしないですね。お客様のために建物の裏にクルマを移動していたときがあったのですが、『何日も見えないから、大丈夫かなって心配しちゃった』って言われて。あと、クルマがないときに知らない人がウロウロしていたら『留守を狙って変な人が来てるんじゃないか』って、心配してくださったりとか。本当に見守ってくださっている感じがすごくあります」(直之さん)

1 客室ごとに仕切られたシューズボックス。家具のひとつひとつにこだわりを感じる
2 夜はお酒を飲みながらゆったりとくつろげる共用のダイニング
3 客室は洋室が2つに和室が1つ。清潔感あふれる室内は、窓が大きく明るい
4 20~30代で登山を始めた坂井さん夫妻の目標は、日本三百名山の完登

精神的に豊かになったので将来の不安も感じなくなった

今回、坂井夫妻にインタビューをさせていただくにあたって、事前にアンケートに答えていただいた。そのなかの「移住の前後で家族に何か変化はありましたか?」という質問に、絵美さんが書いた答えは「直之が目の輝きを取り戻した」。これには思わず笑ってしまった。「ちょっと笑わせようかなと思って書きました(笑)」(絵美さん)

「川越にいた頃、休日は仲間と山へ行ったりしてすごく楽しい時間を過ごしていました。しかし、その反動なのか平日はつまらないと思うようになってきまして…。妻にも『平日は目が死んでるね』と言われて(笑)。でも、こちらに来てからは毎日、仕事をしているのか休みなのか、わからないようなことを楽しみながらやっているので、充実しています」(直之さん)

池田町の生活を満喫している直之さんと絵美さんだが、ひとつ大きな誤算があった。それは新型コロナウイルスの感染拡大だ。都道府県をまたぐ移動が自粛されたことで、泊まりに来てくれるお客さんの数は、予想をはるかに下回った。

「宿を始める前には新型コロナがこういう状況になるとは思っていませんでしたね。収入もほぼ無い状況にはなりましたけど、心の余裕というか、精神的な豊かさみたいなものは、川越にいるときよりも感じていて。最初は、生活費が稼げなくなることはすごく不安だったんです。でも、移り住んでみて『今月も稼ぎ無いね、でもなんとかなるか』という感じになりました。根拠はないんですけど(笑)。本当に生活できなくなったら『私が働きに出るわ』という気持ちでやっています」(絵美さん)

移住前よりも将来的な不安は感じなくなったという坂井さん夫妻。そんな心の余裕が生まれたのも、やはりここに住んだからと直之さんは言う。

「良い人に囲まれているっていうのもありますし。北アルプスに沈む夕日を、そして朝日が昇ってくるのを見ながら生活するのが、心の余裕に繋がっていると思います。コンクリートに囲まれた建物の中で一日を過ごすのとくらべたら、全然違いますよ」(直之さん)

1 ウッドデッキを塗装しているところ。「山想」の建築では、出来る作業は自分たちも関わった
2 外壁用板(信州唐松)の塗装。貼る前に2回塗り、貼った後にさらに1回塗装した
3 ご近所さん家族に作ってもらった宿の看板
4 2020年10月、地域の山好きの皆さんと紅葉の燕岳へ登った
(写真提供=坂井直之)

人と人とをつなげてゆく“拠点(ハブ)”になれたら

ひと通りお話を伺った後、民宿『山想』の内部を案内していただいた。客間は、洋室が2つに和室が1つ。すべての部屋から、雄大な北アルプスの峰々が一望できる。

「周辺に登山口がたくさんあるので、長期で滞在していただき『今日はここに登ろう』というように登山を楽しんでいだだくこともできます。また、うちの最大のセールスポイントは、『北アルプスを一望できる』ことだと思っていますので、『いつかは北アルプスに登りたい』とか『今は体力が落ちたけど、昔登った山々をのんびり眺めたい』方にピッタリだと思います」

ほかにも、東京ドーム4個分という広大な公園『あづみ野池田クラフトパーク』から、『市立大町山岳博物館』までの全長約18㎞を結ぶ『安曇野北アルプス展望のみち』がすぐそばにあるので、自転車やランニングを楽しみたい人にもおすすめだ。登山を含めた『スポーツツーリズム』を意識した民宿なので、誰でもいつでも無料で使える洗濯機と乾燥機も揃う。

「あとは、この周辺に移住を考えている方もお客さんとしていらっしゃいますね。移住者が経営している民宿ということで、町役場からもPRしていただいています。もし池田町に興味があって、移住を考えた下見に来られるなら、ぜひうちを使っていただけたらと思います」(直之さん)

そして、新型コロナが終息したら「民宿『山想』がハブとなって、いろいろな形で人と人とを繋げることができたら」と直之さんは語る。

「池田町や周辺地域には魅力的な人材がたくさんいらっしゃいます。そうした方々と『山想』にいらした方が出会い、新たなつながりができたら嬉しいです。今は地元作家さんの作品を展示したり、リラクゼーションや座編み体験を受けられるようにしていますが、今後はイベントも企画していきたいと思っています」(絵美さん)

地域を盛り上げていくために、あえて夕食を提供していないというのも『山想』の特徴だ。それは、民宿として自分たち儲かればいいというのではなくて、地域の食堂を楽しんで欲しいという願いからだ。池田町には、フレンチやイタリアン、そばなど、美味しい料理を提供してくれるレストランがある。

「食事から帰ってきたら、自慢の薪ストーブの前でゆっくりお酒などを楽しんでもらえたらと思います。地元名物の信州サーモンを使った手毬寿司など、美味しいおつまみも揃っていますので。雪をかぶった北アルプスを見ながら、薪ストーブの火に当たって、生ビールを飲むのは最高ですよ(笑)」(直之さん)

「テラス席に座って四季折々の北アルプスの景色を見ているだけで幸せです」と語る坂井さんご夫妻。
移住体験談もじっくり聞けるので、ぜひ『山想』に泊まってみてほしい

 
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