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屋田ファミリー

屋田翔太さん、日登美さん
悠成ちゃん、晏成ちゃん

アルペン・スノーボードのナショナルチームの選手だった屋田翔太さん。東京から移住してきた日登美さんとともに、現在、子育ての真っ最中だ。
子育てを考えて大町市に移住したばかりという屋田さんファミリーに、大町の暮らしや、子育てのしやすさについて聞いた。

移住のきっかけは子育て。子育てしやすい環境を優先しました

2019年の冬に大町市に移り住んだばかりという屋田さんファミリー。移住前の住まいは、隣の白馬村だった。

屋田翔太さんは、白馬村の出身。翔太さんが幼い時に、両親が山の麓の暮らしに憧れて白馬村に移住した。Iターン移住の2世代目だ。8歳からスノーボードをはじめ、中学3年生のときにはナショナルチームの選手となり、選手生活を送る。21歳で迎えるトリノオリンピックを目標に、競技の第一線で活躍した。その後も10年間、出場権がある限りはと、全日本選手権に出場してきた。現在、34歳だ。

奥様の日登美さんは、東京で生まれ育ち、都内で保育士をしていた。
「自然の遊びが好きで、休日は友人といろんなアウトドア・スポーツを楽しんでました。ラフティング、登山、そして、ウィンタースポーツも。アウトドアの遊びがもっとできるように、25歳のとき、その友人とともに白馬に移住してきました。」
翔太さんがIターン移住2世代目、日登美さんが山に憧れてのIターン移住、といったところ。
白馬村で出会って結婚した2人の間には、3歳になる悠成(ゆうな)ちゃんと、8ヶ月の晏成(あんな)ちゃんの2人の女の子がいて、現在、子育て真っ最中だ。

白馬村から大町市へ。山が近いという点では、似ているように見えるが、大町市に引っ越してきた理由はなんだろうか。

「スノーボーダーとして活動していた21歳のとき、白馬村のど真ん中に家を買ったんです。バブル崩壊以降、白馬村の観光産業は下火で、空き家も目立っていて、宿も店も廃業するような時代でした。 だけど、そこから十数年経った今の白馬村は、海外からの旅行者が増えたことで、観光業が回復して、家の周りは、観光客相手の飲食店や宿泊施設が一気に増えました。外国人とか観光客が闊歩する村の中心で、宿でも店でもない“普通の家”って住みにくいものなんですよ。特に冬の週末は、車を出しにくいし、一度出てしまうと帰ってくるのも大変。『今は出るのやめようか』みたいな会話がしょっちゅうで、それがストレスになっていました。」

悠成ちゃんが生まれたことも大きな転機になった。住人ではない、見ず知らずの観光客が大勢行き交うところでは、散歩もままならない。
「観光客相手の施設はいっぱいあるんですけど、子どもが安心して遊べるような遊具のある公園とか、幼稚園や保育園とか、日常の生活ができる場所が必要だなって感じたんです。それと、移住をするなら、子どもが幼稚園や保育園に入る3歳までにっていうのもあって、移住先を探し始めました。 移住先候補はいくつかあって、両親が住む白馬村内のほかには、小谷村、小川村、そして大町市。子どもを育てる環境という点では、妻が保育士の資格を持っているので、基準が厳しいというか、いろいろ調べてくれて、大町がいいんじゃないかってことになりました。」

悠成ちゃんが生まれてから、毎年必ず家族で写真を撮りに行く公園が、大町市にあった。周辺の市町村より自治体としての規模が大きく、幼稚園・保育園の選択肢がいくつかあり、子どもを育てるにはよい環境だった。

これらが大町に移住する大きな動機となり、悠成ちゃんの幼稚園の申し込みに間に合うタイミングで移住を決め、たまたま良い条件の貸し物件も見つかり、引っ越してきたのだった。

子育て家族に優しい年配の方が多く、ストレスをまったく感じない毎日

都会からの移住という点では、日登美さんに聞いてみたいことがあった。東京で暮らしていたときと変わったことはあるだろうか?

「生まれ育ったのは東京の板橋で、公共交通があるのが当たり前という環境でしたけど、こっちは車社会。最初は、車の運転が毎日大変でした。車をこすってしまったことが何度もあって…。ただ、東京では、通勤で満員電車にも乗っていたんですが、長野に引っ越して来てからは人混みが苦手になりました。たまに子どもを連れて実家に帰るのですが、電車に乗ると、人がたくさん乗ってるのに驚きます。人のスピードも全然違う。自分の性格がおっとりになったのか、周りが早いのか…。もう戻れません。」

「それと、小さい子どもがいることもあってか、年配の方がよく声をかけてくれます。人間関係がもっと希薄かと思っていたんですが、大町の人たちは、移住者とか関係なく、子育てしている家族に対してとても温かいと思います。スーパーは車でさっと行ける範囲に3軒あって、日常の買い物に苦労はありません。この公園は、遊具があって、いつでも好きなように遊べるのでよく来るんですよ。」

引っ越してきてすぐ、翔太さんがケガをしたときに、病院が近く、すぐお医者さんに診てもらえたこともあった。白馬村では病院に行くのも時間がかかったはずだ。「子育てのストレスが減ったことで、白髪が無くなったんですよ」と翔太さんが笑った。

“アンテナ”を張り手を伸ばすとあたらしい世界に手が届く

ところで、翔太さんの仕事だが、元スノーボード選手という経歴もあって、現在、スキーの輸入販売を行う会社の代表をしている。ほかにも、様々なクリエイティブな仕事を請け負っている。

「スノーボーダーとして活動していた10代のころから、個人として発信することの大切さを学びました。15歳でお年玉をはたいてパソコンを買って、ひとりのスノーボード競技者として、その活動を発信していたんです。スマートフォンもSNSもない時代ですので、自分でホームページを持って。10代でしたけど、スポンサーとの関係を学び、自分をプロデュースすることの大切さを知りました。選手として活動するだけじゃなくて、写真、動画、ウェブサイトなどの表現の方法も、いろいろチャレンジして身に付いたんだと思います。白馬村で働いていたアウトドアアクティビティの会社では、広報とガイドいう仕事を覚えました。」

「昨年からは、仲間と共同で立ち上げた会社で、『ICELANTIC(アイスランティック)』というブランドのスキーを、アメリカから輸入・販売するのがメインの仕事になってます。レジャーでスキーを楽しむ人が多いコロラド州に端を発するブランドで、ゲレンデ、オフピステ、パークライドなど、あらゆるスキーを楽しむためのラインナップが揃っています。アメリカではメジャーなブランドなんですよ。」

翔太さん含めて4人の会社だが、昨シーズンは、大手スポーツ量販店とも取引が広がり、輸入販売2年目にして順調に伸びている。
「商品を納めるだけでなく、これまで学んできた表現手法、広報ノウハウを活かし、店舗の展開提案や支援など、大手メーカーではできないことをやっているので、よく声をかけてもらえるようになりました。」

事務所は、大町市にある廃業したパチンコ店の2階を借りて構えた。同じ思いを持つ仲間4人が、それぞれ得意なことを活かし、スキーの輸入販売だけでなく、写真、映像、音楽、ナレーション、デザイン、ウェブサイト制作まで何でもできるクリエイティブスタジオになっている。

先々の夢は? と聞くと、翔太さんはこう答えた。
「日本に新しいスキー文化を作りたいんです。東京の大きな会社ではなく、山が近いこの地域の会社でしかできないことを。生活の一部にスキーを楽しむ文化、地域に根差したスキーの文化みたいなものを作っていきたいと思っています。」

移住定住相談会