田中陽希が歩く海辺の熊野古道・大辺路 人と自然と神仏が織り成す120kmの旅【前編】

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世界遺産にも登録されている信仰の道・熊野古道(くまのこどう)。1000年以上の歴史をもち、今も多くの参詣者が絶えないこの祈りの道を、プロアドベンチャーレーサーの田中陽希さんと旅してきました。今回歩いた熊野古道・大辺路(おおへち)は、江戸時代以降、信仰と観光を兼ねて旅をする人々に多く歩かれた道ですが、石畳の残る古道、豊かな樹林、雄大な海岸線は、現代のハイカーや登山者にとっても魅力的なトレイルです。6日間におよぶ120kmの旅路。全3回で紹介していきます。今回は、大辺路の歩き旅の前編をお伝えします。

文=大堀啓太(ハタケスタジオ)、写真=金田剛仁(ハタケスタジオ)、協力=和歌山県観光振興課

熊野古道・大辺路とは

熊野古道・全体図

熊野古道は、熊野三山と呼ばれる熊野速玉(はやたま)大社、熊野本宮(ほんぐう)大社、熊野那智(なち)大社および那智山青岸渡寺(なちさんせいがんとじ)の三社一寺を詣でるための道。平安時代から室町時代にかけて特に盛んに参詣が行なわれた日本古来の巡礼路で、多くの人が列を成して歩く様子は「蟻の熊野詣」と称されるほどでした。

自然や歴史、文化だけではなく、その土地の人々とも触れ合える熊野古道は、日本人の旅の起源ともいわれていて、まさにロングトレイルそのもの。今では、海外からも多くのハイカーが訪れています。

熊野那智大社の三重塔と那智の滝
那智山青岸渡寺の三重塔と那智の滝。大辺路をゴールしたあとに参拝へ

熊野古道は、大きく分けると5本の道があります。大阪と田辺(たなべ)を結ぶ紀伊路(きいじ)、田辺から熊野三山をめざす山岳路の中辺路(なかへち)、田辺から那智勝浦(なちかつうら)までの海沿いを進む大辺路(おおへち)、伊勢神宮から熊野本宮までの伊勢路(いせじ)、高野山から熊野本宮までの小辺路(こへち)の5本です。

今回は、山岳ライターである私、大堀啓太が田中陽希さんと大辺路を歩きます。陽希さんは、アドベンチャーレースチーム「チームイーストウィンド」のキャプテンであり、日本3百名山ひと筆書きで全国の山々を歩いてきた達人でもあります。

古道の一部が世界遺産にも登録されている信仰の道・大辺路を陽希さんはどう歩くのか、そして歩ききったときに一体なにを思うのか——。

海辺をたどる120km、美しい風景の大辺路

熊野古道・大辺路

大辺路は、紀伊田辺から那智勝浦の補陀洛山寺(ふだらくさんじ)までの約120kmの道のり。町中を通り、常緑樹林とシダが広がる峠を越え、まばゆいばかりの海辺を歩きます。

長井坂から眼下に広がるは枯木灘(かれきなだ)
3日目の長井坂から眼前に広がる枯木灘(かれきなだ)。波の浸食で入り組んだ海岸線になっている

観光と信仰を兼ねた参拝者や、古今の文人墨客に好まれた風光明媚な大辺路には、当時の人が歩いたであろう石畳道や多くの旅人を見守ってきた石仏などが今もまだたくさん残っています。

生活道としても使われていた大辺路は、稜線や頂上をあまり通らないため、比較的歩きやすいトレイルです。町から町へと歩くので地元のグルメも堪能でき、行動食や水分の補給もしやすいのもポイント。JRきのくに線が並走しているため、いざというときにはエスケープもできて安心です。

大辺路を歩きやすいシーズンは、秋から春にかけて。気温の高い夏は、熱中症などのリスクが高いため避けましょう。

1日目のお昼に寄った「悠卵庵(ゆうあん)」
1日目のお昼に寄った白浜町の「悠卵庵(ゆうあん)」は、そばと天ぷらがおいしかった

大辺路のマップは、紀伊田辺駅に隣接したビジターセンターで入手できます。押印帳も手に入れると、楽しみと旅の思い出は倍増。マップに記載された押印ポイントをチェックしながら歩くのは、スタンプラリーのようでおもしろく、大辺路上に存在する13カ所のスタンプをすべて押すと和歌山県よりシリアルナンバー入りの踏破証明書を郵送でもらうこともできます。

※大辺路のマップおよび押印帳は無料での郵送も可能です。お問い合わせは下記まで。

和歌山県観光振興課
TEL:073-441-2424
Mail:e0624001@pref.wakayama.lg.jp

紀伊田辺駅にあるビジターセンター
大辺路の起点となる紀伊田辺駅にあるビジターセンターの営業は9時から18時まで

古道に思いを馳せる1日目|紀伊田辺~紀伊富田 約18.6km

田辺市街なかポケットパーク
期待に胸を膨らませながら、いざ出発!

大辺路の始まりは、紀伊田辺駅からおよそ10分ほどの場所にある道分け石。紀伊路を南下してきた参詣道が、中辺路と大辺路に分かれている場所で、今は商店街の中にあります。

「ひさしぶりの歩き旅でワクワクします! その土地の魅力は、歩くスピードでこそ見えてくるものがありますよね!」と陽希さん。120km踏破に向けて、力強い一歩を踏み出します。昔の参詣者もここで旅支度を整えて、それぞれの熊野三山詣に出発したのでしょうか。

紀伊田辺駅からおよそ10分ほどにある道分け石
安政4年(1857年)から旅人を案内している道分け石

商店街を通り抜けて、鬪雞(とうけい)神社へ入ると、町中とは思えない厳かなたたずまい。

「車通りの多い大きな道路が近くにあっても、鳥居をくぐると空気感も変わって、まるでタイムスリップしたかのようですよね。これからの旅路にある神社仏閣に手を合わせて感謝をしつつ、大辺路の魅力を味わい、思い出深い旅にしていきたいです」(陽希さん)

鬪雞神社は世界遺産に登録されていて、熊野三山の別宮的神社でもあり、熊野信仰の一翼を担ってきました。

源平の戦いのときに、熊野水軍が源氏と平家のどちらにつくかを「闘鶏」によって決めたのが由来とのこと。その熊野水軍を率いていたのが、武蔵坊弁慶の父親だと伝えられる湛増(たんぞう)だという伝説もあり、境内には弁慶と湛増の銅像が立てられています。

鬪雞神社
鬪雞神社で大辺路最初の参拝。日頃の感謝と旅の無事を願う
田辺市街なかポケットパークのボランティアガイドの近藤さん
田辺観光ボランティアガイドの会の近藤さんに案内していただいた
鬪雞神社
鬪雞神社は1カ所目の押印ポイント。枠からはみ出ないように慎重に

鬪雞神社を後にし、県道31号沿いを進みます。大辺路は古くから生活道としても使われていましたが、現在はその多くが舗装路になっています。しかし、陽希さんはステレオタイプな古道のイメージに固執しません。「舗装路ですけど、初めての町、初めての景色のなかを歩くのは楽しいです! 古道だった大辺路も、人の生活と共に様変わりしてきたことを実感できます。そんなふうに現代の大辺路を歩くのもなんだか心地いいですよね」と、歩き旅を満喫しています。

しばらくは、民家の間の細い道を縫うように進みます。舗装路のため古道らしいたたずまいは薄れていますが、今も人々の生活は息づいていて、生活道としての大辺路の役割が変わらないことに、うれしさがこみ上げてきます。

ただし、町中と油断していると、うっかり道をそれたり、分岐を通り過ぎたりなんてことも。「話しながらでも歩ける町中は読図ポイントを見逃してしまいがちですよね。しっかり地図を確認しながら歩いて、周りもよく見ておきましょう」。さすが歩き旅に慣れた陽希さん。

熊野古道・大辺路の道標
分岐などには道標が立っているので、見落としに注意!
熊野古道・大辺路
小さな橋でも車も通る生活道なので、安全に渡りましょう

道沿いにある大潟神社や櫟原(いちはら)神社にも寄って参拝しながら過ぎると、富田(とんだ)川に架かる山王(さんのう)橋を渡ります。橋脚には流れてきた倒木などが絡んでいました。雨のすごさを物語る潜水橋ですが、その雨こそが熊野の豊かな森を育てていると思うと、自然の脅威と恵みを同時に思い知らされます。

大潟神社
大潟神社
民家が立ち並ぶ道を進んだ先にある大潟(おおがた)神社には安政津波の碑がある。到達線は海抜13m以上だったという
山王橋
温暖な気候で雨が多いため、川が荒れたときに流されないよう手すりのない潜水橋に設計された山王橋

富田川を南下すると、左手に保呂(ほろ)の虫喰岩の案内が出てきます。大辺路からは少し横に入りますが、ここはぜひ立ち寄ってほしいところ。この岩壁は厚い砂岩と礫岩の地層からなり、崩れやすい礫岩の部分が虫食い状風化で凹み、まるで虫のマンションのようになっています。人のスケールでは測れない悠久の時を経て造り上げられたものだと聞き、自然の力に圧倒されるばかりです。

「いろいろな虫喰いを見てきたけど、ここまですごいのは初めてです。これは、自分の目で実際に見た方が絶対にいいです!」

陽希さんも太鼓判を押すほどの自然の造形美でした。

保呂の虫喰岩
和歌山県立南紀熊野ジオパークセンターの福村さんに、紀伊半島の地質などを案内いただいた
保呂の虫喰岩
「ジブリのナウシカの世界みたい」と、自然の造形美に感動していた陽希さん

寄り道こそ旅の醍醐味と、ふらりとかまぼこを食べたりしながら、国道42号を南下し続けると、1日目のゴールの紀伊富田の町並みが見えてきます。

「かまてん、あります」ののぼりに魅せられて、ふらりと立ち寄り。一口サイズのかまてんは、いいおやつになった
国道42号を歩く
1日目は国道42号を進むことが多かった
日(にち)神社の本殿
日(にち)神社の本殿は江戸時代のものだが、始まりは平安時代と歴史がある

川幅の広くなった富田川に架かる富田橋を渡ると、紀伊富田駅に着き1日目は終了。

「1日目はほとんど舗装路でしたね。明日から歩く古道がどんな表情を見せてくれるのか楽しみです! 明日は遠目に見ていた山に入るから、今日とはまた違った景色なんだろうなぁ」(陽希さん)

「INNOVATION SPRINGS」
本日のお宿は紀伊富田駅から徒歩25分ほどの「INNOVATION SPRINGS」。広くきれいな部屋で快適に過ごせた

陽希さんの旅人のたしなみを心にとめて、明日の山登りに向けて体を休めます。舗装路が多かったものの、生活道として姿を残す大辺路を歩くことができ、自然の力をあらためて思い知らされたり、神社に参拝して厳かな心境になったりと充実した1日でした。

紀伊富田駅
1日目ゴールの紀伊富田駅のベンチで、歩いてきた道のりを振り返る
富田浜
富田浜まで足を延ばすと、きれいな夕日が旅の行方を祝福してくれるようだった
2日目 難所の富田坂を越えて、周参見へ
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