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武蔵野の原風景を求めて(新田義興首塚~ジョンソンタウン~くぬぎ山~多福寺・多聞院)

日光脇往還道標、豊岡愛宕神社、新田義興首塚、ジョンソンタウン、新田橋、藤沢熊野神社、金剛院、入間野神社、七曲井、常泉寺観音堂、野々宮神社、堀兼神社、くぬぎ山地区、三富今昔村、多福寺、多聞院、いも神様、所沢温泉 湯楽の里、所沢神明社、新田義宗終焉之地、盃横丁( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ時々曇り、昼頃一時雨

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→池袋→西武池袋線→入間市

復路:新所沢駅→西武新宿線→所沢→西武池袋線急行元町・中華街行→渋谷→東急東横線→学芸大学

この登山記録の行程

入間市駅6:00→古きを温める公園(日光脇往還道標)6:13→豊岡愛宕神社(新田義興首塚)6:21→ジョンソンタウン6:37→東愛宕神社6:47→新田橋7:03→飛龍神社跡地7:09→藤沢熊野神社7:14→入曽駅7:49→元浅間神社7:54→金剛院7:58→入間野神社8:04→常泉寺観音堂(七曲井)8:08→野々宮神社8:12→常泉寺8:19→堀兼神社8:50→くぬぎ山9:30→三富今昔村くぬぎの森交流プラザ9:47→多福寺10:14→多聞院(中富神明社)10:34→食の駅 所沢店11:05→下富八雲神社11:09→所沢温泉 湯楽の里11:10~12:50→新所沢駅13:30

(おまけ)
新所沢駅13:34→西武新宿線→航空公園駅13:38→所澤神明社13:45→薬王神社13:56→盃横丁14:05→ファルマン通り14:08→プロぺ通り14:10→所沢駅14:15

合計6時間27分(温泉と電車を除く)

コース

総距離
約24.7km
累積標高差
上り約101m
下り約112m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

8月7日(土)は、天気予報が怪しかったので、入間市と狭山市と所沢市の境を散策して来ました。この辺りは水の得にくい台地で、航空自衛隊入間基地と米軍所沢通信基地ある以外は山も城跡も何も無い場所なのですが、代わりに武蔵野の原風景とも言える広大な畑と平地林が広がる意外な散策の穴場です。

スタートは入間市駅です。駅の南口が再開発された立体構造になっていたせいで、少し迷った後で、「古きを温める公園」にという小さな公園に到着。ここには「日光脇往還道標」があります。これは駅北口の国道16号と463号の「河原町交差点」にあった物を移転したもので、この前入間川の向こうの根岸宿にあった樹脂製のポールではなく、江戸時代に作られたちゃんとした石の道標が保存されています。またここはかつての「豊岡小学校跡地」でもあり小学校の門柱も残されています。


古きを温める公園からもう少し南へ行くと「豊岡愛宕神社」があり、ここには新田義貞の息子の「新田義興の首塚」があります。義興は義貞の死後、弟の義宗と共に挙兵して、二度に渡り鎌倉奪還果たすのですが、最後は多摩川の「矢口の渡し」で謀殺され、胴体は東急多摩川線・武蔵新田駅前の「新田神社」の「御塚(荒山、迷い塚、新田義興塚)」に葬られ、首は検分のため入間川御陣の足利基氏へ送られ、この地に葬られたそうです。ところがその後、基氏の陣屋に落雷が落ちて大火災になったり、疫病が流行ったりしたため、これは義興の祟りであるとの噂が広まり、当時は神明社だったこの豊岡愛宕神社に義興の像と同人所持の雷陣を描いた軍扇を神体とする新田大明神として合祀したそうです。ちなみに愛宕神社になったのは、それでもいっこうに災害が収まらず、加茂別雷神社から雷斧一口と雷丸一個を神体として分霊して合祀したためということです。そのため祭神は神明社の天照皇大神と愛宕神社の別雷神、火産霊神が新田義興公と一緒に祀られています。

新田義興の首塚は元は義興主従の首十三級を別々に埋めた「十三塚」というものだったのですが、時がたつにつれみな荒廃したため、今は神社の境内で1つにまとめられています。

愛宕神社から国道463号を東に進み、彩の森入間公園入口の先にあるのが「ジョンソンタウン」という平成になって新たに米軍ハウスを建て直した住宅街です。ここは昔、普通の米軍ハウスだったのですが、1978年にジョンソン基地が返却され航空自衛隊入間基地になった頃から日本人が住み始め、その後荒廃しスラム化が進んだため、平成に入ってからハウスの建て直しが始まり、現在はショップと一般住宅が混在する、観光地になっています。お洒落な雑貨屋とかレストランがあります。

ジョンソンタウンからさらに進むと「東愛宕神社」というさっきの「豊岡愛宕神社」に合祀された愛宕神社があります。徳川吉宗の時代にこの辺りを新田開発したのに伴って祀られた神社ことで、一時期豊岡愛宕神社に合祀されていたものの、宅地化が進んで人口が増えたので、また元の神社を復活させたそうです。

東愛宕神社から南西に進むと藤沢中学校があります。その手前を左折して南東に向かう道が「旧鎌倉街道」です。昔は一直線に豊岡愛宕神社の方へ続いていたようなのですが、宅地化が進み今はここしか残っていません。この道が不老川の河岸段丘を下るクランク状の坂が「馬坂」で、その先にある小さな橋が新田義貞が鎌倉に攻め入る時に渡ったといわれる「新田橋」です。

新田橋から不老川沿いを少し進み、広い道を渡った向こう側の駐車場脇の河岸段丘上に、次に行く藤沢熊野神社の旧地である「飛龍神社跡地」の碑があります。この段丘下には神社以外にも「馬の涙」という馬坂を登る馬が水を飲んだという湧水池があったそうなのですが、裏の崖が崩れてきて社地が狭くなったため現在地に移転したそうです。移転の理由は他に、頭と尾に顔のある「ツチ」という元祖ツチノコのような蛇が住んでいて、神主が神社に行こうとすると、車輪が回転するように追いかけてくるため神事が出来なくなったためという伝承も残っています。元は水も湧き出る様を龍になぞらえ、熊野三社の1つ飛竜権現を勧請してつくられた神社だったらしいのですが、神聖な湧水を馬の水のみ場にするような粗末な扱いをしたために龍が蛇の妖怪になってしまったのですかね。

そして「藤沢熊野神社」なんですが、ここは出雲伊波比神社の延喜式内社の論社の1つである由緒ある神社で、創建は日本武尊が東夷征伐の際、武蔵野で水に苦しんでいた時に、神の導きで湧水を発見できたことに感謝して天穂日命、天夷鳥命を祭祀したことに始まるとそうです。いきなり水が乏しい話が出て来ましたが、今日行くエリアにはこういった神社が多いです。

この神社には他にも、新田義貞が鎌倉幕府を攻める途中に、ここで戦勝を祈願すると、一羽の烏が旗の上にとまり、烏は紀伊半島の熊野大社の神様のお使いだから吉兆であると士気があがり、義貞は鎌倉幕府を滅ぼして建武の親政を実現した後、再びこの地を訪れ、感謝の印として神社を修造し、剣を奉納したという伝承が残っています。ただ江戸期には寄木明神社と称していたそうなので、この伝承は明治時代に熊野神社になってからつくられた可能性もあります。

ここから、西武池袋線の武蔵藤沢駅の近くを通り、西武新宿線の入曽駅まで延々と歩きます。この辺は電車に乗っているだけだとわかりにくいですが、西武池袋線と西武新宿線が平行して走っているので、意外と駅間は近いです。

入曽駅すぐそばにあるのが「元浅間神社」の石碑で、元村社だったらしいのですが明治44年に後で行く入間野神社に合祀されたそうです。

元浅間神社の石碑から広い道に出ると道の反対側に見えてくるのが真言宗豊山派の「御嶽山 金剛院」です。この寺は入間野神社の元別当寺で、今も獅子舞が両方で行われています。毎年10月の第3土日に行われるこの獅子舞は、土曜日は金剛院で揃獅子が行われ、日曜日に本獅子が入間野神社に奉納されます。

そしてまた今渡った道を反対側に戻るとあるのが「入間野神社」です。この神社は元は国井神社と称する井戸や水の神様だったらしいのですが、修験道の影響があったのか、途中から御岳大権現になり、明治40年に八坂神社・天神社・稲荷社・神明社を、44年には水野の村社であったさっきの浅間神社を合祀して入間野神社と社名を改めたそうです。

入間野神社の横の不老川を渡ると「常泉寺観音堂」があり、その裏にあるのが「七曲井」です。七曲井は羽村のまいまいず井戸のような広く大きく掘った井戸の跡で、細くて深い井戸を掘る技術が無かった時代に交通の便を図るため武蔵国府によって造成されたのではないかと言われています。なぜ七曲と言われるかというと、下に降りる道が上の方は階段、中央部は曲がり道、下の方では回り道となっていたためということです。すぐ横に不老川があるなら水などすぐに得られそうじゃないかと思えるのですが、不老川は正式名称を「としとらずがわ(年不取川)」と言う、雨の降らない旧正月の頃には毎年干上がる水量の乏しい川で、水源としてはあてにならなかったようです。また入曽駅周辺の不老川は河岸段丘から大きく離れているため、後年流路を変えられた人工の水路の可能性が高く、ここは流れていかなったのではないかと思われます。

「常泉寺観音堂」は七曲井の守護神のような観音様で、旱魃の時に村人が観音様に祈ったら、その当時使われていなかった七曲井からたちまち水が噴き出したという伝説があります。

七曲井から車道を渡って少し東に行った場所にあるのが「野々宮神社」です。この前行った高麗の野々宮神社と同名の神社なのですが、九州の日向国(宮崎県)タカサダの地からやってきた同じ祖先が作ったものであると伝えられているそうです。ちなみに埼玉にもう1つある鴻巣市の野宮神社も同じです。この地に土着した社家の宮崎家は入間路の警備及び七曲井の管理に当たっていたとのこと。あと少し気になることがあって、この神社の元別当寺の宝泉寺は、高麗の修験道の影響を強く受けた修行場だった笹井の観音堂の配下だったらしいので、その関係で高麗と同じ野々宮神社がここにも造られたという線も考えられるということです。

野々宮神社の裏の方にある「常泉寺」は、さっきの「常泉寺観音堂」を管理している真言宗智山派のお寺で、元は観音堂のところにあったらしいのですが、現在の場所に移転したそうです。それでもそこそこ歴史のある寺のはずなのですが、現在の建物は新しいので歴史を感じられるような物は全然ありませんでした。

常泉寺から不老川沿いに東に進むと徐々に畑が増えてきます。その、最初に書いた広大な畑と平地林地帯の入口のような場所に「堀兼神社」はあります。ここにはこの辺りで一番有名な井戸である「堀兼の井」があります。この井戸は平安時代末期にはすでに広く知られて、藤原俊成の「武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしく水の近づきにけり」という短歌にも詠まれており、おそらく平安時代以前から存在していたのではないかと言われています。神社の創建は、日本武尊が東北の蝦夷征伐の帰途この地に立ち寄ると、人々が旱害に苦しんでいたので、富士山に祈願したら、たちまち清水が湧き出し、その地にが浅間神社を創建したのが始まりとのことです。

この伝承はあまり信憑性がないのですが、しかし堀兼神社は立派な「富士塚」の上にあり、長らく浅間社と称していたそうです。堀兼神社と改名したのは、明治に周辺の神社を合併して村社になってからです。ただ井戸の方が江戸時代の富士講の流行より遥かに古いので、井戸の目印として最初に塚が造られ、後年それを富士塚に利用したとも考えられます。あと古墳である可能性も。ちなみに堀兼の名前は、この辺りは水が乏しく水源も遠く井戸が掘り兼ねる所であったことに由来するそうです。

堀兼神社を過ぎるといよいよ「くぬぎ山地区」の広大な畑と平地林がどこまでも続くエリアに入って行きます。くぬぎ山はいわゆる山ではなく、川越市、所沢市、狭山市、三芳町にまたがる三富地区の約152haの広大な平地林のことです。山頂はありません。この平地林は江戸時代の新田開発に伴う農用林として造られたもので、自然の物ではないのですが、日本中の里山同様、近隣の農家の維持管理努力によって、300年以上の間存続してきたそうです。ところが戦後の高度成長以降、廃棄物関連施設や資材・残土置場、倉庫、霊園、老人施設などが次々と建設され、産廃銀座と呼ばれるようになってしまったそうです。そこで都心に近い広大な緑地空間を残すため、現在おおたかの森トラストなどの市民団体による、緑地の買い取りや管理活動が行われているとのことです。まあここいらは狭山丘陵のトトロの森と一緒の方式ですね。

実際歩いてみた感じだと、いたるところに産廃施設や資材置場があります。しかし平地林の規模は新座市にある平林寺などより遥かに広いので、産廃施設があってもウォーキングやランニングのコースとしては十分魅力的です。ただ歩いている人は1人もいなかったので、知名度不足が悔やまれます。まあ今コロナ下なので、その方が好都合なのかも知れませんが。

くぬぎ山の森は林道のような道が何本も通っているだけの何もない場所なのですが、一番南側に「三富今昔村」という場所があり、散策路の他にレストランや土産物屋や体験学習コーナーなどが整備されています。サイボクみたいな日帰り温泉はありませんが、サクラタウンの武蔵野坐令和神社のライバルみたいな「しあわせ神社」というのがあるようです。ただ入場料がとられるので、入場料払ってすぐ出てくるのも勿体ないので、今回はパスします。

三富今昔村からまた東へ進み、砂堀川を渡ると「多福寺」と「多聞院」という徳川綱吉の時代の新田開発政策で当時川越藩主だった柳沢吉保によって一寺一社の制に基づき三富新田に造られた寺があります。

最初に向かう「多福寺」は臨済宗妙心寺派の寺院で、上富村・中富村・下富村の菩提寺として造られた寺で、広い平地林の中にあります。吉保直筆の「参禅録」をはじめ、重臣の曽根権太夫が寄進した銅鐘などが残されています。ここにも「元禄の井戸」という新田開発湯治に掘られた井戸が残されており、ただこれは水の出があまり芳しくなく、渇水期にははるか柳瀬川などから水を桶に入れて運んで生活せざるを得ないことが度々あったようです。

次の「多聞院」は、祈願所として中富村に設置された「毘沙門社(毘沙門堂)」の別当寺として造られた真言宗豊山派の寺院で、この毘沙門堂には武田信玄の守り本尊であったといわれる小さな(約4cm)黄金の毘沙門天像が奉られています。後に大老格となり幕政を主導する柳沢吉保は武田の家臣の家系なので、その関係で奉られたのだと思います。多聞院の境内は立体曼荼羅をイメージして植え込まれたとされる23種類300株の牡丹が咲く名所としても有名で「牡丹寺」とも呼ばれているそうです。

多聞院の横にある「中富神明社」は、神仏分離令で多聞院から離れた神社で、三富地区・富岡地区の諸社を合祀した村社です。ここは別名「いも神様」とも呼ばれており、水が乏しいこと土地でも良く育つサツマイモの神様です。このサツマイモは目黒不動尊の墓地に墓がある「青木昆陽(甘藷先生)」が関東で最初に試作に成功したものを、所沢の南長井村の名主・吉田弥右衛門がこの地に広めたということです。サツマイモは飢饉の備や自宅用の食料として作られただけでなく、江戸で流行した焼き芋屋の芋としても使われ、貴重な現金収入になったそうです。

多聞院から砂堀川沿いを進むと「食の駅 所沢店」という「ファームドゥ」という農業系ベンチャー企業がやっている道の駅のような物があります。主に有機野菜の生産・流通・販売をやっている会社で、南町田グランベリーパークやイオンモール日の出などにも出店しているようです。湯楽の里を出た後、ここに戻ってきて昼食にする予定だったのですが、入浴中に凄い雨が降ってきて、時間潰しに温泉の食堂で昼飯を食べてしまったので、産直の昼飯は食べられませんでした。

「下富八雲神社」は中富神明社に合祀された神社の1つで元は神明神社だったらしいのですが、なぜか今は八雲神社を名乗っています。

そして下富八雲神社の並びにあるのが「所沢温泉 湯楽の里」です。気になっていたものの、大地の果て過ぎて行けなかった場所ですが、今日やっとたどり着くことが出来ました。料金は土日920円、泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物泉、要するに塩泉で、薄い茶褐色をしています。チェーン店なので、中の設備や雰囲気は他と湯楽の里と変わりはないのですが、この日はコロナの緊急事態宣言で空いていたので、ゆったりと入れました。

湯楽の里で温泉に入っている最中に、もの凄い雨が降ってきて、少し待たないとやみそうに無かったので、温泉の食堂でザルラーメンと揚げ餃子を食べました。ザルラーメンはつけ麺のような物を想像していたのですが、具のないつけて食べる冷やし中華でした。

雨が上がったので、やんでる間にバスで新所沢駅に行きたかったのですが、本数が全然ないので、早足で新所沢駅まで歩き、航空公園駅まで1駅電車で移動します。

ここからはおまけなのですが、航空公園駅西口を出て南に進むと「所澤神明社」という所沢の総鎮守の神社があるのでまずそこに行きます。ここは、日本武尊が東夷征伐の途中で小手指ヶ原にさしかかり、この神社付近で休憩し天照大御神に祈りを捧げたことを記念して、土地の人間が天照大御神を祀ったのが起源と言われていますが、古記録が全て焼けてしまったので本当のところは良くわからないそうです。でも立派な神明造りの社殿があり「関東のお伊勢さま」とも呼ばれているようです。また日本最初の飛行場である所沢飛行場の初飛行のパイロットとなった徳川好敏が、その前日に正式参拝したことから、航空関連の神社としても有名だそうです。この日は夏祭りの準備の真っ最中でした。

所澤神明社の次に向かうのが、今日わざわざ途中下車した目的地の「薬王寺」です。ここは曹洞宗寺院の寺院で「新田義宗終焉之地」の碑があります。今朝、豊岡愛宕神社で首塚を見た新田義興の弟です。義宗は群馬の沼田で討ち死したと言われていますが、実は再起を図るため所沢に隠れ住んでいたそうです。しかし足利氏の勢いは衰えず、南北朝も統一され再起の目がなくなったため、義宗は剃髪し一族郎党の菩提を弔いつつこの地で亡くなったとのことで、石碑は明治30年に義宗の子孫が建てたものだそうです。すぐ横に新田家の墓もあります。

薬王寺から旧赤線地帯だったという東川沿いの「浦町」を抜け、川を渡った上にテレビの散歩番組などで良く取り上げられる「盃横丁」をちら見して所沢駅に向かいます。ここは新宿のゴールデン街を小さくしたような場所で、蛭子能収さんの描いた大きな看板があるそうなのですが、見落としました。蛭子さんは1986年頃~2007年頃まで約20年間も所沢に住んでいたそうです。

盃横丁から表通りに出たところが「ファルマン通り」で、通りの名前はフランス製のアンリ・ファルマン1910年型複葉機から来ているそうです。

そしてファルマン通りから駅に向かう小径が「プロペ通り(所沢プロペ商店街)」です。ここも日本の航空発祥の地“所沢”にちなんで命名されたそうなんですが、プロペは飛行機のプロペラのことではなく、躍進・推進を意味する「プロぺル」に由来するそうです。所沢一の繁華街のはずなのですが、コロナと突然のゲリラ豪雨のせいで人出はイマイチ!。

三富今昔村
https://santome-community.com/

食の駅 所沢店 | 所沢市の情報ならこちら【とこなび】
https://tokorozawa-navi.com/shop/shokunoeki

埼玉県所沢市の天然温泉施設「所沢温泉 湯楽の里」
https://www.yurakirari.com/tokorozawa/

盃横丁
http://www.sakazuki-yokocho.com/

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