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金剛寺(比企氏館跡)と坂戸の残り(中山陣屋跡、伊草神社、塚越の遺構類など)

弾正陣屋跡、林氏屋敷跡、赤尾諏訪神社、吹塚八幡神社、中山陣屋跡、比企氏館跡、堂地遺跡、金乗院、牛村氏屋敷跡、伊草神社、堀の内屋敷、小島氏館、雷電塚古墳、東光寺、別所屋敷跡、明泉館跡、塚越の遺構、横堀屋敷跡、胴山古墳、恒岡氏館跡、横田氏陣屋、島田氏陣屋跡( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇りのち晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→池袋→東武東上線→高坂

復路:坂戸→東武東上線→和光市→副都心線→渋谷→東急東横線→学芸大学

この登山記録の行程

高坂駅6:12→越戸川6:34→島田天神社・東蔵寺6:45→弾正陣屋跡6:54→金山彦神社7:12→林氏屋敷跡7:19→赤尾諏訪神社7:24→吹塚八幡神社7:37→中山陣屋跡7:48→中山天神社7:53→金剛寺(比企氏館跡)7:58~8:08→中山氷川神社8:19→善能寺8:21→かわじま公園(堂地遺跡)8:30→金乗院8:45→牛村氏屋敷跡8:51→伊草神社9:04→大聖寺9:11→金笛しょうゆパーク9:16→小沼氷川神社(堀の内屋敷)9:49→少林寺(小島氏館)9:55→東光寺(→雷電塚3号墳)10:09→雷電塚1・2号墳10:14→別所屋敷跡10:20→明泉館跡(宝珠寺)10:32→青木白鬚神社10:38→青木八幡神社→塚越の遺構10:56→横堀屋敷跡11:00→胴山古墳11:18→飯盛神社(恒岡氏館跡)11:33→休臺寺(横田氏陣屋)11:44→島田氏陣屋跡12:00→坂戸天然温泉 ふるさとの湯12:20~13:50→本格豚骨そば まりぼ13:59~14:14→坂戸駅14:21

合計6時間24分(温泉、ラーメン除く)

コース

総距離
約28.6km
累積標高差
上り約51m
下り約51m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

4月23日(土)は、川島町の西側と坂戸の行き残しを回ってきました!川島町は名前の通り荒川と越戸川に挟まれた中州のような場所で、東武東上線からも高崎線からも遠く、最初は桶川から坂戸まで縦断する計画だったんですが、あまりに長いので諦めて、東武線側と高崎線側の2回に分けることにしました。

スタートは高坂駅です。高坂から坂戸の東武線寄りは前に行ったので、あまり寄り道せずに九十九川と越戸川を渡って南東に進みます。

前に行った浅海氏屋敷の裏を抜けると、まず「島田天神社」という神社があります。ここは永禄年間(1558-1570)にこの地を開拓した草分け6軒が開拓の成就を願って京都北野天神を勧請した神社だそうです。江戸期には「東蔵寺」境内にあり、諏訪社が村の鎮守だったらしいのですが、明治時代に神明社諏訪社や神明社などを合祀して村社になっています。

島田天神社の隣にある「東蔵寺」は臨済宗の寺院です。この近辺に「蔵の家」と呼ばれる代官屋敷があり、その代官が元和2年に越生町今市村正法寺四世大雪を開基として創建した寺院だそうです。

その代官屋敷がここかどうかはわかりませんが、東蔵寺から少し東北に行ったところに「弾正陣屋跡」というものあります。戦国時代からこの地に住んでいる「鷺谷家」の屋敷が、あるにはあったのですが、既に無住になっており、屋根の一部が崩れかけていました。弾正というのは村や集落を管理する小役人のことなので、代官と呼んでも良い思うのですが、どうなんでしょう?遺構は、屋敷の前と左右に水路があり三方を囲んでいますが、この辺りは水田地帯で水路が多いのでこれを堀の跡と呼べるかどうかは微妙です。

弾正屋敷からさらに南東に進むと越戸川の堤防沿いに「赤尾金山彦神社」があります。ここは南北朝時代にこの辺りの鎮守として勧請された神社らしいのですが、たび重なる洪水で由緒書きなどは全て流されてしまって何も残っていないそうです。でも一応村社にはなれたようで、ただ現在の社地と社殿は、昭和34年に越辺川の河川改修のため移転を余儀なくされ、その時に新築されたものだそうです。

赤尾金山彦神社から南に少し行ったところに「林氏屋敷跡」と「赤尾薬師堂(瑠璃殿)」があります。林氏は戦国時代初期に信州の諏訪から移住してきたと伝えられる一族で、江戸時代に赤尾村下分の名主を務めていたそうです。現在も林氏の子孫が住む立派な長屋門がある屋敷があります。遺構は敷地の東側に堀のようなものが残っているとのことだったのですが、このあたりも水路だらけの水田地帯なので、遺構かどうかの判別はつきません。

林氏の屋敷の道を隔てた向かい側にあるのが「赤尾薬師堂(瑠璃殿)」です。ここは林家所有のお堂で前に林一族の墓もあります。この手のお堂というのは寺が廃寺になりお堂だけが残されたというものが多いので、あくまで推測ですが、昔この辺りに「瑠璃○寺」という寺院があり、廃寺になった後、薬師堂を林家で管理しているのだと思います。瑠璃殿の名前は「赤尾薬師堂」では凡庸なので、昔を忍んで寺の名前をつけたのでは?

「赤尾諏訪神社」は「赤尾薬師堂」とセットなのですが、今は少し離れた場所にあります。ここは信濃国から移住した林二郎民部信興が持ってきた諏訪大社から拝領した神石を神体として創建された林家の氏神的な色彩の濃い神社とのことで、先程の「赤尾金山彦神社」と赤尾の上分と下分で棲み分けがなされていたようです。ちなみに諏訪神社の周りというのは林家ばかりなので、村社が氏神でも何ら問題はなかったのだと思います。

そしてもう一度越戸川を渡っていよいよ「川島町」に入ります。入ってすぐにあるのが「吹塚八幡神社」です。この神社は吹塚の地名の由来となった塚の上にあるとのことだったのですが、見た限りでは塚のような物は存在していません。でも大正15年までは塚上に御嶽神社ありが、八幡神社は麓に祀られていたそうです。八幡神社自体は松山城の上田氏の家臣の道祖土氏の関係で祀られたようです。道祖土氏の居館跡は川島町のもう少し東側にあるのですが、神社の隣の表札も道祖土さんでした。

吹塚八幡神社から東へ進むと、今度は「中山陣屋跡」があります。ここは現在「中山小学校」になっているので遺構のようなものは残っていません。中山陣屋は山形藩の飛び地であった川島領5000石の管理のために設けられた陣屋で、中山役所とも呼ばれていたそうです。石碑が校庭のどこかにあったようなのですが、外からしか見られなかったので見落としました。

「中山天神社」は、江戸時代にここにあった梅林山能性寺という真言宗寺院の境内に祀られていた神社のようです。明治維新後の神仏分離で能性寺は廃寺となり、天神社だけが残され、明治40年には中山氷川神社に合祀されたらしいのですが、なぜか社は残されています。

そして今日の一番の目的地である「金剛寺」です。ここは「比企氏館跡」といわれています。比企氏の館跡は3つあり、他には前に行った「三門館跡」と「宗悟寺」も候補地になっているのですがここが最後です。三門館は比企遠宗と妻の比企尼が築いた館で、その養子である比企能員の館が東松山市の宗悟寺で、能員の後裔の比企政員が戦国時代にここに館を構えたとうまく整理していう人もいますが確証はないようです。しかも比企政員は比企氏を名のっていますが、系図があまり信用できるものではないらしいので、この辺りを領有した土豪が勝手に比企氏を名乗った可能性もあります。しかし、寺には比企能員の位牌を納めた大日堂と比企一族の墓があります。墓地の入口には空堀のような物があります。寺の周りも水堀のような水路があるのですが、ここも隣が広大な田んぼで、住宅街の中も縦横無尽に水路が巡っているような場所なので、何とも言えません。

さらに「金剛寺」は、真言宗智山派の寺院なのはわかるのですが、それ以外は越戸川に複数の川が合流する洪水多発地帯にあるため、創建に関する記録等は全部流されて残されていないということです。

金剛寺から南に向かうと、中山の中心的な神社である「中山氷川神社」があります。明治時代に先程の天神社や白髭神社を合祀して村社となっています。創建ははっきりしないのですが、この辺りが開拓された鎌倉時代頃ではないかといわれています。

氷川神社の別当であったのがすぐ隣にある「善能寺」です。ここも真言宗智山派寺院で、創建年代等は不詳なものの、安永8年(1779)に法印尊祐が中興したといわれています。また何故か世田谷区の松原にある妙楽寺に「比企郡中山村善能寺、願主総代氏子中弘化四丁末年(1847)三月吉辰」と銘された鰐口が残されているそうです。

「かわじま公園」は川島IC建設に伴い設けられた大きな広場のような公園なのですが、12世紀中頃~13世紀前半の武士の居館であったといわわれる「堂地遺跡」が発見されています。館主は秩父平氏の流れをくむとも丹党の一員であったともいわれる中山氏ではなかろうかと推測されています。またそれ以前の時代の竪穴住居跡 11 軒と井戸跡3基なども発見されているようです。

真言宗豊山派の「金乗院」は徳川幕府から寺領19石の御朱印状を受領した寺ということで寄ってみたのですが、慶長13年(1609)と享保8年(1723)に2度の火災にあい諸堂、書類などが全部焼失してしまったということに加え、越戸川の流路変更と道路建設などで敷地を大幅に削られて、建物もその時に建て替えられているようなので、見るべき物はほとんどありません。

金乗院のすぐ近くにあるのが「牛村氏屋敷跡(牛村助十郎屋敷)」です。中世の豪族の牛村氏の館跡で現在も子孫の方が住んでいます。ということだったのですが、畑の彼方の屋敷はマンションのような建物に置き換わっていました。この辺りは岩槻の太田氏の奉行の細谷資満の所領で、牛村氏は現地を管理する小代官的存在であったと推定されます。また堀の内という地名も残っており、一辺約80mほどの方形館を囲む堀の跡のような水路もあるそうなのですが、畑の中を勝手に調べるわけにもいかず確認できませんでした。

さらに南に進むと、「伊草神社」と「大聖寺」が並んで建っています。「伊草神社」は、隣にある「大聖寺」が境内鎮守として慶長年間(1596-1615)に近江国坂本から勧請した山王社が元となっており、徳川家光没後、将軍家の訪問も途絶えたことから、元禄年間(1688-1704)に川越藩主松平伊豆守から御茶屋の取り壊しを命じられ、御茶屋の木材を使って薬師堂を建て、さらに当地が穢れることのないよう境内にあった山王社を遷座して祀ったものといわれています。明治維新後に村社に列格され、近隣の神社を合祀して伊草神社と改名しています。伊草という地名は付近に藺草が多く生えていたことに由来するそうです。ここの境内には「弁天像蛇神人頭像」という弁天様に蛇が巻きついた変わった仏像があり、これはこの地に良い井戸水が湧くので、それを祀ったものだそうです。

真言宗智山派寺院の「大聖寺」は、東村山市宮鼻から天正年間(1573-1592)にこの場所に移転してきたらしいのですが、比企能員の末裔にあたる中山村の道作より、比企氏系図と共に寄納された比企能員の守り本尊といわれる千手観音像を所有しています。徳川家光に愛された名刹でしたが、徳川家光没後、将軍家の訪問も途絶えたことから、元禄年間(1688-1704)に川越藩主松平伊豆守から御茶屋の取り壊しを命じられ、御茶屋の木材を使って薬師堂を建てられたそうです。

伊草神社に行く途中で「金笛しょうゆパーク」という醤油醸造所の直売所があったので、「醤油ソフトクリーム」なるものを食べて見ました。塩大福の隠し味に塩の代わりに醤油を入れたようなソフトクリームで、ミルクと醤油が良くマッチしてなかなか美味でした。

再び越戸川を渡って、前回坂戸周辺を回った時に行ききれなかった場所を巡りながら坂戸駅方面に戻って行きます。

最初にある「小沼氷川神社」には「堀の内屋敷跡」という江戸時代初期の城主不明の居館があったといわれています。裏に堀と土塁の跡のような物が残っています。城主は勝呂氏や小島氏、青木氏あたりが候補に上がっているそうですが記録が残っていないのでわからないそうです。氷川神社に関しては、小沼村には当初、八幡社と氷川社とが祀られていたらしいのですが、八幡社の祀られていた越辺川寄りの地域は水害が多く、集落自体が寛永年間(1624-1645)にこの場所に移転して、氷川社が小沼全体の鎮守となったそうです。八幡社は明治40年、氷川社が村社に列格された際に、字西廊の八坂神社共に合祀されています。

そしてその北側にある曹洞宗の「少林寺」は「小島氏館跡」といわれる寺院なのですが、寺が取り壊されて魚藍観音のお堂とお墓だけになっていました。ここは小嶋氏の祖先である道斎宗現沙彌(元亀3年1572年寂)が永禄2年(1559)に創建し、永源寺6世高天暁が開山したといわれている寺だったのですが、元は小島氏の館だったようです。小島氏は越後上杉氏の家臣とも山内上杉氏の家臣とも比企能員の家臣ともいわれていますが、良くはわかっていないようです。たぶんこの辺りの土豪だったのでしょう。少林寺の敷地の北側に空堀と土塁の跡が残っています。

少林寺から西に進むと、「雷電塚古墳」と「東光寺」がまとまってありあります。まず「東光寺」ですが、ここはこの前に行った「西光寺」と共に、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの際に建立されたと伝えられる真言宗智山派の寺院で、領主青木氏の菩提寺でもあります。ここも青木氏あるいは小島氏の屋敷であったのではないかといわれているのですが、寺の裏にある土塁のような物は完全に「雷電塚3号墳」で、堀のように見える池も用水路から水をひいて造ったものなので、居館であったかどうかは微妙なところです。

東光寺の斜め前にある「雷電塚古墳」は、別名「雷電塚1号墳」と呼ばれる前方後円墳で、後円の墳頂に名前の由来となった雷電社の石祠が建っています。すぐ南にある小さな古墳が「雷電塚2号墳」で、こちらは上に稲荷社の石祠があります。発掘調査の結果、この周辺には全部で10基の古墳が確認されているそうです。

「別所屋敷跡」は鎌倉時代の屋敷だそうですが、地図の場所には畑しかありませんでした。場所が間違っていたのかもしれません。一応「新編武蔵風土記稿」には「往昔武士の居住せし跡とのみ伝えて姓名も知らず、構の内西北の廻りに小土手今に残れり、其外皆畠となる、此の畠の中より甲冑刀槍の類の朽ちたる物出せしことありと、想うに当国七党の内、丹の党に青木氏なる者あり、其人の居住せし所なるも知べからず」と記されていて、丹党の青木氏の居館であったのではないかといわれています。青木氏の本領は飯能市ですが、入間川下流域に新天地を求めて移住した丹党や村山党の末裔が多数いるため、ここの青木氏もその一例なのかもしれません。

別所屋敷跡の西側にはさらに「明泉館跡」もあります。ここも最初は麦畑しかなかったのですが、少し南西に行った「宝珠寺」という真言宗智山派の裏手に竹藪を四角く囲んだ堀と、その北側に長く続く土塁のような物を発見しました。鎌倉期のものという説もあるようですが、誰の居館であったかははっきりしません。宝珠寺に関しては鎌倉時代に創建された以外のことはわからないようです。今の本堂も比較的最近建て替えられた物で無住でした。

「青木白鬚神社」は、江戸期には青木八幡神社と共に村の鎮守社だったらしいのですが、明治40年に青木八幡神社に合祀されています。でも小さな社が今も残っています。白髭神社のある場所には堀ノ内と字名が残っており、「坂戸市史」には「江戸時代に小名で根子屋敷と呼ばれたところで、住吉中学校の東北部にあたり、白髭神社があった。館の遺構はは残っていないが、現在でも根子屋敷を屋号とする旧家があり、時代は分からないが中世の館があったのは事実であろう」と書かれています。遺構は残っていませんが、だれかの根小屋としての屋敷があったのではないでしょうか?詰めの城としての山城になりそうな場所が近所にないのが気にかかりますが…。

白髭神社を合祀した「青木八幡神社」にも一応行っておきます。ここはこの地に土着した「真田長兵衛幸政」の屋敷鎮守として創建された神社で、後世に村鎮守として村人が祀るようになったとのことです。明治5年に村社となっています。青木の村名は、先程丹党の青木氏と書きましたが、別に信州の真田家の領地青木村にちなんで名づけられたという説もあります。坂戸の真田家の先祖は戦国武将で後に徳川の旗本となった真田長兵衛幸政です。真田幸村の従兄弟だったのですが、真田昌幸の娘婿になったことから義兄弟の関係になります。先程の白髭神社の根子屋敷の主はこの幸政ではなかったかと考えたくもなりますが、旗本本人が住んでいたなら、立派な遺構が残っているはずで、領地を持っていただけで、管理は地元の役人に任せていたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

少し西へ進むと「塚越の遺構」というものがあります。色々ありすぎてついに館の名前もつかずに単なる遺構になってしまったという感じなのですが、ここは「御門遺跡」という古墳時代~古墳後期~奈良時代~平安時代の集落跡であり、その上に居館跡の遺構も残っていたそうです。実際、畑に続く道の東側に南北に続く土塁があり、その外側に空堀も残っています。しかし誰のものかはわかっていません。

しかしその北西にある「構堀屋敷跡」は、戦国時代に小田原の北条氏に仕えて松山衆に所属した林与右衛門の屋敷跡であるという言い伝えが、現在もこの地に住む林家に残っています。敷地を立派な空堀が囲んでいます。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原責めで松山城で籠城をした城兵の中に林与右衛門という名前が出てくるそうなのですが、たぶん同一人物だと思われます。ここで赤尾の林さんと親戚なのでは?という疑問も浮かんでくるのですが、古文書にはそこまで書いてないようです。

「胴山古墳群」は全長63.2m後円径20m、高2.7mの巨大な前方後円墳です。ただ全体が藪に覆われているため、とても登れたもんじゃありません。外から見るだけです。

そして東武線に近づいて行くと「飯盛神社」があります。ここは名前から農耕神を祀った神社てはなかったかといわれているのですが、元亀2年(1571)には岩槻城太田氏の被官、あるいは松山城の上田氏の臣下であった地頭の「恒岡入道大林軒道会日勢」が、妙本寺住持日慶上人を招請し、三十番神を勧請して神社と併せ祀ったという記録が残っており、明治維新後の神仏分離までは神仏習合色の神社だったようです。飯盛神社はこの「恒岡入道」の館跡ともいわれており、境内には土塁にも見える微妙な土盛りがあるのですが、居館には神社の境内だけではあまりに狭すぎるため、これは遺構ではないと思われます。恒岡氏の居館があったとしたら、隣のフットサル場も含めた広い範囲で、飯盛神社はその敷地内で氏神として祀られていたのではないでしょうか。

次の「休臺寺」は飯盛神社の別当寺だった日蓮宗の寺院なのですが、垣岡氏の館ではなく「横田氏陣屋」があったといわれています。休臺寺は、比企ヶ谷妙本寺住本行院日慶(天正8年1580年寂)が長柳山妙慶寺と号して開山し、横田次郎兵衛(正覺院一乗日臺居士、延宝7年1679年没)が中興開基した寺です。横田氏は江戸時代の旗本で、元は武田の家臣の家系だったようです。寺の前に横田家の墓所が残っています。

「島田氏陣屋跡」も徳川家康の旗本であった島田次兵衛尉重次の陣屋です。島田氏は三河以来の家臣で、重次は三河矢作で生まれ、家康の家臣として三方ヶ原の戦いでは浜松城の留守居役を務めています。家康が関東へ入国した時に重次は坂戸に領地を与えられて陣屋を構えたものと思われます。その後、重次は関ヶ原の戦いや大坂の陣にも従軍し、寛永14年(1637)に90歳で坂戸で没しています。現在は住宅地になっているので、遺構は残っていませんが、近所に薬師堂と八坂神社があり、その裏の陣屋があった辺りが、2022年5月現在広い駐車場になっているのでイメージはしやすいです。

島田陣屋跡から北坂戸駅まですぐなのですが、せっかくなので「坂戸天然温泉 ふるさとの湯」に寄っていきます。ここは高麗川沿いにあって、二階の露天風呂から高麗川の河原が眺められるなかなか風光明媚な温泉で、泉質はやや黄緑がかったpH8.5の弱アルカリ性の低調性のナトリウム-塩化物温泉です。平日750円、土日850円なのですが、もらってきたパンフは平日850円、土日950円になっていたので、たぶん5月から値上げになるのだと思われます。

ふるさとの湯で汗を流したら坂戸駅まで歩きます。で、昼飯ですが、今日は坂戸で初めて降りた時に行った「本格豚骨そば まりぼ」に行ってみました。坂戸に昔からある人気のラーメン専門店です。うろおぼえで豚骨ラーメンの店だと思っていたのですが、どちらかというと背脂ラーメンの店でした。

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