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鴻巣周辺(箕田館跡、安達盛長館跡、伝源経基館跡、笠原久豆神社など)

べったら塚古墳、小谷城跡(金、小谷日枝神社、箕田古墳群、箕田館跡、宮登神社、安達盛長館跡、伝源経基館跡、鴻神社、法要寺、宮地古墳、安養寺古墳群、郷地久豆神社、笠原久豆神社、東光寺、笠原堤跡、生出塚神社、勝願寺、鴻巣本陣跡、鴻巣御殿跡( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇り

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→上野→高崎線→北鴻巣

復路:鴻巣→湘南新宿ライン→恵比寿→山手線→目黒

この登山記録の行程

北鴻巣駅6:10→べったら塚古墳19.8m6:22→小谷城跡(金乗寺~小谷日枝神社)6:35~42→箕田古墳群5号墳6:54→満願寺7:04→〃2号墳(三士塚)7:12→満願寺大御堂7:17→〃4号墳7:21→宝持寺・氷川八幡神社(箕田館跡)7:27~34→〃6号墳7:37→〃8号墳7:40→〃7号墳7:42→龍昌寺7:45→宮登神社(宮登古墳(〃9号墳))7:52→放光寺(安達盛長館跡)8:14→聖泉寺8:19→糠田氷川神社8:22→城山ふるさとの森(伝源経基館跡)8:52→鴻神社9:10→法要寺9:16→宮地古墳9:24→安養寺(安養寺南古墳)9:49→安養寺愛宕神社古墳9:52→安養寺八幡神社古墳10:04→郷地久豆神社10:16→安福寺10:24→笠原観音堂10:42→笠原久豆神社10:50→東光寺10:54→麺屋ひな多11:20~35→生出塚厳島神社11:45→生出塚神社11:54→勝願寺12:05~25→鴻巣本陣跡12:31→鴻巣御殿跡(東照宮祠)12:36→鴻巣駅12:40

合計6時間15分(ラーメン除く)

コース

総距離
約24.5km
累積標高差
上り約50m
下り約46m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

4月29日(祝)は、昼から天気が崩れそうだったので川島町の続きは諦めて、鴻巣周辺を回って来ました!この辺りは大宮台地の西端で早くから拓けた場所なので、行くべき場所が多すぎて距離のわりに回るのが大変でした。関東の武士たちは、秩父や児玉などの山里の狭い谷戸から出てきて、多少洪水の危険はあるものの、生産性の高いこの辺りの平地に出てきて大発展を遂げたんですね。

スタートは「北鴻巣駅」です。「こうのす」の地名の由来は、日本書紀に出てくる「武蔵国造の乱」で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる「笠原直使主」が武蔵国造に任命され、一時期この辺りに武蔵の国の国府が置かれたため、「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」が入り交じって「鴻巣」になったとするといわれています。「笠原直使主」も「鴻」も後で出てくるので、その時説明します。

北鴻巣駅西口を出てすぐあるのが「べったら塚古墳」です。上が削られて台形に近いためべったら漬けを連想させるので、この名前がついたそうです。直径が23m、高さが2mあり、墳頂のお堂には六地蔵がおさめられています。その裏には19.8mの三角点もあります。遺物は埴輪片、土師器片が出土したとのことです。

駅から離れ、荒川に向かうと次は「小谷城跡」があります。今は金乗寺になっていて遺構は何もないのですが、小宮山氏は成田氏(忍城主)に仕えた小宮山弾正の祖先ではないかといわれており、小宮山内膳と小宮山弾正という人たちの名前が残っています。

真言宗豊山派の「金乗寺」は、小谷城の城内にあったと伝えられてる寺で、寛永6年(1632)に行われた荒川瀬替で、この場所に移転して来たそうです。その後、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領しています。境内には御嶽塚があります。

金乗寺のすぐ近所にある「小谷日枝神社」小谷城の鬼門にあたることから、鬼門除けとして祀られたといわれています。江戸期には山王社と呼ばれ小谷村の鎮守として祀られてきたそうで、塚のような若干の土盛りの上にあります。また境内には富士塚もあります。明治初年に名前を日枝神社と改め、6年に村社に列格しています。神社の案内板に若干、小谷城のことが書いてあります。

荒川から離れて再び高崎線方面に向かうと「箕田」という場所があります。ここは大宮台地の西端で、関東の源氏の発祥の地といわれています。源氏は平家と違いすぐ関西に帰ってしまうので後が続かなかったのですが、古くから発展していた場所らしく「箕田古墳群」という幅600m、長さ1000mに渡る広範囲に6世紀初頭から7世紀半ばに築造された多数の古墳が存在する古墳群も存在しています。ただ現存するのは7基のみです。古墳を巡りながら源氏の史跡も見ていきます。

灌漑用の水路を渡ると、「箕田5号墳」と「箕田4号墳」があるはずだったのですが、住宅の裏に隠れていた4号墳を見落とし「満願寺」に着いてしまいました。ここは真言宗豊山派の寺院で、清和源氏の初代「源経基」が創建したといわれていますが、源頼義が奥州征伐の際に創建したという説や、源頼義の家臣若林某が住んでいたという説もあり、はっきりしないようです。でも源氏由来の古刹でであることは間違いないようで、本堂から道を隔てた北側にある「大御堂」には源経基が寺の本尊である阿弥陀三尊を奉る場所を決めるため矢を放ち、矢が落ちたこの場所に御堂を建てたという伝説が残っています。この寺の東側にある三士塚の前辺りに「箕田館跡」があったという説もあるようです。天正19年(1591)に寺領5石の徳川の御朱印状を拝領しています。

満願寺の東側にある「三士塚」は2号墳で、墳頂に氷川神社の小祠があります。古墳の築造年代と合致しないのですが、箕田源氏の祖である「源仕」と妻子の墓であるという伝承があります。また三士とは、異説もあるのですが一般的には箕田源氏の仕、宛、綱の三代のことを示すといわれています。

4号墳を探しに戻り、再び東に進むと「宝持寺」という曹洞宗の寺院があります。ここには「渡辺綱」が祖父(箕田源氏の祖源仕)と父(源宛)の菩提を弔う為に創建したという伝承が残っています。その後一時期衰退するも、東松山市永福寺の第二代住職壑芸玄巨大和尚により永正年間(1504-20)に曹洞宗寺院として中興されており、寛永19年(1642)にここも寺領5石の御朱印状をもらっています。境内には最近造られた物ですが、嵯峨源氏代々の供養塔あったらしいのですが、これもまた見落としました。

宝性寺の南側にある「氷川八幡神社」が源氏三代の館である「箕田館跡」といわれる場所です。平安時代後期、嵯峨源氏河原左大臣源融の孫、仕は武蔵守に任ぜられ、箕田郷を開墾してこの地に住み着き、箕田氏を名乗ったとされています。館の場所は神社の北側となっているので、宝性寺の敷地を含む形で館が存在していたのだと思われます。「氷川八幡神社」は、別名「箕田八幡神社」とも呼ばれ、「渡辺綱(源綱)」が、永延2年(988)に勧請した八幡宮がベースになっているのですが、明治時代に箕田氷川神社を合併して郷社に列格された際に、氷川八幡神社に改名したようです。

箕田館には、箕田氏(源氏)三代の館があったのですが、三代目の綱は、生まれた時すでに父が他界したために清和源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺に移住し、「渡辺綱」と名乗ることになり、ここで関東の源氏は途切れます。関西に移住した綱は豪傑として知られ、大江山の酒呑童子退治などの伝説を残しています。

続いて「箕田6号墳」「〃8号墳」「〃7号墳」と回り、真言宗豊山派の「龍昌寺」に向かいます。ここは源氏に関係ないようですが、古くより近郷における新義真言宗の中心的な寺院として栄えてきた寺で、最盛期には末寺36ヶ寺を擁していたとのことです。満願寺と同じ年に寺領5石の御朱印状を拝領しています。

龍昌寺の南西の少し離れたところにあるのが「宮登古墳(箕田9号墳)」です。前に「宮登神社」が建っています。この古墳からは、角閃石安山岩製の胴張を持つ横穴式石室が発見されており、7世紀前半の築造とみられています。「宮登神社」は、江戸時代には光徳寺を創建した高野僧の源楽を聖権現(道主貴神)を祀る神仏習合色の強い聖権現社でしたが、明治の神仏分離令に際し、箕田の氷川八幡神社を勧請して八幡社と改めて村社に列格した後、明治40年に近隣の六社を合祀し、宮前と登戸の頭文字を採り宮登神社に名前を改めたということです。

また荒川沿いに戻ります。真言宗豊山派の「放光寺」は、源頼朝の御旗奉行を務めた「安達藤九郎盛長」が開基した寺で、元は「安達盛長館」だったともいわれており、寺には出家して蓮西と名乗った「安達藤九盛長坐像木像」があります。墓地に「安達盛長墓」もあったらしいのですが、またも見落としました。ただ墓は1983年に伊豆の修禅寺にある盛長の墓を復元したものだそうです。

安達氏は足立氏と同族であるという説と違うという説があるのですが、一般的にはいち早く源頼朝支持に名乗りをあげ、幕府宿老としても権勢を誇った「足立遠元」の弟が「安達盛長」だといわれています。安達=足立氏の出自は藤原氏とも源氏ともいわれています。盛長は、鎌倉殿の13人の1人にも選ばれ、正治元年(1199))、頼朝死去に際して出家し蓮西と号しています。

放光寺のすぐ近所にある「聖泉寺」は曹洞宗寺院で、当地の旧家河野権兵衛が開基となり、寛永年間(1624-1644)に観音堂として整備し、南叟玄寿大和尚を開山として招聘して開山したといいます。

「糠田氷川神社」は、朝日山と呼ばれる自然堤防なのか台地の削り残しなのかよく高台にあったらしいのですが、荒川の河川改修にかかり、朝日山は半分堤防に飲み込まれています。神社の位置も多少移動させられている気がします。でも広くて巨木の多い鎮守の森はふるさとの森という名前がつけられ、自然保護対象になっているようです。また昔は、神社のすぐ前に「糠田の渡し」と呼ばれる渡し場と「糠田河岸」という河岸場があったそうです。

鴻巣高校の南側にある「城山ふるさとの森」は「伝源経基館跡(箕田城、大間城)」といわれています。土塁と空堀に囲まれた四角い平坦地になっています。ここは平安時代中期に「源経基」が武蔵介として坂東に赴いた時に館としたと伝えられています。しかし掘立柱建物跡の一部が発見されたのみで、出土品は発見されず、確定するには至っていないようです。ただ「将門記」に武蔵介経基と足立郡郡司判官武蔵武芝とが比企郡(荒川対岸)で会合の際、武蔵武芝が突然武蔵介経基の館を取り囲んだとの記載が残されているため、武蔵介経基がこの周辺に居館を置いていたことは間違いないようです。「源経基」は、清和天皇の孫で貞純親王の第六子にあたることから六孫王と呼ばれ、後に源頼朝や新田氏や足利氏などの源氏がが関東地方に土着する先駆けとなったといわれています。

次の「鴻神社」は鴻巣の名前の由来となった神社と言いたいところなんですが、
鴻巣宿鎮守の氷川社、熊野社、雷電社の三社を明治に入って合祀して出来た神社で、最初は「鴻三社」という名前でした。その後鴻巣町内にあった日枝神社、東照宮、大花稲荷社、八幡神社を合祀して、明治40年鴻神社と改称しています。コウノトリの狛犬がいます。

その先の「法要寺」は、加賀藩前田家の宿所となっていた真言宗智山派の寺院です。梅に鉢の加賀前田家と同じ寺紋を使用しているそうです。

「宮地古墳」は宮地会館の裏にある径10mの円墳です。周りの住宅街が整備された時にかなり削られてしまったようで、墳頂に稲荷社があります。

宮地古墳からいよいよ「元荒川」を渡ります。元荒川は大宮台地を東側を通り、中川となって東京湾に注いでいた河川改修で流路を変更される前の荒川なのですが、昔のままの形で残っているわけではなく、大きな用水路のような人工的な河川になっています。水量が思いの外多いのはポンプで現在の荒川から水を供給しているためで、水は周辺の水田の灌漑用に使われています。

元荒川を渡ると「安養寺古墳群」という古墳時代の古墳群があります。主要な古墳は3つあって、まず最初にあるのが「安養寺南古墳」です。これは「安龍寺」にあります。「安龍寺」は最初、海雲和尚安公禅師(嘉暦3年1328年寂)が臨済宗寺院として創建し、後に佛日金蓮禅師(元和4年1618年寂)が現在の曹洞宗に改めたという寺で、「安養寺南古墳」は安龍寺の墓地になっており、上にたくさんのお墓が建てられています。結構大きな前方後円墳で約80m×約43mの大きさがあります。

続いて新幹線の線路の下にあるのが「安養寺愛宕神社古墳」です。削られて楕円形をしていますが、元は円墳だそうです。上にあるはずだった愛宕神社の石碑はすでになくなっていました。かつては横穴式石室があり、「狐の穴」と呼ばれていた横穴が、大正の初期頃まで開いていたそうです。

最後の「安養寺八幡神社古墳」も円墳です。径が45mあります。上に八幡神社があります。この八幡神社はかつてこの地にあった「安養寺」の守護神として祀られたもののようです。安養寺が無くなった江戸期も安養寺村の鎮守として祀られ、明治6年には村社に列格されたそうです。

そのまま田んぼの中の以外と交通量の多い道を東に進むと「郷地久豆神社」があります。ここは武蔵国造の乱で争った郷地直使主の本貫地と推定されるため、延喜式神名帳に記載される「足立神社」の論社になっている神社です。しかし社号の「久伊豆社」は平安時代末期に埼玉郡域を本貫地とした「野与党」や「私市党」の祖神とされることから、もう少し後の時代に野与党や私市党によって勧請されたという説もあります。明治6年に村社に列格されています。

その先の道沿いにある「安福寺」は、ここの名主の唯右衛門の祖先随山道順が開基となり、開山金蓮禅師(元和元年1615年寂)が開山したといわれる曹洞宗寺院です。境内にあった新しい石碑に長い間無住だったが、ようやく住職を迎えることが出来たと書いてあったのですが、どう見てもまた無住に戻った雰囲気でした。

そして今日の目的地である「笠原」に入って行きます。「笠原」というのは『日本書紀』安閑天皇元年(534)条に記載されている「武蔵国造の乱」に出てくる武蔵国造の「笠原直使主」が本拠地としていたといわれる場所です。「武蔵国造の乱」とは、「笠原直使主」と同族の「小杵」と武蔵国造の地位を巡って長年争っており、小杵は密上毛野君小熊の援軍を頼んで使主を殺害しようとしたため、小杵の企てを察知した使主は逃げ出し京に上って朝廷に助けを求めました。その結果、朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅したという事件で、この結果に満足した使主は、横渟・橘花・多氷・倉樔の4つの屯倉を朝廷に献上しました。超古い時代であることと、笠原は元荒川沿いの微高地で過去に何度も洪水被害に合っているため、遺構のような物は何も残っていないのですが、現在ある神社仏閣などを回ってみます。

最初に出てくる「笠原観音堂」は、微高地である笠原の西端にあり、ここから土地が少し高くなります。観音堂は駒覚山大悲庵と号し、たぶん元はちゃんとした寺があったのだと思われますが、元禄3年(1690)に開創された忍領三十三所の札所となっています。笠原直使主関連の話は特にありませんが、観音堂の西側で「笠原古墳群」が発見されています。

次の「笠原久豆神社」は、先ほど行った「郷地久豆神社」同様に武蔵国造の乱で争った郷地直使主の本貫地と推定されることから、延喜式神名帳に記載される「足立神社」の論社にもなっている神社です。社号の「久伊豆社」は平安時代末期に埼玉郡域を本貫地とした「野与党」や「私市党」の祖神とされることから、もう少し後の時代に野与党や私市党によって勧請されたという説があるのも一緒です。『吾妻鏡』建久6年(1196)3月10日条の源頼朝の奈良東大寺供養に従った随兵のうちに「笠原六郎」の名が見え、更に正治2年(1200)2月26日条に、源頼朝の鎌倉鶴岡八幡宮参詣に従った供奉人として「笠原十郎左衛門尉親景」の名が見え、この2人は、笠原を名字の地とする野与党に属する武士と推測され、「笠原久豆神社」にも何らの関与があったと思われます。それから明治6年に村社に列格されているのも一緒で、明治42年に大字笠原字弐貫野の菅原神社と伊奈利社、字永井戸の熊野社、字前新田の浅間社を合祀しています。

「東光寺」もあまり関係がないのですが、真言宗智山派の鴻巣市域で江戸幕府より御朱印状を受領した12の寺のうちの1つで、大きくて立派な寺です。

鴻巣駅方面に戻って行くと、途中に「麺屋ひな多」というラーメン専門店があったので、少し早いですが昼飯にすることにしました。ここは無化調の魚介系ラーメンの店であっさりとした魚介系スープに蕎麦のような麺が入っている変わったラーメンの店で、でも材料の産地一覧に蕎麦は入っていなかったので、麺は蕎麦ではないんでしょうが、とにかく食感が蕎麦なので、蕎麦をラーメンのスープに入れて食べているような不思議な感覚に陥ります。ただ蕎麦なら普通のそばつゆの方が好みだなと思ったのも事実で、そばつゆと同じ魚介系ではなく別のスープだったらまた違った感じになるのになと思いました。

「生出塚厳島神社」という小社があります。ここは明治40年に次に行く「生出塚神社」の境内に遷座されたものの、昭和54年この地に戻ってきた神社のようです。創建に関する由緒等は不明ですが、江戸期には村持ちの社だったようです。場所的に溜池のような物でもあったのでしょうか?

そしてその「生出塚神社」ですが、ここは「武蔵国造の乱」で笠原直使主に破れた「小杵」を祀ったといわれる神社です。ここには昔、小杵を葬ったという言い伝えを持つ「小杵塚(おきねづか)」という古墳があり、それが「おいねづか」となり、「生出塚」という字があてられるようになったといわれていて、小杵塚は削られて畑地になって今はありませんが、神社だけが残っています。ここも明治維新以降に村社となっています。江戸時代は天満宮だったそうなのですが、敗者小杵より受験の神様菅原道真の方が儲かるのか、その幟がたくさん立っていました。

ちなみに「笠原直使主」の墓は行田市のさきたま古墳群の1つ「二子山古墳」もしくは「丸墓山古墳」がそうではないかという説があります。「二子山古墳」が使主の墓で「丸墓山古墳」が小杵の墓という説もあります。小杵は破れたので前方後円墳が作れず円墳になったのだとか。

鴻巣駅に近づくと「勝願寺」という浄土宗の名刹があります。二世住職円誉不残上人が徳川家康の帰依を受け、寺領30石を安堵されて三つ葉葵の寺紋の使用も許された寺です。さらにここの建物は家康の次男、結城秀康が結城から越前北ノ庄へ転封になった際に、結城城の御殿を持ってきて造ったもので、大方丈に金の間・銀の間・獅子の廊下などがあるそうです。また多くの大名家の菩提寺となっており、「真田信重の墓」「真田小松姫の墓」「仙石秀久の墓」「伊奈忠次・忠治の墓」「牧野家累代の墓」などがあります。

「真田信重」は徳川の旗本になった真田信之(幸村の兄)の三男で鴻巣で病没したとのことです。「真田小松姫」は本多忠勝の娘で家康の養女となり真田信之に嫁しました。「仙石秀久」は、漫画「センゴク」の主人公にもなった人物で、秀吉の一家臣から信州小諸の城主にまで上り詰めました。「伊奈忠次・忠治」は三河の出身で、関東郡代となり「利根川の東遷」「荒川の西遷」を行った方のようです。忠治は父の事業を継いだ次男。「牧野家」は丹後国田辺城主三万五千石の譜代大名で、幕末まで約二百年間続いたそうです。

そして最後に、鴻巣駅前の中山道にある「鴻巣本陣跡」を見ていきます。現在は「鴻巣本陣跡」という標石がたっているだけですが、鴻巣宿は中山道69次のうち、江戸から7番目の宿場で、日光東照宮へ至る「忍道」、東松山市に至る「吉見道」、拝島に至る「千人同心街道」と交差し、加須市に向かう旧道の分岐点でもあったことから、宿継ぎが行われる場所として栄えたそうです。旅籠は58軒もありました。

ついでに家康の鷹狩りの休憩地として造られた「鴻巣御殿」という物もあるので見ていこうと思ったら、小さな東照宮の石祠が残されていただけでした。鴻巣御殿は家康、秀忠、家光の三代に渡って利用され、将軍家の利用が途絶えた後は、幕府の鷹匠による鷹狩のため定期的に利用されていたそうですが、明暦の大火で江戸城再建のための資材として28棟が解体されて持って行かれ、残っていた一部の施設も老朽化が進み、元禄の頃までには取り壊されてしまったようです。現在ある「東照宮祠」は土地の所有者であった小池家の子孫によって建てられたものだそうです。

そして何とか雨が降りだす前に「鴻巣駅」に到着でしました。

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