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仙元山と人見館跡

上野台八幡神社、仙元山、仙元山公園、昌福寺、人見館跡、最勝寺、一乗寺、宝泉寺、玉津島神社、深谷花園温泉 花湯の森、折戸口八幡神社、武蔵国八海山神社、道の駅かわもと、赤観音、長在稲荷神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇り時々晴れ、後時々雨

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:武蔵小山→目黒→山手線→品川→上野東京ライン→深谷

復路:武川→秩父鉄道→熊谷→上野東京ライン→品川→山手線→五反田

この登山記録の行程

深谷駅7:51→滝ノ宮神社7:56→上野台八幡神社8:20→仙台山登山口8:27→仙元山98.1m(浅間神社)8:32→中村草田男ピーク8:50→仙元山公園8:56→昌福寺(押切遺跡)9:03→人見館跡9:19→最勝寺9:27→一乗寺9:39→宝泉寺10:03→玉津島神社10:10→深谷花園温泉 花湯の森10:22~11:50→折戸口八幡神社11:55→武蔵国八海山神社12:03→道の駅かわもと12:27~13:10→赤観音13:19→長在稲荷神社(石臼神社)13:28→武川駅13:44

合計3時間52分(温泉、道の駅除く)

コース

総距離
約13.6km
累積標高差
上り約100m
下り約76m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

8月13日(土)は、台風が来ていたので、雨の日用の短目のコースということで、先週の隣の「人見仙元山」と人見館に行ってきました!このコースは一言でいうと、東京の府中の浅間山から深大寺まで歩いて、蕎麦食って温泉入って帰るようなコースです。仙元山=浅間山が似ているだけでなく、温泉も似ています。

今日は距離が短いので、温泉の開店時間に合わせて「深谷駅」南口を8時ちょっと前にスタート!最初に、この間行ったので今日は寄らなくてもいいんですが、駅前の「滝ノ宮神社」に参拝して行きます。前回写真を撮らなかった「八坂神社」「御嶽神社」「冨士浅間大神」も載せておきます。

そして住宅街の中の車道をひたすら南西に進むと人見仙元山の手前に「上野台八幡神社」があります。ここは深谷上杉家の三宿老の1人、皿沼城主「岡谷加賀守清英」が清心寺を開基した際に、その鎮守として境内に祀った八幡神社が元となっているそうです。御神体は応神天皇束帯塗金像とのこと。秀吉の小田原攻めにより、皿沼城と共に衰退しましたが、正徳年間(18世紀初期)に上野台村の地頭大久保家が現在の場所を寄進し、再興されたそうです。昭和20年に村社から郷社へと昇格しています。毎年10月15日から3日間通しで行われる例祭で全集落片道30km以上を渡御して歩く神輿が有名だそうです。

上野台八幡神社の南側にそびえる独立峰というか丘が「人見仙元山」98.1mです。荒川によって櫛引台地上に削り残された残丘といわれており、山頂にさ「人見浅間神社」があり、山麓には深谷上杉氏の菩提寺の「昌福寺」があります。「人見」という文字で気づかれた方もいると思いますが、ここは東京の府中の「浅間山」に非常によく似た山で、同じ武蔵七党猪俣党の「人見氏」の伝説を有しています。さすがにムサシノキスゲはありませんが、でもしばらく少し熊谷寄りにある、先週行った「三尻観音山」には低地版のニッコウキスゲが咲くらしいので、これもほぼ一緒といえると思います。

「仙元山」は人見山ともいわれる太古からの聖地で、山頂の「人見浅間神社」の創建は不明ですが、源頼朝の富士の牧狩りの際に、関東に八社の浅間大神を祀ったうちの1つという伝承があります。また「人見大夫四郎家守」が建てたといわれる延文2年(1357)の宝篋印塔から推測して、南北朝時代にはすでに存立していたといわれています。麓にあったとされる「人見館(上杉館)」の鬼門に位置するため、館鎮護としても祀られたようです。

仙元山山頂には浅間神社だけでなく、妻沼聖天の神社版であるイザナギ・イザナミを祀った「ニ柱神社」や「御嶽講の碑」などもあります。これらは合祀されたのではなく、聖地に集まってきたのだと思われます。

神社だけでなく、この山の南麓には深谷上杉氏の菩提寺である「昌福寺」もあります。深谷城の近所ではなく、かなり距離の離れたこの場所に菩提寺を造ったのも、やはり「仙元山」が古くから知られた聖地だったからと考えられます。

深谷氏の前の支配者だった「人見氏」についても記しておくと、人見氏は武蔵国幡羅郡人見邑を発祥とする武蔵七党のひとつ猪俣党の支流の一族で、猪俣五郎時範の四世、政経とその従弟・清重を祖とするといわれ、「人見六郎政経」がこの地に住み着いて人見氏を名乗ったのが始まりとされています。猪俣党の本姓は横山党と同じ「小野」なのですが、最初は埼玉県北西部に定住するも、人数が増え領地が十分に与えられなくなったため、一部が多摩南部に新天地を求めて移住し、そこで大いに発展したのが横山党だともいわれています。先ほど書いたように東京の府中の浅間山には人見氏の伝説として「人見四郎の墓」や「人見街道」などが残っているのですが、横山党と行動を共にした中に人見氏の一族がおり、府中の浅間山が深谷の仙元山にあまりに似ているので故郷を懐かしんで同じ名前をつけたのかもしれません。

「人見仙元山」山頂でしばし休憩をしたら、山をひと回りして下山します。仙元山はツインピークになっており、山頂の東側に特に山の名前はないようなのですが、「中村草田男の歌碑」のあるピークがあります。そのピークから南に下ると、「仙元山公園」の手前に展望台があり、「深谷市総合体育館(深谷ビッグタートル)」越しに新幹線の走る姿がよく見えます。

「仙元山公園」からは、遺構は埋め戻されて残っていないのですが、「押切遺跡」という3か所の郭や掘立建物跡、井戸跡などが確認された15世紀中頃のものと推定される遺跡が発見されています。時代的に深谷上杉氏との関わりが指摘されていますが、城館を建てたという伝承はなく、委細不明のようです。館跡などの遺構が確認された場所は現在「深谷市総合体育館(深谷ビッグタートル)」が建っているあたりとのことです。

仙元山公園の西側にあるのが、深谷上杉氏の菩提寺である曹洞宗寺院の「昌福寺」です。山号はそのまま人見山となっています。開山は、深谷上杉氏第5代で深谷城初代城主である「上杉房憲」で、古河公方に備えて深谷城を築いて移った時に、父祖の冥福を祈るために漱怒全芳禅師(永正15年(1518)卒)を招いて仙元山の麓に創建したとされています。墓地には上杉房憲・憲盛他「深谷上杉氏と累代の墓」があります。お盆ということで真ん中の一番古びた五輪塔に花が飾ってあったのですが、たぶんこれが「上杉房憲の墓」だと思われます。また本堂裏の「昌福寺庭園」は室町中期の禅宗庭園として深谷市指定名勝になっているそうです。

昌福寺から北陸新幹線の線路をくぐって戸田川の支流を渡ったところに「人見館跡」があります。平安時代末期に「人見六郎政経」によって築かれたと云われる館跡です。人見氏は源範頼(蒲殿)に従って平家を打倒に貢献したとか、承久の乱の宇治川合戦においては北条泰時に配下として戦功をあげたため新たな知行を下賜されたとか、南北朝時代には楠木正成の河内赤坂城攻めで先陣を切って討死したとかの記録が残されていますが、室町時代の始め一族をあげて丹波へ移住し、この館は深谷上杉氏の一族の「上杉憲武」が改修して居住したといわれています。人見館は東西に二つの曲輪があったとされていますが、東側は現在民家となっており、確認できるのは西の曲輪の土塁や堀だけです。

人見館跡のすぐ先にある「最勝寺」は、一応行ってみたのですが、真言宗豊山派の寺院で本尊は吉祥薬師で山号吉祥山であることぐらいしかわかりません。人見館を歌った歌碑がありましたが、人見氏や上杉氏とは直接は関係ないようです。ただ2011年11月22日のニュースに『埼玉県警深谷署は22日、干してあった女性の下着を盗んだとして、窃盗の疑いで同県深谷市樫合、最勝寺(深谷市)僧侶、西村英容疑者(42)を現行犯逮捕した。深谷署によると、西村容疑者は「性的欲求が有った」と供述している』というのがありました。煩悩に負けてしまったのでしょうか?

気を取り直して少し離れた「一乗寺」に向かいます。ここは正応2年(1289)、鎌倉末期の御家人であった「人見四郎泰国」が開基となり、時宗の開祖である一遍上人を開山に迎えて創建された寺院で、人見氏の菩提寺です。ここも山号は泰国山ですが人見院といいます。山門を入ってすぐの左の椋の大木を背にして並ぶ三基の五輪塔と二基の板碑が「人見氏累代の墓」です。

しばらくのどかな田園風景の中を行きます。曹洞宗寺院である「宝泉寺」は一応寄ってみたのですが、深谷七福神の3番目の福禄寿であること以外不明で、次の玉津島神社の元別当寺でもないようです。

「玉津島神社」は、和歌山県和歌浦町に本社がある「衣通姫命」が祀られている関東では珍しい神社です。「衣通姫命」は容姿が美しく艶色が衣を通して光り輝いたといわれている、日本三美人の一人に数えられる女神で、和歌三神にも数えられています。ただ『古事記』では第十九代・允恭天皇の皇女軽大郎女の別名で、忍坂大中津姫の子とされ、兄の軽太子と情を通じ、伊予へ流された兄を追って、共に自害したと生々しく記されています。でも一応安産の神として古くから信仰されてきたそうです。玉津島神社の別当を務めていたのは真言宗不動山明王院大聖寺という寺で、開山した実裕が江戸時代初期の寛永9年(1632)に入寂していることから、この頃には神社もすでに祀られていたのではないかといわれています。明治3年(1870)、神仏分離令により大聖寺は廃寺となり、僧侶は神職になったそうです。なおここには御嶽塚もあります。

多少時間が早いのですが「深谷花園温泉 花湯の森」に寄って行きます。朝10時開店に合わせて出発したので、10時22分に着きました!料金は平日1,100円、土・日・祝日・特定日1,200円とちょっと高めなのですが、古民家を改造した、深大寺の湯守の里を一回り大きくしたような感じのなかなか雰囲気の良い温泉で、北武蔵の山に女性同伴で車で行った帰りに寄ると点数が上がるかもしれません。レストランには近代日本経済の父、渋沢栄一翁も好んだと言われる深谷名物『煮ぼうとう』もあります。ただ泉質はナトリウム-塩化物泉なのですが、これは残念ながら高崎線沿線らしいあまり温泉っぽさが感じられない水ぽい温泉です。

せっかくなんでここで煮ぼうとうを食べて行きたかったのですが、朝からたまに青空も見られる天気だったのが、空がだいぶ暗くなり、雨もパラパラ落ちてきたので、食事は諦めて先に進むことにしました。

「折戸口八幡神社」は由緒不明の神社なのですが、この周辺の村社だったようです。神社は一段高くなった丘の上にあり、八幡神社の拝殿・本殿と、その横の大きな囲いの中に移築された春日神社、稲荷神社、八柱神社、稲荷神社の本殿が祀られています。なお御朱印は、先ほどの玉津島神社でもらえるそうです。

その先にある「武蔵国八海山神社」は、「御嶽教八海山深谷忍心教会」という奈良県奈良市に教団本部「御嶽山大和本宮」を置く教派神道の教会で祀ってる神社のようです。教団が管理しているので神社も非常に綺麗に維持されています。なお祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命という三柱の神々を一体として御嶽大神と称し、奉斎しているそうです。

八海山神社から国道140号に出ると、「道の駅かわもと」があります。ほぼ農産物直売所といっていい感じの小さな道の駅なのですが、ちょっとした食堂があったので、「肉きのこつけ汁うどん」700円を注文して昼飯にしました。駅の立ち食い蕎麦屋みたいなところだったので、あまり期待はしていなかったのですが、ちゃんとした手打ちのうどんが出てきて、値段も安目でなかなか良かったです。食事の後、農産物直売所をブラブラしていたら、雨が傘なしで行けるぐらいになって来たので、駅に向かって歩き始めることにしました。

「赤観音堂」は、大蛇(龍)がお腹の大きい女の人に姿を変えて安産を祈願したという伝承が残る観音堂で、今は寂れているのですが、かつては安産の仏として信仰を集めていたそうです。また養蚕の盛んなころは養蚕の仏としても大勢の参拝者で賑わっていたとのこと。

「長在家稲荷神社」の特徴は、参道一帯に敷石の代わりに350ヶ程の古い石臼が敷き詰められていて、この参道は「石臼参道」と呼ばれ、昭和53年8月30日に深谷市の有形無形文化財に指定されています。神社は別名「石臼神社」とも呼ばれているそうです。この辺りは水はけの良い畑作地帯で、米はあまりとれず、昔は小麦や豆などの穀物を石臼で粉にして食べていたとのことです。神社のある「長在家」は平安時代後期から畠山氏の所領で、その後も室町時代から江戸時代まで続く武州唯一の刀工群である下原鍛冶の一大拠点で、昌福寺の縁起の中にも“長在家の長者”という記述が残るほと発展した地域だったそうです。

そして濡れていた傘もちゃんと乾いて、なんとか大雨になる前に、13時44分、懐かしの「武川駅」にたどり着くことが出来ました。お疲れ様でした。駅には相変わらず「畠山重忠公史蹟公園」の大きな看板が立っていて、「鎌倉殿の13人」の畠山重忠の新しいポスターも張ってあるんですが、半年前訪れてから、いったい何人の人がこの駅から歩いて訪問したのだろうと思うと、非常に心許ないですね。頑張れ秩父鉄道!

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