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渋沢栄一の故郷・血洗島周辺

滝瀬氏館跡、立岩寺、町田八幡神社、葦原大神社、血洗島諏訪神社、水戸烈士弔魂碑、旧渋沢邸、青淵公園、渋沢栄一記念館、下手計鹿島神社、尾高淳忠生家、清風亭、成塚の土塁、古堰神社、新開氏館跡、生品神社、正伝院、日本煉瓦製造株式会社旧事務所、泉光寺、明戸諏訪神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇りのち晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→上野→高崎線→岡部

復路:深谷→ラーメンむかしや→深谷→上野東京ライン→赤羽→埼京線→恵比寿→山手線→目黒

この登山記録の行程

岡部駅6:42→福川6:59→小山川7:04→滝瀬神社(滝瀬氏館跡)7:16→立岩寺7:21→町田八幡神社7:34→葦原大神社・大福院7:44→血洗島諏訪神社(渋沢栄一喜寿翁碑)7:48→水戸烈士弔魂碑(薬師堂)7:55→旧渋沢邸(中の家)7:55~8:03→青淵公園8:06→渋沢栄一記念館8:12→下手計鹿島神社(藍香尾高翁頌徳碑)8:20→尾高淳忠生家8:31→清風亭・誠之堂(大寄公民館)8:46~56→養影神社9:08→成塚の土塁9:15→御嶽大神社9:25→古堰神社9:33→新開氏館跡(大林寺9:41~東雲寺9:45→生品神社9:56→正伝院10:04→利根川土手10:10→日本煉瓦製造株式会社旧事務所・ホフマン輪窯10:38→備前渠川10:43→泉光寺10:54→上敷免地内鎌倉街道案内板・日本煉瓦製造専用線11:00→明戸諏訪神社11:11→楡山神社11:20→国済寺天然温泉 美肌の湯11:40~13:13→深谷駅13:38

合計5時間23分(温泉除く)

コース

総距離
約22.3km
累積標高差
上り約29m
下り約45m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

10月8日(土)は、渋沢栄一の生まれ故郷の「血洗島(ちあらいじま)」に行って来ました!深谷市の北西端の利根川沿いにあります。何とも物騒な地名なのですが、由来は戦争で川が真っ赤な血に染まったというのではなく、「赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗った」という伝承からきているそうです。ただ渋沢栄一は行く先々で血洗島の名前の由来を聞かれるので辟易としていたとのことです。

「血洗島」は、埼玉県の北の外れの電車も通っていないような場所なので、さぞかし過疎っているだろうと思ったら、新しい住宅も結構多く、意外とそうでもありませんでした。埼玉県北部から群馬県南部にかけては大企業の工場が多いので、意外と仕事があるのかもしれません。あと、先日行った妻沼と同じような感じで、この辺りも水田が一面に広がる低地だと思っていたら、本庄の台地の延長の、台地というほどは高くないのですが、台地と微高地の中間ぐらいの畑作地帯でした。広大な深谷ネギの畑が広がっていました。

本日のスタートは「岡部駅」です。駅周辺はだいたい行ったので、とにかく真っ直ぐ北に進み、「福川」と「小山川」を越えます。この2つの川の間が少し低くなっていて、水田地帯になっています。

本日最初の「滝瀬神社」は本庄市に少し入ったところにあります。ここは「滝瀬主水正光直」とその子「嵯三郎兵衛経氏」の父子が、遠祖の第28代宣化天皇を祀った神社とのことで、神仏分離後、祭神を伊弉諾尊命・伊弉冉尊命に改め、社号を二柱神社として村社になりますが、その後もう一度、村名をとって滝瀬神社と改称し直したそうです。なお滝瀬という地名は烏川と利根川が、激しい滝のような流れを見せていたことから、「瀧ノ瀬」と呼ばれるようになり、そこからつけられたとのことです。

その並びの「立岩寺」も「滝瀬三郎経氏」が開基の本山を比叡山延暦寺とする天台宗寺院です。開山は慈覚大師円仁と伝えられいます。ぼけ封じ関東三十三観音霊場の三十番札所になっている他、ぼたんの花が有名で、「ぼたん寺」としても知られています。

「滝瀬氏館跡」は、この「立岩寺」と「滝瀬神社」周辺にあったといわれています。滝瀬氏は武蔵七党の丹党安保氏の一族の新里恒房の子の「二郎実光」の孫の「光直」が字伊丹堂のこの地に居館を構え、滝瀬氏を名乗ったことに始まるそうです。その子「滝瀬三郎兵衛尉経氏」に引き継がれましたがその後はわからないそうです。墓地と平坦な畑があるだけで、遺構のような物はのこっていません。

また別に「滝瀬陣屋跡」という深谷上杉氏の重心「秋元氏」の陣屋跡も滝瀬の交差点の東南側にあったようなのですが、ここは事前にチェックしてなかったので見落としました。でもたぶん何もないです。

「町田八幡神社」から深谷市に戻ります。この神社は、町田村の総鎮守社で、創建は口伝によると第73代堀河天皇の御代に源義家が奥州征伐の帰途にこの地に立ち寄り東方鎮護のために金弊を進奉して祈願したという伝説に乗っ取り、この地の豪族が鎌倉の八幡宮を勧請して祀ったのが始まりだそうです。「岡部六弥太忠澄」の家老が陣屋を築く際に、社殿を鬼門除けとして現在の社地に移転したという伝承もあるそうです。渋沢栄一や尾高惇忠との縁も深く、渋沢翁揮毫の扁額や尾高翁揮毫の幟なども残されているそうです。

「葦原大神社」と「大福院」は同じ敷地内にあり、「大福院」の正式名称が「真言宗智山派 蘆原山観音寺大福院」というので、たぶん「葦原大神社」は「大福院」の祈祷所として創建され、神仏分離令で一旦離れるも、戦後また復活したのだと思われます。ここの獅子舞には子授けの御利益があり、妻に獅子頭を被せて祈願したところ、子宝に恵まれたという話がたくさんあるそうです。ちなみにご祭神は葦原醜男命、つまり大国主神だそうです。

大福院の斜め前の「血洗島諏訪神社」には「渋沢栄喜寿翁碑」があります。この神社は渋沢栄一が生まれた血洗島の鎮守だそうで、一ノ谷の戦いで、平清盛の異母弟平忠度を討ち取った「岡部忠澄」が戦勝を祈願したという伝承も残されいます。「渋沢栄喜寿翁碑」は、大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿を記念して村民が建てたものだそうで、栄一はこれに応えて、諏訪神社の拝殿を寄進したとのことです。栄一は帰郷すると、まず最初にこの社を参詣していたそうです。

旧渋沢邸のすぐ南側にの「薬師堂」にあるのが「水戸烈士弔魂碑」です。ここは岡部藩に討伐された「水戸天狗党」の浪士2名を不憫に思った村人たちが埋葬した場所で、碑は大正7年に渋沢栄一撰・書により建立されたものです。「天狗党」は水戸藩九代藩主徳川斉昭に登用され幕政改革を行った藤田東湖の息子の藤田小四郎中心に造られた過激派集団で、元治元年(1864)3月に筑波山で挙兵します。渋沢栄一はこの天狗党に参加したかったらしいのですが、周囲に止められ一命をとりとめたのだそうです。

そしてようやく本日の目的地「旧渋沢邸(中の家)」に到着しました。ただこの建物は栄一の妹夫妻によって明治28年上棟されたもので、渋沢栄一の生家ではないようです。しかし、渋沢栄一は多忙な中で帰郷した際にここに滞在し、寝泊まりしていたとのことです。その後、昭和60年より「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生を受け入れてきましたが、同法人解散に伴い平成12年の深谷市の所有物となり一般公開されています。

ただ「渋沢記念深谷人づくり特区」として、中の家の建物のすぐ西側に「創学舎高等学校」という別の学校が出来ていました。

またその先の「神明大明神 稲荷大明神」の社の前に、渋沢栄一が入っているのかどうかはわかりませんが、渋沢家の墓がありました。

朝早すぎて開いてなかったので食べられなかったのですが、中の家の東側にある「麺屋忠兵衛煮ぼうとう店」は、渋沢栄一も愛した深谷の郷土料理「煮ぼうとう」の名店だそうです。山梨のほうとうの違いは、山梨のほうとうは味噌ベースで、ほうとうは代名詞ともいうべきカボチャが入るのですが、深谷の煮ぼうとうは汁が醤油ベースで、それに昆布や椎茸などからとった出汁を加え、具材は「深谷ネギ」がまず入ります。肉は、埼玉名物肉うどんや山梨のほうとうと差別化するために、現在は鶏肉が主流だそうです。

旧渋沢邸の裏は「青淵公園」という川利用した公園になっています。低地の沼かと思っていたのですが、水が得にくい微高地なので、灌漑用に引いた水路の跡のようです。なお「青淵」は渋沢栄一の号で、古くからある地名ではないようです。

青淵公園から「渋沢栄一記念館」に向かいます。渋沢栄一の生家の跡地に建てられた近代的な建物で、前に広い駐車場があります。公民館兼の記念館になっていて、記念館は渋沢栄一の活動を紹介する博物館として1982年に開館され、「渋沢栄一記念財団」によって運営されています。この財団は、渋沢栄一の常に主張し実践していた「道徳経済合一主義」に基づき、経済道義を高揚することを目的に設立された公益財団法人だということです。入館料無料ですが、オンライン申込による完全予約の1日2回の入替制だそうです。

次の「下手計鹿島神社」は、天慶年間、平将門追討の際、清和源氏の祖源経基の家臣「竹幌太郎」がこの地に布陣し、祀ったと伝えられる神社です。武門の守護神として崇敬され、深谷上杉氏も戦勝を祈願していたそうです。ちなみに現在の祭神は武甕槌命です。境内には渋沢栄一らによって建てられた尾高惇忠の「藍香尾高翁頌徳碑」が建てられています。碑は徳川慶喜篆額、三島毅撰、日下部東作書によるもので、深谷市指定有形文化財に指定されています。

その「尾高淳忠」の生家も残っています。「尾高淳忠」は、渋沢栄一の従兄であり、学問の師でもあった人物です。飯能戦争に破れて黒山三滝の近くで官軍に囲まれて自刃にした「渋沢平九郎」は尾高淳忠の弟で、養子として渋沢家に入っています。「尾高淳忠」は幼いころから学問に秀でており、水戸学を修めて17歳で生家に尾高塾開き、近隣の子供たちに学問を教えていたそうです。血気盛んな若き日の渋沢栄一の原点はこの先生ですね。「尾高淳忠」は、明治維新後は富岡製糸場の初代工場長や第一国立銀行仙台支店長を務めました。この生家は江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれていて、深谷市指定史跡になっています。

再び小山川を渡ると「清風亭」「誠之堂」という渋沢栄一にゆかりの建物があります。これらは平成11年に世田谷区瀬田の第一銀行(現みずほ銀行)保養施設「清和園」の敷地内から深谷市に移築されたものだそうです。「清風亭」は当時流行っていたスペインの南欧風建築の白い建物になっており、屋根は南欧風のスパニッシュ瓦、ベランダには5連アーチ、出窓にはステンドグラスがつけられて、その他円柱装飾なども特徴的で、埼玉県指定有形文化財になっています。「誠之堂(大寄公民館)」は渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して建築されたイギリス風の田舎屋をモチーフにした煉瓦造りの建物で、主に銀行の集会所として利用されていたそうです。国の重要文化財になっています。

また小山川の北側に戻ると「養影神社」があります。この辺りで養蚕が盛んだったため祀られた神社で、かつては4月10日と11月15日に祭を行い、繭を額に入れたり糸で吊るしたりして納めていたそうです。祭神は女神といわれ、茨城から勧請したと伝えています。

そういえば、あちこちに「桑の葉茶」の旗が立っていたのですが、これも養蚕が盛んだった名残りなのかもしれません。

「成塚の土塁」は正体不明の土塁が残っているもので、館跡以外に、小山川の氾濫に備えた堤防という説もあるようです。

「上新戒御嶽大神社」は、木曾の御嶽山を祀って蔵殿宮と称したのが始まりの神社で、正平21年(1366)に常陸国大洗の薬師菩薩を合祀して別当である三薬寺を建てているそうです。江戸期は蔵王大権現と号していたそうですが、維新後に今の名前に改められたとのこと。

「古堰神社」は、この先に館があったとされる「新開荒次郎忠氏」が、祖神の大荒明神を勧請し、伝来の社器(武器)を櫃に入れ社の下に納め、館の守護神としたことに始まるとされる神社です。新開氏は新羅系豪族の秦河勝の子孫ともいわれる一族で、本領は信濃国佐久郡および近江国新開荘にあったといわれています。ここに館のあった「新開荒次郎忠氏」は、石橋山の合戦で源頼朝に従って破れ、箱根山中のしとどの窟に隠れた頼朝以下6人の中の一人で、その後源頼朝の重臣になっています。丹党の旗頭とも、相模の豪族「土肥二郎実平」の次男が養子に入って新開を名乗ったともいわれていて、湯河原の城願寺には立像が建てられ、土肥祭では新開荒四郎忠氏の武者行列が行われています。しかしその後、和田義盛の乱で負地にまみれ衰退しますが、承久の乱では一族を挙げて出陣し、新田義貞の挙兵に際しては北条方につき、高時の弟泰家の配下に「新開左衛門頼行入道」の名が残っているそうです。そして鎌倉幕府の終わり頃、新開氏は徳島県阿南に渡り牛岐城主となります。220年間阿南を治めますが、天正10年(1582)長宗我部元親に丈六寺で謀殺されて滅亡します。

「新開氏館跡」は、古堰神社の先の「大林寺」から「東雲寺」の辺りにあったとされています。大林寺山門前の参道には「新開荒次郎忠氏夫人の墓」があり、東雲寺には「新開荒次郎忠氏(実重?)の墓」(五輪塔)があります。墓が分かれているのは、死後は男女別々の墓に葬るという昭和中頃まで続いていた風習のせいで、東雲寺は男寺、大林寺は女寺と呼ばれているそうです。ちなみに両方とも曹洞宗の寺で大林寺は「新開荒次郎忠氏夫人」が開基となっており、東雲寺は忠氏の子「新開荒次郎実重」の開基となっています。遺構は残っていないといわれますが、東雲寺は水路で北と東を囲まれ、周囲より一段高くなっているので、館の跡に見えなくはないです。

ちなみに大林寺の近所にあるバス停は新開ではなく「新戒」となっています。

新開氏館跡の北側にある「生品神社」は、新田義貞関連の神社とも平将門関連の神社ともいわれる神社で、新田義貞の方は、鎌倉幕府倒幕のため挙兵した義貞が護良親王から賜った北条氏討伐の令旨を読み上げた場所とされています。生品神社は7社あり、すべて新田の関係の場所にあるそうです。平将門の方は、将門の弟が祀られた神社だということで、氏子は成田山新勝寺には参拝しないそうです。

その更に北側の利根川の堤防沿いにある「正伝院」にも変な伝承が残っていて、ここの開基は小野小町の祖父で、武蔵七党の横山党と猪俣党の祖である「小野篁」といわれています。坂上田村麻呂が奥州征伐に出掛けた際に、家来であった小野岑守の息子の篁もついてきて、この地に守り本尊を納めたそうです。そのせいか深谷で4番目に古い寺院と称しているようです。現在は高野山真言宗の寺となっています。

ここまで来たので利根川の堤防に上がってみます。河川敷が広すぎて川は見えなかったのですが、堤防が低く、集落がある側と河川敷に明らかな高低差があるのは、血洗島周辺が本庄の台地の延長である証明のような気がします。

ここで折り返して深谷駅の方に戻ります。また小山川を渡ると「日本煉瓦製造株式会社旧事務所・ホフマン輪窯」があります。煉瓦の街深谷の煉瓦を作っていた場所です。今は工場は閉鎖されていて、跡地には立派な煉瓦造りの深谷市の浄化センターが建っています。日本煉瓦製造株式会社は、近代的な官庁街や鉄道等の整備を強く推進していた明治政府の意向を受け、明治21(1888)年に操業を開始しました煉瓦会社で、ここで製造された煉瓦は、東京駅や旧東宮御所(現迎賓館赤坂離宮)などに幅広く使用され、日本の近代化に大きく寄与したそうです。しかし煉瓦需要の減少と安価な外国産の市場拡大のため、平成18年(2006)約120年の歴史に幕を下ろしたとのこと。歴史的な価値の高い「ホフマン輪窯6号窯」「旧事務所」「旧変電室」は深谷市に寄贈され、同市が管理しているとのことです。なお見学出来るのは「旧事務所」だけです。

「日本煉瓦製造株式会社旧事務所の先に「備前渠」というあの「伊奈備前守忠次」が造った用水路がありました。この川は洪水除けではなく、水が得にくかったこの辺りに灌漑用に通した水路のようです。

「泉光寺」は寛平9年(897)、良忍上人により開かれた高野山真言宗の古刹で、秋の七草「女郎花」と展望台のようになった鐘撞堂一体型の山門が有名な寺です。

泉光寺前の農道のような道が「鎌倉街道」です。厳密にいうと鎌倉街道の支道である群馬に通じる道が通っていたそうです。少し進むと前に一度通った「日本煉瓦製造専用線」の廃線跡にぶつかり、「上敷免地区内鎌倉街道案内板」という説明書きがあります。中身は「当地の伝承では、新田義貞軍またはその支軍が鎌倉倒幕に向かった際に、僧兵の首魁の泉光寺入道元戒が、利根川渡河点の対岸にある沼尻に布陣し一戦を交えて敗れたことが伝わっている。その後、義貞軍はこの鎌倉街道を通り鎌倉へ向かったと思われる」みたいなことが書かれていて、先ほどの泉光寺に僧兵がいたようです。

少し「日本煉瓦製造専用線」を歩いたら、東に折れて「明戸諏訪神社」寄り道して行きます。ここは上野国高岡村から当地に移住した「田村外記」「亀井宇丹」が、慶長16年(1612)に勧請した神社とのことで、かつては本殿に諏訪大明神の本地仏である普賢菩薩を祀っていたそうです。明治42年に村内の6社を合祀して明戸村の村社となっています。ちなみに明戸という地名は、秩父鉄道の明戸と同じく、河川の乱流により土砂がたまった所を示す「悪戸」に由来するとのことです。

ついでなので式内社の「楡山神社」にもまた参拝して行きます。福川沿いある広い鎮守の森を持つ、なかなか雰囲気の良い神社です。

そしたさらについに、今日は久々に「国済寺天然温泉 美肌の湯(ハナホテル深谷&スパ)」に寄って行きます。ここに来るのは4回目です。pHJ7.4の単純温泉であまり温泉感がないのが欠点なのですが、料金は平日700円、土日祝800円と安目なので、汗を流すだけなら十分です。

最後に今日の昼飯は深谷駅近くの飲食店が集まったビルにある「ラーメンむかしや」という昼間ラーメン屋で夜は飲み屋みたいな店で、「長浜ラーメン」を食べました。長浜ラーメンの今まで食べた物は、博多ラーメンの豚骨スープに若干醤油が入っていて味が濃い目ぐらいの印象しかなかったのですが、ここのかなり濃厚で、しかもそれに脂身の多いチャーシューが乗っていてさらに濃厚な感じに仕上がっています。麺は九州ラーメンには珍しい中太のストレート麺を使っていました。食べ盛りの男子学生に人気が出そうなコッテリ感なんですが、あまりに飲み屋風なので夕方部活の帰りにはたぶん寄れないだろうな~というのが、ちょっと気になったところ。酒の方が儲かるからいいのか?

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