• このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 参考になった

妻沼の西側(高城城跡~荏原氏館跡~矢井伊勢守重家館跡など)

摩多利神社、妻沼台白山神社、男沼神明社、出来島伊奈利神社、間々田稲荷神社古墳、能護寺、高城城跡、荏原氏館跡、堀米堀内、蓮沼氏館跡、増田氏館跡、矢井伊勢守重家館跡、諏訪山神社、熊野大神社、原郷愛宕神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 参考になった

行程・コース

天候

曇り時々晴れ、一時雨

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→上野→高崎線→熊谷→朝日バス妻沼行(バイパス経由)→妻沼行政センター

復路:深谷→高崎線→赤羽→埼京線→恵比寿→山手線→目黒

この登山記録の行程

妻沼行政センターバス停7:17→摩多利神社7:28→妻沼台白山神社7:32→男沼神明社7:48→長勝寺7:53→出来島伊奈利神社8:06→利根川堤防8:09→普門寺8:12→雷電神社8:15→間々田稲荷神社古墳8:25→能護寺8:37→高城城跡8:48→阿弥陀寺8:54→浅間大神9:02→荏原氏館跡(摩利支天堂)9:16→冨士神社9:32→蓮沼氏館跡(淡島神社)9:42→堀米堀内9:51→御嶽山神社9:55→養福寺9:56→矢井伊勢守重家館跡10:15→増田氏館跡10:23→諏訪山神社10:29→弥勒院10:57→熊野大神社10:59→原郷愛宕神社11:14→国済寺天然温泉 美肌の湯11:20~13:20→深谷駅13:48

合計4時間31分(温泉除く)

コース

総距離
約18.4km
累積標高差
上り約26m
下り約16m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

10月15日(土)は、血洗島と妻沼の間の行き残しの居館跡などを回って来ました。この辺は基本的に低地の水田地帯に小さな微高地が点在するような場所なのですが、水田に土を入れて畑や住宅したような場所が多いです。だもんで、いたるところに次使う用の土盛りがあります。

今日は熊谷駅からバイパス経由の朝日バス妻沼行で「妻沼行政センターバス停」まで行き、そこがスタート地点となります。昔、妻沼町の町役場だった場所です。

妻沼行政センターの裏から少し北に行ったところにある「摩多利神社」は古くは摩多利堂と称する仏教のお堂でした。今は神社になっていますが、相変わらず摩多利尊天を祀っています。小さな塚の上にあり、仏教のお堂だったせいか鳥居がありません。江戸時代から疫病除として信仰されてきたとのことで、現在は聖天山歓喜院が管理しているようです。

そのすぐ先にある「妻沼台白山神社」は、男沼を向く女沼白髪神社と女沼を向く男沼神明社の中間に位置する「台」という自然堤防の端にあります。ここは男沼神と女沼神の憩いの地だと伝えられています。江戸時代には蔵王権現社があったそうなかのですが、明治41年に蔵王権現社を合祀したので今はありません。ただ「曽登神社」という由緒不明の神社が境内社として建っています。

白山神社から水路を渡って北西に進んだところにある「男沼神明社」は、先ほど名前の出た男沼を祀るために創建された神社です。男沼も女沼(※妻沼聖天の北側にあった)も今は存在しませんが、白山神社のこの神明社の間の田んぼが沼だったようです。男沼は「おどろぬま=泥沼」がなまったもので、半分湿地帯のような物だったのではないかと思われます。現在は神明社に天満宮が合祀された神社になっていますが、恐らくこれは明治時代の神仏分離令の時に村の学業振興のために祀られたもののような気がします。

神明社から集落の中に入ったところにある「長勝寺」はこの辺りに多い高野山真言宗寺院で、創建ははっきりしませんが、天明3年(1783)に起きた浅間山の大噴火の火山灰のせいで利根川の川底が浅くなり、頻繁に氾濫するようになってしまったのを、この寺の住職堪能(第13代)が提案した水位を調整する樋門(男沼門樋)で見事克服出来たという話が伝わっています。

長勝寺からさらに北西に進むと台中島、出来島といった島のついたこの辺りに多く見られる地名が出て来ます。この島は洪水になった時に、浸水を免れた自然堤防や微耕地上にある集落が島のように見えるためつけられた名前だそうです。

出来島にある「出来島伊奈利神社」は良くわからない稲荷神社なのですが、合祀されている「八坂神社」は「出来島の暴れ神輿」が有名な神社で、妻沼の東の葛和田の大杉神社の暴れ神輿と並び称されています。大杉神社と区別するために「西の暴れ神輿」と呼ばれているそうです。この神輿は八坂神社の夏祭の一環として行われ、早朝より出来島地区全域を練り歩き、夕方の4時30分頃に利根川に入り、立てたとんぼの上から川面にダイビングする勇壮な姿は、県下有数の奇祭として知られているそうです。利根川沿いの集落は水運や漁などで川を糧として生きてきたため、対岸の群馬県側との繋がりが強く、暴れ神輿で使われる神輿は群馬県太田市の祇園祭りが有名な八坂神社から古い神輿を譲り受けたものだそうです。

ここで利根川の堤防に上がってみます。この辺りは利根川が大きく蛇行していた場所なので、対岸に見えるのは群馬県ではなく熊谷市の飛び地になります。逆に、渋沢栄一の故郷である血洗島の北側には群馬県伊勢崎市の飛び地があります。

出来島伊奈利神社の並びにある「普門寺」は高野山真言宗寺院である以外よくわかりませんが、伊奈利神社や八坂神社の別当寺だったのではないでしょうか。

そのすぐ南に有る「雷電神社」も児童公園になっている由緒不明の小さな神社です。ここの境内には利根川測量の古いタイプの几号水準点(N0.44)があったみたいなのですが、見落としました。

雷電神社から田んぼの中を南に進むとある「間々田稲荷神社」は「間々田稲荷神社古墳」の上にあります。直径30mの円墳で塚の可能性もあるそうです。神社の周りに御嶽講のような石碑が多数あるのですが、ここ独自の稲荷講の石碑のようです。

天平15年(743)行基開山と伝わる高野山真言宗の「能護寺」は妻沼のアジサイ寺として知られている寺で、手入れの行き届いた境内にはたくさんのアジサイが植えられています。後に弘法大師空海が再建したという伝承もあるらしいのですが、両方共怪しい気がしないでもありません。

「高城城跡(高木氏館、陣屋)」は、「齋藤実盛」が陣屋を設けたことにはじまるという伝承がありますが、鎌倉時代に猪俣党の「河匂政成」の六男「太田六郎宗成」が居館を設け高木と名乗った場所ともいわれています。「利根川の合戦」(1337)の先陣争いの中に、齋藤氏、長井氏と共に高木氏の名も見られるそうです。現在は畑と廃屋になっており、裾に堀跡が残されているとのことだったのですが、よくわかりませんでした。畑の真ん中は八幡大神の石碑が小さな石積の塚の上に残されていました。昔は神社があったのかもしれません。

高野山真言宗の「阿弥陀寺」は高城城跡のすぐ南西にある無住の寺で、横に永東コミュニティセンターが併設されています。ここも高城城の一部ような気がするのですが、案内板も何もないので、良くわかりません。

そのさらに南側の「浅間大神」は富士塚かと思って行ってみたのですが、小さな石の土台の上に石碑が乗っているだけでした。前にあるのは先週も渡った「備前渠用水路」です。この辺りは先週と違って低地の水田地帯を通っています。途中で小山川に一旦合流しているので川の性質が若干違うのかもしれません。1604年に「伊奈備前守忠次」によって造られた埼玉県で最古級の用水路で、別名「備前堀」とも呼ばれています。忠次はわずか1年でこの堀を完成させたそうです。見沼代用水と同じ「世界かんがい施設遺産」に登録されているそうです。

交通量の多い車道を北西へ進むと深谷市に入ってすぐ「摩利支天堂」があるのですが、この辺りに「荏原氏館跡」があったといわれています。摩利支天堂の裏に案内板があります。荏原氏も猪俣党の庶流で、「猪俣(河匂)政基」の息子である「政重(荏原太郎)」が荏原の地に館を構え荏原氏を名乗ったとされています。高木氏も人見氏も内ヶ島氏も、皆「河匂政基」の子孫が近隣にちらばったものです。荏原氏は応永23年(1416)の上杉禅秀の乱で禅秀側につき滅亡したそうです。石田三成が忍城の水攻めの水を利根川から引き入れる際に、この館の土塁を利用したとの伝承も残されていますが、残念ながら土塁も堀も残っていません。荏原氏の館跡は品川区の東急大井町線「荏原町」駅前にある「旗岡八幡神社」にもあるのですが、そちらは鎌倉中期~後期のものとされ、鎌倉時代に恩賞として品川に領地を得たものといわれています。

ここで予定には入っていなかったのですが、「冨士神社」といういかにも富士塚になってそうな神社があるので寄ってみます。ここは冨士宮という集落にあり、神社は今は荒れているものの、長い参道を持つ結構立派な神社だったのですが、残念ながら富士塚ではありませんでした。由緒もわからないのですが、石碑に「我鎮守冨士神社も庶民の富士山信仰によりて創建せられ中古地方武将蓮沼氏江原氏等の崇敬厚く水帳記載除地を有し来りたる」と蓮沼氏・江(荏)原氏の名前が記載されています。

冨士神社に行った関係で順番が変わり、先に「蓮沼氏館跡」に向かいます。ここも猪俣党の庶流蓮沼氏の居館です。蓮沼氏は少し西にいったところに居館がある「内ヶ島国綱」の子「国家」が蓮沼に入部し、「蓮沼六郎」を名乗ったことに始まるといわれています。蓮沼氏も荏原氏と共に上杉禅秀の乱に禅秀方に付いて参戦して滅亡したということです。館の場所は家一件だけ盛り土をして造った感じの微高地で、廃屋のような民家の裏庭に崩れかけた「淡島神社」があります。遺構はすぐ裏が「備前渠」で、家の横に広い市道が建設されているため良くわからない状態になっています。1991年の市道建設のための発掘調査でも居館の遺構は出土していないようです。

続いて先に行くはずだった「堀米堀の内」にむかいます。ここは小さな微高地の集落で、変な形に折れ曲がった道が堀の跡で、その道に囲まれた一帯が堀の内なんでしょうが、それ以上のことはわかりません。武士の館があったといわれていますが、時代も人物も不明です。ただ周りが猪俣党だらけなので、その一族の館跡ではないかといわれています。この微耕地の集落には「養福寺」という高野山真言宗の無住の寺と、「御嶽大神」の石碑が立てられた御嶽塚があります。

そして国道17号のバイパスを渡ると「矢井伊勢守重家館跡」があります。とはいっても、現在は「あかつき」という老人ホームになっており、昔竹藪の中にあったといわれる土塁は失われています。老人ホームの前に堀っぽい用水路がありますが、単なる用水路なのでしょうね。ここは深谷上杉氏に仕えた四宿老の一人「矢井伊勢守重家」の居館跡だそうです。矢井伊勢守重家は北条氏に近かったため、豊臣秀吉の小田原攻めによる深谷城開城後は、危害が及ぶのを恐れて家臣とともに上野国尾島村で隠棲したそうです。しかし後で深谷へ戻り「矢井」から「加藤」に苗字を改め、この地に屋敷を構えたとのこと。

矢井伊勢守重家館跡から少し南に行った「諏訪山神社」の西側にあったとされるのが「増田氏館跡」です。畑の中に案内板が立っています。その奥の周囲より一段高い盛り土の上に建つ廃屋になったお宅と裏の屋敷森が居館の跡のようです。屋敷森の中には土塁が残っているそうなのですが、笹藪が密過ぎて中を覗くことは出来ませんでした。増田氏は武士団に属さない独立系の武将で、ここは室町時代の「増田四郎重富」の館跡といわれてます。北条氏、上杉氏両者から距離をとっていたため上杉氏に疎まれ、この地を追い出されてしまい、その後に入ってきたのが、先程の「矢井伊勢守重」といわれています。増田氏は比企郡に移り、荒川南岸の野原にある「文殊寺」のところに新たな居館を造ります。寺には墓も残っています。増田氏は四ツ山にも山城を築き、長らく抵抗を続けたとのことです。

懐かしの福川を渡って深谷駅を目指します。昔「東方城跡」に行った時に行き忘れた「弥勒院」と「熊野神社」に寄って行きます。

まず「弥勒院」は、熊野山良光寺と号し、創建年代等は不詳ながら、東方城に1万石の城主として入城していた家康の異父妹・松姫の夫「松平丹波守康長」からの崇拝を受けていた真言宗智山派の寺院です。その後、康長が関ケ原の合戦の論功行賞で加増されて上州白井城に転封された時に住職寺号も共にかの地に移転しますが、寺はそのまま存続したようで、江戸時代には熊野大神社の別当を務めていたそうです。

弥勒院の並びにある「熊野大神社」は、延喜式神名帳に記載されている式内社・武蔵国幡羅郡白髪神社の論社になっている古社で、神社のある東方地区は古墳が多く、古墳時代から小さな祠が祀られていたのではないかといわれています。また日本武尊が東征に来た時に、里人に東の方はどこかとたずねたのが東方の地名の起源となったという伝説も残され、境内に「東方熊野神社碑」が建てられています。天文年間(1532~55)にこの地を領有していた深谷上杉氏の重臣で皿沼城主の「岡谷加賀守」が社殿を寄進し「熊野免」という年貢を免除した土地を与えたそうです。また同じく重臣の上野台領主の「秋元但馬守景朝」とその子「越中守長朝」も、この神社が館の鬼門にあたるため、館の守りとして崇敬し、天正年間(1573~92)に社殿を寄進しているそうです。江戸期には東方村の鎮守として祀られ、明治42年に地内の5社を合祀、大正13年には村社を超える郷社に列格しています。

「原郷愛宕神社」は途中にあったので寄ってみただけなのですが、原郷小名木ノ本の鎮守として祀られてきた神社のようです。現在は楡山神社の総代・奉賛会が管理をしているそうです。旧中仙道沿いにあるため、文化3年(1806)の『中山道分間延絵図』に、「深谷宿宝珠院持愛宕」として山林に囲まれた社地が掲載されているそうです。

先週に続いてまた「国済寺天然温泉 美肌の湯(ハナホテル深谷&スパ)」汗を流していきます。pHJ7.4の単純温泉であまり温泉感がないのが欠点なのですが、料金は平日700円、土日祝800円と安目なので良いことにします。

美肌の湯に来るのは5度目なので、たまには食堂で昼飯を食べてみようと、「担々麺(赤)」を注文してみました。見た目辛そうなのですが、温泉の食堂なのであまり辛くはなく、食べやすい辛さの担々麺でした。

温泉で腹ごしらえも終えたら、「日本煉瓦製造専用線」の廃線跡を通って、深谷駅にむかいます。

続きを読む

フォトギャラリー:51枚

すべての写真を見る

装備・携行品

みんなのコメント

ログインして登山記録にコメントや質問を残しましょう

登山計画を立てる