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東行田駅から南羽生駅(長野久伊豆神社~小松神社~葛浜氏館跡など)

長野久伊豆神社、勝呂神社、龍泉寺(鞘戸耕地館跡)、地蔵塚古墳、八幡山古墳、若小玉諏訪神社、古代蓮の里、小針日枝神社、須戸橋御嶽神社、下須戸八坂神社、大物忌神社、小松神社、砂山愛宕神社、上川崎天満社、須影愛宕神社、葛瀬氏館跡、須影八幡神社、千眼寺、葛浜氏館跡( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇り

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→上野→高崎線→熊谷→秩父鉄道→東行田

復路:羽生→東武伊勢崎線→久喜→上野東京ライン→品川→山手線→五反田

この登山記録の行程

東行田駅7:05→長久寺7:08→長野久伊豆神社7:14→勝呂神社7:43→龍泉寺(鞘戸耕地館跡)7:52→地蔵塚古墳8:00→八幡山古墳8:16→若小玉諏訪神社8:32→古代蓮の里8:44→神仙寺8:52→須戸橋御嶽神社9:04→医王寺9:13→下須戸八坂神社9:15→大物忌神社9:33→下新郷鷲宮神社9:58→小松神社10:14→砂山愛宕神社・島山寺10:37→上川崎天満社10:50→須影八坂神社10:58→須影愛宕神社→須影八幡神社11:14→千眼寺11:41→葛浜氏館跡11:52→極楽湯 羽生温泉12:00~13:30→南羽生駅13:49

合計5時間14分(温泉除く)

コース

総距離
約21.5km
累積標高差
上り約15m
下り約19m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

10月22日(土)は、秩父鉄道の「東行田駅」から東武伊勢崎線の「南羽生駅」まで歩いて来ました。ここいらは特に目ぼしい物はないのですが、利根川沿いに行く前に、秩父鉄道の南側の行き残しの整理ということで!

スタートは「東行田駅」です。さすがにここは何も無いだろうと思ったら『埼玉の女子高生ってどう思いますか?』(渡邉 ポポ・作、2018年10月、新潮社)という漫画のコミック第1巻の表紙を飾った埼玉県民の「聖地」だそうです。読んだことないので内容はわからないのですが、『ヤマノススメ』の「飯能」ならともかく、さすがにここまで来ると、一般の埼玉県民でも理解不能だという気がするんですがどうなんでしょうか?この前の渋沢栄一の「血洗島」より電車通ってるだけマシなだけで、東京で例えるなら、東急池上線の最奥の久が原か御岳山辺りの感じでしょう。絶対にわかんない気がする!

聖地のわりに女子高生は全然居ないので、しょうがないから最初の目的地の「長久寺」と「長野久伊豆神社」にむかいます。駅北側すぐにあります。ここは共に「成田氏14代下総守顯泰(法名清岳成安)」が忍城を築城した文明年間(1469-1487)に鬼門の守護神として創建した寺と神社です。

「長久寺」は真言宗智山派の寺院で、名前の由来は鬼門鎮護の道場として「武運長久」を祈ってつけたといわれています。代々忍城主の祈願所となり、徳川家康関東入国後も、忍藩初代藩主の「松平忠吉」の帰依を受け、慶長9年(1604)には寺領30石の朱印状を拝領しています。

「長野久伊豆神社」は、明治に入って別当寺の長久寺から離れ、町内の26社を合祀してこの辺り一帯の村社となった神社です。さらに昭和30年に入って楯場にあった「赤飯稲荷神社(赤飯伊奈利大社)」も境内に遷座しており、境内にある15m四方の枝張りの藤は、「赤飯稲荷神社」を遷座した際に、市内「若小玉」にある「紫藤庵の野田藤」を根分けして植えたものだそうです。市指定天然記念物となっています。「赤飯稲荷神社」は由緒不明の神社なのですが、若児玉ということから、元は児玉党の「若児玉氏」の氏神だった可能性があると思われます。

秩父鉄道の線路と「武蔵水路」を渡って東に進むと「勝呂神社」があります。神社の創建年代や歴史についてはわかっていませんが、神社のある「若小玉」という集落は、『東鑑』に嘉禎4年(1238)に「若児玉小次郎」という名が、建長2年(1250)「若児玉次郎」という名が記載されていることから、鎌倉時代にすでに村落が成立していたと推定できるそうで、神社の創建も鎌倉時代・室町時代に遡ると考えられています。ただ勝呂神社と改名したのは江戸時代になってからのことのようで、若児玉氏は児玉党の一族で勝呂氏は村山党の一族なので、坂戸に本拠地のあった「勝呂氏」の一族が秀吉の小田原攻めで滅亡した後に、誰かがこの地で帰農した際に祀られた神社であるということも考えられなくはないと思われます。あと境内社の「榛名神社」は、氏子の間に「群馬の本社と同格」であるという伝承があって、古老の中にはこちらの神社の方が格が高いとする人もいるため、本社に代参を行うことはないそうです。若小玉村の鎮守として明治2年には村社に列格し、41年には近隣の10社を合祀しています。

勝呂神社の東にある曹洞宗寺院の「龍泉寺」には「鞘戸耕地館」という武蔵七党の児玉党の流れを汲む「若児玉氏」の館があったと伝えられています。先ほどの『東鑑』に加え、『太平記』にも新田義興・義宗兄弟が足利尊氏に対して挙兵した際にはせ参じた武士の中に若小玉の名前が残っているそうです。遺構は残っていませんが、『客殿庫裡落慶記念碑』に「寺域一帯は、「吾妻鏡」に記されている中世武士若兒玉小次郎の館跡と伝えられている」と書かれています。児玉党とのことなので、成田氏以前にこの辺りの支配者だった児玉党庶流の「忍氏」と関係のある一族なのかもしれません。

龍泉寺の南側の工業団地の中にある「地蔵塚古墳」は前にも行ったのですが、内部に石室を持ち、墳頂に地蔵堂(高山地蔵)が安置されているよく整備された古墳です。7世紀中葉の方墳と考えられ、「若小玉古墳群」に含まれるそうです。規模は、一辺約28m、高さ約4.5m、周堀幅約1m、深さ40~50cmです。石室は扉で閉ざされていて中を見ることは出来ませんが、左壁・右壁及び奥壁に烏帽子を被った人物、弓を引いている人物、馬、水鳥、家と思われるものが描かれた線刻画が描かれているそうです。

その南にある「八幡山古墳」も前に行ったのですが、ここは石室が外部に完全に露出した古墳です。
若小玉古墳群の中心となる古墳で、元は7世紀前半に造られた直径約80mの大型の円墳と推定されています。昭和9年(1934)に、役2km東野小針沼の干拓事業のため古墳の封土を崩した際に、石室が発見されたそうです。南を正面とする前・中・後室の3室からなる全長16.7mの巨大な石室で、各室とも秩父地方から運搬された巨大な緑泥片岩と安山岩で築造されているとのこと。その後、昭和52年から54年に発掘調査と復元整備が行われて現在の姿になっています。奈良県明日香村の石舞台古墳に匹敵する巨大な石室であることから、「関東の石舞台」とも呼ばれています。

八幡山古墳に併設される形で「万葉遺跡 防人藤原部等母麿遺跡」という歌碑のある遺跡もありますが、これは万葉集に採用された歌を詠んだ人物が埼玉郡いたというだけで、この地に居館があったとかそういう話ではないようです。

工業団地を出ると浄水場の手前に「若小玉諏訪神社」という小さな神社があります。「勝呂神社」の例祭では、「若小玉諏訪神社」と「若小玉稲荷神社」で隔年毎に獅子舞が奉納するそうで、この獅子舞は市の無形民俗文化財にしていされているそうです。成田氏の忍城の裏にある諏訪神社は元は忍氏の祀った神社との説がありますが、若小玉諏訪神社はそこから勧請した神社である可能性はありますね。

浄水場の先にあるのが「古代蓮の里」です。ここも前に来ました。6月中旬から8月上旬にかけ咲く42種類12万株の花蓮が有名な公園で、その中でも花弁の数が少ない原始的な形態を持つ行田蓮(古代蓮)は、約1400~3000年前の蓮であると言われており、それが見頃を迎える頃は多くの観光客で賑わうそうです。また7月中旬から10月中旬にかけて「田んぼアート」を古代蓮会館展望室より見ることができるそうです。道の駅も併設されている行田市を代表する観光スポットの1つです。

「小針日枝神社」は、北鴻巣駅北口にある三ツ木神社(山王社)を分霊した神社だそうですが、飛ばしてしまいました。

北に戻ると「神仙寺」という曹洞宗寺院があります。建福寺四世天亨雲浦(寛永3年1626年寂)が開山となり創建した寺院とのことなのですが、それ以上のことはわかりません。

「須戸橋御嶽神社」も創建時代も歴史も不明の神社です。ただ星川が下須戸を流れていた五百年以上前に獅子頭が漂着し、獅子舞を奉納したという伝承が残っているそうです。御嶽神社なのですが、境内に掘り崩された富士塚がありました。

次の真言宗智山派寺院の「医王寺」と「下須戸八坂神社」はセットで、700年前、鎌倉幕府の圧迫を受けた一人の僧が、牛頭天王の像を奉じて当地に住み着き医王寺を創建、医王寺の鎮守社として牛頭天王像を祀ったことが八坂神社の始まりだと伝えられています。「下須戸八坂神社」は、明治の神仏分離令で医王寺を離れた後、村社に列格しています。

「大物忌神社」は、耕地整理で石祠だけになってしまった神社なのですが、「昔この地には忍城の出城があり、古利根川を境に羽生の殿様とよく戦をしたために忍の本城に恨みを持って死んだ者が多く出て、これらの人々を祀ったのが当社である」という口伝が残っているそうです。神社の中心にあるのは「大物忌神社」なのですが、鳥居の名前は「羽黒神社」になっています。境内には「白山神社」「稲荷神社」の石碑もあり、これは明治時代に合祀された物ではなく、耕地整理の際にまとめられた物のような気がします。

「下新郷鷲宮神社」は、小さな祠程度の神社で由緒不明ですが、この辺りから鷲宮神社が増えてくる気配ありです。

そして「小松神社」です。ここは羽生城と非常に縁の深い神社で、天文5年(1536)に、羽生城主・木戸忠朝と館林城主・広田直繁が「三宝荒神」を奉納しているほか、慶安元年(1648)には羽生領72町ヶ村の総鎮守となっています。ただこの「三宝荒神」は後北条氏の北条氏政が羽生城を攻める際に小松に陣を置いた関係で、戦利品として小田原に持っていかれ、今はないそうです。「小松神社」の創建は、景行天皇の代に日本武尊が東征の途次小祠を建立し、伊弉諾命・伊弉冉命に二柱を祀ったことが始まりといわれ、承安年間(1171~75)に小松内府であった平重盛が没してこの地に埋葬され、埋葬地の目印に植えられた銀杏の木の脇に「小松大明神」として祀られた時に社殿が創建されたと伝えられています。本殿には「小松大明神」とは別に、「熊野神社(右)」と「白山神社(左)」の2つの神社が治められており、祭神は伊弉諾命、伊弉冉命となっています。この3つの神社を併せて『小松三神社』と呼ぶそうです。江戸時代にはすぐ横に「小松寺」という大きな寺があり、別当を務めていたそうですが、明治に入って廃寺となり、住職はそのまま宮司になったそうです。神社のほかに、ここには珍しい「埋没した古墳」も発見されています。これは利根川の洪水とかで埋まったわけではなく、「関東造盆地運動」による地盤沈下によるものだそうです。東京湾の船橋市周辺とか古河市周辺など関東平野の中心部は少しずつ沈下しているのだそうです。古墳は幾つかあるそうで、発掘調査された1号墳からは石室と鉄刀、装身具などが出土しているそうです。7世紀初期のものと考えられています。日本武尊云々はわかりませんが、小松神社のある場所は古くからの聖地だったようです。聖地であったこととは別に、小松神社は周りを堀で囲まれ、社殿の裏には土塁の跡のような物まで存在する武士の居館のような構造をしています。ただ誰かの居館であったというような話はないので、小松寺の時代に僧兵がいるような寺だったのかもしれませんね。北条氏政もすぐに陣として使える場所だったから、ここに陣を敷いたのだと思います。

歩いていたら「藍染ふる里資料館 武州中島紺屋」という文化財になっている建物がありました。羽生市は藍染が盛んだそうで、ここ以外にも2~3件、藍染の工場がありました。

「砂山愛宕神社」は小高い塚の上にある神社です。地名の「砂山」は砂丘のことです。ただ神社のある塚は人工的に盛り土をした物と思われます。砂丘は赤城おろしと呼ばれる冬の強い季節風によって運ばれた砂が堆積したものだそうですが、土地の開拓や砂の採掘で今は殆どが失われています。「砂山愛宕神社」には文禄4年(1595)に京都の愛宕神社を分祀して創建された神社で、利根川が氾濫して一度村が壊滅し、その後再建された時に再出発を誓って祀られたそうです。最初は「権現山」という高さ7~8mの巨大な塚の上にあったそうなのですが、嘉永3年(1850)に現在地に移転したそうです。江戸時代は小松神社の別当寺だった小松寺が別当をつとめていました。

「上川崎天満社」は、イオンモール羽生の西側にある由緒不明の神社なのですが、徳川幕府から村の鎮守としてはあり得ないほどの20石1斗の御朱印地を賜っていることから、かつてはかなり栄えた神社だったと考えられます。

「須影八坂神社」は、国道122号と125号の分岐の南側にある神社で、ここも由緒不明ですが、場所的に久喜市方面で盛んな天王様の祭をやるための神社のような気がします。

次の「須影愛宕神社」は、塚の上にある石祠で、宝暦5年(1755)創建ぐらいしかわからないのですが、この神社から隣の緑地にかけて砂丘が残されているので、この塚もそれを利用して土を盛ったものではないかといわれています。

愛宕神社のすぐ前には「須影公民館」や「須影交番」があり、須影地区の中心になっているのですが、ここから北側の「須影八幡神社」にかけての間に、「葛瀬氏館跡」があった可能性があります。根拠は羽生市教育委員会が発行した小冊子『羽生須影地区歴史年表-須影地区の今むかし-』に「南羽生駅の西に葛瀬氏館跡と言われている地があり、この葛瀬氏が葛浜氏と同族とすれば、この須影地区にも鎌倉御家人が居していたことになり、須影八幡宮に伝わる頼朝旗掛け伝説もうなずける。」と書かれていることだけなので、なんとも心許ないのですが、「須影小学校」のある低地の水田地帯をはさみ、愛宕神社~公民館周辺と、八幡神社周辺が、砂丘が形成されているということもあり、結構立派な微高地になっているので、居館を造るにはもってこいの場所ではあります。微高地の縁には当然のように水路が走っています。

「須影八幡神社」は江戸時代には徳川幕府から19石5斗の御朱印地を得ている須影村の村社だった神社で、明治40年には地区内の白山社や愛宕社を合祀しています。ここは別当寺だった「蓮華寺」の最後の住職・潮元が廃寺になる前に8年かけて造営した本殿と拝殿の彫刻が有名で、羽生市の指定文化財にもなっています。またかつて境内に「頼朝旗掛けの松」といわれる黒松の樹があり、『羽生須影地区歴史年表』によると、ここには「源頼朝が欧州征伐(1189年)の途中、八幡宮に立ち寄り、戦勝を祈願した折、松に旗をかけた」という伝承と、「欧州に向かう弁慶が八幡宮に寄り、杖を境内に刺したまま立ち去った。その杖が松となった」という2つの伝説が残っています。地元では最初の伝説から、源氏の氏神である鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したのではないかといわれています。

そして東武伊勢崎線の線路を渡り、南羽生駅の北側を進むと「千眼寺」という真言宗智山派寺院があります。ここは、大河戸四兄弟の四男である「葛浜行平(神戸三郎)」の妻が菩提を弔うために建立した「萬蔵院(廃寺)」と、荒廃ししていた「千眼寺」を合せて再興された寺院です。現在の「千眼寺」は建物が新しい寺なので見るところはないのですが、廃寺になった「萬蔵院」は「葛浜氏館」があった場所に建てられたといわれています。

その「葛浜氏館跡」は「千眼寺」の前の線路を渡って南へジグザグ進んだ田んぼに出る手前の大きな農家のお宅が何軒かある小広い島のような微耕地で、特に遺構は残っていませんが、東側に地蔵堂が、西側には諏訪神社の小祠があります。あと地名が葛浜行平の別名である「神戸三郎」の「神戸」になっており、少し離れたの分譲住宅地の角には「神戸バス停」もあります。

この辺りはかつては葛浜郷と呼ばれており、葛浜氏は平安時代末期に大河戸重行(行方)の四男四郎行平が葛浜郷に入植し、葛浜氏を名乗ったことから始まるとされています。『吾妻鏡』によると大河戸重行は平家に味方したため、治承4年(1180)に伊豆の蛭ヶ小島へ流罪となり、4人の息子も連座しています。後に許されるのですが重行は召喚の途次に病死し、息子4人は頼朝に謁見して赦免されたとされています。4人はその後の建久元年(1190)に、頼朝の上洛に随行していますが、それ以降の消息は不明のようです。

最後に南羽生駅の行き残しを回ったので、今日の温泉はまたしても「極楽湯 羽生温泉」になりました。
料金は平日820円、土日920円。泉質はナトリウム-塩化物・炭酸水素温泉(弱アルカリ)で、夏場は暑く感じられた43.9度の湯温も、少し寒くなったので、心地よく感じられるようになりました。でもまだマスク無しの外国人観光客が増えてきた都心とは違い、埼玉はコロナ戒厳令下なので空いています。

今日を最後にしばらくは南羽生に来ないと思ったので、今週も温泉の食堂で昼飯にすることにしました。注文したのは人気の「カレーうどん」とご飯と唐揚げがセットになった定食です。人気なだけあって、やや辛めのコクのある美味しいカレーうどんだったのですが、埼玉肉うどんを意識してか、後から入れた感じのあまり味の染みてないブタのバラ肉がたくさん入っていて、これは普通の大きな角切りの味の染みた肉の方が良かったなという気がしました。家でカレーに後から肉やソーセージを追加した感じになってしまうので…。

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