• このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 参考になった

羽生駅の東側を周回(羽生城跡~堀越館跡~渋井越前守吉元館跡など)

田舎教師の墓、羽生陣屋跡、羽生城跡、堀越館跡、平野屋敷跡、今泉八幡神社、熊野塚古墳、鬼平江戸処、渋井越前守吉元館跡、堤千万神社、永明寺古墳、下村君屋敷跡、下村君鷲宮神社、御廟塚古墳、風張館跡、発戸鷲宮神社、鷲宮古墳、遍照院古墳、本川俣長良神社、大白天神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 参考になった

行程・コース

天候

快晴

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→日暮里→常磐線→北千住→東武伊勢崎線→羽生

復路:羽生駅→スーパー健康ランド 華の湯→羽生駅→東武伊勢崎線→久喜→上野東京ライン→品川→山手線→五反田

この登山記録の行程

羽生駅6:37→健福寺(田舎教師の墓)6:44→正覚院54→羽生陣屋跡(高山稲荷神社)7:09→羽生城跡(古城天満宮)7:19→香取神社(藤井上組)7:28→堀越館(城)跡7:36→浅間塚古墳7:45→平野屋敷跡7:54→今泉八幡神社8:11→熊野塚古墳(熊埜山神社)8:21→長光寺(今泉外ノ内)8:24→弥勒長良神社8:48→お種さん資料館(円照寺)8:56→鬼平江戸処(羽生PA)9:09→田舎教師像9:18→三田ヶ谷八幡神社9:32→蓮台寺9:36→大越浅間神社(浅間神社古墳)9:51→常木神社9:59→スカイスポーツ公園10:02→渋井越前守吉元館跡(名八幡神社+不動院)10:08→延命寺10:25→堤千万神社10:29→永明寺古墳10:40→下村君屋敷跡10:53→下村君鷲宮神社(稲荷塚古墳)10:59→御廟塚古墳11:06→惣徳院11:18→避来矢神社11:26→安楽寺・風張館跡11:30→観乗院11:40→発戸鷲宮神社11:45→源昌院12:01→尾崎鷲宮神社(鷲宮古墳)12:08→遍照院古墳12:17→光明院12:32→田長神社12:41→本川俣長良神社12:49→大天白神社13:04→正光寺13:10→八雲神社(中央)13:16→羽生駅13:26

合計6時間59分

コース

総距離
約29.6km
累積標高差
上り約48m
下り約48m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

11月3日(祝)は、羽生駅の東側を行ける所まで一回りして来ました。羽生は山内上杉氏の配下で後に上杉謙信に仕えた「木戸忠朝」が「羽生城」を構えていた場所で、隣の行田の成田氏とはライバル関係にあったようです。羽生」という地名の由来は、この辺りには古墳がたくさんあり、埴輪が数多く発見されたため、埴輪がなまって羽生になったといわれています。昔は「埴生」とも書いたそうです。

羽生駅東口を出てすぐにある「健福寺」は、明治の文豪「田山花袋」の小説『田舎教師』のモデルとなった「故小林秀三君之墓」(羽生市指定文化財)が有名な曹洞宗寺院です。創建は天正年間(1573~1591)と伝えられています。

田山花袋は旧忍蕃士伊藤重敏の次男として生れ、幼名は蔵三といいます。経済的困窮から、9歳のとき当時の持田村(現行田市)の浄土宗正覚寺、その後羽生町の「建福寺」に預けられ、16歳でそのまま建福寺住職太田玄瞳の養子となり、名を「太田玄綱」と改めました。
小説『田舎教師』のモデルとなった「小林秀三」は、栃木県足利市生まれで、9歳の時熊谷に移り住み、明治34年3月熊谷中学(現熊谷高校)を卒業し、埼玉県北埼玉郡弥勒小学校の代用教員となり、建福寺に下宿し6㎞の田舎道を通いました。後に両親も羽生に移りしばらく安定した生活を送りましたが、間もなく病気にかかり明治37年(1904)9月22日21才の若さでこの世を去りました。花袋は住職の手もとにあった彼の日記を読み、大志を抱いたまま田舎に埋もれて行く青年の生き様を描き、明治時代を代表する小説『田舎教師』が誕生したそうです。

その他に「山門に 木瓜咲きあるる 羽生かな」 という句が書かれた「田舎教師巡礼記念句碑」もあります。これは昭和13年4月「田舎教師遺跡巡礼の旅」として、横光利一、片岡鐡兵、川端康成の3名の作家が羽生を訪れたことの貴重な遺産として、その時、横光利一が宿の扇面に書き残したものを拡大して昭和52年に作られたものだそうです。
また、明治時代の詩人「太田玉茗」の碑というものもあります。太田玉茗は建福寺住職の養子となった人物で、建福寺二十三世三村玄綱となっています。詩人としては、明治30年4月に、国木田独歩、松岡(柳田)国男、田山花袋ら5名と合著詩集『抒情詩』を刊行しました。

健福寺の南側にある「正覚院」は、古河公方四代目の「足利晴氏」が祈願所としていた真言宗智山派寺院です。ちょうど河越合戦の始まった頃の天文14年(1545)に、晴氏から出された戦勝祈祷の礼状が所蔵されているそうです。ちなみに「足利晴氏」ですが、「河越夜戦」では敵同士だった山内上杉家・扇谷上杉家と連合を組んで戦いますが、北条方に大敗し、命は助けられたものの、天文21年(1552)に公方の座を子の「義氏」に譲ることを余儀なくされます。

街中をジグザグを北東に進むと「羽生陣屋跡」と「羽生城跡」が続けて出て来ます。まず「羽生陣屋跡」ですが、ここは江戸時代最末期の慶応3年(1867)に幕府が羽生18か村を天領とした際に置かれた陣屋の跡です。岩鼻代官「木村飛騨守勝教」が治めていたそうです。現在は「高山稲荷神社」という小さな稲荷神社が建っているだけですが、陣屋の規模ははるかに大きく、周囲に水掘をめぐらせた中に11棟の建物があったとのことです。

「高山稲荷神社」は、今は陣屋の跡地にありますが、元々は羽生城の本丸~二ノ丸の辺りにあった古墳の上に建てられていたそうです。現在は城も陣屋も古墳も全てなくなり、神社だけ残っています。

そして「羽生城跡」です。こちらは現在は「古城天満宮」になっています。「羽生城」は山内上杉氏の配下である「木戸(河田谷)忠朝」によって弘治2年(1556)に築城されたといわれています。木戸忠朝は終始一貫して上杉謙信に仕えた武蔵国で唯一の武将として知られています。木戸氏は熱田大宮司藤原季範の後裔で、下野国足利荘木戸郷を本貫とするとされています。戦利品として北条氏持ち去られ、現在は小田原安楽寺に安置されている「三宝荒神像」に広田直繁と河田谷(木戸)忠朝の連名で「武州太田庄小松末社三宝荒神、天文 五年丙申願主直繁、忠朝」と記されており、天文5年(1536)の時点では直繁が城主を務めていたと推測されています。直繁と忠朝は兄弟で、直繁は広田郷(鴻巣市)発祥の広田氏を、忠朝は川田谷(桶川市)に由来する河田谷氏の名乗りました。
その後、羽生城は「長尾景虎(上杉謙信)」による関東出兵の拠点となったり、後北条氏の支配下となり、忍城主成田氏が治めたりしますが。
徳川家康の関東入封後は「大久保忠隣」に与えられ、家臣の「徳森伝蔵」らが城代をつとめますが、忠隣が改易になるに伴いに廃城となったそうです。宅地化が進み遺構は残っていませんが、北面に蓮沼、南面に小沼を持つ沼城だったようです。
「古城天満宮」は、天慶3年(940)に創建された古社で、創建は藤原秀郷(俵藤太)と伝えられています。その後羽生城主木戸忠朝によって城の鎮守として祀られたようです。

藤井上組にある「香取神社」は、千葉・茨城方面からやってきた神社で主に利根川(旧利根川である江戸川も含む)流域に多く分布しています。久伊豆神社や氷川神社よりも後発のため、開発の難しい低湿地に多いといわれています。

「堀越館(城)跡」は、基本的に築城者も年代も不明な城跡なのですが、堀越家の屋敷森の中に土塁や堀の跡が残っています。堀越家の先祖が住んでいたのではないかと思われています。堀越家の庭には鎌倉時代末期の群馬県みどり市の天神山の流紋岩質凝灰岩で作られた高さ127cmの「五輪塔」も残っており、羽生市指定史跡となっています。現在、遺構の所有権は堀越家から羽生市に移っているそうなのですが、荒れた状態のまま立入禁止になっています。

「(尾崎)浅間塚古墳」は、畑の中にポツンとある直径約20mの円墳です。尾崎古墳群の最南端に位置する古墳で、かつては墳頂に浅間社が鎮座していた富士塚だったそうです。そのため整形されて追加の盛り土もされているのではないかといわれています。

浅間塚古墳の南西にある「平野屋敷跡」は戦国時代から江戸時代初期の屋敷跡とされる以外、良くわからない居館跡で、現在は廃屋の藪化した屋敷森あるだけです。中を覗いたところ、土塁や堀のような物は見当たりませんでした。時代的に北条氏の配下だった成田氏の家臣か徳川時代の大久保氏の家臣の館だったと推測されています。

少し東に進むと上に「熊埜山神社」と「念仏堂」が鎮座する「熊野塚古墳」があります。古墳時代後期の円墳といわれている古墳で、土地は「念仏堂」を建てるために平野家から寄贈されたそうです。この「念仏堂」は利根川の洪水で流された「大坊」という寺の代わりに建てられたもののとのことです。

その先の「今泉八幡神社」は、戦国時代の文禄2年4月に忍領主「成田氏長」によって創建されたと伝えられる神社です。神宝として今泉と前原の氏子が金を出し合って作らせた騎乗八幡神像と同像を描いた御掛け軸が残っています。

今泉八幡神社の南にある曹洞宗の寺院の「長光寺」には、羽生支城のひとつに数えられる「今泉外ノ内」という城跡があったといわれています。外ノ内は「戸ノ内」と呼ばれるそうです。現在も堀の跡が残っているとのことだったのですが、寺に隣接する平坦で広い墓地があるだけでした。

「長光寺」は、上杉謙信の命によって越後より羽生に派遣されていた「斎藤盛秋」が、後北条氏と成田氏の攻撃で守備していた羽生城が陥落したため、この地で帰農して、その後、盛秋の長男「内左衛門」が開基となって天正年間に創建された寺だそうです。徳川時代には寺領20石6斗を領し、三代将軍家光公から十五代将軍慶喜公に至るまでの御朱印状も残されているそうです。

そして東北自動車道を渡ると「弥勒長良神社」があります。長良神社は羽生に2つあるのですが、こちらは平安時代の公卿で上野国の国主を務め仁政をしいたことで知られる「藤原長良」の霊を祀った神社です。ただ祭神は大国主命・事代主命となっており、剣神社、鷲神社、稲荷社を合祀しています。

弥勒長良神社の南側にある真言宗豊山派の「円照寺」は、「田舎教師」に料理屋「小川屋」の娘「小川ネン」さんとして登場する「お種さん」のお墓のある寺で、境内に「お種さん資料館」もあります。「お種さん」は実在の人物で、昭和37年に身寄りがなかったためこの寺に葬られたそうです。なお「円照寺」のある「弥勒」の地名は、この寺に「弥勒堂」があることに由来するそうです。

円照寺の南側の羽生PAは池波正太郎作「鬼平犯科帳」をモデルにした「鬼平江戸処」という江戸風のサービスエリアですが、池波正太郎とも鬼平とも縁もゆかりもないよう場所のようです。

羽生PAから少し戻ると交差点の角に「田舎教師像」と田舎教師の一節が書かれた「石碑」があります。ここにある理由は、田舎教師「林清三」のモデル「小林秀三」が務めた「弥勒高等小学校跡地」だからだそうです。

そのまま東に進むと「三田ヶ谷八幡神社」という塚のような高台にある八幡神社があります。創建は不明なのですが、たぶんこの辺りの村社だったのだと思われます。近在の武士たちから厚く崇敬されてきた白馬に乗った八幡大明神像が祀られているそうです。「三田ヶ谷本村遺跡」という遺跡も発見されているそうです。

真言宗豊山派の「蓮台寺」で、進む向きを北に変えます。ここは元利根川中流十三佛霊場の一つの「毘沙門天」がある以外、由緒がよくわからないのですが、立派な赤門が有名なようです。

「大越浅間神社」は「浅間神社古墳」という直径5mほどの円墳(富士塚)の上に乗っている神社です。

埼玉用水路の横にある「常木神社」は、由緒不明なのですが、近隣の神社を合祀して地名をつけて村社になった神社と推測されます。メインの祭神は「大雷命」です。

常木神社の横が「羽生スカイスポーツ公園」です。利根川河川敷のグライダーの滑走路に併設して造られた公園で、利根川の堤防に上がって少し進むと、グライダーを見ることが出来ます。

しばらく利根川の堤防を進んで下に下りると、「名八幡神社」と隣の真言宗豊山派寺院の「不動院」があります。この辺りにあったとされるのが「渋井越前守吉元館跡」です。上杉謙信が関東の前線拠点としていた羽生城の支城で、築城者は「萱場吉家」という人物だそうです。羽生城が落城すると「萱場吉家」は一族を引き連れて越後へ落ちのびます。しかし子の源光斎は盲目のために同行できず、吉家の甥「渋井越前守吉元」に託し、吉元はこの館に留まったそうです。利根川沿いの土地改良区なので遺構はありませんが、周辺に「名堀之内」という地名が残っており、「屋敷裏遺跡」という縄文・古墳・平安時代の集落跡も発見されているそうです。

真言宗豊山派の「延命寺」は行く途中にあったので寄ってみただけなのですが、応永年中(1394~1427)に「栄尊」によって開山された近郷48ヶ村の本山で、徳川幕府から御朱印地も得ていた結構格式の高い寺だったようです。でも無住でした。

「堤千万神社」は加須駅前の千万神社と同じ「藤原秀郷」とその子孫である「修理大夫」を祀った神社です。なお平将門の反乱を鎮圧するために羽生に派遣されたのは、六男の修理大夫ではなく次男の「千春」であったという説もあるようです。藤原秀郷の子孫を自認する武士団は「秀郷流」と呼ばれ、秀郷の一族が下野国(栃木県)に領土を持っていたこともあり、利根川周辺からその北側に多数居館を構えていたようです。

真言宗豊山派の「永明寺」の境内にある「永明寺古墳」は、利根川沿いにある長さ約78m、幅約42m、高さ約7mの村君古墳群に属する大きな前方後円墳で、埼玉県内にある前方後円墳の中では10番目の規模を誇るそうです。墳頂には方の方に「文殊堂」が、円の方に「薬師堂」があり、間に「仙元大菩薩」の石碑が祀られています。

永明寺古墳と下村君鷲宮神社に挟まれた一角にあったとされるのが「下村君屋敷跡」です。資料も伝承もないようなのですが、堀跡と土塁に囲まれた大きな農家の廃屋があります。江戸時代の豪農か名主階級の屋敷ではないかといわれていますが、それ以前に戦国時代の武士の屋敷があったのかもしれません。

「下村君鷲宮神社」は元は「稲荷塚古墳」の上に建てられていた神社ですが、古墳は今は存在しません。鷲宮神社自体は鷲宮の鷲宮神社から分霊したものです。ただ明治の末に「横沼神社」という天穂日命の子孫の彦狭島王の子・御室別王の姫(娘)を祀った神社を合祀していて、ここでは父・彦狭島王をまつる樋遣川村の御室社へ「お帰り」という里帰りの神事が行なわれていたそうです。

「御廟塚古墳」も村君古墳群の1つの前方後円墳です。かつては2つの塚として認識されていたようで、『大日本國誌』では、北側の塚を「彦狭島王」、南側を「村君太夫」の墓としています。「彦狭島王」は崇神天皇の皇子で、東国に赴任し、毛野氏の祖となった豊城入彦命の孫で、「村君太夫」とはこの地の有力者らしいです。彦狭島王の子の御諸別王の娘が嫁いだとも、彦狭島王をこの地に葬った後に自分の墓を隣に造ったともいわれています。

「惣徳院」もついでに寄っただけなのですが、真言宗豊山派以外わかりません。

「避来矢神社」も藤原秀郷を祀った神社で、上村君村の鎮守社です。天文年中(1532~1554)に下野栃木村から飛来した大きな「石」を祀ったという伝承もあり、かつては「飛来石神社」とも呼ばれていたそうです。耕地整理のため移転する前は、その石と立派な鎮守の森もあったそうです。

「避来矢神社」の現在の社地の裏に「今成伊予」という人物の住んだ「風張館」という館があったといわれていて、かつては利根川の水を引き込んだ堀が構えられていたそうですが、耕地整理のため現在は何も残っていません。

「風張館」のあった場所は「安楽寺」跡の「大日堂」あたりという説もあります。「風張館」は羽生城の支城で、「今成伊豫」は羽生城主が木戸伊豆守忠朝の時代、つまり上杉時代の人物で、「渋井越前守吉元館跡」の「萱場吉家」らと共に利根川沿いの守りを固めていたようです。「安楽寺」は「今成伊予」が「地蔵堂」を建てたのが始まりとされています。遺構は当然残っていません。

「観乗院」も真言宗豊山派の寺で、創建年代等は不詳なものの、利根中流十三仏霊場2番札所で「釈迦牟尼仏」を祀るそうです。

「発戸鷲宮神社」は、元は都から落ち延びてきた姫の従者であった「桑原左近」を祀った神社だったそうです。かつては「桑原宮」と称していたそうです。発戸には利根川の河岸があり、江戸時代には賭博で有名だったそうで、御輿を放り投げる荒々しい祭が有名だということです。『田舎教師』にも村の様子や人々が描かれているそうで、小説の一節が書かれた石碑もあります。

「源昌院」は、分福茶釜で有名な館林の「茂林寺」末の曹洞宗寺院で、慶長10年(1605)に羽生城主木戸忠朝の家臣「鷲坂軍蔵」が開基となり、羽生市藤井上組の源長寺の徳岩正道大和尚を開山に招いて創建されたそうです。寺の名前は木戸忠朝の戒名が「久昌院源心長公居士」であることからつけられたとのことです。

「尾崎鷲宮神社」は「尾崎古墳群」の1つである「鷲宮古墳」の上に鎮座しています。承応元年(1652)に鷲宮町の鷲宮神社から分祀して創建されたそうです。

尾崎の聖天様として知られる真言宗豊山派の「遍照院」も「遍照院古墳」の上にあります。ただ削平されてしまったのか、本堂の辺りが多少盛り上がっているだけでした。一応円墳で埴輪が見つかっているようです。

「光明院」は豊山派ばかりの羽生で珍しい真言宗智山派寺院です。

「田長神社」は羽生市立川俣小学校の裏にある小さな神社ですが、由緒書には「菅原道真から分かれた五条爲経を父に持つ三村家初代三村吉左衛門が寛永年間に仁科神明宮分社としてこの地に建立する」と記されています。三村氏は調べると甲斐源氏小笠原氏の庶流とあるので、故郷の神様を勧請したのだと思われます。湿地には珍しい巨大な杉の御神木があります。なお三村家の御先祖は宮大工で、この社殿も自作したものだそうです。

「本川俣長良神社」は、弥勒の長良神社同様に藤原長良を祀る神社ですが、洪水のときに漂着した群馬県の神社にあった「御幣」を祀ったのを起源としています。境内に江戸時代にこの地を治めていた松平大和守を祀る「松平大和守生祠」があります。飢饉の時、年貢を減額するなと名君だったそうです。

「大天白神社」は境内が大天白公園として解放されています。創建は弘治3年(1557)に羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願の為に勧請したそうで、木戸氏と成田氏の合戦により焼失するも再建され、以来、安産・子育ての神として信仰されているとのことです。天白神に関してはよくわかっていないのですが、ここは「大山祇命」を主祭神として、大己貴命、少彦名命を祀っているもようです。

大天白神社と隣接する「正光寺」は、天文12年(1543)に羽生城主木戸忠朝の母(戒名:廣應院月清院正光大姉)が開基になって、登蓮社栄誉岌善を開山として創建された浄土宗寺院で、檀家には羽生市の商店街の方が多いそうです。

「八雲神社(中央)」は由緒不明ですが、羽生の市民祭である「ムジナもんワイワイまつり」の時に、すぐ前で「青縞の市」が開催されるそうです。この日も秋祭というかカラオケ大会が開かれていました。ムジナもんは、羽生のゆるキャラで、頭にある羽生市特産の「モロヘイヤ」の葉と羽生水郷公園の宝蔵寺沼に自生する「ムジナモ」でできたシッポが特徴だそうです。ちなみにムジナはアナグマの別称でヘビとかではないそうです。あとムジナモはモウセンゴケ科に属する食虫植物です。

13時半過ぎに「羽生駅」に到着!駅を渡って西口に移ります。

羽生駅西口から徒歩3分ぐらいにルートインがやっている「スーパー健康ランド 華の湯」があるので、今日はここで汗を流していきます。ここも原泉の温度は44℃もあるのですが、南羽生の極楽湯程は熱くはありませんでした。泉質はpH8.1のナトリウム-炭酸水塩・塩化物温泉で、やや黄色がかっています。料金は平日850円、土日1100円です。

時間が遅くて、駅前の飲食店が開いている気がしなかったので、温泉の食堂で「羽生めし」という羽生名物のB級グルメを食べました。これは豚丼に羽生名産のレンコンが入っている物で、それにさらにマヨネーズがかかります。味はB級という割に淡白でヤバさが足りない気がしたので、羽生名物のモロヘイヤを刻んでドロドロにした物をかけたら良いのではと思いました!

続きを読む

フォトギャラリー:89枚

すべての写真を見る

装備・携行品

みんなのコメント

ログインして登山記録にコメントや質問を残しましょう

登山計画を立てる