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栗橋駅から南栗橋駅(栗橋関所跡~墓化館跡など)

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パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ時々曇り

登山口へのアクセス

電車
その他: ※渋谷駅工事のため、池袋~大崎間の山手線が終日運休で特別ルート
往路:大崎→埼京線→大宮→宇都宮線→栗橋
復路:南栗橋→東武日光線→栗橋→宇都宮線→東鷲宮→百観音温泉→くるまやラーメン 鷲宮店→東鷲宮→上野東京ライン→品川→山手線→大崎

この登山記録の行程

栗橋駅6:33→静御前之墓6:37→一言神社6:40→松永神社7:01→旧荒川堤防跡7:03→伊坂千勝神社7:14→迎盛院7:16→星福寺7:31→旗井神社7:38→明治天皇行幸記念碑7:49→宝治戸池7:53→栗橋関所番士屋敷跡7:55→栗橋北香取神社7:56→経蔵院7:58→栗橋北八坂神社8:06→栗橋本陣跡・栗橋関所址8:17→福寿院8:26→深広寺8:35→浄信寺8:39→顕正寺8:42→会津送り稲荷9:00→川通神社9:08→権現堂川9:17→墓化館跡(一色稲荷神社)9:27→川妻一色神社9:41→川妻香取神社9:47→浄雲寺薬師堂9:57→穴薬師古墳10:00→川妻雷電宮10:07→小手指大日堂10:20→勝光院/小手指香取神社10:25→主税権現社10:32→浦島神社10:39→正徳寺11:16→大福田天満宮11:25→福田神社11:45→南栗橋駅12:31

合計5時間58分

コース

総距離
約17.1km
累積標高差
上り約17m
下り約20m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

1月7日(土)は、栗橋駅周辺と、茨城県の五霧町の利根川沿いを回って来ました!この辺りは利根川を渡って北関東・東北に至る境目であると同時に、東京湾に流れ込んでいた利根川を銚子方面に流れるようにした大規模な河川改修の工事が行われた場所で、関所跡など、境界色が強い史跡がたくさん残されています。

スタートは「栗橋駅」です。「栗橋」の名前は「くり舟」という川にロープを張り、それをたぐって渡る舟に由来するといわれています。栗橋は、利根川の河川改修により渡船場が現在の場所に移り、もう少し南の「元栗橋」から移住してきた人々により新しく開拓された宿場町だそうです。

「栗橋駅」東口を出ると「静御前之墓」があります。源義経を追って奥州に向かった静御前がこの地で亡くなり、葬られた場所だそうです。現在は古河市にある「光了寺」に「静女蛙蟆竜舞衣略縁記」という文章が残されており、その中で静御前は、義経を追って東北へ向かうも、古河まで来たときに、義経が平泉で亡くなったことを聞き、出家して義経を弔う事を決意して京都に戻ろうとしますが、旅の疲れから久喜で息を引き取り、侍女がかつて栗橋駅前にあった「光了寺」で静御前を弔い、墓の印に一本の杉の木を植えたということです。墓自体は伝承を元に、江戸時代の享和3年(1803)に中川忠英という人物によって造られた物とのことです。

「静御前之墓」には「静桜」という静御前が義経の菩提を弔うために植えたと伝えられる桜の木があります。5枚の花弁の中に、おしべが花びらのように変化した旗弁が混じる特徴的な桜だそうです。

静御前之墓の少し先にある「一言神社」は、悲しい人柱伝説が残る神社です。その昔、村が利根川の洪水に見舞われた時、運悪く通りかかった旅の母子を人柱に立てて神の怒りを鎮めようということになり、母親は「最後に一言言い残したい」と切願したものの、村人は聞き入れずに母子を水中に投げ込んでしまったそうです。その後、その霊を慰め、水害の起こらないことを願って祠を建てたのがこの神社の始まりだということです。ただこれとは別に、修験者が、役小角が修験道を拓いた大和国の葛城山で雄略天皇が出会った「一言主神」を祀った神社との説もあるようです。

栗橋駅西口に移り、少し南に進むと「松永神社」があります。ここは松永を開拓した草加源之丞・村上儀平・倉橋忠兵衛の3人を祀った神社が始まりとのことなのですが、永正2年(1505)に紀伊國からやってきて村を作った郷士鈴木三郎兵衛慶長が熊野神社を持ち込み、江戸時代は熊野神社として村の鎮守となっていたようなのですが、明治の神仏分離令で、熊野神社に合祀されていた星宮神社・天神社・稲荷神社・香取神社の中から星宮神社を中心に再編され、明治6年に村社に列格された後の大正3年に社名を「松永神社」と改めたそうです。

松永神社の斜め前に「旧利根川堤防跡」という物が残っています。若干低くなっていますが、松永神社の社地もこの延長上にあります。この堤防の跡は利根川の分流であった「旧浅間川」の自然堤防に盛り土をしたもので、上を鎌倉街道が通っていたそうです。「旧利根川堤防跡」は一度途切れますが、すこし北のマミーマートの裏に続きがあります。

マミーマートの角を堤防跡の反対側に曲がるとある「伊坂千勝神社」は、久喜市本町にある二代目古河公方の足利政氏が勧請したと伝えられる「本町千勝神社」とたぶん関係のある神社で、福島県東白川郡にある奥州一宮の「都都古別神社(旧近津宮)」を本宮としています。昔は古利根川の河岸にあり、渡し場があったことから別名「和多志の神」とも呼ばれていました。塚にはなっていませんが、浅間神社と小御岳神社の石碑があります。

千勝神社の隣にある「迎盛院」は真言宗智山派寺院で、創建は明らかではありませんが、開基か鎌倉頃に及ぶことは確実といわれています。

「星福寺」も真言宗智山派の寺院で、康平年間(1058~1064)に創建された、旧栗橋町内最古の寺といわれています。

「旗井神社」は、松永神社同様、近隣の神社を合祀して地名をつけた神社なのですが、この地名の「旗井」には、康平年中(1060頃)に源義家が陸奥の豪族安倍氏鎮定(前九年の役)に向かう途中、馬が小祠の前で動かなくなり、旗を井戸の傍らに立てて馬に水を与えながら休憩していた際、村老に小祠の祭神を聞きましたが誰も知らず、ならば今より「天神」と崇めるべしと伝えて、白旗を与えて去ったという故事からつけられたといわれています。神社もその旗を神宝として「旗井天神」として崇拝されています。その後、菅原道真公の像が安置され、明治5年(1872)村社に列格しています。

再び線路を渡って利根川方面に行くと、「明治天皇行幸記念碑」があります。ここは国をあげての大事業だった鉄道敷設で、日本鉄道会社第二区線(現宇都宮線)の利根川鉄橋が完成し、明治19年(1886)7月9日に行われた開通式に明治天皇が参加されたことを記念して建てられたものです。明治天皇はこの鉄橋を歩いて渡られたそうです。

「宝治戸池」は、調整池ではなく、寛保2年(1742)に発生した浅間川(利根川旧流路の1つ)の氾濫によって形成された池だそうです。池には「金の延べ棒が池底に沈んでいる」という伝承があり、潜水夫が池を調査したが発見はできなかったそうです。なお私有地のため釣りは禁止になっています。

そしてようやく栗橋関所関連の史跡です。「栗橋関所番士屋敷跡」は、関所に勤務した番士の住まいの跡だそうです。関所が置かれた とされる寛永元年(1624)から明治2年(1869)に廃止されるまでの約240年もの間、4軒の屋敷が存続していたそうです。

番士屋敷跡の隣にある「栗橋北香取神社」は、詳しい経緯は不明ですが、愛宕権現があった場所に、新たに香取神社と八幡神社を合祀した神社が建てられたもののようです。今も中には勝軍地蔵が安置されており、裏には愛宕会館があります。社殿の横に大きく立派なイチョウの木があります。

香取神社とほぼ同じ敷地にある「経蔵院」は今は小さなお寺ですが、貞観年代に慈覚大師により創建されたと伝わる真言宗豊山派寺院の古刹だそうです。「静御前」が療養していた寺とのことで、「静御前」の念持仏と伝えられる「地蔵菩薩立像」があります。これは国内に数体しかないといわれる乾漆の地蔵菩薩立像なのですが、調査した結果、江戸時代中期の作と判明したそうです。

「栗橋北八坂神社」は、巨大な砂丘にも思える高台の上にある神社です。江戸時代初期には元栗橋にあったそうなのですが、元栗橋から栗橋地区の開拓のために移住してきた人々と共にこの地に移転してきたようです。この移転は、元和7年(1621)、あの「伊奈忠治」が利根川流路の改修に失敗し、元栗橋宿が度々洪水に襲われるようになって荒廃したため街道の付け替えが行われ、寛永年間(1624-1644)に栗橋宿が当地に移転したことによるものだそうです。栗橋宿は日光街道の要衝であるだけでなく、利根川舟運の拠点でもあったため旅人や船主で大いに賑わう宿場町だったそうで、「栗橋北八坂神社」も宿場町の総鎮守として人々の信仰を集めていたそうです。

栗橋北八坂神社から坂道を下ってきたところに「冨士仙元宮」の石碑があったらしいのですが、堤防の大規模な工事のため、何も残っていませんでした。

利根川の堤防に沿った集落の入口付近にあったのが「栗橋本陣跡」です。栗橋宿本陣は、栗橋宿が開かれた当初から江戸時代を通して「池田家」が勤めていました。江戸時代後期には街道に面した部分を店子に貸していたようで、それらに関連する遺構が検出されているそうです。

本陣跡の先の旧栗橋町商工会館跡地にあるのが「栗橋関所址」です。ただ本来の関所の場所は、堤防を越えた利根川の河畔にあったようです。番士4人が常駐していました。栗橋関所は、日光道中が利根川を越す「房川渡」に設置されたことから、対岸の「中田」と併せて「房川渡中田関所」と呼ばれていたそうです。この関所は、寛永元年(1624)に設置されて以後、明治2年(1869)に廃止されるまで約250年間続いたそうです。

この先、元栗橋から移住してきて栗橋宿を開拓した「池田鴨之介」「並木五郎平」らの菩提寺が続きます。

最初の「福寿院」は「栗橋北八坂神社」の別当を務めていた真言宗豊山派寺院です。創建は栗橋宿が開拓された頃といわれています。

「深広寺」は、元和元年(1615)に「並木五郎平」が開基になって創建された浄土宗寺院です。第2世住職単信が造立した21基の「六角名号塔」があります。ただこれは伊豆国から持ち帰るときに嵐に遭遇し、単信が龍神怒りを収めるため1基の供養塔を水中に投じて難を逃れたたため20基しかありませんでしたが。その後、第9世住職法信が、欠けた1基分を新たに追加したため、現在は21基揃っているそうです。

浄土宗の「浄信寺」には、第二代将軍・徳川秀忠の渡河を助け、やがて関東郡代「伊奈忠治」の家臣となった「梅澤太郎右衛門」の墓があります。梅澤氏の祖先は菅原氏で、その後、後北条氏の客臣となり、塚原と改め太郎則武と名のっていましたが、小田原城没落後、相模国梅澤村に住みつき、姓も梅澤と改めていましたが、その子の太郎右衛門は、慶弔5年(1600)に栗橋の開墾に加わり、この地に定住したそうです。元和元年(1622)4月、徳川二代将軍秀忠が日光東照宮社を参拝に行く途中、暴風雨で利根川が増水し、将軍の渡る船橋(船をつないだ橋)が危険な状態になったため、太郎右衛門は人夫を率いて水中に入り、命がけで橋を守ったそうです。将軍はこれを賞して、関東郡代伊奈十郎忠治を通じて貞宗の名刀・金字に日の丸の軍扇及びお墨付を与え、名字、帯刀を許され、代々栗橋宿の名主を勤めることとなったそうです。

最後の「顕正寺」は、浄土真宗寺院で、古河市中田の阿弥陀堂にありましたが、栗橋の開発者「池田鴨之助」の招請により、慶長19年(1614)に当地に移転してきたそうです。「池田鴨之助の墓」があります。

栗橋宿を少し離れると「会津送り稲荷」という狐に乗った茶吉尼天を御祭神とする稲荷神社があります。ここには、江戸時代、会津藩の武士が藩士江戸参向の先遣隊として江戸へ書面を届けるため栗橋宿下河原まで来たところ、地水のため通行出来ず、大変困っていると、突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれたお蔭で無事に江戸へ行くことが出来たという伝説が残っています。栗橋と会津との繋がりを表す貴重な神社だそうです。

川通会館の隣に鎮座する。「川通神社」は、江戸時代には香取社だったそうです。大正3年(1914)に他の神社を合祀し、「川通神社」と改称したそうです。本殿の右側に富士仙元宮があります。また道を隔てた反対側には三角点もあります。

そしてかつての利根川の本流で、現在は締め切られて調整池となっている「権現堂川」を渡ります。この辺りの川は複雑で、「権現堂川」は江戸時代以前は「渡良瀬川」の河道でした(下流は太日川と呼ばれていた)。その後、伊奈忠次が行った大規模な河川改修工事により、元和7年(1621)から大正15年(1926)までは利根川を銚子に流す「赤堀川」と共に利根川の2大本流となります。しかし「赤堀川」の流れがあまり良くなかったために元栗橋周辺が洪水多発となってしまい、栗橋宿の移動と共に人々の移住が行われました。その後、大正15年(1926)、利根川から分かれる流頭が締め切られ、昭和3年(1928)に川として廃止されました。しかし洪水抑制のための調節池の「行幸湖」として残されています。なお利根川の本流だったため、埼玉県と茨城県の境は今も「権現堂川」となっています。

ちなみに「権現堂川」が本流となる前の利根川はもっと南の「大落古利根川」の辺りを流れており、東武アーバンパークラインの和戸駅の近くの万願寺橋周辺りにあった「高野渡」で利根川を渡っており、そこが国境になっていたそうです。

「権現堂川」を渡ると茨城県の「五霞町」に入ります。「元栗橋村」はこの「五霞町」に属しています。利根川、江戸川、中川、権現堂川に囲まれた低湿地帯で、集落は自然堤防の微高地に点在しています。「五霧町」の地名の由来は、関宿藩が村々を「霞堤」とよんだためといわれています。

利根川(赤堀川)沿いの集落に入ると、まず「一色稲荷神社」があります。この神社の東側の畑とソーラーパネルが並んでいる辺りが「墓化館跡」です。かつては民家裏の屋敷森に幅4m深さ2mの堀跡があったそうですが、今はなくなっています。「墓化館」は江戸初期に関宿城主の小笠原氏に「一色城(幸手駅周辺)」を攻め落とされた「一色輝季」が名を変え隠れ住んだ館があったといわれる場所です。

一色氏は足利氏の支族で、足利泰氏の子で弘長3年(1263)生まれの公深が一色氏の祖とされ、室町幕府四職家の一である一色家と同門の名家だそうです。中世には五霞町内の幸主地区を領有しており、その後、鎌倉公方―古河公方の宿老として活躍しますが、古河公方家が後北条氏の庇護下に置かれてからは一色氏もその傘下に入ります。徳川時代も旗本として存続しますが、幸手の地から離れたということです。

次の「川妻一色神社」は、幸手城主一色宮内大輔直朝の二男で、この地に隠れ住んだといわれる「一色次郎輝季」を祀る神社です。名を「庄右衛門法吉」と改め、この地に隠れ住んでいた「輝季」は、元和6年(1620)利根川の氾濫で飢餓に苦しむ村人を救済するため、御用船の年貢米を奪い村人に施しましたが、関宿城主によって処刑されてしまいます。村人は遺体を杉の根元に葬り、輝季公の遺徳をしのんで後に社が建立されたということです。

川妻一色神社の別当寺であったと思われる寺の跡が、付近に残っています。名前もわからない寺なのですが、広い道沿いに仏像と道を隔てた反対側に立派な宝篋印塔がある墓地が残っています。寺は武士の居館跡に造られることが多いので、寺の場所が特定できれば「墓化館」の場所もわかるような気がします。

「川妻香取神社」は、この辺りに多い香取神社の1つで創建年代等は不詳ですが、大きな屋根がかけられ鉄柵で守られた本殿覆屋があります。

「浄雲寺薬師堂」は、墓地の傍らに「薬師堂」のみが残る浄土宗の寺院跡です。かつて薬師像は南側の「穴薬師古墳」の石室に置かれており「穴薬師」として信仰を集めていたそうです。寺は「穴薬師」の別当寺として設けられたもののようです。

その「穴薬師古墳」ですが、奈良時代の貴族が造営した古墳といわれ、規模は直径約30m、高さ約4mの円墳です。中央に幅約2m、長さ約7mの横穴式の石室が設けられています。奥壁には板状の石を使って五輪の塔を思わせる模様が描かれているそうです。

この辺りは低地のため、穴薬師古墳のような盛土の上に設置された神社やお堂がたくさんあります。「川妻雷電宮」もその中の1つで、由緒不明の神社ですが、樹齢数百年、樹高は約15mの上部が枯れた大杉が塚上にあります。湿地にこれだけ巨大な杉が育つのは珍しいということです。なお上部が枯れているのは地球温暖化のせいではなく、過去に受けた落雷によるものだということです。

「小手指大日堂」は委細不明ですが、「小手指」の「サシ」は焼畑という意味で、原野を開墾した土地という意味だそうです。

「小手指香取神社」と真言宗豊山派寺院の「勝光院」は同じ敷地内にあるので、守護神と別当寺の関係だったのだと思われ、「小手指香取神社」は、明治時代に村社になった時に独立したのだと思われます。「小手指香取神社」の創建が正徳3年(1713)となっているので、「勝光院」も同じ頃に開山されたのだと思われます。

「主税権現社」は、社の中には主税権現と刻まれた大きな石が置かれているだけの委細不明の小祠ですが、主税(ちから)は、百官名の一つである「主税寮」(ちからのつかさ)に由来し、 「ちから」は「田租」を意味することから、田祖を収納する米倉か、その出納を司る役所があったのではないかといわれてます。

帰りに寄るの面倒なので、先に「浦島神社」に行ってしまいます。ここは地元の土建屋が田んぼの中に積み上げた残土の上に造られた浦島太郎と龍宮城のテーマパークのような場所なのですが、中はすでに半分廃墟化していて、太陽光パネルが置かれています。神社と亀の像が展望台が残っています。展望台からは日光の男体山が見えます。

国道4号の新利根川橋の手前にある「正徳寺」は、延元元年(1336)、新田義貞が開基となり、鎌倉光明寺2代、白旗寂勲上人の弟子、徳誉慶覚上人を開山として創建されたという伝承を持つ浄土宗寺院です。1965年に、利根川の河川改修に伴い現在の場所に移転されたとのことで、元の場所には山門と墓地だけが残っています。利根川の堤防の南側は暖かいのか、梅の花が咲き始めていました。

国道4号の先にある「大福田天満社」は、「大杉大明神(左)」と「浅間神社(右)」が合祀された天満社で、他の大杉神社がある神社と同じく勇壮な「阿波様」の祭が、毎年7月23日から25日まで行われています。ここの大杉大明神も茨城県稲敷郡桜川阿波に在る大杉神社を勧請したものだそうです。

「大福田天満社」で引き返し、再び国道4号をくぐると「福田神社」があります。ここは詳しい由緒はわかりませんが、正一位稲荷神社に天満社、雷電社、天神宮、八幡社などの近隣の神社を合祀して、地名をつけた神社のようです。神社の斜め前に元別当寺の満福寺の跡地があります。稲荷社に正一位がつくのは、天保11年(1840)4月12日に日本稲荷総本宮京都伏見稲荷大社社家愛染寺知山大徳より、神璽証書を拝戴したことによるそうで、この日が神社の創建日であるとされているそうです。

ここから元栗橋地区を経由して幸手駅の方に行きたかったのですが、距離と行く場所、増えすぎるので、2回に分けることにして「南栗橋駅」に戻ります。

南栗橋は田んぼの中に盛り土をして、東武の車両基地と住宅街を造ったような駅で、栗橋駅のような宿場町っぽいたたずまいはありません。

南栗橋駅から東武宇都宮線で「栗橋駅」に一駅戻り、JR宇都宮線で1駅の「東鷲宮」に向かいます。

そして最後に東鷲宮駅西口にある「百観音温泉」で温まって行きます。ここは関東平野の真ん中の火山も何もない場所にもかかわらず自噴温度が57℃という高温の湯が沸いている温泉で、寒い真冬の時期は体がギンギンに温まるのでお勧めの温泉です。泉質はpH7.67のナトリウム塩化物強塩温泉で、料金は平日800円、土日850円です。

今日は「くるまやラーメン 鷲宮店」で昼飯にすることにしました。で「味噌ラーメン」の大盛りを注文。ここの「味噌ラーメン」は、あくまで個人的な見解なのですが、うまいラーメンショップの豚骨醤油ラーメンが埼玉の豚骨醤油ラーメンの基本となっているように、埼玉の味噌ラーメンのメートル源基的なラーメンのような気がします。

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