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関宿から幸手駅(関宿関所跡・関宿城跡~山王山城跡~平将門首塚など)

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パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

快晴

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→日暮里→常磐線→北千住→東武スカイツリーライン→東武動物公園→朝日バス境車庫行→江戸町

復路:幸手→東武スカイツリーライン→中目黒→東急東横線→学芸大学座

この登山記録の行程

江戸町バス停6:52→関宿関所跡(野田)6:53→江戸町香取神社(関宿宿本陣跡)6:55→関宿大手門跡7:02→教倫館跡7:07→三ノ丸跡7:10→関宿城跡(本丸跡)7:15→関宿城博物館7:28→中の島公園7:45→関宿水閘門7:47→日吉神社・観音堂(五霞町山王)8:03→山王山城跡(東昌寺・山王権現)8:18→日吉神社(山王山)8:27→江川天満宮8:53→善照寺9:05→関宿関所跡(幸手市)9:11→保食神社・蓮華院9:28→臨川庵(銀杏地蔵)9:28→浅間神社(西関宿)9:33→東岳庵(芦葉氏館跡)9:45→惣新田香取神社10:00→宇和田公園・庄内古川改修記念碑10:16→上宇和田香取神社(富士塚)10:27→倉新田香取神社10:41→妙法寺10:45→木立八幡神社10:47→木立香取神社10:51→神明内香取神社11:03→平将門首塚(浄誓寺)11:11→本因坊第10世烈元の墓石11:32→天王神社11:44→極楽湯 幸手店12:10~13:30→來集軒13:42~13:56→幸手駅14:04

合計5時間38分(温泉、ラーメン除く)

コース

総距離
約19.3km
累積標高差
上り約30m
下り約32m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

1月28日(土)は、千葉県野田市の「関宿」から幸手で行き残していた「将門の首塚」まで歩いて来ました。「関宿」は利根川から江戸川が分岐する交通の要衝で、江戸幕府にとって非常に重要な場所だったため、「関宿関所」とそれを管理する「関宿藩」が置かれ、徳川家康の異父弟・松平康元を皮切りに信頼の厚い譜代大名が藩主に任じられてきました。ただ関所の管理に加え、度重なる洪水とその対策の工事で非常に出費が嵩む藩だったようで、江戸時代中期まで頻繁に藩主が変わっています。しかし無事に役目を勤めあげた後は皆大幅に領地を加増されています。
「将門の首塚」は東京の大手町の物が有名ですが、埼玉にもあるのを発見して、是非行ってみたかった場所です。

野田市北端にある「関宿」は電車が通っていないため、東武動物公園駅東口発境車庫行の朝日バスで「江戸町バス停」まで行きます。時間は約25分、料金は490円。この路線は鉄道の駅と野田市北部や茨城県境町をつなぐ主要路線のため1時間に2本ほど便が出ていて、意外と行きやすいです。

江戸町バス停で降りて少し戻ると、「江戸町香取神社」の入口に「関宿関所跡の碑(野田市側)」があります。この場所は江戸川を遡ってきた船が権現堂川(現中川上流放水路)へ入る分岐点にあたり、関所で通行人及び船荷改めが行われていました。寛永8年(1631)に関所の管理が関宿藩に委ねられ、幕末まで関宿藩士が在番していたそうです。ただこの辺りは川の流路が変更されているため、関所があった場所は江戸川に沈み、対岸の幸手市側にも「関宿関所跡」の碑があります。

関所跡の奥にある「江戸町香取神社」は、この辺りに多い香取神社の1つで、江戸川の河川工事によって、この地に移転してきたらしいのですが、神社のある場所は「関宿宿本陣跡」だそうです。日光に参拝に行く大名たちが宿泊した場所とのことで、本陣は会田家が勤めていたそうです。神社には富士塚もあります。

江戸川の堤防の下の道を北に進むと「関宿大手門跡」があります。手前に水堀があったようで、今も江戸町香取神社の裏に続く水路があります。関宿の大手門は幕末の戦費調達のために売却されて、今は栃木県下野市のとんかつ店に移築されているそうです。

大手門跡から少し堤防を離れて集落の中へ進むとある「教倫館跡」は久世広運が藩主の時の文政6年(1823)に設立された関藩の藩校の跡だそうです。「教倫館」の名前は、現在は論語を学ぶ市民団体の塾として存続しているらしいのですが、ここには畑しかありません。

教倫館跡の先の交差点の西側が「三ノ丸跡」です。畑が周囲より一段高くなっていて、奥は牛舎になっています。

「二ノ丸跡」は完全に江戸川の堤防に飲み込まれてしまったようで、標識も何もありません。しかし三の丸との間にあった水堀は、今も周囲より一段低い水田になっています。

二の丸跡から江戸川の堤防沿いを北へ進むと「関宿城跡(本丸跡)」があります。ここも半分堤防に飲み込まれていますが、水田より一段高くなった平坦地に石碑と説明板があります。

さらに堤防を北へ進むと「関宿城博物館」の建物として城が復元されています。ただここは御三階櫓以外、細かなディテールまでわからなかったので江戸城の富士見櫓を参考に造られた物だそうです。

「関宿城」は最初、長禄元年(1457)には「簗田氏」によって築かたといわれている城で、その後、天正2年(1574)以降は、後北条氏の支城となり、さらに秀吉の小田原征伐後には、徳川のものとなり、家康の実弟である松平康元が2万石の領地を与えられ関宿藩主として入封します。その後、小笠原氏、板倉氏、牧野氏など、江戸幕府の重鎮が短いスパンで交替しながら治め、宝永2年(1705)に久世重之が入城してようやく藩主が安定し、久世氏は明治維新まで藩主を務めました。

「関宿城博物館」の裏が利根川・江戸川分岐の堤防の北限で、上からは筑波山と富士山が良く見えます。

そしてしばらく河川敷きを進むと「中の島公園」に着きます。ここは名前の通り中州に作られた公園なのですが、意外なぐらい高さがあるので、江戸川の堤防の跡なのかもしれません。

「関宿水閘門」は明治43年の洪水を契機に改訂され利根川改修計画の一環として江戸川流頭部における流量・水位調節を目的に大正7年着工され、昭和2年に竣工された水門で、パナマ運河のように船の航行を可能にするために水位も調節していたようです。たた水運の衰退によって、昭和4年に撤去されたそうです。

水門を渡ると五霧町の広い水田地帯に出ます。山王生活改善センターの隣にある「日吉神社・観音堂(五霞町山王)」は、由緒は不明ですが、この先の山王山の日吉神社の分霊を祀ったものと思われます。「観音堂」は裏に墓地があるので廃寺の物のようです。

そのまま北西に進むと、山王山という立派な利根川の自然堤防に着きます。ここにある「東昌寺」は関宿城を築いた「簗田河内守平満助」の菩提寺として永享11年(1439)に建立された曹洞宗寺院です。大きな山門のある立派なお寺です。この寺には「山王山城跡」という城主も年代も不明な居館跡があります。常識的には、関城を築いた簗田氏の支城、もしくはその後の後北条氏の支城ではないかと考えられますが、逆に関城を攻めた側の城とも考えられ、小田原征伐時に徳川家康がここに関城攻めの本陣を置いたという話もあります。周囲に土塁と堀の跡が残っています。

東昌寺の前には「山王権現」があり、その南西側にも「日吉神社(山王山)」があります。この2つは明治の神仏分離令の時に分かれたものといわれ、東昌寺の山王権現は西向き、こちらの日吉神社は東向きと向い合うように建てられています。

しばらく南に進むと「江川天満宮」があります。ここは江川地区の鎮守として古くから信仰を集めている神社で、古墳のような大きな塚の上にあります。祭神は大福田天満宮と同じく菅原道真です。境内に神社の塚とは別に御嶽塚があります。もしかしたら前方後円墳だったのかもしれません。また裏にはかつて厳島神社か弁財天を祀っていたような天神池があります。

浄土宗の「善照寺」は、正式名を「誕生山 桜井院 善照寺」といい、寛政9年に火災に合い約2㎞西の「桜井」から移ってきたそうです。

善照寺の少し先にあるのが「関宿関所跡(幸手市側)」です。関所が江戸川の川底に沈んでしまったため、川のこちらにも石碑が建てられています。関宿関所は江戸川の流量調節のため、両岸から川にせり出すように設置された「棒出し」の上で舟の環視を行っていたそうなので、両岸に石碑があるのは当然なのかもしれません。

関所の石碑の道を隔てた向かい側には、「保食神社」と「蓮華院」がほぼ同じ敷地の中にあります。「保食神社」は関宿表河岸の大問屋4軒の1つに数えられた「染谷徳左衛門」の屋敷神だった神社で、元はたぶん稲荷神社だったのではないかと推測されます。

「蓮華院」は真言宗の寺院で、ここの本尊の不動明王は、寺伝によると、空海が唐より帰国する際、嵐にあって、紙に秘文を書いて幡とすると嵐がおさまったため、その紙で頭を作り、経文を書いた紙で胴体を作ったものであるといわれています。昔は川の流れを鎮める祈祷所だったのではないでしょうか。

「臨川庵」は先ほどの東昌寺の隠居寺として建てられた曹洞宗寺院で、今は無住ですが、「銀杏地蔵」という樹齢500年といわれる大銀杏の穴に刻まれたちょっとエロいお地蔵様があります。別名子育地蔵と呼ばれ、子宝に恵まれない人、こどもの健康を願う人の信仰を集めていたそうです。

臨川庵の向かい側の「浅間神社(西関宿)」は、大きな富士塚の上に乗っています。この辺、遠いわりに富士山が良く見えるで、富士構も盛んだったのでしょうが、この神社はすぐ近所に船関所や西関宿向河岸があったため、航行の安全祈願の祭や祈祷も行っていたようです。

中川の余分な水を江戸川に放出する中川上流放水路の水門を横目で見ながら進むと、「東岳庵」という墓地の片隅にポツンと残された無住の寺があります。ここは「芦葉家墓所」がある関係で「芦葉氏館跡」ではないかといわれています。「芦葉氏」は、天神島城主の一色直高が天文23年(1554)に北条氏康の足利晴氏への攻撃で一色城と共に落城すると、直高は芦原へ潜んで生き延び、以後「芦葉姓」を名乗ったのが初まりとされています。江戸時代に芦葉家は中島村の名主を代々務めていたそうですが、明治時代に「東京神田今川小路」へ転居して、その後の足跡は不明ということです。「芦葉家墓所」も墓地が整理されてしまったため行方不明です。

「惣新田香取神社」の「惣新田」とは全てが新田という意味だそうで、元和4年(1618)頃に関宿藩によって開発された場所だそうです。地区内にあった香取神社2社と稲荷神社が合祀されているそうです。

中川上流放水路と中川本流が分かれる横にある「宇和田公園」は「権現堂川」の堤防を整備した公園だそうです。この前の幸手の堤防の延長がここにも残っていたということです。園内にある「庄内古川改修記念碑」は、現在の中川の流路である権現堂川と庄内古川を結ぶ連絡水路の完成を記念して昭和3年(1928)に建てられたものだそうです。この水路はかつては吉田村新水路とも呼ばれていたそうです。

「上宇和田香取神社」の境内にある「上宇和田浅間神社」は富士塚の上にある神社です。洪水で流された浅間神社が香取神社の境内に移転してきたもののようです。

この辺りは香取神社がやたらに多いのですが、倉新田集会所の隣に鎮座する「倉新田香取神社」は、石燈籠に「安政六未年(1859)三月吉日 山中太右エ門」と刻まれていることから、少なくともそれ以前に建てられたものといわれています。

日蓮宗の由緒不明の「妙法寺」の前を抜けると、続いて「木立八幡神社」があります。ここには将門の生地の八幡宮を祀ったとう伝承と、逆に将門の乱の時、藤原秀郷がこの地に布陣した場所という伝承があります。ただそれ以外にも永承6年~康平5年(1051~62)の「前九年の役」の時に勧請されたという伝承や、平将門が新皇に即位する際に、巫女に菅原道真の霊が憑き、八幡大菩薩から「新皇」の位を賜ったという伝承もあります。地名の「木立」にも、平将門が滅亡後に子孫が隠れ住んだいた場所として「公達村(きんだちむら)」と呼ばれていたことが由来だという伝承があります。

「木立香取神社」は、木立共興集会所の隣にあります。石碑は左から嘉永五壬子(1852)四月の文字が残る雷電宮の石碑と、天明八戊申(1778)二月の文字が残る稲荷大明神の石碑があるので、その頃に創建されたものだといわれています。

「香取神社(神明内)」は、神明内集落センターのそばに鎮座する香取神社です。この辺りに小さな香取神社が大量にあるのは、稲荷神社のように手軽な屋敷神として祀られていたせいではないでしょうか。

そしてようやく浄土真宗東本願寺派の単立寺院である「浄誓寺」にある「平将門首塚」にたどり着きました。将門の首塚は東京の大手町にある物が有名ですが、埼玉県の東の外れであるここにあるものは、江戸川と利根川を挟んた向かい側に、将門が討ち死にした場所といわれる「国王神社(板東市)」や「平将門公胴塚(延命院、坂東市)」があるので、東京のものより信憑性が高い気がしないでもないです。

浄誓寺の奥の土が盛られた塚の上に古びた五輪塔が祀られています。元禄16年(1703)に発行された『結城使行』に記載されていることから江戸時代前期には既に知られていたものとされています。

この首塚には、将門が最後の一戦に臨んだ場所が幸手で、ここで敗れて討ち死にしたのだという伝承や、首をこの地に運んできたのは将門の愛馬であったという伝承が伝わっています。また「浄誓寺」の院号の「平親院」は将門公に由来するといわれています。寺の近くに将門の血で染められた木があったため「赤木」と付けられたという地名も残っているそうです。

「浄誓寺」ついて追加しておくと、ここも一筋縄ではいかない寺で、開基である「久念(広川民部通光)」は、石山本願寺法主であった顕如の檄に応じて石山合戦に参戦し織田信長に激しく抵抗した「雑賀衆」の頭領「雑賀(鈴木)孫市」妹を妻としていることから、雑賀衆の幹部が終戦後に関東に下って出家したのではないかといわれています。平将門と雑賀衆が繋がってくるというのは歴史のロマン以外の何物でもないのですが、将門の力を借りて新たな一揆でも準備していたのかもしれません。

「本因坊第10世烈元の墓石」は、自称平将門の子孫で相馬姓を名乗っていた越生町の山本坊のような修験道関係の墓かと思っていたのですが、江戸時代の囲碁の家元の墓でした。本因坊家は囲碁の四つの家元の中で最も由緒があり格式の高かった家で、江戸幕府の庇護を受け、囲碁文化の継承に努めてきたそうです。本因坊家代々の墓は東京の巣鴨の本妙寺にあるため、幸手の墓は分骨か供養のために建立されたものといわれています。本因坊家第8世の伯元、第9世の察元も出身地が幸手なので、別の場所に墓があります。

「天王神社」は、田んぼの真ん中にある由緒不明の神社ですが、たぶん八坂神社とか八雲神社と同じ天王様の神社だったのでしょう。裏に7.4mの三角点があります。

今日も終点は幸手駅なので、また「極楽湯 幸手店」で温まって行きます。料金は平日740円、土日祝日840円。泉質は pH6.9、泉温34.5℃のやや黄色味がかったナトリウム-塩化物強塩温泉です。

幸手はラーメン店が多いので、今日は「自家製麺の来集軒 幸手店」という国道4号沿いの店に入ってみました。幸手店となっていますが、他に店舗がない昭和44年に創業の昔から幸手で頑張っている地元の店のようです。埼玉県産の小麦を使った自家製麺がこだわりのようで、若干佐野ラーメンっぽいのですが、12時間かけて煮込んだという鶏ガラスープは、佐野ラーメンのような塩味はなく、昔ながらの支那そばのような味わいです。ただそのわりには意外と旨みが強いので、貝とか昆布とか椎茸とか何かを使って旨みを増しているのだと思います。女性とか無化調系が好きな人向けの店です。

そして14時ちょっとに「幸手駅」に到着。今日も中目黒まで直通列車で帰ります。

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