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野田市から南桜井駅(キッコーマン史跡群~堤台城跡~金野井城跡)

キッコーマン野田工場、櫻木神社、中根八幡前遺跡、茂木邸、金寶殿本社、野田の醤油発祥地碑、キノエネ醤油工場、野田商誘銀行、野田須賀神社、下河岸桝田家邸宅、報恩寺、上河岸戸邉五右門家邸宅、堤台八幡神社、堤台城跡、野田貝塚、金乗院、清水公園、金野井城跡、愛宕古墳( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇り時々晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→日暮里→常磐線→柏→東武アーバンパークライン→野田市

復路:南桜井→東武アーバンパークライン→春日部→春日部温泉湯楽の里→ぎょうざの満州春日部東口店→春日部→東武スカイツリーライン→草加→〃中目黒行→中目黒→東急東横線→学芸大学

この登山記録の行程

野田市駅5:56→キッコーマンもの知りしょうゆ館/キッコーマン御用蔵6:04→櫻木神社6:20→中根八幡前遺跡6:31→茂木本家美術館MOMOA6:50→野田町駅跡6:52→茂木七左衛門邸6:54→キッコーマン第一給水所跡/茂木七郎治邸6:56→厳島神社弁財天の湧水6:59→野田市郷土博物館(茂木佐平治邸)7:05→金寶殿本社7:07→茂木七郎右衛門邸7:13→キッコーマン醤油本蔵井戸跡?7:14→野田の醤油発祥地碑7:17→キノエネ醤油社屋及び工場群7:20→野田商誘銀行7:28→キッコーマン株式会社 本社7:30→野田須賀神社7:32→井戸神祠7:37→東正寺7:39→上花輪貝塚(現キッコーマン労働組合)7:41→上花輪香取神社7:46→上花輪歴史館(髙梨兵左衛門家)・上花輪高札場跡7:53→上花輪観音堂7:54→下河岸桝田家邸宅8:00→報恩寺8:12→上河岸戸邉五右門家邸宅8:20→野田 堤台 子育延命地蔵尊8:37→堤台八幡神社(堤台城跡)8:46→野田貝塚9:11→金乗院・清水公園9:15→座生川9:29→八幡宮(岩名1113-2)9:37→真光寺・岩名香取神社9:39→妙見大菩薩9:47→一ノ坪遺跡9:54→五木香取神社10:07→神明大神社(春日町1-2)10:21→川間駅駅10:27→尾崎天満宮10:43→尾崎浅間神社10:51→尾崎香取神社10:57→西福寺・金野井城跡11:05→金野井大橋11:24→愛宕古墳11:37→南桜井駅11:56

合計6時間

コース

総距離
約24.0km
累積標高差
上り約98m
下り約103m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

6月24日(土)は、先週あまりに見所が多すぎて行くのを諦めた「野田市駅」から江戸川の千葉県側を北上して「南桜井駅」まで歩いて来ました!野田市駅周辺は江戸時代から続く醤油造りの街で、都心に通勤しなくても生活できるため、郊外ではなく地方都市の風格があります。ただ残念なのは工場の海外移転が進んだせいか、意外と廃工場が多く、街が活気に溢れているとは言いがたいことです。で、活気を取り戻すために工場の跡地にイオンか何か建てるつもりなのでしょうが、なんとか生き延びてきた地元商店街が潰れてより悲惨なことになりそうなので、よく考えて再開発を進めて欲しいものです。

東武アーバンパークラインの「野田市駅」を出ると、目の前に「キッコーマン」のマークが燦然と輝きます。「キッコーマン(株)」は、大正6年(1917)に野田の醤油醸造家一族が合同で設立した「野田醤油株式会社」が元となっている会社で、当初は商標が200以上あったそうですが、昭和15年(1940)までに「キッコーマン」に統一されました。その後順調に業績を伸ばし、醤油の国内シェアは28.6%(2018年)と2位のヤマサ醤油(11.7%)を大きく引き離しています。また最近では海外進出も著しく、グループ全体の売り上げの約6割が海外だそうです。

キッコーマンの工場の一角にあるのが「キッコーマンもの知りしょうゆ館」と「キッコーマン 御用蔵」です。「キッコーマンもの知りしょうゆ館」は醤油の製造工程情報や醤油の歴史などの博物館で工場見学できるそうです。「キッコーマン 御用蔵」は正式名称を「御用醤油醸造所」といい、宮内庁に納品する醤油の専用醸造所です。昭和14年(1939)にもう少し西の中野台に建築されましたが、老朽化のためこの場所に移転してきたそうです。

野田市駅を離れて南にしばらく進むと「櫻木神社」という立派な神社があります。野田市最古の社といわれていて、平安朝の仁寿元年(851)に、大化の改新で活躍した藤原鎌足公五代の後胤で冬嗣公三男の「嗣良公」が野田に移り住んだ時、桜の美しい大木があり、その下に倉稲魂命を祀ったのが始まりとされています。その後、武甕槌命の神も祀られています。ただ明治時代の旧社格は村社ということなので、かつては普通の稲荷だったものが醤油産業の発展と共に大きな神社になったのかもしれません。しかし発掘調査により神社周辺から旧石器時代~縄文時代の土器・石器、古墳時代の住居跡などが発掘されているため、古くからの聖地であった可能性も否めません。名前の通り桜の名所でもあり、3月中に満開を迎え大鳥居脇のシダレザクラや正門の手前にあるミヤビザクラ、それに春と秋に咲く七五三桜などが有名だそうです。

櫻木神社の少し先の住宅地にある「中根八幡前遺跡」は先ほどの古墳時代(4世紀頃)の住居跡1棟(竪穴住居)が発見された場所です。

駅の方に戻ると「茂木本家美術館 MOMOA」というキッコーマンの創業家のひとつである茂木本家が2006年に開館した美術館があります。ここは茂木本家が「くしがた」という独自のブランドでしょうゆを醸造していた工場の跡地で、創立者である十二代当主茂木七左衞門(1907-2012)が若い頃から蒐集してきた美術品約4300点が収蔵されており、中には葛飾北斎や歌川広重などの浮世絵のほか、横山大観、梅原龍三郎、小倉遊亀、片岡球子、大山忠作、中島千波の絵画などが含まれているそうです。ただ閲覧は予約制とのことです。

その北側にあるのが「茂木本家私邸(茂木七左衛門邸)」です。しかし私邸のため柿渋が塗られた黒い板塀と赤い煉瓦塀の奥に建物の屋根が見えるだけです。

美術館の東側の工場の奥に見えるのが「野田町駅跡」です。工場の敷地内なので中には入れませんが、明治44年(1911)5月、千葉県営軽便鉄道の野田~柏間が開通した時の「野田町駅」があった場所だそうです。野田は水運が発展していたため、なかなか鉄道が敷設されず、県が野田醤油醸造組合に20万円の出資を要請し、これに応じたことが敷設のきっかけになったそうです。昭和4年(1929)に駅は現在の場所へ移ったものの、貨物業務は昭和61年(1986)まで行われていたそうです。また駅舎は昭和5年(1930)に川間駅に移築され、昭和46年(1971)まで現役で使われていたそうです。

道を東側に曲がると右手にあるのが「キッコーマン第一給水所跡」です。この第一給水所は、大正12年(1923)年3月に野田醤油(株)の原料水の統一を目的として建設されたもので、野田町民へも給水していたそうです。昭和50年(1975)年3月まで使われており、2010年まで建物が残っていたそうです。ただコンクリートの水のタンクがあったので、井戸は未だ健在なのかもしれません。

第一給水所跡の反対側にあるのが「茂木七郎治邸」です。元農家っぽいたたずまいのお屋敷ですが、主屋のほか旧仕込倉や門番棟からなり、金融業の帳場もあったそうです。長屋門は茂木七郎治家が幕末期に茂木七郎右衛門家より分家した頃に建てられたものだそうです。今も人が住んでいるので内部見学は不可。

その先ににある「厳島神社弁財天社」には湧水の池ががあります。ここに地下水脈があるから第一給水場が建てられたということだと思います。今は池が濁っています。

ぐるりと大回りして北西に進むと「野田市郷土博物館」があります。建物は日本武道館や京都タワーを手がけた建築家の山田守が設計したものだそうですが、中に「茂木佐平治邸」から野田市に寄贈された十一代茂木七左衞門の時代の大正15年の邸宅と庭園があり、門も屋敷の門なので誰かのお屋敷に見えます。展示は醤油の歴史に関する事が中心で、別名「キッコーマン博物館」と呼ばれているそうです

茂木佐公園の奥にある「金寶殿本社」は、茂木佐平治家が屋敷内に祀っていた稲荷神と龍神の神社です。とはいってもお金持ちの家の神社のため一般的な農家の屋敷神とは違い、立川流宮大工佐藤里次則壮の総欅造り大唐破風の社寺建築には十六羅漢や花鳥魚類や十二支と見事な彫刻や餝金物が約150点施された絢爛豪華な造りになっています。手水舎も豪華な大唐破風造りです。

戻って西へ向かうと「茂木七郎右衛門邸」があります。江戸時代から醤油醸造を営み、明治時代から大正時代にかけて醤油醸造業の発展に大きな役割を果たした茂木七郎右衛門家の邸宅とのことですがここも中に入れません。

広い道を右に曲がって北に進むとgoogle mapの千葉銀行野田支店の辺りに「キッコーマン醤油本蔵井戸跡」の印がついているのですが、調べてもわかりませんでした。第一給水場以前の井戸の跡だったのでしょうか?

その少し先の小さい神社の脇にあるのが先週発見できなかった「野田の醤油発祥地碑」です。愛宕神社前の交差点よりかなり南にありました。野田で醤油作りが始まったのは永禄年間(1558~70)に「飯田市郎兵衛の先祖」が甲斐武田氏に溜(豆油)醤油を納め、川中島御用溜醤油と称していたのがはじまりといわれており、ここは旧飯田家の工場跡(亀屋蔵)だそうです。昭和46年に野田市の『史跡』に指定されています。ただこの醤油は今の野田の醤油産業とは繋がっておらず、商品化された醤油のルーツは、寛文元年(1661)に「髙梨兵左衛門」が醤油醸造を開始したのが最初と考えられています。野田は潤沢な水に加え、良質な大豆と小麦、それに江戸湾の塩など、原料確保に最適の土地で、江戸川の水運にも恵まれていたため、江戸への醤油供給地として大きく発展したのだそうです。

野田醤油発祥の地から西側の狭い道に入るとあるのが「キノエネ醤油社屋及び工場群」です。野田の醤油産業は全てキッコーマン醤油に合併されたわけでもなく、キノエネ醤油は独自路線を貫いた醤油メーカーの代表格で白醤油が有名だそうです。天保元年(1830)に十代山下平兵衛が創立したそうです。キノエネ醤油は映画監督の小津安二郎の妹の嫁ぎ先で、小津監督の母親が戦時中に疎開し、戦地から引き揚げてきた安二郎も戦後すぐ6年程住んだ場所として知られています。

南に戻ると「野田商誘銀行」というダジャレのような名前の銀行の跡地があります。これは野田醤油醸造組合の発起で明治33年(1900)に銀行が設立された際に、醤油の語呂にちなんで「商誘」と名付けられたもので、現在は清水公園の管理などを行う(株)千秋社が入っています。

そして「キッコーマン(株)本社(野田本社ビル)」です。今風の建物なのですが、ここは1999年竣工された「環境共存型オフィス(サスティナブル・オフィス)」で、自然との調和や環境負荷低減を目指して、さまざまな先進的工夫が盛り込まれているそうです。2001年には日経ニューオフィス賞のニューオフィス推進賞と千葉県建築文化賞を、2002年には第9回環境・省エネルギー建築賞(審査委員会奨励賞)を、2003年には第4回JIA環境建築賞・優秀賞を、2011年には空気調和・衛生工学会特別賞「十年賞」を受賞しています。

ここでようやくキッコーマから離れます。「野田須賀神社」は延享2年(1745)年に創建された神社で、神社としては非常に珍しい土蔵造の社殿があります。これは明治時代に建てられた物が東日本大震災で倒壊し、建て直された物だそうです。神社の裏にある文政6年(1823)作の猿田彦像が野田市の有形文化財になっています。その横には浅間大神の富士塚もあります。また「つく舞」が千葉県の無形民俗文化財に指定されています。

須賀神社のある交差点の先にある「井戸神祠」はつるべ井戸につけられた石祠です。

「東正寺」は別名「野田聖天」と呼ばれる寺院で、元は出羽国の羽黒山修験の大僧都慶海上人がこの地で布教を始めた際に建てた天台宗羽黒派の「湯王山 信光院 東照寺」という寺でしたが、寛永年間に「東正寺」に改名し、明治維新後にさらに延暦寺派に改宗しています。

東正寺の先にある「上花輪貝塚」は詳しい年代がわからないのですが、今は「キッコーマン労働組合」になっています。かつては草地に貝殻が散らばっていたそうです。「キッコーマン労働組合」は戦前からある由緒ある労働組合で、現在はSDGsな組合として「ダイバーシティ&インクルージョン(=多様性を認め合いながら、あらゆる個性が活かされる状態を目指すこと)」の実践に取り組んでいるそうです。

「上花輪香取神社」は、柵で囲まれた意外と立派な香取神社です。境内社として大杉神社と金毘羅神社があり、奥に富士塚もあります。江戸川の舟運が主役だった時代は、この前を野田の工場からから上花輪を通り江戸川の下河岸(今上河岸)至る通称「醤油の道」が通っており、出来立ての醤油を載せた馬車やトロッコが頻繁に行き交っていたそうです。大杉神社と金毘羅神社も水運の安全を願って祀られたのだと思います。

江戸川に向かって歩いて行くと「上花輪歴史館」があります。ここは上花輪村の名主であり、醤油醸造を家業としていた「髙梨兵左衛門家」をそのまま使っている博物館で、髙梨兵左衛門家に残る生活用具、醸造道具、古文書、年中行事などを保存公開しています。庭園は国の名勝「髙梨氏庭園」に指定されています。要予約。

「髙梨兵左衛門家」の前には高札場もあったようです。江戸川の河岸に醤油を運ぶので人の往来が多かったのかもしれません。

「上花輪観音堂」は歴史館の南側にある十一面観音像を奉るお堂で、観音像は毎年8月の盂蘭盆会の際に開帳されているそうです。かつて水運が盛んだったころは荷物を運ぶ馬の馬主たちの信仰が篤かったそうです。

江戸川にぶつかったところにある「下河岸桝田家邸宅」は、下河岸(今上河岸)で江戸時代より河岸問屋を営んできた桝田仁左衛門家の住宅です。明治4年(1871)建築の主屋は住居に加えて帳場・船宿の機能を持っていたそうえす。かつては河川側に洪水から守るための煉瓦作りの遮水壁が設けられていたそうです。国登録有形文化財。内部見学不可。

別名を「野田厄除大師」という「報恩寺」は真言宗豊山派寺院で大師山と号します。この寺はかつては「堤台城」の場所にあり、その後この地に移ってきたという伝承をもっています。『稿本千葉県誌』にも、「堤臺城址=野田町大字堤臺字寺山(東寺山?)にあり、報恩寺の地即ち是なり」という記述があります。ただ別の伝承には、応永2年(1395)宥譽上人の開創とあります。いずれにせよ堤台城跡にある「堤台八幡神社」の別当を務めていたようで、江戸時代には末寺24寺を有する本寺として、徳川幕府より御朱印状5石を拝領していました。御朱印状5通は千葉県文書館に所蔵されています。

先週の野田橋の稲荷大明神の道の向かい側にある「上河岸戸邉五右門家邸宅」は、上河岸(中野台河岸)で江戸時代より河岸問屋を営んできた「戸邉五右衞門家」の住宅だそうです。昭和24年(1949)の江戸川改修に伴いこの場所に移転してきたそうです。こちらも国登録有形文化財ですが、また内部見学不可。

「野田 堤台 子育延命地蔵尊」は、昔から安産、子供の健やかな成長の信仰を集めていたお地蔵様で、江戸時代に小林愛山という人が奉納した子供の間引きを戒める絵馬が野田市の有形民俗文化財に指定されているそうです。

「堤台八幡神社」は小さな神社なのですが、神社の北側一帯が初代岸和田藩(大阪府岸和田市)岡部家初代当主「岡部美濃守長盛(1568-1632)」が天正19年(1591)に築いた「堤台城」の跡といわれています。長盛は慶長14年(1609)に丹波国亀山(京都府亀岡市)に移りますが、19年間をこの地で過ごしたそうです。長盛ではなく息子の宣勝であったという説もあります。いずれにせよ岡部父子は徳川家の信頼が厚く、「堤台八幡神社」も家光から社領御朱印5石が寄進されています。戦前の旧社格は村社でした。土塁や堀のような物は残っていませんが、北側へ少し行った場所が河岸段丘になっています。

清水公園の東側にある「野田貝塚」はこの辺りの貝塚には珍しくきちんとした説明板があります。それによると縄文時代後期約3,800年前から3,000年前の堀之内式、加曽利B式、安行Ⅰ・II式等の土器が出土し、土製耳飾り、土偶等の土製品や石斧、石鏃、石棒等の石器類も多数出土しているそうです。また、貝層は汽水に棲息するヤマトシジミがほとんど主体となる貝層とオキシジミ・ナミマガシワなどの内湾に棲息する貝が主体となっているそうです。

清水公園内にある「金乗院」は清水公園全体を境内としていた真言宗豊山派の大きな寺院で、応永5年(1398)に宥秀によって開山されたそうです。元は真言宗醍醐派の寺院だったそうですが、明治時代初期に真言宗豊山派となっています。本尊の薬師如来像は秘仏となっており、市内に唯一現存する算額(野田市指定文化財)や徳川家の御朱印状(非公開)が奉納されています。

「清水公園」は、明治27年(1984)に茂木柏衛翁が建設した庭園を町の人々に開放したのが始まりだそうです。桜やツツジの名所で、フィールドアスレチック場になった池があります。

清水公園の横を流れる「座生川」は愛宕駅東脇を水源とする短い川なのですが、意外と水量があります。

「八幡宮(岩名1113-2)」は由緒不明ながら神社にはなっているのだろうと思ったら、稲荷の横に石碑だけありました。

「真光寺」は香取山と号する真言宗豊山派の寺院です。おそらく隣の香取神社の別当寺だったのだと思います。

「岩名香取大神社」元和年間(1615~1624)創建と伝わる神社で、天明4年(1614)6月に正一位となっています。真光寺所有でしたが、昭和12年(1937)に神仏分離令により独立しています。裏に富士塚があります。

「妙見大菩薩」も農家の家の角の稲荷の横にある石碑だけでした。

「一ノ坪遺跡」は、座生川周辺で発見された縄文時代後期(A.D.1~3頃)の幾つかの古墳の1つで、一ノ坪遺跡からは縄文土器や縦穴住居が見つかっているそうですが、紫陽花が植わっている畑しかありませんでした。見つかった土器から北関東の栃木・茨城、そして東北南部との交流の跡が見て取れるそうです。

五木地区の鎮守の「五木香取神社」は、由緒不明ですが、社殿を昭和33年11月に竣工するも、昭和37年4月に古松の倒覆によって損壊し、その後紆余曲折あった後、昭和53年4月、現在地に鮮やかな朱と白のコントラストの社殿が造営されたそうです。

「神明大神社(春日町1-2)」は思いの外きれいなで新しい神社でした。創立は延宝4年(1676)2月22日で、社殿は、享保15年(1730)、検地の際に村内安全を祈願して、代官の小宮山氏・名主の後藤氏により、社地が提供されたため社が建てられたそうです。かつては五木村の慶徳院が別当を務めていました。

「川間駅駅」に着きました。駅名の由来は江戸川と利根川の2つの大河にはさまれた場所にあるからだそうです。

「尾崎天満宮」は。畑地の中にポツンと鎮座している神社です。

「尾崎浅間神社」は香取神社入口手前の交差点門にある富士塚です。

「尾崎香取神社」は野田市中里工業団地の傍にある神社です。本殿の裏手に御嶽大神の石碑があります。

「西福寺」は真言宗豊山派の寺院です。この辺りは字『堀の内』と呼ばれ、「金野井城跡」の物と思われる土塁が寺の北から東にかけて残っています。金野井は前も出てきた通り江戸川の流路変更で千葉と埼玉に分かれた集落です。「金野井城跡」は尾崎・金野井などを支配していた豪族の館跡だと考えられてきました。「野本将監家定」が築城したという伝承もあります。昭和55年(1980)と60年(1985)に発掘調査が行われ、少なくとも三つの郭を持つ、規模の大きい城跡であることが分かったそうです。西隣の浄水場の南側に「金野井城趾碑」が建てられています。

「金野井大橋」で江戸川を渡って千葉県から埼玉県に入ります。ここも人気の心霊スポットで夜中に通ると新聞にも出た下着姿か全裸の女性の幽霊に出るそうです。

「愛宕古墳」は畑のすみにある笹に覆われた径12.4mの円墳で、墳頂に小さな祠が祀られています。時代はよくわかりません。

「南桜井駅」に着きました。ここには温泉は無いので、「春日部駅」に移動していつもの「春日部温泉 湯楽の里」に行きます。

「春日部温泉 湯楽の里」は、料金平日890円、土休日特定日990円。泉質はph7.3、湧出温度43℃のやや緑がかった茶褐色のナトリウム-塩化物強塩泉です。

今日の昼飯は、暑くて西口に行くのが面倒なので、「ぎょうざの満州 春日部東口店」で「焼きそばと餃子のセット」を食べました。昔食べた時、やたらに味が濃かったのですが、今日は味の濃さをあまり感じませんでした。埼玉の西部と東部では若干味付けが異なるのかもしれません。

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