備前堀川起点から久喜(青毛堀川起点~ラーメンショップ 122号騎西店~備前堀川起点など)
青毛堀川起点、新川用水、八ヶ村落、騎西城跡、観音寺、大英寺、鷹橋、備前堀川起点、備前堀治水記念碑、愛宕山神社、古笊田堰、観音院、北中曽根諏訪神社、備前前堀川起点、清久大池、庄兵衛堀川起点、所久喜八幡神社、昭和沼、姫宮落川起点、下早見鷲宮神社、江面久伊豆神社( 関東)
パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )
曇り時々晴れ
電車
その他:
往路:目黒→山手線→池袋→埼京線→赤羽→宇都宮線→久喜→東武伊勢崎線→加須
復路:久喜→湘南新宿ライン→恵比寿→山手線→目黒
加須駅6:26→青毛堀川起点6:48→新川用水7:07→八ヶ村落7:21→騎西城二ノ丸跡7:24→土塁跡(標高15.5m三角点)7:26→騎西城跡7:28→観音寺7:32→大英寺7:45→ラーメンショップ122号騎西店7:58~8:18→鷹橋8:29→備前堀川起点(天神橋)8:52→天満宮(鴻茎)8:53→川妻橋(八ヶ村落合流点)(備前堀治水記念碑)9:11→愛宕山神社9:20→笊田橋9:31→古笊田堰9:35→北中曽根諏訪神社9:44→観音院9:46→北中曽根久伊豆神社9:51→備前前堀川起点(五ヶ村落橋)10:00→清久大池10:12→清久西池10:16→庄兵衛堀川起点(唐杉橋)10:29→所久喜八幡神社11:02→昭和沼(河原井沼)11:15→姫宮落川起点(逆門橋)11:41→下早見鷲宮神社(流れの鎮守様)11:43→江面久伊豆神社11:57→天然温泉 森のせせらぎ12:10~13:30→久喜駅14:06
合計6時間(ラーメン、温泉除く)
10月21日(土)は、この前大落古利根川に合流したしていた青毛堀川、備前堀川、備前前堀川などの管理起点を確認に行ってきました。これらの川の起点は、[1]加須市騎西町周辺と、[2]昭和沼(河原井沼)周辺に集中していて、理由は騎西町南西側には農業用水の水源となる見沼代用水が南北に流れていて、青毛堀川も備前堀川も使い終った農業排水を集めた川なので見沼代用水手前にある騎西町周辺の水田地帯を起点にせざるを得ないということと、昭和沼の周辺にはかつて河原井沼という巨大な沼があり、ここは農業排水を一旦集めて再配分するハブのような役目をしていたため、その名残で今もここを境に川の名前が変わっており、管理起点が集中しているということです。
今日のスタートは東武伊勢崎線の「加須駅」です。東武スカイツリーラインは東武動物公園駅までで、そこから先は従来の伊勢崎線と日光線になるみたいです。伊勢崎線=スカツリーラインだとずっと思ってた…。
まず最初に大落古利根川の源流の1つの「青毛堀川」の管理起点に向かいます。青毛堀川は鷲宮神社の脇をかすめた後、西進して「北青毛堀川」と「南青毛堀川」に分岐するのですが、その分岐に「一級河川青毛堀川起点」の碑が設置されています。北青毛堀川も南青毛堀川もこの辺りの水田の排水を集めた川で、細かな水路が多数流れ込んでいます。
南青毛堀川の南側の高柳地区の自然堤防の尾根を流れているのが「新川用水」です。この川は排水路ではなく水を供給する用水路で、上流部は騎西領用水とも呼ばれています。加須市外田ヶ谷の見沼代用水より分水し、久喜市と宮代町との境界付近で備前前堀川に合流します。
正面に騎西城の天守閣を見ながら進むと「八ヶ村落」という排水路があります。騎西地域で「備前堀八ヶ村落」と呼ばれているようです。八ヶ村とは根小屋村・日出安村・正能村・外川村・騎西町・牛重村・常泉村・油井ヶ嶋村を指し、これらの村々によって管理されていたことが名前の由来です。川妻橋で備前堀川と合流します。
水田地帯を越えると「騎西城跡」のある旧騎西町(加須市)の市街地に入ります。この辺りは前に来たときに回っているので騎西城跡と行ってない寺2つだけ寄っていきます。騎西城跡で最初にあるのが「二ノ丸跡」です。騎西文化・学習センター(図書館)の駐車場に標柱があります。
図書館の道を隔てた向かい側には「土塁跡」があり、上には標高15.5mの三角点があります。
そしてもう一度図書館側に渡ると天守閣がそびえる「騎西城跡」があります。しかしこれは観光用に造られた物で実際の騎西城は、土塁や塀を廻らした平屋の館だったそうです。中は郷土史料展示室となっており、騎西地域の発掘調査で発見された出土品や様々な歴史史料が展示されています。「騎西城」が最初に作られた時代や築城者は不明ですが、騎西(きさい)は最初は私市(きさい)と書かれていたため、私市党の本拠地だったという説と、1455年に足利成氏が上杉方が守るこの城を攻略したという記録から、この時期に築城されたのではないかとする説があります。この上杉方の城は太田道灌が築城もしくは改修したともいわれています。その後戦国時代に入ると「小田顕家」(※常陸の小田氏と同族であるという説と同族でないという説がある)が騎西城主となります。小田氏は忍城主成田親泰の子の「助三郎朝興」を養子とし、成田氏とともに上杉謙信側について後北条氏と戦いますが、しかしその後は成田長泰・小田朝興は共に離反し後北条方につきます。しかし上杉謙信が松山城を攻め落とした報を聞くとまた上杉方に寝返るなど、二転三転しています。天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めでは、一戦を交えず降伏したといわれ、その後、関ヶ原の合戦後の1601年に徳川家康が「松平康重」を2万石で城主として配置し、次いで大久保忠常・ 忠職が城主となります。しかし忠職が美濃(岐阜県)の加納城に転封となって、騎西城は寛永9年(1632)に廃城になったそうです。
城跡の南側にある福聚山と号する曹洞宗寺院の「観音寺」は、江戸初期以前に真言宗寺院として開創され、その後徹叟和尚(慶安3年(1650)寂)が曹洞宗寺院に改め中興しています。境内観音堂の如意輪観音は、騎西城主奥方の守護仏といわれ、馬の守護に霊験あらたかだとされ、2月27日の祭礼は馬の無事を祈願する者で賑わったそうです。江戸時代、新西国(忍領)三十三番札所の16番として多くの信仰を集め、
「たのもしや 大慈大悲の観音寺 誓いの網に 誰か漏れなん」
という歌が詠まれています。
次の「大英寺」は備前堀川の源流である「大英寺堀」の名前の由来になった浄土宗寺院で、崇亀山松応院と号します。徳川家康の関東入国後、騎西城主となった「松平周防守康重」が天正18年(1590)に亡父の菩提を弔うため寺領30石を寄進し、團蓮社満譽玄道が開山となって創建されました。最初は大秀寺と号していたものの、二代将軍徳川秀忠と秀の字が通じることから英に改めたそうです。その後、寺領30石が幕府からの御朱印状に書き換えられています。明治20年には騎西高等小学校がが設置され、昭和7年には騎西町で最初の私立保育園である騎西保育園も開設されています。
このすぐ先に、埼玉県のうまいラーメンショップ中一番人気の「ラーメンショップ122号騎西店」があり、朝6時からやっていて、そうそう来られる場所でもないので寄って行きます。着いたのが8時ちょうどだったのですが、既に数人順番待ちの行列が出来ていました。とりあえずラーショ定番の「ネギラーメン(醤油)」900円を注文。ここは、昔行った幸手市の人気No.2の店とは違い「椿」という直営店で、味もラーショそのものなんですが、あえて違いを見いだすならば、スープが豚骨醤油っぽく白濁しておらず、その分他の素材で出汁をとったという感じの背脂ラーメンでした。若干あっさりしているので、朝から食べても大丈夫そうなのですが、それでもやっぱりラーショの範囲内なので、断トツNo.1の理由はわからずじまい。
備前堀川に戻ります。管理起点の手前にある「鷹橋」には徳川家康の鷹狩のエピソードがあります。家康がここで鷹狩をした時、鷹狩の鷹と野性の隼(ハヤブサ)が上空で喧嘩になり、2匹とも堀の向こうに落ちて行きました。家康は「誰か、鷹を救える者はおらぬか」と周りの者に声をかけましたが、堀を越える方法がなくどうすることもできません。そこへ1人の村人がやってきて、川にはしごを渡すとあっという間に堀を渡り、鷹を救い出しました。家康は「そのほうの機転、誠に感じ入った。名は何と申す?」と聞くと、村人は「内藤玄蕃にございます」と答えたので、「見事な働きじゃ。褒美をとらす」と家康は身に付けていた陣羽織を与えました。それからしばらくしてここに橋が架けられましたが、誰が言い出したというわけではないのですが橋は「鷹橋」と呼ばれるようになったそうですです。鴻巣市の清法寺には家康から与えられた陣羽織が残っていそうです。これは仏門に入った玄蕃の子孫が寺に納めたものだそうです。
しばらく「大英寺落」沿いを進みます。大英寺落は先ほどの八ヶ村落同様に騎西町では「備前堀大英寺落」と呼ばれており、源流は加須市外田ヶ谷で新川用水と接しています。
大英寺堀が「(備前堀)古笊田落」と合流する地点が「備前堀川起点」です。天神橋の横に標石があります。「古笊田落」は騎西城の「小田顕家の墓」がある雲祥寺周辺の加須市上崎の水田の排水を源流としています。「天神橋」の名前はすぐ近くにある「天満宮(鴻茎)」に由来するのですが、神社の由緒はわかりません。
備前堀川起点の少し先の「川妻橋」で先ほどの「八ヶ村落」が合流します。この場所はこの地点はかつての騎西町、菖蒲町、久喜市、加須市の境界だったそうです。橋の横に「備前堀記念碑(1913年建設)」と「備前堀治水記念碑(1951年建設)」があります。記念碑の碑文は騎西町出身で國學院の学長になった河野省三氏によるものだそうです。
川妻橋の先に「愛宕山神社」という富士塚のような塚の上にある愛宕神社があるので一度来ているのですが寄って行きます。由緒は不明ですが、久喜市の北西端の高台ということで、昔は物見台としても使われたのではないかと思われます。
「笊田橋」で備前堀川に戻ります。少し下流に行った場所にあるのが煉瓦造りの「古笊田堰」です。今はこの周囲は工業団地ですが、明治42年、一面に水田が広がっていた頃に竣工された物で、約48,000個の煉瓦がイギリス積みで組まれています。この煉瓦造りの堰の前は、井沢弥惣兵衛が享保13年(1728)に河原井沼の干拓した際に造られた木製の堰があったそうです。木造だった頃の堰は浮上を防ぐために、上に重り土橋が架けられていたそうですが、今は橋はありません。
「北中曽根諏訪神社」は由緒不明の小社です。その北側にある「観音院」は騎西町の竜花寺末の新義真言宗の寺院で救世山と号します。北中曽根の旧家である福田家の家系譜に依ると、最初は北中曽根の西浦(バス停有)に天正10年(1582)に照宥上人(天正18年(1589)寂)によって開山されましたが、騎西城主の「松平伊豆守信綱」の怒りにふれて取り潰されてしまい、元禄年間に現在の場所に再建されたということです。境内にある観音堂はこの時に建てられたものだそうです。この観音堂には聖徳太子作との伝承を持つ正観世音が収められています。また本尊の地蔵菩薩には弘法大師作という伝承があります。
「北中曽根久伊豆神社」は旧中曽根村の鎮守社で、別当寺は観音院だったそうです。明治3年に村社に列格し、その後道祖神社(猿田彦命)と八幡神社を合祀しています。本殿の中央に全長33cmの久伊豆明神、および一対の矢大臣があり、宝暦9年(1759)の金幣、神鏡、延享2年(1745)神祇管領吉田家から拝受した宗源祝詞・幣帛などがあるので、それ以前に創建されたと推測されます。
清久さくら通り入口交差点の川が直角に曲がっているところが「備前前堀川起点」です。「五ヶ村落橋」の横に標石があります。ここは久喜市所久喜の飛び地になっています。備前前堀川は直角に曲がった後、農業排水路の「五ヶ村落」と名前を変え、源頭部は新川用水に接続します。
清久さくら通りの桜並木の道を南に進むと「清久大池」と「清久西池」があります。これは2つ共、清久工業団地の造成時に造られた人工の池で、調整池の役割を担うと共に工業用水として使用されているようです。西池の脇に清久公園があります。
清久大池からさらに南に進むと、「唐杉橋」の横に隼人堀川の支流である「庄兵衛堀川起点」があります。この川は河原井沼を干拓する際に造られた附廻堀でした。起点から先も流れが続きますが、源流は久喜市菖蒲町菖蒲周辺の農業排水となっています。
備前堀川に戻ると、川の北側に渡ったところに「所久喜八幡神社」があります。江面村から分村した所久喜村の鎮守社だったようです。明治6年に村社になりますが、所久喜村は明治22年(1889)に清久村に合併されなくなってしまいます。
そして「昭和沼」です。ここにはその昔「河原井沼」という長さ35町(約3.8km)・横16町(約1.7km)の広大な沼があり、上流からの悪水を溜めるとともに、下流域の水源となる溜井の役割を果たしていました。当時流入していた主な河川は古笊田堀・五ヶ村堀・外谷落・大蔵落で、流出していた河川は備前堀・庄兵衛堀川・爪田ヶ谷堀などでした。しかし享保13年(1728)に「見沼代用水」が開削され、豊富な水の確保が可能になったため、河原井沼では新田開発が本格化しました。「井沢弥惣兵衛」の指揮のもとに太田袋村の武助が出願人となり、主に周辺の台村・江面村・除堀村・原村・下早見村・所久喜村の村民が工事にあたったそうです。工事は主に流入・流出先の河川・水路の整備から始まり、低湿地のため堀を幾重にも掘り、掘った土を積み上げて掘り上げ田を作る方式で新田を開発したそうです。現在有る「昭和沼」は、清久工業団地造成時の盛土用の土砂を掘削しするために河原井沼地区の中央部に掘った穴に水を溜めたものです。
昭和沼の南へ進むと高速道路の下を流れる「庄兵衛堀川」にぶつかり、それを東に進むと逆門橋の先の名も無き橋の下に「姫宮落川起点」があります。この川は基本的に東武動物公園内の池に一部が残る「笠原沼」の新田開発が行われた時の排水路ですが、上流は昭和沼の方まで繋がっています。
「下早見鷲宮神社」は、下早見村に2社あった鷲宮神社の前新田にあった方で後に村社となっています。この辺りは太田荘であったことから、鷲宮の鷲宮神社を勧請したものだといわれています。なおもう一つは流の鷲宮神社で、維新後は無格社となりました。
「江面久伊豆神社」は、近所に大規模な久喜ICと久喜白岡JCTが造られたためパッとしない神社になっていますが、越谷の久伊豆神社、岩槻の久伊豆神社、騎西の玉敷神社と共に「四大久伊豆神社」の一つと並び称される由緒ある神社だそうです。神社のある江面は旧家の多くは平家の落武者を先祖に持ち、秩父から来て土着したと伝えられており、創建にはこうした家々が大きくかかわっているものと思われるとのことです。明治6年に村社となり、明治41年 に白山社、神明社、厳島社、第六天社、女体社の5社を合祀しています。しかし第六天社と女体社はその後旧地に戻されたそうです。
今日は、場所が多少行きにくいところにあるため1度しか行ったことがない「天然温泉 森のせせらぎ なごみ」で汗を流して行きます。料金は平日920円、土日祝1,000円。地下1500mから湧き出る源泉温度が45℃と高めの茶褐色のナトリウム塩化物泉の温泉で、加温・加水を必要とされない源泉掛け流しが自慢とのことです。湧出量が多いせいか温泉の浴槽が多いです。反面高濃度炭酸泉は機械のパワーが弱いのか、全然泡がつきません。サウナはドライサウナが2つ。あと久喜駅行の無料送迎バスがあります。
今日は朝からラーメンを食べたので、昼飯は抜きで「久喜駅」に向かいます。久喜市役所の前のイチョウ並木が早くも色づいてきました。
東武伊勢崎線の「加須駅」南口です。北口は古い町並みが残っているのですが、南口は水田を埋め立てて作った住宅地が広がります。
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遠くに埼玉県東部からは見えなかった「両神山」が見えます。ずいぶん西へ来たという感じ。
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KYOCERA KYF33
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水田地帯に出ると、すぐ「北青毛堀川」にぶつかり、それに沿って東進します。北青毛堀川は加須市西部の見沼代用水と会の川に挟まれた三角地帯の水田の農業排水を集めた川です。
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今日は埼玉県北部なので、「日光白根山」もよく見えます。
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続いて「南青毛堀川」です。見沼代用水と新川用水に挟まれた三角地帯の水田の農業排水を集めます。
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「青毛堀川の管理起点」の「北青毛堀川」と「南青毛堀川」に挟まれた三角地帯の突端です。青毛堀川は鷲宮神社の脇をかすめた後、大落古利根川の源流の1つになります。
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「青毛堀川起点」の碑です。
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今日の野菊です。青毛堀川起点に咲いていました。葉の形状から「ユウガギク」だと思われます。
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改めて「日光連山」です。右が男体山と女体山。
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今日のコスモスです。
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そして忘れちゃいけない「赤城山」です。
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「新川用水」を渡ります。上流部は騎西領用水とも呼ばれています。この川は排水路ではなく水を供給する用水路なので、集落のある自然堤防の若干高い場所を流れています。加須市外田ヶ谷の見沼代用水より分水し、久喜市と宮代町との境界付近で備前前堀川に合流します。
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改めて奥武蔵~奥多摩の山々です。右端に両神山。
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正面に蜃気楼のように浮かぶ「騎西城天守閣」の屋根を見ながら進みます。
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後で川妻橋で備前堀川に合流する「八ヶ村落」も渡ります。これも騎西地域では備前堀八ヶ村落と呼ばれているようです。八ヶ村とは根小屋村・日出安村・正能村・外川村・騎西町・牛重村・常泉村・油井ヶ嶋村を指し、これらの村々によって管理されていたことが名前の由来です。
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騎西城跡で最初にあるのが「二ノ丸跡」です。騎西文化・学習センター(図書館)の駐車場に標柱があります。
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道を隔てた向かい側には「土塁跡」があります。
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土塁上には「私市城趾」の石柱があります。騎西(きさい)は最初は私市(きさい)と書かれていたため、騎西城は私市党の本拠地として最初建設されたという説があります。
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土塁上にはあと標高15.5mの三角点があります。
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「騎西城跡」天守閣です。しかしこれは観光用で騎西城は土塁や塀を廻らした平屋の館だったそうです。築城者は不明ですが、1455年に足利成氏が上杉方が守るこの城を攻略した記録からこの時期に築城されたといわれます。戦国時代は「小田顕家」が騎西城主となり、忍城主成田親泰の子の「助三郎朝興」を養子とし成田氏と共に上杉謙信側につき、後北条氏と戦います。関ヶ原合戦後は、1601年に徳川家康が「松平康重」を2万石で城主として配置。次いで大久保忠常・ 忠職が城主となるも美濃の加納城に転封となり、寛永9年(1632)に廃城。
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城跡の南側にある福聚山と号する曹洞宗寺院の「観音寺」の観音堂の如意輪観音は、騎西城主奥方の守護仏といわれ、馬の守護に霊験あらたかだとされ、2月27日の祭礼は馬の無事を祈願する者で賑わったそうです。
「たのもしや 大慈大悲の観音寺 誓いの網に 誰か漏れなん」
という歌が詠まれています。
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「大英寺」は備前堀川の源流である「大英寺堀」の名前の由来になった浄土宗寺院で、崇亀山松応院と号します。徳川家康の関東入国後、騎西城主となった「松平周防守康重」が天正18年(1590)に亡父の菩提を弔うため寺領30石を寄進し、團蓮社満譽玄道が開山となって創建されました。
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埼玉県のうまいラーメンショップ中、一番人気の「ラーメンショップ122号騎西店」に着きました。朝6時からやっているので寄って行きます。既に数人順番待ちの行列が出来ていました。ここは昔行った幸手市の人気No.2の金田亭とは違い「椿」という直営店で、味はラーショそのものです。
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ラーショ定番の「ネギラーメン(醤油)」900円を注文。あえて他店違いを見いだすならば、スープが豚骨醤油っぽく白濁しておらず、その分他の素材で出汁をとったという感じです。若干あっさりしているので、朝から食べても大丈夫!
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水田地帯に戻ります。稲刈りで出た籾殻を焼いていました。
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大英寺堀にかかる「鷹橋」には徳川家康の鷹狩のエピソードがあります。家康がここで鷹狩をした時、鷹狩の鷹と野性の隼が喧嘩になり、堀の向こうに落下しました。堀を越える術がなくどうすることもできずにいると、1人の村人が川にはしごを渡すとあっという間に鷹を救出しました。えらく感動した家康は内藤玄蕃と申すその者に家康は陣羽織を脱いで褒美として与えました。その後ここに橋が架けられ「鷹橋」と呼ばれるようになったそうですです。
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しばらく「大英寺落」沿いを進みます。大英寺落は先ほどの八ヶ村落同様に騎西町では「備前堀大英寺落」と呼ばれており、源流は加須市外田ヶ谷で新川用水と接しています。
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秋冬の田んぼの絶景です。
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送電線鉄塔の下に「筑波山」が見えました。
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備前堀川のもう一つの源流である「(備前堀)古笊田落」です。騎西城の「小田顕家の墓」がある雲祥寺周辺の加須市上崎の水田の排水を源流としています。
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「備前堀川管理起点」のある「天神橋」に着きました。奥に見えるのは橋の名前の由来になった天満宮に併設された集会所。
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右が大英寺堀、左が古笊田落です。この合流点が備前堀川の起点です。
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「天神橋」たもとにある備前堀川管理起点の標石です。
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橋の名前の由来となった「天満宮(鴻茎)」です。でも神社の由緒はわかりません。
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朝一度渡った「八ヶ村落」に到着しました。このまま備前堀川との合流点に向かいます。
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この辺りは蕎麦畑が多いです。秋蕎麦の花が満開でした。
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三角の藁積みの向こうに筑波山!
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八ヶ村落合流点の「川妻橋」脇にある「備前堀記念碑(1913年建設)」と「備前堀治水記念碑(1951年建設)」です。記念碑の碑文は騎西町出身で國學院の学長になった河野省三氏によるものだそうです。
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川妻橋から見た備前堀川です。バックに赤城山が大きく見えます。
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川妻橋下の「八ヶ村落」が合流点です。右が八ヶ村落、左が備前堀川です。この地点はかつての騎西町、菖蒲町、久喜市、加須市の境界だったそうです。があります。
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川妻橋の先に「愛宕山神社」という富士塚のような塚の上にある愛宕神社があるので一度来ているのですが寄って行きます。由緒は不明ですが、久喜市の北西端の高台ということで、昔は物見台としても使われたのではないかと思われます。
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先週満開だったオギの花が今週はすっかり枯れ尾花状態になっていました。オギとススキの違いは、湿地に生えるか乾いた山野に生えるかの違いと、オギの方がずっと背丈が高いということです。
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「笊田橋」に着きました。
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この辺りから備前堀川は工業団地に入って行きます。
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笊田橋の少し下流にあるのが煉瓦造りの「古笊田堰」です。今はこの周囲は工業団地ですが、一面に水田が広がっていた明治42年、に竣工された堰で、約48,000個の煉瓦がイギリス積みで組まれています。煉瓦造りの堰の前は、井沢弥惣兵衛が享保13年(1728)に河原井沼の干拓した際に造られた木製の堰があったそうです。
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「北中曽根諏訪神社」は由緒不明の小社です。集会所にはなっていないようですが、社務所と社殿が一体化しています。
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その北側にある「観音院」は騎西町の竜花寺末の新義真言宗の寺院で救世山と号します。北中曽根の旧家の福田家の家系譜に依ると、最初は北中曽根の西浦(バス停有)に天正10年(1582)に照宥上人(天正18年(1589)寂)によって開山されましたが、騎西城主の「松平伊豆守信綱」の怒りにふれて取り潰されてしまい、元禄年間に現在の場所に再建されたということです。境内にある観音堂はこの時に建てられたものだそうです。
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「北中曽根久伊豆神社」は旧中曽根村の鎮守社で、別当寺は観音院だったそうです。明治3年に村社に列格し、その後道祖神社(猿田彦命)と八幡神社を合祀しています。本殿の中央に全長33cmの久伊豆明神、および一対の矢大臣があり、宝暦9年(1759)の金幣、神鏡、延享2年(1745)神祇管領吉田家から拝受した宗源祝詞・幣帛などがあるので、それ以前に創建されたと推測されます。
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備前前堀川の源流である「五ヶ村落」に着きました。写真奥の清久さくら通り入口交差点で直角に曲がり、備前前堀川と名前を変えます。五ヶ村落の名前は八ヶ村落と同じく、流域に5つの村があったことから来ています。
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清久さくら通り入口交差点のところで直角に曲がって、五ヶ村落から名前が変わった「備前前堀川」です。清久さくら通り桜並木は久喜市の桜の名所として知られています。
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清久さくら通り入口交差点横の「五ヶ村落橋」の脇にある「一級河川備前前堀川起点」に標石です。ここは久喜市所久喜の飛び地になっているそうです。「五ヶ村落」の源頭部は新川用水に接続しています。
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桜並木の道を南に進むと「清久大池」があります。清久工業団地の造成時に造られた人工の池で、調整池の役割を担うと共に工業用水として使用されているそうです。
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道を隔てた「清久西池」も中には入れないようです。
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菖蒲久喜通信所が見えます。自衛隊の施設かと思ったら、「NHK菖蒲久喜ラジオ放送所」というAMラジオの電発送信施設で、日本最大規模・最大出力だそうです。また敷地内のソーラー発電で電力の大半を賄っているエコな施設でもあるそうです。
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さらに南に進むと「唐杉橋」に着きます。橋から見た隼人堀川の支流の「庄兵衛堀川」です。この川は河原井沼を干拓する際に造られた附廻堀でした。起点から先は久喜市菖蒲町菖蒲周辺の農業排水となっています。
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唐杉橋の橋の下にある「庄兵衛堀川起点」の碑です。立入禁止で草ぼうぼうで足場も狭くて悪いので入れません。
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備前堀川に戻り、しばらく堤防の上を行きます。のどかに見えますが川の右側は工業団地です。
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今日の野菊第2段「カントウヨメナ」です。葉がノコンギクと違ってザラザラしていません。
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そして2つ連なった橋を渡ります。
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隣を流れる川は「備前前堀川」で、この辺りから大落古利根川への合流点まで並行して流れることとなります。
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2つの川の北側にある「所久喜八幡神社」は、江面村から分村した所久喜村の鎮守社だったようです。明治6年に村社になりますが、所久喜村は明治22年(1889)に清久村に合併されなくなってしまいます。
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「久喜菖蒲公園」に着きました。この中に「昭和沼」があります。
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「昭和池」です。この辺り一帯にはその昔「河原井沼」という長さ35町(約3.8km)・横16町(約1.7km)の広大な沼があり、上流からの悪水を溜めるとともに、下流域の水源となる溜井の役割を果たしていました。しかし「見沼代用水」が開削され、豊富な水の確保が可能になったため、河原井沼では「井沢弥惣兵衛」の指揮のもと新田開発が本格化しました。現在有る「昭和沼」は、清久工業団地造成時の盛土用の土砂を掘削しするために掘った穴に水を溜めたものです。
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少し紅葉が始まっている木がありました。
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久喜菖蒲公園にはこのような芝生の丘もあります。この丘は余った盛土用の土を積み上げたものです。
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再び「庄兵衛堀川」に戻って来ました。横の高速道路は圏央道ですぐ先に久喜白岡JCTがあります。
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「庄兵衛堀川」は久喜白岡JCTの下の逆門橋の所で南に流れる向きを変えます。
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その隣から始まるのが「姫宮落川」です。この川は基本的に東武動物公園内の池に一部が残る「笠原沼」の新田開発が行われた時の排水路ですが、上流は昭和沼の方まで繋がっています。庄兵衛堀川から水を供給されているはずなのですが、水はほとんど流れておらず、川の中に草が繁っていました。
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「姫宮落川起点」です。こちらは草に埋もれつつも、川が小さいので、近くから写真を撮ることが出来ました。
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「下早見鷲宮神社」は、下早見村に2社あった鷲宮神社の前新田にあった方で後に村社となっています。この辺りは太田荘であったことから、鷲宮の鷲宮神社を勧請したものだといわれています。なおもう一つは流の鷲宮神社で、維新後は無格社となりました。
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東北道横の道から、本日最後の備前堀川です。
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そしてそのすぐ北側を流れる「備前前堀川」です。
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「江面久伊豆神社」は、越谷の久伊豆神社、岩槻の久伊豆神社、騎西の玉敷神社と共に「四大久伊豆神社」の一つと並び称される由緒ある神社だそうです。神社のある江面は旧家の多くは平家の落武者を先祖に持ち、秩父から来て土着したと伝えられており、創建にはこうした家々が大きくかかわっているものと思われるとのことです。明治6年に村社となっています。
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今日は、1度しか来たことのない「天然温泉 森のせせらぎ なごみ」で汗を流して行きます。料金は平日920円、土日祝1,000円。地下1500mから湧き出る源泉温度が45℃と高めの茶褐色のナトリウム塩化物泉の温泉で、加温・加水を必要とされない源泉掛け流しが自慢とのことです。湧出量が多いせいか温泉の浴槽が多いです。反面高濃度炭酸泉は機械のパワーが弱いのか、全然泡がつきません。
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「久喜駅」へ向かう途中の久喜市役所の前のイチョウ並木が早くも色づいてきました。
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