本庄駅から本庄早稲田駅経由で児玉駅(東五十子城跡~宥勝寺~浅見山など)
東五十子城、八海神社古墳、東本庄館、栗崎館、若泉稲荷神社、本田館、栗崎金讚神社、マリーゴールドの丘、宥勝寺、荘小太郎の墓、西光寺跡、東谷古墳、前山1号墳、塙保己一像、浅見山、塚本山古墳群、生野山古墳群、蓮生堂(熊谷二郎直実墓)( 関東)
パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )
快晴
電車
その他:
往路:目黒→山手線→池袋→埼京線→赤羽→高崎線→本庄
復路:児玉→八高線→高麗川→〃→拝島→青梅線→立川→南武線→武蔵小杉→東急目黒線→武蔵小山
本庄駅6:44→女堀川/四季の里東公園7:02→小史跡公園 観音堂7:14→西五十子36号墳7:19→東五十子城跡(台遺跡)7:21→西五十子の阿弥陀一尊種子板碑7:29→西五十子の長屋門7:34→男堀川・小山川合流点7:37→八海神社古墳7:47→不動寺7:52→大寄諏訪神社7:56→本庄総合公園7:57→東本庄稲荷神社/東本庄館跡8:12→栗崎館跡8:25→若泉稲荷神社8:33→東福寺8:36→本田館跡(北堀本田館)8:45→男堀川調節池8:51→マリーゴールドの丘公園/宥勝寺裏埴輪窯跡9:00~12→栗崎金讚神社9:17→宥勝寺/荘小太郎頼家の墓9:26→西光寺跡9:39→東谷古墳9:43→総検校塙保己一先生銅像/本庄早稲田駅10:00→浅見山登山口10:10→浅見山三角点105.5m10:23→浅見山山頂112m10:30→塚本山古墳群10:41~56→楊林寺11:11→下児玉金鑽神社11:19→美里町生野山古墳群11:26→蓮生堂(熊谷二郎直実墓)11:31→白山神社(児玉1686-1)12:03→おおぎやラーメン児玉店12:08~28→児玉駅12:43
合計5時間39分(ラーメン除く)
12月9日(土)は、本庄市の続きで新幹線の本庄早稲田駅周辺を回って来ました。この辺りが武蔵七党最大派閥の児玉党本宗家「庄氏」の本拠地なのですが、新幹線の駅と早稲田大学が出来たせいで越ヶ谷レイクタウンとか浦和美園のような巨大ショッピングモールがある新興住宅地になっていて、ちょっと興醒めする感じでした。
今日も「本庄駅」からスタートです。しばらく岡部方面に戻って「東五十子城跡」を確認してから、男堀川沿いを本庄早稲田駅方面に向かいます。
「女堀川」を渡り、「四季の里東公園」を抜けて進むと、まず「小史跡公園」があります。公園といっても「観音堂」があるだけで墳丘は残っていませんが、五十子田端屋敷遺跡の1つである「148号古墳」があったそうです。旧石器時代からの遺跡で径2~4mの円形大型土壙が確認されたそうです。また観音堂にかつて収められていた文明元年丑年七月吉日(1469年7月)の記述のある十一面観音の石仏は、応仁2年(1468)10月上杉方の長尾景信、岩松家住純、横瀬国繁らが古河公方成氏方を破り大勝した「五十子の戦い」で、岩松家の陣僧として従軍した「道徳(永正15年(1518)83歳で死去)」が、戦死した敵味方の兵霊を弔うために祀ったものだそうです。現在は盗難防止のため近隣の不動寺に置かれています。
公園から少し行ったところにも「西五十子36号(新45号)墳」があります。ここは、かなり削られていますが墳丘が残っています。直径約12mの円墳だそうです。
高崎線の線路を越えると「東五十子城跡(台遺跡)」があります。踏切から見ると畑と住宅がある単なる平坦地なのですが、線路手前に男堀川と小山川の合流点があり、その河岸段丘を使った城のようです。鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発する「享徳の乱(享徳3年12月27日(1455年1月15日)~文明14年11月27日(1483年1月6日))」で関東管領上杉房顕が成氏との対決に際して築いた「五十子陣」の支城(砦)的な城だったそうです。小規模な堀跡や遺物が発掘されており、かつては「御陣場」と呼ばれていたそうです。
高崎線の踏切から戻ると「西五十子の阿弥陀一尊種子板碑」という康元2年(1257)の板碑があり、ここから、東五十子城の河岸段丘が良く見えます。
その先に「西五十子の長屋門」があります。本庄市の文化財に指定されているようですが、説明書きのような物はありません。長屋門の前が「男堀川と小山川の合流点」で、古い堤防の跡の上に「男堀川終点」の石碑があります。
「八海神社(本庄市西五十子)」は「八海神社古墳(西五十子168号墳)」と呼ばれる6世紀後半の直径13.5m・高さ3mの円墳の上にあります。横に御嶽大神碑があるので御獄溝の神社だと思われます。
真言宗豊山派 妙法山 阿弥陀院「不動寺」は先ほどの石造十一面観音像が安置されている寺です。ただ本尊は不動明王で、これも平将門の乱の折、藤原秀郷が戦勝を祈願して祀ったのが始まりとされる由緒ある物だそうです。ただ現存する物は鎌倉時代以降の彫刻とされています。
「本庄総合公園」の入口にある「大寄諏訪神社」も、天慶2年(939)、平将門の討伐に際して、藤原秀郷の要請で信州諏訪から出陣した「大祝貞継」が五十子に陣をかまえた際に、諏訪大社の分霊を祀ったことに始まる神社だそうです。将門を討ち取って下野・武蔵国の長官となった藤原秀郷は、神社の社殿を整え、新田を寄進したそうです。
「本庄総合公園」に入ります。ここは本庄市最大の公園で、スポーツ施設の他、梅林や蓮池などもあります。季節柄、紅葉が見事でした。
本庄総合公園の南西縁にある「東本庄稲荷神社」は、現在の社殿は公園の建設に伴い平成11年に新築されたということで、あまり歴史を感じさせないのですが、後で行く若泉稲荷神社の奥宮で、今より820年前、安徳天皇御宇治承四年に「荘太郎藤原家長」が勧請したのが始まりとされています。
東本庄稲荷神社の境内には神社の由緒と共に「東本庄館跡」について書かれた説明板があります。東本庄館は、室町時代に山内上杉氏に属した「本庄宮内少輔信明(延徳2年(1490)死去)」が、「享徳の乱」で東から侵攻する古河公方足利成氏方に備えるため、栗崎館の東側の稲荷神社のある辺りに新たに築いた城と考えられています。1556年に本庄城が築かれるまで存続しました。さらに昔の荘(庄)小太郎頼家の館という伝承もあるようですが、「本庄市史」ではこれを否定しています。
東本庄稲荷神社の西側の住宅地の丸く水路で囲まれた場所が「栗崎館跡」です。「堀ノ内」という地名が残っています。児玉党本宗家3代目家行の嫡男で4代目を継いだ「児玉庄大夫家弘」が築いた館で、家弘は児玉氏から庄氏を初めて名乗った人物といわれています。弟には塩谷氏の祖となる「児玉二郎家遠」と富田氏の祖となる「児玉三郎親家」がいます。息子は5人いて、長男の「庄太郎家長」は庄氏を継ぎ栗崎館二代目となりますが、一ノ谷の戦いにおいて武功を上げた恩賞として備中国(岡山県)草壁荘の地頭職を与えられ、孫の庄家次の代に庄氏本宗家は中国地方に移住し、後に残った家長の四男の「四郎左衛門尉時家」が祖地を守る事となり、北堀に館を構えて「本庄氏」を名乗るようになります。本庄氏の名前の由来は「本拠地に残った庄氏」の意味だといわれています。次男の「庄二郎弘高」は四方田氏の祖となり、三男の「庄三郎忠家」は武蔵武士の代表する一人として知られ、平重衡を生け捕るなど数多くの武功を上げるも、承久3年(1221)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に討伐の兵を挙げた「承久の乱」の「宇治川の戦い」で討死にしています。なお平重衛に関しては家長が捕らえたという説や高家が梶原景季と共謀して捕らえたという説もあります。四男の「庄四郎高家」は蛭川氏の祖となります。五男の「庄五郎弘方」は阿佐美氏の祖となります。
「若泉稲荷神社」は先ほどの東本庄稲荷神社を奥宮とする神社で、庄家長が館を構えた際に鎮守として勧請したのが始まりとされています。天正18年から本庄氏に代わり「小笠原掃部太夫信嶺」が本庄城主になった後も、旧領主が勧請した社であるとの理由から崇敬され、現在の社地に社殿を建立して奉遷したそうです。明治維新後は、村社となり、神社名は当時の埼玉県令千家尊福卿によって名付けられました。明治42年に東本庄稲荷神社を合祀しましたが、遷座に関係した7人が死に、村中に火事が頻発したため、奥宮として元の場所に戻されたそうです。
「東福寺」は庄氏の菩提寺である宥勝寺末の真言宗智山派寺院で、太平山日輪院と号します。創建年代は不詳ですが、法印良敝が宝暦8年(1758)に再興しています。この神社には「九郷用水(女堀川から男堀川が分かれる前の上流部分をこう呼びます。源流は神流川から取水しています)」に関する伝説が残されています。昔、この辺りは旱魃になやまされていたため、国造が金鑽神社に祈願すると一人の童子があらわれて「私が金龍になって神流川の流れを導くから、それにしたがって水路を開き用水にしなさい。」という夢のお告げがあり、その次の日の夜明けに大きな金龍が神流川よりあらわれて、野原や田畑をよこぎり進んで高台に上り姿を消した場所が、東福寺で、金龍が通った跡を開削したのが堀を九郷用水ということです。この伝説から寺の薬師如来は「ノメリアガリの薬師」と呼ばれているそうです。
東福寺の北東側にも「本田館跡(北堀堀ノ内、北堀本田館)」という館跡があります。ここは北堀堀の内とも呼ばれ、先ほど出て来た家長の四男「(本)庄四郎左衛門尉時家(北堀丹波守時家)」が築いた館と推測されています。地名以外に明確な証拠はありませんが、民家の北側と西側に土塁と堀の跡が断片的に残っています。13世紀中頃までは本庄氏の居館として機能していたものと考えられています。その後、15世紀中頃の本庄信明の代に東本庄館へ移ります。なお北堀の北側に「久下塚氏の館」があったという言い伝えもありますが、特に何も発見されていないそうです。久下氏は四方田の一族で、荘(庄)二郎弘定の子親弘が久下塚本太郎と称して久下の地に居館を構えたとされますが、良くはわからないようです。
本庄早稲田駅の方へ向かうと「男堀川調節池」があります。新幹線駅前に住宅地を造成した際に造られたものだと思われますが、希少種のオオタカの採餌場となっています。
その先にあるのが「マリーゴールドの丘公園」で、登り口に「宥勝寺裏埴輪窯跡」があります。これは丘の斜面を使った6世紀後半頃の「登り窯」で、古墳に並べるための埴輪が焼かれていたそうです。平成13年(2001)の本庄市教育委員会の調査で、5基の埴輪窯跡が確認されています。「マリーゴールドの丘公園」は本庄早稲田駅に面する丘陵地帯を使った公園で、日時計が設置された丘の上からは、赤城山や榛名山、浅間山などを望むことができます。秋には一面マリーゴールドの花で覆われます。また冬はイルミネーションが灯されます。
「栗崎金讚神社」は、家弘の跡を継いだ「庄太郎家長」が勧請したと伝えられる神社です。また別当寺であった「宥勝寺」の東北に位置することから、寺の鬼門除けに二宮金鑚神社を勧請したともいわれています。中世に児玉党の氏神に加え、九郷用水(女堀川)の水神としても信仰され、古くから雨乞いの神事が行われていたようです。江戸時代の明和7年(1770)に地内が川越城主松平大和守の所領となってからも、崇敬は衰えず、社殿改修の折に金品の奉納があったそうです。ただ明治の社格規定では村社にはなっていないようです。社殿の裏には「蚕影大神」の大きな石碑がありました。この辺りも養蚕が盛んだったのだと思われます。
新幹線の線路をくぐった先に「宥勝寺」は、児玉党宗家「庄氏」の菩提寺である真言宗智山派寺院で西光山 無量寿院と号します。名前の宥勝は有道と庄をかけたもので、最初は「有荘(庄)寺」と名乗っていたそうです。創建は、家長の嫡子「小太郎頼家」が寿永3年(1184)に一の谷の合戦で戦死したため、その妻が菩提を弔うため、京より法印良運(建仁2年(1202)寂)を迎え一寺を建立し、自らも得度して妙清禅尼となったのが始まりとされています。「荘(庄)小太郎頼家の墓(荘小太郎頼家供養塔)」と伝えられる五輪塔が墓地にあります。県の指定旧跡になっているそうです。その後、室町時代に入ると延年2年(1337)に足利氏と新田氏の争いである「薊山合戦」で焼失した西光寺と共に戦禍を受け(※児玉党は新田側につき没落)、長く続いた戦国時代の天文6年(1538)、北条氏と上杉氏の「浅見山合戦」で再び焼失し、ついに無住となりましたが、天文23年に再建され、その翌年、寺の南西側の浅見山山麓あった「西光寺」も廃寺状態になって荒廃していたで合併し、「西光山 無量寿院 宥勝寺」という現在の名前を名乗るようになったそうです。末寺40数寺を有する名刹で、慶安元年(1648)には徳川幕府より十石の御朱印を賜っています。
宥勝寺の南西の丘陵地帯の縁の平坦地が「西光寺跡」です。畑かと思ったら土木業者の資材置場になっていました。ここは児玉党の祖「有道惟行」が阿弥陀如来を祀って創建したと伝えられる庄宗家の菩提寺の大伽藍を持つ巨大寺院だったそうです。しかし延元2年(1337)の西上してきた北畠顕家軍に上州で挙兵した新田義興・義治、脇屋義治の軍勢が加わって足利軍と戦った「薊山合戦(薊山安保原合戦)」で焼失し、その後再建されることなく、宥勝寺に合併されます。西光寺は北畠顕家が宿陣としていたそうです。中世寺院跡として埼玉県選定重要遺跡の1つになっています。
西光寺跡の南西には「東谷古墳」という、7世紀に築造された直径約27m、高さ約3mの円墳があり、榛名山起源の角閃石安山岩を使った横穴式石室が発見されています。明治29年(1896)9月に琴平社の氏子らによって発掘された際には、鉄製大刀1、鍔1、金環2、水晶製切子玉1、管玉1、土師器片9、須恵器片3、人骨片1が出土していることから、古墳時代の有力者の墓と推定されています。大久保山周辺には多数の古墳が存在し、大久保山古墳群と呼ばれています。
大久保山は東西約1.8㎞、南北約1㎞の浅見丘陵の一部で、児玉丘陵の流れをくむ残丘の一つです。北から浅見山(薊山)~大久保山~塚本山(琴平山、前山等)に分かれ、丘陵の麓に集落が展開し、浅見山や塚本山、前山に古墳を造っていたと考えられています。
早稲田大学の中を通って本庄早稲田駅に戻ります。駅北口には本庄市が生んだ全盲の国学者の「総検校 塙保己一(はなわほぎいち。延享3年5月5日(1746年6月23日)~ 文政4年9月12日(1821年10月7日))先生銅像」があります。この銅像は15歳で希望を胸に故郷から江戸へ向けて旅立つ全盲の国学者・塙保己一少年の姿を表したものだそうです。塙保己一は、肝の病にて7歳の時に失明しますが、「これをなくしては日本文化の歴史を理解することは困難」 とまで言われる大文献集『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、書き写しが一般的だった時代に、書物を版木に彫り、印刷できるようにして次々と出版し、75歳で盲人社会の最高位である総検校に昇進しました。幼少の頃から大人が読んでくれた本の内容を記憶し忘れない聡明な子供で、目が見えないため6万冊の蔵書を全て暗記していたと伝えられています。
駅南口に移ったら、次は「浅見山」を登ります。浅見山は大久保山がある浅見丘陵の一番北に位置する山で、早稲田大学敷地内で一応立入禁止になっているのですが、地元の人達が普通にウォーキングしている不思議な山です。山頂には105.5mの三角点があるはずだったのですが、これは見つかりませんでした(※最高地点は山頂から少し南の112m地点となるようです)。名前は児玉党の阿佐見氏に由来するといわれていますが、地名が先にあった可能性もあり、何ともいえません。現在はつつじが多いことからつつじ山とも呼ばれていれそうです。
「塚本山古墳群」は浅見丘陵南端の塚本山の南斜面に築かれた、総数200基を超える古墳時代後期から終末期にかけての古墳群です。発掘は昭和49年に関越自動車道の工事に先だって行われ、29基の古墳が調査されて、銀象嵌の施された頭椎大刀や須恵器フラスコ形長頸瓶、5条凸帯の円筒埴輪、家形埴輪などが見つかっています。
大久保山から出た先にある「楊林寺」は、美里町広木にある大興寺末の臨済宗寺院で谷昌山と号します。年代は不明ですが、高庵が開山となり創建したと伝えられています。下児玉金鑽神社の別当寺を務めていました。
「下児玉金鑽神社」のある下児玉は身馴川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村で、度々洪水に見舞われており、神社の創建に関しても、延暦年間、東夷征伐の途次に当地に立ち寄った坂上田村麻呂が、身馴川に棲む龍を退治したという伝説が残っています。5年に村社に列格し、40年に字西山の稲荷神社、字熊谷の雷電神社、字東山の山之神社、字殿谷戸の菅原神社(及びその末社疱瘡神社・天手長男神社)を合祀しています。住吉神社の石碑がある富士塚のような物があります。
「美里町生野山古墳群」は美里町と旧児玉町の境にある「生野山(現こだまCC)」に古墳時代中期から後期にかけて築かれた古墳群で、東京国立博物館所蔵の人物埴輪「正装の男子」はここで発掘されたものだそうです。かつては100基以上あったそうですが、古墳の名残の塚が、今も幾つか残っています。
「蓮生堂」は小さなお堂があるだけの場所ですが、ここに「熊谷次郎直実」の遺骨が埋葬されているという伝承が残っています。『児玉郡誌』には文化11年(1814)に京都黒谷の金戒光明寺から届いた依頼状があり」と記されており、また、安永元年(1772)に書かれた「武乾記」にも「下児玉村之内熊谷に熊谷次郎直実の墓あり」とありますが、真偽は不明です。蓮生堂はしだれ桜も有名で、熊谷の熊谷桜とは品種が違うのですが、地元の人々から「熊谷桜」と呼ばれて愛されているそうです。
しばらく陣見山や城峯山を眺めながら小山川沿いを行きます。「白山神社(児玉1686-1)」は、住宅地の中にあるこじんまりとした由緒不明の神社です。
今日は児玉駅に行く途中にある「おおぎやラーメン 児玉店」で昼食にしました。おおぎやは1991年にくるまやラーメンのフランチャイズから独立したチェーン店で、くるまやが千葉に多いのと対照的に群馬を中心に店を展開しています(安中市大竹に本社と自社製麺工場)。ここもくるまや同様、味噌ラーメンがメインで、味も味噌+豚骨にもやしが乗り、そっくりなのですが、背脂が結構浮いているのと味噌ラーメンにはもれなくニンニクのすりおろしが乗っているため、くるまやより味が濃厚に感じました。ランチセットの「もつ煮」は北関東らしい濃い目の味付けで、酒の肴になりそうです。
「児玉駅」に着きました。駅に着いたら、東武東上線が止まっていると騒いでいたので、今日も拝島経由で帰ります。拝島で来た青梅線が立川止りの各駅だったため、立川から先は南武線にしました。
今日も「本庄駅」からスタートです。しばらく岡部方面に戻って「東五十子城跡」を確認してから、男堀川沿いを本庄早稲田駅方面に向かいます。
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今日もまず「女堀川」を渡ります。
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そして「四季の里東公園」を抜けてます。
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今日も赤城山がよく見えます。
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こちらは日光男体山と白根山です。
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観音堂があるだけの「小史跡公園」に着きました。五十子田端屋敷遺跡の1つの「148号古墳」があったそうです。旧石器時代からの遺跡で径2~4mの円形大型土壙が確認ました。観音堂にかつてあった十一面観音の石仏は、応仁2年(1468)10月上杉方の長尾景信、岩松家住純、横瀬国繁らが古河公方成氏方を破り大勝した「五十子の戦い」で、岩松家の陣僧として従軍した「道徳」が、戦死した敵味方の兵霊を弔うために祀ったものだそうです。現在は不動寺にあります。
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西五十子36号(新45号)墳」は、かなり削られていますが墳丘が残っています。直径約12mの円墳だそうです。
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高崎線の線路を越えると「東五十子城跡(台遺跡)」があります。踏切から見ると畑と住宅がある単なる平坦地なのですが、小規模な堀跡や遺物が発掘されており、かつては「御陣場」と呼ばれていたそうです。線路手前に男堀川と小山川の合流点があり、その河岸段丘を使った城のようです。
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高崎線の踏切から戻ると「西五十子の阿弥陀一尊種子板碑」という康元2年(1257)の板碑があります。
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西五十子の阿弥陀一尊種子板碑からは、東五十子城の河岸段丘が良く見えます。東五十子城は鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発する「享徳の乱(享徳3年12月27日(1455年1月15日)~文明14年11月27日(1483年1月6日))」で関東管領上杉房顕が成氏との対決に際して築いた「五十子陣」の支城(砦)的な城だったそうです。
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「西五十子の長屋門」です。本庄市の文化財に指定されているようですが、説明書きのような物はありません。
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西五十子の長屋門の前が「男堀川と小山川の合流点」です。まず「男堀川」です。
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続いて「小山川」です。奥武蔵(北武蔵)の山が良く見えます。一番高いのが陣見山です。
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「男堀川と小山川の合流点」です。
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合流点の間の三角地帯に残された古い堤防の跡の上に「男堀川終点」の石碑があります。
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「八海神社(本庄市西五十子)」は「八海神社古墳(西五十子168号墳)」と呼ばれる6世紀後半の直径13.5m・高さ3mの円墳の上にあります。横に御嶽大神碑があるので御獄溝の神社だと思われます。
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真言宗豊山派 妙法山 阿弥陀院「不動寺」は先ほどの石造十一面観音像が安置されている寺です。ただ本尊は不動明王で、これも平将門の乱の折、藤原秀郷が戦勝を祈願して祀ったのが始まりとされる由緒ある物だそうです。ただ現存する物は鎌倉時代以降の彫刻とされています。
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「本庄総合公園」の入口にある「大寄諏訪神社」も、天慶2年(939)、平将門の討伐に際して、藤原秀郷の要請で信州諏訪から出陣した「大祝貞継」が五十子に陣をかまえた際に、諏訪大社の分霊を祀ったことに始まる神社だそうです。将門を討ち取って下野・武蔵国の長官となった藤原秀郷は、神社の社殿を整え、新田を寄進したそうです。
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大寄諏訪神社の説明板です。
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「本庄総合公園」につきました。ここは本庄市最大の公園で、スポーツ施設の他、梅林や蓮池などもあります。
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蓮池と紅葉です。
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本庄総合公園は中を男堀川が流れています。
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野球場の脇を抜け、林になっているエリアに入ります。
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林の先の広い駐車場辺りに「東本庄館」があったのだと思われます。東本庄館は、室町時代に山内上杉氏に属した「本庄宮内少輔信明(延徳2年(1490)死去)」が、「享徳の乱」で東から侵攻する古河公方足利成氏方に備えるため、栗崎館の東側の稲荷神社のある辺りに新たに築いた城と考えられています。1556年に本庄城が築かれるまで存続しました。もっと昔の荘(庄)小太郎頼家の館という伝承もあるようですが、「本庄市史」ではこれを否定しています。
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駐車場の南西縁にある「東本庄稲荷神社」です。現在の社殿は公園の建設に伴い平成11年に新築されたということで、あまり歴史を感じさせないのですが、後で行く若泉稲荷神社の奥宮で、今より820年前、安徳天皇御宇治承四年に「荘太郎藤原家長」が勧請したのが始まりとされています。
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東本庄稲荷神社の説明板です。「東本庄館跡」についても書かれています。
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東本庄稲荷神社の西側の住宅地が「栗崎館跡」です。丸く水路で囲まれ、「堀ノ内」という地名が残っています。児玉党本宗家3代目家行の嫡男で4代目を継いだ「児玉庄大夫家弘」が築いた館で、家弘は児玉氏から庄氏を初めて名乗った人物といわれています。
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まず南側の堀の跡です。かつては農業用水が流れていたのでしょうが、今は蓋をされた暗渠になっています。
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「栗崎館跡」のランドマークである南西端にある火の見櫓に着きました。市内広報の拡声器がついています。後ろの一角が館跡です。
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西側の堀跡は少し前まで小さな水路だったのでしょうが、道路脇の蓋をされたU字溝となるようです。館があった側が一段高くなっていますが、土塁はありません。
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仲良く並んだ古い宝筐印塔を発見。後ろの小さな水田は薬研堀跡にも見えますが…。
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栗崎館の北側の堀の跡です。水路はぐるっと回り、東側の水田まで繋がっています。
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「若泉稲荷神社」は先ほどの東本庄稲荷神社を奥宮とする神社で、栗崎館二代目の「庄家長」が館を構えた際に鎮守として勧請したのが始まりとされています。天正18年から本庄氏に代わり「小笠原掃部太夫信嶺」が本庄城主になった後も、崇敬され、現在の社地に社殿を建立して奉遷したそうです。
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若泉稲荷神社の説明板です。
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若泉稲荷神社には御嶽塚があります。
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「東福寺」は庄氏の菩提寺である宥勝寺末の真言宗智山派寺院で、太平山日輪院と号します。創建年代は不詳ですが、法印良敝が宝暦8年(1758)に再興しています。この神社には「九郷用水(女堀川上流部分)」に関する金龍の伝説が残されています。
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「本田館跡(北堀堀ノ内、北堀本田館)」のあった辺りです。家長の四男「(本)庄四郎左衛門尉時家(北堀丹波守時家)」の館と推測されています。栗崎館二代目の「庄太郎家長」は、一ノ谷の戦いにおいて武功を上げた恩賞として備中国(岡山県)草壁荘の地頭職を与えられたため、孫の庄家次の代に庄氏本宗家は中国地方に移住し、後に残った家長の四男の「四郎左衛門尉時家」が、北堀に館を構えて「本庄氏」を名乗るようになります。本庄氏の名前の由来は「本拠地に残った庄氏」の意味だといわれています。
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本田館跡は南から見ると民家が並んでいるだけですが、北側と西側に土塁と堀の跡が断片的に残っています。ここは13世紀中頃までは本庄氏の居館として使われ、15世紀中頃の本庄信明の代に東本庄館へ移ります。
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西側の土塁に沿った堀の跡です。
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「男堀川調節池」は、新幹線駅前に住宅地を造成した際に造られたものだと思われますが、希少種のオオタカの採餌場となっています。
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「マリーゴールドの丘公園」入口に着きました。本庄早稲田駅に隣接した丘陵を園地化した公園です。
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マリーゴールドの丘入口には「宥勝寺裏埴輪窯跡」があります。これは丘の斜面を使った6世紀後半頃の「登り窯」で、古墳に並べるための埴輪が焼かれていたそうです。平成13年(2001)の本庄市教育委員会の調査で、5基の埴輪窯跡が確認されています。
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宥勝寺裏埴輪窯跡の説明板です。
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宥勝寺裏埴輪窯跡の図解です。説明板の前の斜面の上の方で焼いていたようです。
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マリーゴールドの丘から見た赤城山と日光連山です。手前は本庄早稲田駅前のショッピングモール。
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続いてガスタンクの向こうに浅間山です。
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2つの間にある榛名山を拡大。
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それから子持山と赤城山の間にうっすらと谷川岳と朝日岳も拡大。子持山と小野子山の間に超うっすらと見えるのは仙ノ倉岳です。
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マリーゴールドの丘のマリーゴールドと紅葉した木です。秋が見頃とのことだったので、もう枯れていると思っていたのですが、まだしっかり咲いていました。
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夜になったら輝くクリスマスイルミネーションです。奥にあるのが日時計。
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「栗崎金讚神社」入口に着きました。神社は丘陵を階段で登った上にあります。
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「栗崎金讚神社」です。「庄太郎家長」が勧請したと伝えられる神社で、別当寺であった「宥勝寺」の東北に位置することから、寺の鬼門除けに二宮金鑚神社を勧請したともいわれています。児玉党の氏神に加え、九郷用水(女堀川)の水神としても信仰され、古くから雨乞いの神事が行われていたようです。
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「栗崎金讚神社」の説明板です。
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社殿の裏には「蚕影大神」の大きな石碑がありました。この辺りも養蚕が盛んだったのだと思われます。
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「宥勝寺」の山門に着きました。児玉党宗家「庄氏」の菩提寺である真言宗智山派寺院で西光山 無量寿院と号します。名前の宥勝は有道と庄をかけたもので、最初は「有荘(庄)寺」と名乗っていたそうです。創建は、家長の嫡子「小太郎頼家」が寿永3年(1184)に一の谷の合戦で戦死したため、その妻が菩提を弔うため、京より法印良運(建仁2年(1202)寂)を迎え一寺を建立し、自らも得度して妙清禅尼となったのが始まりとされています。
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「宥勝寺」です。その後、室町時代に入ると延年2年の「薊山合戦」で焼失した西光寺と共に戦禍を受け(※児玉党は新田側につき没落)、戦国時代の「浅見山合戦」で再び焼失し、無住となりましたが、天文23年に再建され、その翌年、寺の南西側の浅見山山麓あった「西光寺」も廃寺状態になって荒廃していたで合併し、「西光山 無量寿院 宥勝寺」という現在の名前になったそうです。
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「宥勝寺」の説明板です。 末寺40数寺を有する名刹で、慶安元年(1648)には徳川幕府より十石の御朱印を賜っています。
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宥勝寺本堂裏には「荘(庄)小太郎頼家の墓(荘小太郎頼家供養塔)」と伝えられる五輪塔が墓地にあります。県の指定旧跡になっているそうです。ちなみに庄と荘がごっちゃになっているのは庄は荘の略字だからです。
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荘(庄)小太郎頼家の墓の説明板です。
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宥勝寺の南西側の丘陵地帯の縁の平坦地が「西光寺跡」です。土木業者の資材置場になっていました。児玉党の祖「有道惟行」が阿弥陀如来を祀って創建した庄宗家の菩提寺の大伽藍を持つ巨大寺院だったそうです。しかし「薊山合戦」で焼失し、その後再建されることなく、宥勝寺に合併されました。西光寺は北畠顕家が宿陣としていたそうです。中世寺院跡として埼玉県選定重要遺跡の1つになっています。
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西光寺跡の南西の早稲田大学入口には「東谷古墳」という、7世紀に築造された直径約27m、高さ約3mの円墳があり、榛名山起源の角閃石安山岩を使った横穴式石室が発見されています。大久保山周辺には多数の古墳が存在し、大久保山古墳群と呼ばれています。
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早稲田大学の中を通って本庄早稲田駅に戻ります。大隈重信像がありました。都の西北、群馬の隣り~、早稲田早稲田早稲田早稲田♪
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早稲田大学の敷地内の紅葉です。
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本庄早稲田駅手前の冬桜です。
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本庄早稲田駅に着きました。前を流れる川は男堀川です。小山川への合流点周辺に比べだいぶ水量が少なくなっています。
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駅北口には本庄市が生んだ全盲の国学者の「総検校 塙保己一先生銅像」があります。この銅像は15歳で希望を胸に故郷から江戸へ向けて旅立つ塙保己一少年の姿を表したものだそうです。塙保己一は、肝の病で7歳の時に失明しますが、大文献集『群書類従』666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、印刷できるようにして次々と出版し、75歳で盲人社会の最高位である総検校に昇進した人物です。
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次は「浅見山」を登ります。浅見山は大久保山がある浅見丘陵の一番北に位置する山で、早稲田大学敷地内で一応立入禁止になっているのですが、地元の人達が普通にウォーキングしている不思議な場所です。
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浅見山の登山道です。浅見山は東西約1.8㎞、南北約1㎞の浅見丘陵の一部で、児玉丘陵の流れをくむ残丘の一つです。北から浅見山(薊山)~大久保山~塚本山(琴平山、前山等)に分かれ、丘陵の麓には集落が展開し、浅見山や塚本山、前山に古墳を造っていたと考えられています。
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浅見山山頂付近です。105.5mの三角点があるはずだったのですが見つかりませんでした。浅見山の名前は児玉党の阿佐見氏に由来するといわれていますが、地名が先にあった可能性もあり、何ともいえません。現在はつつじが多いことからつつじ山とも呼ばれていれそうです。
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浅見丘陵最高地点は山頂から少し南の112m地点となるようです。周囲を笹で覆われた登山道の途中です。
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でも地元の人が着けたナイロンテープがあります。
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浅見丘陵の縦走路は途中で一度林道のような道に出ます。出たところの脇に本庄児玉ICが近いせいかラブホテルがありました。
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「塚本山古墳群」です。浅見丘陵南端の塚本山の南斜面に築かれた、総数200基を超える古墳時代後期から終末期にかけての古墳群です。早稲田大学によってつけられた番号のついた立札が無数にあります。
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こちらは別の古墳です。塚本山古墳群の発掘は昭和49年に関越自動車道の工事に先だって行われ、29基の古墳が調査されて、銀象嵌の施された頭椎大刀や須恵器フラスコ形長頸瓶、5条凸帯の円筒埴輪、家形埴輪などが見つかっています。
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浅見丘陵を出ました。小山川沿いの畑の中から丘陵を振り返ります。
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「楊林寺」は、美里町広木にある大興寺末の臨済宗寺院で谷昌山と号します。年代は不明ですが、高庵が開山となり創建したと伝えられています。下児玉金鑽神社の別当寺を務めていました。
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その「下児玉金鑽神社」です。下児玉は身馴川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村で、度々洪水に見舞われており、神社の創建に関しても、延暦年間、東夷征伐の途次に当地に立ち寄った坂上田村麻呂が、身馴川に棲む龍を退治したという伝説が残っています。5年に村社に列格し、40年に字西山の稲荷神社、字熊谷の雷電神社、字東山の山之神社、字殿谷戸の菅原神社(及びその末社疱瘡神社・天手長男神社)を合祀しています。
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下児玉金鑽神社には、住吉神社の石碑がある富士塚のような物があります。
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「美里町生野山古墳群」は美里町と旧児玉町の境にある「生野山(現こだまCC)」に古墳時代中期から後期にかけて築かれた古墳群で、東京国立博物館所蔵の人物埴輪「正装の男子」はここで発掘されたものだそうです。
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生野山古墳群は、かつては100基以上あったそうで、古墳の名残の塚が、今も幾つか残っています。
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「蓮生堂」は小さなお堂があるだけの場所ですが、ここに「熊谷次郎直実」の遺骨が埋葬されているという伝承が残っています。『児玉郡誌』には文化11年(1814)に京都黒谷の金戒光明寺から届いた依頼状があり」と記されており、また、安永元年(1772)に書かれた「武乾記」にも「下児玉村之内熊谷に熊谷次郎直実の墓あり」とありますが、真偽は不明です。
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蓮生堂の説明板です。
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蓮生堂はしだれ桜も有名で、熊谷の熊谷桜と品種が違うのですが、地元の人々から「熊谷桜」と呼ばれて愛されているそうです。
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しばらく小山川沿いを行きます。正面に見えるのは陣見山です。
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続いて城峯山が正面に見えるようになってきました。
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広い水田地帯に出ました。本日はご無沙汰していた西上州の御荷鉾山です。
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最後の「白山神社(児玉1686-1)」は、住宅地の中にあるこじんまりとした由緒不明の神社です。
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今日は児玉駅に行く途中にあった「おおぎやラーメン 児玉店」で昼食にすることにしました。おおぎやは1991年にくるまやラーメンのフランチャイズから独立したチェーン店で、くるまやが千葉に多いのと対照的に群馬を中心に店を展開しています(安中市大竹に本社と自社製麺工場)。
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おおぎやもくるまや同様、味噌ラーメンがメインで、味も味噌+豚骨にもやしが乗り、そっくりなのですが、背脂が結構浮いているのと味噌ラーメンにはもれなくニンニクのすりおろしが乗っているため、くるまやより味が濃厚に感じました。ランチセットの「もつ煮」は北関東らしい濃い目の味付けで、酒の肴になりそうです。
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「児玉駅」に着きました。駅に着いたら、東武東上線が止まっていると騒いでいたので、今日も拝島経由で帰ります。拝島で来た青梅線が立川止りの各駅だったため、立川から先は南武線にしました。
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