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蛭川バス停から神保原駅(真下氏館跡~児玉飛行場跡~吉祥院など)

真下氏館跡、上真下金鑽神社、正楽寺、八日市熊野神社、熊野堂熊野神社、下真下金鑽神社、龍泉寺、児玉飛行場跡、嘉美神社、大御堂浅間神社、宝蔵寺、大御堂三島神社、吉祥院、大御堂古墳群、三町諏訪神社、元龍福寺、金井家屋敷、七本木神社、法泉寺、西福寺、提熊野神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ

登山口へのアクセス

バス
その他: 往路:目黒→山手線→池袋→埼京線→赤羽→高崎線→本庄→朝日バス→蛭川

復路:神保原→湘南新宿ライン→恵比寿→山手線→目黒

この登山記録の行程

蛭川バス停6:59→平重衡の首塚7:01→真下氏館跡その1(地蔵尊)7:19→真下小堂7:21→上真下金鑽神社7:24→正楽寺7:29→八日市熊野神社7:53→経力稲荷神社7:56→瑞巌寺8:04→熊野堂熊野神社8:12→児玉工業団地8:30→馬頭観音堂8:50→下真下金佐奈神社8:55→真下氏館跡その2(龍泉寺前)8:57→龍泉寺8:58→真下氏館跡その3(遊水池グランド)9:17→拓魂の開拓記念碑・西瓜碑9:23→児玉飛行場跡9:28→嘉美神社9:39→大御堂浅間神社10:14→宝蔵寺10:21→大御堂三島神社10:38→吉祥院10:43→大御堂11号墳10:53→大御堂5号墳10:57→大御堂4号墳10:58→大経塚古墳(大御堂古墳群3)10:59→藤岡道→大御堂1号墳→ラーメン大将11:07~32→三町諏訪神社11:40→元龍福寺11:46→長安寺11:46→休安寺11:52→七本木神社12:12→法泉寺12:16→金井家屋敷12:24→西福寺12:36→提熊野神社12:42→上里町役場12:59→神保原駅13:08

合計5時間49分(ラーメン除く)

コース

総距離
約21.8km
累積標高差
上り約34m
下り約52m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

2月10日(土)は、先週の神流川沿いのエリアと本庄駅から児玉駅の間の児玉党の居館が連なるエリアの間に広がる何もないエリアを回って来ました。地図を見た感じから、水田地帯の低地かと思っていたのですが、本庄台地の水の得にくそうな畑作地帯がひたすら続く平原でした。

今日は本庄駅から児玉折返場行の朝日バスで、この前、児玉党蛭川氏の館跡があった「蛭川バス停」からスタートします。まず最初に「平重衡の首塚」に朝の挨拶をしていきます。

首塚の北側を流れる女堀川沿いの道を進むと、まず最初に「真下氏館跡その1(上真下)」があります。新道が斜めに横切る方形区画があるだけだと思っていたのですが、西側の道に沿って土塁の跡のような物が残っていました。あと北東端に地蔵尊が、南側に真下小堂と呼ばれる小さなお堂があります。

「真下氏」は、先日丹党出身と書きましたが、ここの真下氏館はすぐ隣が児玉党の本拠地であることもあってか児玉党出身になっています。児玉党の真下氏は、児玉党の本宗家2代目である児玉太夫弘行の三男で、上真下・下真下・八日市、北共和の一部を所領していたとされます。ただ弘行と基行は生きた時代が異なるため、正確には、弘行の次男である有道資行(入西資行)の四男(末子)の有道(入西)基行がこの地に住み着き「真下五郎太夫基行」と称したのが始まりという説もあります。入西資行には4人の息子がおり、他は越辺川沿いに移り住んだ越生氏、浅羽氏、小代氏になっており、共に鎌倉時代は弓の名手として知られていました。「真下左兵衛春行」は新田義貞の南朝軍に属して戦いますが、延元2年(1337)に本庄早稲田駅前の大久保山(浅見山)で戦われた「薊山合戦(薊山安保原合戦)」で討死し、真下氏は没落したといわれています。その後、残った一族は上野国に移住し、戦国期の天文年間(1532~54)に群馬県の旧鬼石町(藤岡市)に「真下吉行」は「真下城」を築きます。この辺タイムラグが丹党説を生んだ可能性があります。

「上真下金鑽神社」は、真下氏が勧請したと伝わる下真下の金佐奈神社から分かれた神社で、元は村の北の丘の中腹の武蔵二之宮金鑚神社を遥拝できる場所にあったらしいのですが、宝永年間(1704~11)に社殿を焼失し、この地にあった日吉神社を合祀されました。宝暦年間(1751~64)に旧社地に戻り、明治4年には逆に日吉神社を合祀し、村社となっています。

「正楽寺」は、上真下金鑽神社の別当であった真言宗豊山派寺院で、瑠璃山と号します。本尊は薬師如来ですが、新田義貞が戦勝祈願し、真下氏も深く信仰していて討ち死に後には一緒に埋葬されたていたと伝わる十一面観音があります。寺の前には「瑠璃ぼたん園」という70種1300株のぼたんの花が植えられた庭園があり、観光名所となっています。この庭園は令和元年 埼玉県シラコバト賞を受賞しています。

しばらく何もない畑の中を歩きます。「八日市熊野神社」は、『延喜式』神名帳の式内社「今城青八坂稲実神社」の論社である神社です。元は村内の字今城に鎮座しており、後に現在地に遷座したと伝えられており、旧鎮座地の地名にちなんで今城青八坂稲実神社を称していたそうです。現在地の地名である「八日市」は、古くから「八の日」に市が開かれていた場所で、延宝2年(1674)、四代将軍家綱の時代に、市での争いで大火が起きたため、後に厄払いとして奉納されたのが神社で奉納される「八日市の獅子舞」起源とされています。江戸時代の別当は本山派修験の「大学院」でしたが、神仏分離後は真仁田姓を名乗って神職となり、現在に至っているそうです。

「経力稲荷神社」は民家の間の細い路地の奥にある神社です。由緒は不明で隣の家の屋敷神かもしれません。

「瑞巌寺」は、吉祥山と号する臨済宗妙心寺派の寺院です。三月中旬に普通の桜より少し早く咲く樹齢約300年のしだれ桜が有名だそうです。

「熊野堂熊野神社」は、八日市の熊野神社北側の熊野堂という場所にある神社で、先程の八日市熊野神社に関係がありそうですが、由緒はよくわかりません。境内に紅梅が咲いていました。

そして「児玉工業団地」に入ります。ここは戦時中に、本庄台地の中心に広がる「八丁八反」と呼ばれる広大な平原に造られた「児玉飛行場」の跡地です。終戦後、一旦農地に戻された後、工業団地が造られています。

工業団地を東に抜けると畑の真ん中の墓地に「馬頭観音堂」があります。壇の浦の戦いで斃れた愛馬のタテガミを「真下太郎基行」が持ち帰り、馬頭観音を奉ったという伝承が残っています。馬頭観音は真下太郎の持仏ともいわれています。

その北側の集落ある「下真下金佐奈神社」は、元暦元年(1184)8月15日に児玉党の「真下太郎基行」が勧請した神社です。ただ昔は西北に1kmほど行った場所にあり、飛行場建設のため、昭和17年に現在地に移転されてきたそうです。

真下氏館跡の北側にある福寿山と号する広木村大興寺末の臨済宗妙心寺派寺院の「龍泉寺」には、「真下氏一族の墓石群」があり、薊山合戦で討死にした「真下春行」の墓も残されているとのことだったのですが、建物が新しくなって、墓地も整理されてししまっていて、見つけることはできませんでした。この寺も飛行場建設のために移転されてきています。

龍泉寺の南側、下真下金鑽神社の東側の畑と住宅になっている一角が「真下氏館跡その2」といわれる場所なのですが、特に遺構もなく、寺も神社も飛行場建設のため移転してきた物なので、可能性は薄いと思われます。

ということで児玉工業団地の中の下真下金鑽神社や龍泉寺あった西北に1kmほど行った場所に行ってみます。神社や寺と共にあったとされる「真下氏館跡その3」は、水のない遊水池に造られた「児玉工業団地遊水池グラウンド」になっていました。何もない場所に人工的に造られた池ならしょうがないですが、元々沼や水路があった窪地に遊水池を造ったのだとしたら、「真下氏館」は沼や水堀に囲まれた沼城だったのかもしれません。

遊水池グランドから東北に真っ直ぐ進むと「児玉飛行場跡(第15輸送飛行中隊発祥の地)」の碑と「拓魂の開拓記念碑」があります。児玉飛行場は、帝都防衛のために、第二次世界大戦の戦時中の昭和17年(1942)に着工して、昭和18年10月から運用が開始されました。かなりの突貫工事だったようで、建設に動員された地元の農民は大変だったようです。特攻隊の拠点でもあり、学徒動員の200名を3ヶ月の操縦教育で陸軍特別攻撃隊要員として第一線に配属していましたが、昭和20年(1945)8月の終戦でわずか3年という短い期間で閉鎖され、特攻で死ぬ覚悟をしていた学生たちは死を免れました。この事は映画「日本の一番長い日」にもなっています。その後、飛行場は再度農地として開拓されます。その開拓30周年の記念して建てられたのが「拓魂の開拓記念碑」です。また隣にある「西瓜碑」は、開拓直後に栽培されて成功を収めた西瓜を記念した物です。

児玉工業団地の東北端にある「嘉美神社」は、明治7年に立野村と久城村が合併して嘉美村となり、その地名をつけて周辺の13社を合祀して村社となった神社です。元は群馬県の碓氷郡の碓氷権現(熊野神社)を虫除に霊験ある作神として勧請してきた熊野社でした。

工業団地の縁を西に向かいます。「大御堂浅間神社」は大御堂古墳群に属する径14mの円墳である「不二塚古墳」の上に奥宮が建てられた浅間神社です。東麓に本社があります、創建年代は定かではありませんが、真言宗の宝蔵寺が別当職を勤め、神事を行っていたそうです。宝蔵寺との間には県道が通っていますが、鐘撞堂が神社側に残っているので、元は一つの敷地内にあったと推測されます。神仏分離令で寺から離れ、明治5年に村社に列しています。その後大正5年に雷電神社を合祀した際に、雷電神社の本殿を東麓に移築したのが今の本社たそうです。裏の古墳とは別の小山の上に荒神社があります。毎年5月3日、八十八夜祭と呼ばれる地元の人が役者に扮する素人芸能の大会が行われています。

「宝蔵寺」は、大御堂浅間神社の別当であった真言宗智山派寺院です。富士山威徳院と号します。八幡山城(雛岡城)主・松平清宗が開基になって創建されたと伝えられています。高さ13.9m・目通り周囲4.9m、樹齢800年の「宝蔵寺の槇(まき)」が上里町の天然記念物になっています。この槇は、上が2つに分かれており、戦時中、児玉飛行場の飛行機の発着に支障をきたすため、上部を短く切られた経緯があり、木の下に槇木大明神の碑が建てられています。

またしばらく畑の中を進みます。「大御堂三島神社」は、次に行く吉祥院の境内に勧請されていた神社だそうで、明治の神仏分離令で、吉祥院境内より現在の地に遷座され、明治5年に西大御堂村の村社となっています。

そして「吉祥院」です。大御堂の地名はこの寺に大伽藍があったことに由来するそうです。吉祥院は阿保山真光寺と号する真言宗智山派寺院で、丹党・安保氏の氏寺でした。大同元年(806)に「武蔵介阿保上人」が開基となり沙門任覚を開山として創建され、戦国時代に新里綱房の次男「安保実光」が開基になって中興したと伝わっています。安保実光は先週、丹荘駅近くの元阿保に館跡がありましたが、早くから頼朝に仕え数々の軍功を上げるも、承久3年宇治橋の合戦で討死しています。その後、延元3年(1336)の「薊山阿保ケ原合戦」で伽藍を焼失するも、暦応5年(1342)に「阿保肥前守直実」らにより復興されています。しかし永禄元年(1558)に阿保氏と北条氏の合戦で再び焼失し、その後真言宗山伏の触頭となっていましたが、寛永19年(1642)に幕府から30石の御朱印状を賜り、ようやく再建されたそうです。現在の建物は、その後も火災に何度か合っているため、文化10年に再建されたものだということですが、お堂が崩れかかっているなど、残念ながらかなり老朽化が進んでいます。たぶん立派な山門もあったでしょうが、取り壊されて今は何もありません。かろうじて整備されている阿弥陀池の梅苑が梅の名所として知られています。また古くから境内に寺で使用する雑器類を焼いていた窯があり、それを復元して作られている吉祥院焼が有名だそうです。

大御堂にも「大御堂古墳群」という古墳群があり、13基が確認されているそうですが、掘り崩されて現存している物は少ないようです。

まず吉祥院の北東の畑の脇にある「大御堂11号墳」は、笹藪の裏にあって見つけにくいですが、径10~15m高さ1.8mほどの円墳です。

「大御堂5号墳」は径9mの円墳です。冬なので伐採されていますが、夏は草木が生い茂っているようです。

「大御堂4号墳」と「大経塚古墳(大御堂3号墳)」は道を隔てて南北に存在しています。「大御堂4号墳」は径10mほどの円墳です。墳丘は笹藪に覆われており、観察することはできません。「大経塚古墳」は径23mの大御堂古墳群では最大規模の円墳です。名前から経塚だったのでしょうが、主体部や副葬品などの詳細は分かっていないそうです。

本庄~神泉総合支所行バスのバス通りに出ます。ここには「大御堂1号墳」があったそうですが、残念ながら墳丘は取り壊されて住宅になっています。径7.2mの円墳だったそうです。また道の南側に2号墳もありましたがこれも残っていません。

本庄~神泉総合支所行バスのバス通りは「藤岡道」という古くからの街道で、本庄宿で中山道から分岐し、藤岡、富岡、下仁田を経由して信州で再び中山道に合流する「中山道の脇往還」でした。この辺りは江戸時代初期に成立したパイパスですが、神流川渡って藤岡市と富岡市を通り、妙義山の北側から和美峠を越えて信濃追分に至る区間は、中仙道が出来る前の鎌倉街道や東山道の古道でした。武蔵武士の祖先はこの道を通って関東に入植してきました。江戸時代に中仙道が出来た後も、碓氷峠や関所を通過することもなく、大名行列の往来も少なかったため、商人や善光寺参りの女性に頻繁に利用されていたそうです。

藤岡道を少し行くと、「ラーメン大将」という、「カルビラーメン」発祥の地とされる町中華があるので、少し早いですがここで昼にします。芸能人のサインが何枚かありました。人気の「カルビラーメン」800円の大盛+200円を注文。名前から焼肉の分厚いカルビが乗っているラーメンかと思ったら、肉多目でキャベツではなく白菜主体の肉野菜が辛味噌ラーメンの上に乗っているラーメンで、肉もカルビ肉ではなくバラ肉のような感じでした。日高屋のチゲ味噌ラーメンと満州の旨辛菜麺を足して2で割った感じで、味的には好きな味だったので、美味しくいただいて後半戦に突入します。

「三町諏訪神社」は、名前の通り旧横町・安保町・長浜町の3か村の鎮守として祀られてきた神社です。江戸時代の別当は宮本坊という修験が務めていましたが、神仏分離により寺から離れ、明治5年に村社となっています。

「元龍福寺」は名前の通り、既に本堂がなくなり墓地だけになっているお寺で、「大日堂」と名付けられた小さなお堂が残っているだけでした。

「長安寺」は、日中友好の蓮池がある鴻巣勝願寺末の浄土宗鎮西派寺院です。郷榮山光大院と号します。

「休安寺」は、高崎の萬松寺末の曹洞宗寺院で、慈眼山と号します。地元の有力者の「金井筑前守政綱」が龍山栄潭大和尚(1608年没)を開山として創建しされました。上里町指定文化財の金銅釈迦如来坐像があります。

休安寺の北側、藤岡道を渡った先に金井筑前守の子孫が住む「金井家屋敷」があります。祖先の金井筑前守政綱は新田一族で戦国時代に金窪城主「斉藤摂津守定盛」の娘と結婚して七本木に移り住み、この辺りを開発したそうです。現在の当主は19代目になるそうです。近くにある法泉寺、休安寺、西福寺、七本木神社は政綱が創建したといわれています。金井家には、先祖伝来の品として家紋の付いた陣笠が残されているそうで、家も遠目で見るだけで見学はできませんが、屋根に蚕を飼っていた時代の通気孔が残っています。

「七本木神社」は、金窪城より移住した金井筑前守政綱が武運守護の大神として八幡大明神勧請し、代々崇敬してきた八幡神社で、当地の鎮守でもありました。明治5年に村社となり、政府の神社合併で村内の神社を合併して、明治42年に七本木神社と名を改めています。この時合祀した榛名神社が「今木青八坂稲実池上神社」の論社であったため、七本木神社も式内社の論社となっています。鳥居を入ってすぐ右手には、本郷愛宕塚から移転した庚98基の庚申塔が建てられている「庚申塚」があります。

「法泉寺」は、金井筑前守政綱開基の群馬県下仁田町の長楽寺末の曹洞宗寺院で舜榮山と号します。この辺りは群馬の末寺が多いです。

「西福寺」も、金井筑前守政綱開基の京都府知積院末の真言宗智山派寺院で、安楽院と号します。室町時代の天神古画と十五仏古画が上郷町指定文化財になっているそうです。江戸時代には幕府より13石の御朱印を賜っています。七本木小学校創設の地でもあるそうです。

最後の「提熊野神社」は、『延喜式』神名帳「今木青坂稲実荒御魂神社」の論社です。地内からは平安時代の住居跡が発掘されおり、神社裏に東堤古墳群に属する「熊野神社古墳」があることから、古い時代から信仰を集めていた聖地であったと推測されるそうです。神仏分離によって江戸時代の別当寺である東昌院(廃寺)から離れて村社となった後、治43年には地内の神社8社、境内社5社を合祀しています。

「上里町役場」を経由して神保原駅に向かいます。新しくてきれいな役場でした。上里町の上(かみ)の由来は、先週も書きましたが賀美郡の賀美(かみ)から来ています。賀美=上は、武蔵国で一番京都に近かったから着けられたといわれています。

「神保原駅」に着きました。駅名の由来は昔ここのあった「神保原村」から付けられています。石神村、忍保村、八町河原村の3村が合併した際に、それぞれから1文字ずつ取って付けられたものだそうです。高崎線沿線の中で唯一、明治時代以降再開発が行われていない最後の駅といわれているそうですが、駅の出口と反対側の南側に新しいバスターミナルが建設されています。でも飯屋もコンビニも無し。

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