行程・コース
天候
快晴
登山口へのアクセス
バス
その他:
往路:目黒→山手線→池袋→埼京線→赤羽→高崎線→倉賀野→八高線→群馬藤岡→藤岡市コミュニティバス「めぐるん」上平線→中倉
復路:綠埜公会堂→藤岡市コミュニティバス「めぐるん」上平線→群馬藤岡駅→八高線→高崎→高崎線→赤羽→埼京線→新宿→山手線→目黒
この登山記録の行程
中倉バス停9:49→金井薬師堂9:52→下日野鷲神社9:59→平井金山城跡登山口10:12→物見台跡10:33→清水刻字岩10:39→平井金山城跡山頂325m10:43→井戸跡10:52→櫓門跡11:00→櫃岩11:06~10→平井金山城跡登山口11:41→中山古墳11:48→鮎川11:58→高山城跡(百間築地砦跡)12:09→要害山城跡12:26→天屋城跡12:50~13:00→百間築地砦跡13:34→東平井古墳群金井支群13:39→金井稲荷神社13:50→平井城笹郭跡14:03→三島神社14:07→仙蔵寺14:10→平井城副郭跡・外郭跡14:14→平井城跡(平井城址公園)14:16→平井城堀跡14:26→平井城三ノ丸跡14:36→常光寺14:36→塚間古墳群14:56→飛石の砦15:00→円満寺15:04→東平井砦跡15:16→高源寺15:26→東平井諏訪神社15:28→天神山神社15:33→美国神社15:53→綠埜公会堂バス停16:02
合計6時間13分
高低図
登山記録
行動記録・感想・メモ
5月25日(土)は、藤岡市の城跡群の中心的存在である「平井城跡」に行ってきました。南北朝~室町時代に鎌倉(古河)公方と死闘を演じ、その後身内の扇谷上杉氏などとの内ゲバ闘争もあり、関東地方を長い戦乱の渦に巻き込んだ「山内上杉氏」の関東最後の拠点となる城跡です。上杉家はここで後北条氏に敗れて関東を追い出され、上杉謙信(長尾景虎)に家督を譲ることになります。謙信は、関東の覇権を取り戻すことが家督を受け継ぐ大義名分だったため、その後何度も関東地方に攻め入ってくるわけです。
平井城跡に行くには、藤岡市営バス“めぐるん”のもう一本の半観光路線「上平線」に乗る必要があります。このバスは朝イチの1便が6時台で東京からだと間に合わないので、2便の群馬藤岡駅8時13分発に乗ります。そのためスタートが9時になってしまうのですが、さらに電車を乗り間違えた関係で、このバスに間に合わず、近くの別の路線のバス停から「中倉バス停」まで歩き、さらに1時間近くスタートが遅れてしまいました。でもわかりにくくなるので、スタートは「中倉バス停」とします。
最初の「金井薬師堂」は、関東管領「上杉憲政」が、天文21年(1552)に後北条氏に関東を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びる途上で、高山にあった旧高倉寺に一時的に避難させた山内上杉家の守り本尊である薬師如来を同寺の良山和尚が奉ったといわれるお堂です。「伝山内上杉顕定公愛用の碁盤」を所有していました。碁盤は室町時代の作で、国内に現存する碁盤の中ではかなり古い部類に入るということです。碁盤には後世に加筆された「西平井村 平岩山 文殊院」の文字があり、文殊院は今は存在していないため、現在の所有者は西平井の「仙蔵寺」ということになっています。上杉氏が関東を追い出されたため、「金井薬師堂」の管理は、高山社の高山長五郎の先祖で、この地で帰農した高山家が引き継いだようで、元禄16年(1703)に当地に移築された記録や享保12年(1731)に山崩れにより倒壊したものを高山半兵衛重寛が再建した記録などが残っています。
「下日野鷲神社」は群馬県には珍しいわしのみや(おおとり)神社です。拝殿には鷲宮大明神とあります。由緒は不明ですが、藤岡は埼玉県の本庄あたりと複雑に血縁でつながっているため、埼玉方面から移住してきた人達によって祀られた神社だと思われます。だた夏祭は行われているものの、酉の市については調べても出て来なかったので、行われていないと思われます。境内には樹齢150年の夫婦けやきの木があります。
そして平井城の詰めの山城である「平井金山城(平井詰)跡」に登ります。永享10年(1438)に、一説によると長尾忠房が上杉憲実のために標高325mの金山に築いた城といわれ、群馬県太田市にある金山城と区別するために平井金山城と呼ばれているそうです。天文21年(1552)に上杉憲政が後北条氏に関東を追われた際に、平井城と一緒に陥落しており、その後、後北条氏には使われなかったため、廃城となったようです。ただ武田勢が上州に侵攻してきた際に利用した可能性もあるそうです。
平井金山城跡は、「平井金山城跡公園」になっているため一応道は整備されていますが、荒れていて倒木も多いため、スニーカーよりトレッキングシューズがお勧めです。登山(城)口は「日野小学校前バス停」155mの前で「平井詰城跡登山口」と書かれた標識と駐車場があります。簡易水道のタンクの脇から、登山道を登って行くと、まず「物見台跡」300mに着きます。北東側が刈り払われていて高崎方面の眺めが良いです。物見台跡から段差と掘切で区切られた平坦地越えると金山山頂325mに着きます。ここが「本丸跡」です。平井金山城の標柱と色々な解説板があります。山頂手前から櫓門跡を目指して北西側に下ると、こちら側にも段差と掘切で区切られた平坦地があります。その先の分岐を左(北西)に行くと東屋と「井戸跡」260mがあります。分岐を右(北東)に行くと深い堀切のところに「櫓門跡」280mがあり、その先に櫃(かろうと)岩260mという隣接する大岩があります。この岩の下に表門(大手門)があったそうです。櫃岩の先は綠野CCというゴルフ場で下れないため、休憩後今来た道を戻ります。
日野小学校前バス停に戻り、1つ先の上新町バス停まで歩きます。道の南側に「中山古墳」という委細不明の古墳があります。この古墳の少し先に「鮎川」に下りる道があり、増水時でなければ飛び石で渡れる場所があるので、そこで川を渡りました。1箇所だけどうしても水の中に足をつかなくてはならないところがあって、右足が浸水してしまいました。一般的にはお勧め出来ないルートなので、ちゃんと橋で渡りましょう。
「鮎川」は、御荷鉾山北麓を流れている川で、めぐるん「上平線」に乗ると谷の最奥の集落まで行けます。源流は稲含山南方の杖植峠だそうです。下流は上落合で鏑川に合流します。
鮎川を渡った対岸の山にあるのが「高山城跡」です。山の南側に本拠地である「高山四郎行成館(世界遺産の高山社と同じ場所)」を構えていた高山氏が、上杉氏の平井城を守るために築いた城で、東日野金井城、天屋城、日野城とも呼ばれます。城は「百間築地砦」「要害山城」「天屋城」の3つに分かれます。
一番下にある「百間築地砦」は、鮎川を掘代わりにした出城のような存在で、畑を埋めただけで放置された草ぼうぼうの造成地になっていて、怪しい石垣と土塁のような物がありますが、石垣は立派すぎるため、造成する過程で築かれた物の可能性もあります。
少し上に登った山の中腹にあるのが「要害山城」です。ここはまず送電線鉄塔の裏側の登山道の取り付きが笹藪に埋もれていてわからなくなっていて、往きは斜面の適当な場所を獣道を使って登りました。登った斜面は細長い何段もの平坦地になっており、その上に土塁と立派な空堀があります。堀の上の一段高い場所にある神社の跡がが要害山城の本丸だと思われます。ただ狭くて居住性がほとんどないため、独立した城ではなく、天屋城の山の中腹に築かれた戦闘用の砦のような存在だったと思われます。
要害山城から堀切の跡を1つ越え、山の急斜面登った300m前後の稜線にあるのが高山氏の最終的な詰城である「天屋城」です。まず道なのですが、稜線直下までは古い林業の作業道のような物が残っています。最後だけテープを頼りに微かな踏み跡を辿ってよじ登る感じになります。稜線に登り着いた場所から、左(東北)に露岩の多い尾根を進むと、3つの立派な堀切で区切られた平坦地があり、その先の一段高い場所に287.3mの四等三角点があります。ここが本丸跡です。反対の南に続く続く尾根にも何本か掘切があるようですが、こちらは最初の二重の堀切を確認しただけです。下りは途中から出てきた作業道を逆に全部辿ってみました。すると終点の送電線鉄塔の手前で潰れた笹藪に阻まれて、藪の下の獣道のトンネルをはうようにして何とか脱出できましたが、ここは通れないと思った方がよいです。
高山城を築いた高山氏は上杉氏が関東から追い出された後は、後北条氏、武田氏、上杉謙信、滝川氏などに従っているため、高山城も天正18年(1580)に秀吉により後北条氏が滅ぼされるまで存続したと考えられます。その間、状況に応じて色々改造されたことが城が3つある理由のような気がします。
百間築地砦から東に進みます。「東平井古墳群金井支群」は、畑になっていて何も残っていないようです。東平井古墳群は、鮎川東岸の段丘上に分布する古墳時代後期の古墳群で、川破・塚間・飛石・時沢の4支群で構成され、昭和初期には墳丘が350基以上が確認されたそうです。
鮎川を今度は橋で渡ります。「金井稲荷神社」は、享禄年間(1528~38)に平井城笹曲輪の守護神として創建されたと伝わる神社です。平井城落城後に荒廃しますが、江戸時代に帰農した高山氏が再興したそうです。境内社に宗像神社があります。
神社から100mほど北の高台の住宅地が「笹曲輪跡」で、平井城二の丸南に永享10年(1438)に築かれたとされています。
笹廓跡から西の丘陵の麓にある「上三島神社(西平井192)」は、関東管領「上杉顯定」が伊豆三嶋大社から分祀し、平井城の氏神として祀った神社だと伝えられています。立派な門兼拝殿があり、その奥には入れないようになっています。毎年11月15日に行われる秋季大祭の前夜祭の「三嶋様の夜祭り」は、菊川英山筆「富士浅間神社祭礼絵巻」(市指定重要文化財)に描かれた行列の様子と酷似しており、祭りの古い形態を伝承しているそうです。
三島神社の横にある「仙蔵寺」は、鎌倉時代の文応元年(1260)に法印親玄によって開かれ、室町時代中期に関東管領上杉憲実により中興された真言宗豊山派寺院です。元高校英語教師の御住職は上杉氏の研究者で「平井城興亡記 山内上杉一〇〇余年の光と陰」という著書があるそうです。境内にある「蝸牛石(だいろせき)」は平井城所縁の三石のひとつで、雨がシトシト降る日には、まるで歩き出すように向きを変えて動くといわれています。また足方義政おかかえの絵師で狩野派創設者の狩野正信の文殊騎獅子手持経巻図を所有しているそうです。
住宅街の中の養蚕住宅のお宅の裏の細道が「外堀跡」で、その南側の小高くなっている場所が「福廓(二の丸)跡」だそうです。
住宅街を抜けると堀跡といわれるバス通りの向こうに平井城の旗が立っている土塁が見えます。ここが「平井城址公園」で、平井城跡の「本丸跡」だそうです。小さな広場になっており、隅に幾つも石碑が建てられています。東側は鮎川の河岸段丘の絶壁になっており、川との間に復元された掘跡があります。
「平井城」は、鎌倉公方「足利持氏」と京都の足利幕府(第六代将軍・足利義教)の対立が抜き差しならぬこととなり、それが幕府側の関東管領上杉氏と鎌倉公方の対立となり、永享10年(1438)、ついに鎌倉山内館にいられなくなった「上杉憲実」が退去先として選んだ屋敷です。家臣の長尾忠房に築城させたといわれています。持氏は平井城に兵を向け、これが「永享の乱」の初まりとなります。憲実は京都の将軍義教に救援を要請し、陸奥の篠川公方足利満直、駿河守護今川範忠、信濃守護小笠原政康らの討伐軍が派遣され、形勢は逆転し、持氏は捕らえられて幽閉され、自害に追い込まれます。
その後、平井城は、文正元年(1466)に関東管領になった上杉顕定によって拡張されたという記録が残っていますが、山内上杉氏の本拠地として永続的に使用されていたきたではなく、山内上杉氏は状況に応じて鎌倉の山之内や五十子陣、群馬県安中市の板鼻、鉢形城、菅谷城などに本拠地を移しており、平井城を拠点としたのは、永正9年(1512)の永正の乱の後、大永年間(1520年代)から天文21年(1552)に後北条氏によって関東から追い出されるまでの16世紀前半の短い期間だったと考えられています。
後日、永禄3年(1560)に、長尾景虎(上杉謙信)によって平井城は奪回されていますが、景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)としたため、平井城は廃城となったそうです。上杉や武田の本拠地となることを恐れた北条氏が城郭を破却したためといわれています。
最後に「山内上杉家」について少し述べておくと、山内上杉家は数ある上杉家の本家筋にあたる家柄で、鎌倉の山之内に居館があったことから、こう呼ばれるようになったそうです。祖先は公家である藤原氏の一族で、関東に下向した際に足利家と姻戚関係を結び(足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身)、それを背景に権力を持つようになって、やがて関東管領を世襲するようになります。大田道灌が家宰を務めていた扇谷上杉家は上杉家支流の1つです。
矢島商店前バス停の前に「三ノ丸」の標識がありました。でもここも単なる住宅地です。
次に上杉顕定の菩提寺とされる「平井山 常光寺」に向かいます。元亨3年(1323)に原常光が開基となり、観光普門和尚の開山した高野山真言宗寺院ですが、平井城落城時と文禄年間(1592~96)に焼失し、上杉家の遺品は残っていないそうです。
「塚間古墳群」は先ほどの東平井古墳群の支群の1つですが、こちらは農地の中にまだ幾つかの墳丘が残っていました。
「飛石の砦」は、運送会社の敷地内にわずかに土塁が残っているもので、平井城の北東側の防御を目的として造られた支城のようなものと考えられています。一辺が70mの単郭堡で単体では意味をなさないため、近隣の別の支城と連携をとりながら作戦を行っていたのではないかといわれています。
「護国山 円満寺」は、寺はしょぼいのですが、立派な山門があります。永享10年(1438)に上杉憲実が平井へ退去してきた際に、鎌倉の極楽寺を東平井に移して再建したといわれる真言宗智山派寺院で、上杉氏の祈願所だったそうです。山門の横にある行人塚は、江戸時代後期の文化9年(1812)に造られたものでも、中から「関東管領上杉憲房の墓碑」が発見されたそうです。昭和63年に修復した際に、憲実公碑と顕定公碑を複製した供養塔が上に建立されました。
「東平井砦跡」は、先ほどの飛石の砦と同じような位置づけの砦で、今は水田を埋め立てた造成地に太陽光パネルが設置されています。東西100m、南北70mの単純な長方形の形をしていて、城ノ内の地名が残っています。平井城の刑場の跡という伝承もあるそうです。
平井公民館前バス停の向かい側にある「満重山 高源寺」は曹洞宗寺院以外よくわかりません。
高源寺からバス通りを隔てた東側にある「東平井諏訪神社」は、立派な山門と極彩色の彫刻が施された社殿を持つ神社です。秋葉神社と雷電神社が合祀されているようです。創建は天長元年(824)7月に村が出来た時に信州より勧請したことになっており、最初は毎年藁の祠を造っていましたが、延長6年3月に社殿が建立され、今の場所に遷座されたということです。7月27日に行われる大祭は、應永28年(1421)に上杉憲実更が平井城鬼門封じの神としてさらに社殿を造営し、同年7月27日遷宮したためとそれを記念して大祭をこの日に行うようになったという伝承が残っています。上杉憲実は応永17年(1410)なので、わずか11歳ということになるのですが…。
「天神山神社」は、水田地帯の中にとり残された丘陵の残丘の上にある神社です。拝殿内に関流の和算家・岸幸太郎一門が奉納した算額が残されていることから、学問の神である菅原道真を祀る天神社であると思われますが、境内にある御嶽山座王大権現碑の裏に、幕末頃の満重山 高源寺の住職である龍橋の名前が書かれていることから、多胡郡・緑野郡・甘楽郡三郡坂東三十三所遷の内の十五番札所「満重山 山之堂」が廃仏毀釈によって神社として扱われるようになったという説もあるようです。
北へ進み、三たび鮎川を渡ります。最後の「鮎川美国神社」は、元は加賀の白山比咩神社を勧請した白山神社だったようで、明治43年(1910)に飯玉神社を合祀したときに美国神社と改称したそうです。平井城の鬼門除だったという伝承も伝わっています。拝殿の天井格子絵は緑埜が生んだ女流画家・斎藤香玉が師匠の椿椿山と共に描いたものといわれていて、斎藤香玉の母・こうは社殿の再建に寄進も行っています。
「綠埜公会堂バス停」に着きました。朝と同じ上平線で帰ります。ちなみに地名の「綠埜(野)」は、安閑天皇2年(535)5月に天皇が数多くの屯倉を設置した一つで、上毛野国に設けられた「綠埜屯倉」からとられているそうです。
フォトギャラリー:111枚
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藤岡市営バス“めぐるん”「上平線」からスタート!不覚にも電車を乗り間違えた関係でバスに間に合わず、近くの別の路線のバス停から歩いてきたため、出発が10時近くなってしまいました。
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中倉バス停からは、進行方向に子王山がよく見えます。
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最初の「金井薬師堂」は、関東管領「上杉憲政」が、天文21年(1552)に後北条氏に関東を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びる途上で、一時的に避難させた山内上杉家の守り本尊の薬師如来奉ったといわれるお堂です。「伝山内上杉顕定公愛用の碁盤」を所有していました。
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解説板に載っていた「伝山内上杉顕定公愛用の碁盤」の写真です。
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この辺りは、世界遺産の高山社が近いので、養蚕住宅がまだあちこちに残っています。
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「下日野鷲神社」は群馬県には珍しいわしのみや(おおとり)神社です。拝殿には鷲宮大明神とあります。
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下日野鷲神社境内には樹齢150年の「夫婦けやき」の木があります。
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2バス停戻って、「日野小学校前バス停」にやってきました。このバス停の前が平井金山城の登山口です。城に直接登りたい人はここで降りましょう。バスではなく車で来る人も広い駐車場があるので大丈夫です。
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「平井詰 平井金山城址跡登山口」の標柱です。ここは山内上杉氏の関東地方最後の居館である平井城の詰めの山城です。天文21年(1552)に上杉憲政が後北条氏に関東を追われた際に、平井城と一緒に陥落しており、その後、後北条氏には使われなかったため、廃城となったようです。
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平井金山城跡の大雑把な説明書きです。平井金山城や平井城の説明書きは書きすぎて読むのが大変な物が多く、これが一番わかりやすいです。
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登山口から見た平井金山城跡のある山です。右手前の山ではなく左奥の山がそうです。
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入口にある平井金山城跡の地図です。
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地図の下には、平井城の上杉氏にくみした近隣の城の一覧があります。ただ有名な城を中心にしたせいか、鉢形城のような近場とは到底いえない城も入っており、逆にすぐ隣の高山城、子王山城などが入っていません。
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駐車場の先すぐが登山道入口となります。平井金山城跡は、「平井金山城跡公園」になっているため一応道は整備されていますが、結構荒れていて倒木も多いため、登山靴はいりませんが、スニーカーよりトレッキングシューズがお勧めです。
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登山道に入ってすぐ、簡易水道の配水施設があります。
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登山道の途中の標識です。山頂(本丸)までの距離と現在地の標高が記されています。
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登山道です。普通に見えますが、今年は雪がほとんど降らなかったせいか、乾燥した滑りやすい落ち葉が多く、歩きにくいです。また一部倒れた竹が覆い被さって通りにくい場所があります。
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登山道の途中にあった古びた石垣です。3段になっています。後世の物とも考えられますが、城の中腹に防御用の拠点が築かれていた可能性もあります。
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物見台がある稜線が見えて来ました。
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稜線に登り着いたところには、現在地を示した案内板があります。これは要所要所にあります。
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稜線に登り着いた場所にから、右(東)に少し行った場所が物見台です。
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物見台からの大展望です。群馬藤岡駅周辺の市街地~伊勢崎市方面が見えます。
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それから、子持山と小野子山の間にうっすらと谷川岳が見えます。赤城山は右の木に隠れて見えません。
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戻って稜線を西に進むと、まず最初にお約束の堀切があります。
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堀切の先は小さな平坦地になっていて、その先に堀切から大きく回り込んで登る「虎口」があります。
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虎口の上は居住性が良さそうな広い平坦地になっています。
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その平坦地にあった「清水刻字岩」という湧水の出る場所を示した石です。
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平坦地からもう一度虎口を抜けると山頂の本丸跡が見えて来ます。藤岡市の立派な石碑が立っています。
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「金山山頂」325mに着きました。ここが「本丸跡」です。最近、携帯の基地局ばかりであまり見ない懐かしいテレビ用の受信アンテナが立っています。
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山頂に立つ平井金山城跡の標柱です。この山城は永享10年(1438)に、一説によると長尾忠房が上杉憲実のために標高32
5mの金山に築いた詰め城で、群馬県太田市にある金山城と区別するために平井金山城と呼ばれているそうです。Exif情報
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本丸跡には、詰め城であることを強調するかのように籠城本陣跡の標識も建っています。
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本丸跡からの北西方向の眺めです。北側が伐採されているのですが、周りの木が成長して、ここしか景色は見えません。
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山頂手前から櫓門跡と井戸跡を目指して北側の尾根を下ります。こちら側の道は行く人が少ないせいか、下の方に藪っぽいところがあります。
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下り初めてすぐ土塁の跡があります。その下には土橋がかけられた堀切があります。
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堀切の先は城内で一番居住性の良さそうな広い平坦地があります。広い平坦地の下は腰郭のような狭い平坦地が何段か続きます。
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最後に大きな段差を下り、左(北西)に行くと東屋があります。
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東屋の奥には「井戸跡」260mがあり、ここが一応の城跡の終点になっているようです。
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東屋の手前の分岐を右(北東)に行くと深い堀切のところに「櫓門跡」280mがあります。こちらの道はバリエーションルートのような細道で、倒木もあり踏み跡もたまに消えるので、夏場はあまり立ち入らない方がよいと思います。
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櫓門跡の脇には古い石組が露出しています。
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この辺りまでくるとすぐ下に隣接する綠野CCのカートの道が見えてきます。
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その先に「櫃(かろうと)岩」260mという大岩があり、櫃岩の先はゴルフ場で下れないため、ここが道の終点です。帰りは今来た道を戻ることになります。
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この岩の下に表門(大手門)があったそうです、今は埋められて見ることができないとのことです。
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最後に、少し戻って尾根から櫃岩にアプローチしてみました。尾根からの櫃岩はあまり高くなく、簡単に登れます。
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櫃岩上からの展望です。冬はもう少し景色がみえるのでしょうが、新緑の木の葉が邪魔で、景色は本の少し見えるだけです。
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平井城跡登山口に戻って来ました。正面に次に登る「高山城跡」のある山が大きく見えます。
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その西側には子王山と高山御嶽山の龍背尾根が見えます。
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登山口にある日野小学校前バス停から1つ先の上新町バス停まで歩くと、道の南側に「中山古墳」という委細不明の古墳があります。
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中山古墳の少し先に「鮎川」に下りる細道があり、それを使って河原まで下ります。
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鮎川の両岸はこんな感じの水に削られた岩が露出した絶壁になっていて、簡単に対岸には渡れません。
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しかし探すと、老人ホームの脇に飛び石で渡れって登れる場所があったので、そこで川を渡りました。でも1箇所だけどうしても水の中に足をつかなくてはならないところがあって、右足が水没してしまいました。一般的にはお勧め出来ないルートなので、大回りになっても橋で渡りましょう。
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鮎川を渡った対岸の山にあるのが「高山城跡」です。山の南側に本拠地である「高山四郎行成館(世界遺産の高山社と同じ場所)」を構えていた高山氏が、上杉氏の平井城を守るために築いた城です。下から「百間築地砦」「要害山城」「天屋城」の3つに分かれ、一番下の百間築地砦のところに解説板があります。
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「百間築地砦」は、鮎川を掘代わりにした出城のような存在で、畑を埋めただけで放置された草ぼうぼうの造成地になっています。
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この造成地には怪しい石垣と土塁のような物がありますが、石垣は立派すぎるため、後世の物か、造成する過程で築かれた物の可能性もあります。
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次の要害山城跡に行く道の入口がわからないので、雑草が薄いところを通って山に取り付きます。
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取り付いた山の斜面は細長い何段もの平坦地になっていました。この段々が梯郭式ということなのかもしれません。
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その上に土塁と大きくて立派な空堀があります。この空堀を土橋で渡ると下から登ってきた正しい道に合流することが出来ました。
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林業の作業道のような正しい登山道を登って行くと、左手に古びた階段が出てきます。
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この階段を使って空堀の上の一段高い場所にに登ると、基礎だけ残る神社の跡と石祠があり、ここが要害山城の本丸のようです。ただ狭くて居住性がほとんどないため、独立した城ではなく、天屋城の山の中腹に築かれた戦闘用の砦のような存在だったと思われます。
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要害山城からさらに作業道のような道を登っていくと、斜面が急斜面に切り替わる境目に要害山城と天屋城の境目と言っていい感じの小さな堀切の跡があります。
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その先も作業道のような道は続くのですが、道型がだんだん怪しくなってきます。
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そして道型が完全に消えると、ピンクのテープと色褪せた銀色のテープが出てきます。獣道をこのテープに従って稜線までよじ登ります。
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テープつき獣道は露岩の下を抜けたところで、斜めから上へと方向を変えます。真っ直ぐ進む獣道もあるので、テープの見落としに注意です。
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標高約300mの稜線にようやく到着しました。一休みした後、稜線を左(東北)に進み、本丸跡を目指します。
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稜線に登り着いた場所から、露岩の多い尾根を左(東北)に進むと、1つの天然の堀切と3つの人工の立派な堀切、計4つの堀切があり、間に郭のような平坦地があります。これは1つ目の天然の堀切で、飛び移れないこともないのですが、少し戻って巨岩の下をへつります。
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続いて3(2)つ目の人工の堀切です。写真でわかるように3つ共深く広くしっかり掘られています。
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4(3)つ目の堀切を越えると、平坦地の奥に一段高くなった平坦地が出てきます。この上が天屋城の本丸跡です。
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段差の上の「天屋城本丸跡」に到着しました。稜線に登り着いてから一番広い平坦地になっていて、途中の空堀や堀切を含めると主君の金山平井城より立派なぐらいです。そのため一土豪にすぎない高山氏にこれだけの城を造れたかという疑問が持たれていて、一時期この地を支配した武田の関与が疑われています。
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天屋城本丸跡には標識も何もありませんが、287.3mの四等三角点があります。
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本丸跡から稜線に登り着いたところまで戻ります。来るときは気がつかなかったのですが、修験道の石碑がある岩の下の空洞がありました。昔はもっと広く、雨宿りや宿泊が出来たのでしょうか?
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反対側の南に続く尾根です。何本か掘切があるようですが、こちらは最初の二重の堀切を確認しただけで行ってはみませんでした。
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下りは途中から合流した作業道を逆に全部辿ってみました。しかし終点の送電線鉄塔の手前で潰れた笹藪に阻まれて、藪の下の獣道のトンネルをはってなんとか脱出できましたが、ここは通れないと思った方がよいです。写真は百間築地砦跡の道路の側から見た送電線鉄塔です。この裏に正しい入口がありました。
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「東平井古墳群金井支群」は、畑になっていて何も残っていないようです。東平井古墳群は、鮎川東岸の段丘上に分布する古墳時代後期の古墳群で、川破・塚間・飛石・時沢の4支群で構成され、昭和初期には墳丘が350基以上が確認されたそうです。
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鮎川を今度は橋で渡ります。橋から見た金山平井城跡です。前からだと2つの山に見えましたが、西側の山の方が高いのでこちら側からだと1つの山に見えます
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鮎川です。先ほどの岩壁がずっと続いていることがわかります。
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「金井稲荷神社」は、享禄年間(1528~38)に平井城笹曲輪の守護神として創建されたと伝わる神社です。平井城落城後に荒廃しますが、江戸時代に帰農した高山氏が再興したそうです。
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金井稲荷神社境内社には、どういう経緯で祀られたのか不明ですが、宗像神社があります。
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神社から100mほど北の高台の住宅地が、遺構は残っていませんが、「笹曲輪跡」です。平井城の二の丸南に永享10年(1438)に築かれたとされています。
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平井城の西の丘陵の麓にある「上三島神社(西平井192)」は、関東管領「上杉顯定」が伊豆三嶋大社から分祀し、平井城の氏神として祀った神社だと伝えられています。立派な門兼拝殿があり、その奥には入れないようになっています。毎年11月15日に行われる秋季大祭の前夜祭の「三嶋様の夜祭り」が有名で、藤岡市の文化財に指定されています
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「仙蔵寺」は、鎌倉時代の文応元年(1260)に法印親玄によって開かれ、室町時代中期に関東管領上杉憲実により中興された真言宗豊山派寺院です。元高校英語教師の御住職は上杉氏の研究者で「平井城興亡記 山内上杉一〇〇余年の光と陰」という著書があるそうです。
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仙蔵寺境内にある「蝸牛石(だいろせき)」は平井城所縁の三石のひとつで、雨がシトシト降る日には、まるで歩き出すように向きを変えて動くといわれています。
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住宅街の中の養蚕住宅のお宅の裏の細道が「外堀跡」で、その南側の小高くなっている場所が「福廓(二の丸)跡」だそうです。養蚕住宅の屋根は下からだと隠れて写真に撮れなかったので悪しからず。
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住宅街を抜けると堀跡といわれるバス通りの向こうに旗が立っている土塁が見えます。ここが平井城跡の「本丸跡」で「平井城址公園」になっています。「平井城」は、鎌倉公方「足利持氏」と京都の足利幕府(第六代将軍・足利義教)の対立が幕府側の関東管領上杉氏と鎌倉公方の対立となり、永享10年(1438)、ついに鎌倉山内館にいられなくなった「上杉憲実」が退去先として選んだ屋敷で、家臣の長尾忠房に築城させたといわれています。
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土塁の上はこんな感じです。その後平井城は、山内上杉氏の本拠地として永続的に使用されていたきたではなく、山内上杉氏は状況に応じて鎌倉の山之内や五十子陣、群馬県安中市の板鼻、鉢形城、菅谷城などに本拠地を移していました。
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公園は、土塁の他は小さな広場になっており、奥に解説板があります。持氏は平井城に兵を向け、これが「永享の乱」の初まりとなります。憲実は京都の将軍義教に救援を要請したため形勢は逆転し、持氏は捕らえられて幽閉され、自害に追い込まれます。
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公園にある解説板は多すぎるので、城の縄張りについて書かれた物だけ載せておきます。今は殆どが宅地になっています。
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御朱印もあるそうです。
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隅の方には上杉一族の石碑があります。
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その横には、山内上杉家の当主の一覧表もあります。上杉氏が平井城を拠点としたのは、永正9年(1512)の永正の乱の後、大永年間(1520年代)から天文21年(1552)に後北条氏によって関東から追い出されるまでの16世紀前半の短い期間だったと考えられています。
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上杉謙信の平井城奪還の標柱もあります。上杉家はここで後北条氏に敗れて関東を追い出され、上杉謙信(長尾景虎)に家督を譲ることになります。謙信は、関東の覇権を取り戻すことが家督を受け継ぐ大義名分だったため、その後何度も関東地方に攻め入り、平井城を奪還しますが、拠点として使用しませんでした。
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本丸跡から直接行けませんが、鮎川との間に復元された掘跡があります。その先にある鮎川の河岸段丘は絶壁になっています。
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堀跡脇の水路には、季節柄黄色い菖蒲がたくさん咲いていました。
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市街地に戻ると、「三ノ丸」跡がありました。
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三ノ丸跡は、前に矢島商店前バス停があるだけで、後は特に何もありません。
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「平井山 常光寺」は、上杉顕定の菩提寺とされる高野山真言宗寺院です。元亨3年(1323)に原常光が開基となり、観光普門和尚の開山しましたが、平井城落城時と文禄年間(1592~96)に焼失し、上杉家の遺品は残っていないそうです。
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「塚間古墳群」は先ほどの東平井古墳群の支群の1つですが、こちらは農地の中にまだ幾つかの墳丘が残っていました。
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「飛石の砦」は、運送会社の建物と駐車場になっています。
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その東側に僅かに土塁が残っています。平井城の北東側の防御を目的として造られた支城のようなものと考えられています。一辺が70mの単郭堡だったそうです。
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ISO: 32 Speed:1200/10000 f値:2.4
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もうすぐ田植えなので、麦を刈り取って稲を植えるため、冬に蒔いた麦が黄金色に実ってきました。梅雨が近いですが、ここだけ秋です。「麦秋」です!
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「護国山 円満寺」には立派な山門があります。永享10年(14麦秋38)に上杉憲実が平井へ退去してきた際に、鎌倉の極楽寺を東平井に移して再建したといわれる真言宗智山派寺院で、上杉氏の祈願所だったそうです。
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ただ現在は無住のようで、本堂は小さなお堂のような建物があるだけです。たぶんどこか別の寺が管理しているのだと思います。
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山門の横にある行人塚は、江戸時代後期の文化9年(1812)に造られたものでも、中から「関東管領上杉憲房の墓碑」が発見されたそうです。昭和63年に修復した際に、憲実公碑と顕定公碑を複製した供養塔が上に建立されました。
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「東平井砦跡」は、先ほどの飛石の砦と同じような位置づけの砦で、今は水田を埋め立てた造成地に太陽光パネルが設置されています。東西100m、南北70mの単純な長方形の形をしていて、城ノ内の地名が残っています。平井城の刑場の跡という伝承もあるそうです。
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田んぼの向こうに、これから向かう天神山が見えます。後ろにあるのは赤城山です。
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「満重山 高源寺」は曹洞宗寺院以外よくわかりませんが、隣の諏訪神社や裏の天神山神社の別当を勤めていた大きな寺だったのではないかと思います。神社との間に保育園や自治会館があります。
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「東平井諏訪神社」は立派な山門がある神社です。創建は天長元年(824)7月に村が出来た時に信州より勧請したことになっており、秋葉神社と雷電神社が合祀されているようです。
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「東平井諏訪神社」の拝殿には極彩色の彫刻が施されています。また隣には立派な養蚕住宅があります。7月27日に行われる大祭には、應永28年(1421)に上杉憲実更が平井城鬼門封じの神としてさらに社殿を造営し、同年7月27日遷宮したためとそれを記念して大祭をこの日に行うようになったという伝承が残っています。
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「天神山神社」は、水田地帯の中にとり残された丘陵の残丘の上にある神社です。拝殿内に関流の和算家・岸幸太郎一門が奉納した算額が残されていることから、学問の神である菅原道真を祀る天神社であると思われます。
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天神山神社境内にある御嶽山座王大権現碑の裏に、幕末頃の満重山 高源寺の住職である龍橋の名前が書かれていることから、多胡郡・緑野郡・甘楽郡三郡坂東三十三所遷の内の十五番札所「満重山 山之堂」が廃仏毀釈によって神社として扱われるようになったという説もあるようです。
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鮎川美国神社の入口に着きました。小さな神社かと思っていたら、河岸段丘上にある小山に鎮座する結構立派な神社でした。
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「鮎川美国神社」です。元は加賀の白山比咩神社を勧請した白山神社だったようで、明治43年(1910)に飯玉神社を合祀したときに美国神社と改称したそうです。平井城の鬼門除だったという伝承も伝わっています。拝殿の天井格子絵は緑埜が生んだ女流画家・斎藤香玉が師匠の椿椿山と共に描いたものといわれていて、斎藤香玉の母・こうは社殿の再建に寄進も行っています。
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「綠埜公会堂バス停」に着きました。朝と同じ上平線で帰ります。めぐるんのバス停は片側しかないところが多いのですが、ここは珍しく両側にあるので注意が必要です。
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装備・携行品
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目黒駅は品川区さんの登山記録
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