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平井城跡周辺(平井金山城跡~高山城跡~平井城跡など)

金井薬師堂、下日野鷲神社、平井金山城跡、中山古墳、鮎川、高山城跡、東平井古墳群、平井城跡、金井稲荷神社、仙蔵寺、常光寺、飛石の砦、東平井砦跡、円満寺、東平井諏訪神社、天神山神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

快晴

登山口へのアクセス

バス
その他: 往路:目黒→山手線→池袋→埼京線→赤羽→高崎線→倉賀野→八高線→群馬藤岡→藤岡市コミュニティバス「めぐるん」上平線→中倉

復路:綠埜公会堂→藤岡市コミュニティバス「めぐるん」上平線→群馬藤岡駅→八高線→高崎→高崎線→赤羽→埼京線→新宿→山手線→目黒

この登山記録の行程

中倉バス停9:49→金井薬師堂9:52→下日野鷲神社9:59→平井金山城跡登山口10:12→物見台跡10:33→清水刻字岩10:39→平井金山城跡山頂325m10:43→井戸跡10:52→櫓門跡11:00→櫃岩11:06~10→平井金山城跡登山口11:41→中山古墳11:48→鮎川11:58→高山城跡(百間築地砦跡)12:09→要害山城跡12:26→天屋城跡12:50~13:00→百間築地砦跡13:34→東平井古墳群金井支群13:39→金井稲荷神社13:50→平井城笹郭跡14:03→三島神社14:07→仙蔵寺14:10→平井城副郭跡・外郭跡14:14→平井城跡(平井城址公園)14:16→平井城堀跡14:26→平井城三ノ丸跡14:36→常光寺14:36→塚間古墳群14:56→飛石の砦15:00→円満寺15:04→東平井砦跡15:16→高源寺15:26→東平井諏訪神社15:28→天神山神社15:33→美国神社15:53→綠埜公会堂バス停16:02

合計6時間13分

コース

総距離
約14.0km
累積標高差
上り約546m
下り約581m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

5月25日(土)は、藤岡市の城跡群の中心的存在である「平井城跡」に行ってきました。南北朝~室町時代に鎌倉(古河)公方と死闘を演じ、その後身内の扇谷上杉氏などとの内ゲバ闘争もあり、関東地方を長い戦乱の渦に巻き込んだ「山内上杉氏」の関東最後の拠点となる城跡です。上杉家はここで後北条氏に敗れて関東を追い出され、上杉謙信(長尾景虎)に家督を譲ることになります。謙信は、関東の覇権を取り戻すことが家督を受け継ぐ大義名分だったため、その後何度も関東地方に攻め入ってくるわけです。

平井城跡に行くには、藤岡市営バス“めぐるん”のもう一本の半観光路線「上平線」に乗る必要があります。このバスは朝イチの1便が6時台で東京からだと間に合わないので、2便の群馬藤岡駅8時13分発に乗ります。そのためスタートが9時になってしまうのですが、さらに電車を乗り間違えた関係で、このバスに間に合わず、近くの別の路線のバス停から「中倉バス停」まで歩き、さらに1時間近くスタートが遅れてしまいました。でもわかりにくくなるので、スタートは「中倉バス停」とします。

最初の「金井薬師堂」は、関東管領「上杉憲政」が、天文21年(1552)に後北条氏に関東を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びる途上で、高山にあった旧高倉寺に一時的に避難させた山内上杉家の守り本尊である薬師如来を同寺の良山和尚が奉ったといわれるお堂です。「伝山内上杉顕定公愛用の碁盤」を所有していました。碁盤は室町時代の作で、国内に現存する碁盤の中ではかなり古い部類に入るということです。碁盤には後世に加筆された「西平井村 平岩山 文殊院」の文字があり、文殊院は今は存在していないため、現在の所有者は西平井の「仙蔵寺」ということになっています。上杉氏が関東を追い出されたため、「金井薬師堂」の管理は、高山社の高山長五郎の先祖で、この地で帰農した高山家が引き継いだようで、元禄16年(1703)に当地に移築された記録や享保12年(1731)に山崩れにより倒壊したものを高山半兵衛重寛が再建した記録などが残っています。

「下日野鷲神社」は群馬県には珍しいわしのみや(おおとり)神社です。拝殿には鷲宮大明神とあります。由緒は不明ですが、藤岡は埼玉県の本庄あたりと複雑に血縁でつながっているため、埼玉方面から移住してきた人達によって祀られた神社だと思われます。だた夏祭は行われているものの、酉の市については調べても出て来なかったので、行われていないと思われます。境内には樹齢150年の夫婦けやきの木があります。

そして平井城の詰めの山城である「平井金山城(平井詰)跡」に登ります。永享10年(1438)に、一説によると長尾忠房が上杉憲実のために標高325mの金山に築いた城といわれ、群馬県太田市にある金山城と区別するために平井金山城と呼ばれているそうです。天文21年(1552)に上杉憲政が後北条氏に関東を追われた際に、平井城と一緒に陥落しており、その後、後北条氏には使われなかったため、廃城となったようです。ただ武田勢が上州に侵攻してきた際に利用した可能性もあるそうです。

平井金山城跡は、「平井金山城跡公園」になっているため一応道は整備されていますが、荒れていて倒木も多いため、スニーカーよりトレッキングシューズがお勧めです。登山(城)口は「日野小学校前バス停」155mの前で「平井詰城跡登山口」と書かれた標識と駐車場があります。簡易水道のタンクの脇から、登山道を登って行くと、まず「物見台跡」300mに着きます。北東側が刈り払われていて高崎方面の眺めが良いです。物見台跡から段差と掘切で区切られた平坦地越えると金山山頂325mに着きます。ここが「本丸跡」です。平井金山城の標柱と色々な解説板があります。山頂手前から櫓門跡を目指して北西側に下ると、こちら側にも段差と掘切で区切られた平坦地があります。その先の分岐を左(北西)に行くと東屋と「井戸跡」260mがあります。分岐を右(北東)に行くと深い堀切のところに「櫓門跡」280mがあり、その先に櫃(かろうと)岩260mという隣接する大岩があります。この岩の下に表門(大手門)があったそうです。櫃岩の先は綠野CCというゴルフ場で下れないため、休憩後今来た道を戻ります。

日野小学校前バス停に戻り、1つ先の上新町バス停まで歩きます。道の南側に「中山古墳」という委細不明の古墳があります。この古墳の少し先に「鮎川」に下りる道があり、増水時でなければ飛び石で渡れる場所があるので、そこで川を渡りました。1箇所だけどうしても水の中に足をつかなくてはならないところがあって、右足が浸水してしまいました。一般的にはお勧め出来ないルートなので、ちゃんと橋で渡りましょう。

「鮎川」は、御荷鉾山北麓を流れている川で、めぐるん「上平線」に乗ると谷の最奥の集落まで行けます。源流は稲含山南方の杖植峠だそうです。下流は上落合で鏑川に合流します。

鮎川を渡った対岸の山にあるのが「高山城跡」です。山の南側に本拠地である「高山四郎行成館(世界遺産の高山社と同じ場所)」を構えていた高山氏が、上杉氏の平井城を守るために築いた城で、東日野金井城、天屋城、日野城とも呼ばれます。城は「百間築地砦」「要害山城」「天屋城」の3つに分かれます。

一番下にある「百間築地砦」は、鮎川を掘代わりにした出城のような存在で、畑を埋めただけで放置された草ぼうぼうの造成地になっていて、怪しい石垣と土塁のような物がありますが、石垣は立派すぎるため、造成する過程で築かれた物の可能性もあります。

少し上に登った山の中腹にあるのが「要害山城」です。ここはまず送電線鉄塔の裏側の登山道の取り付きが笹藪に埋もれていてわからなくなっていて、往きは斜面の適当な場所を獣道を使って登りました。登った斜面は細長い何段もの平坦地になっており、その上に土塁と立派な空堀があります。堀の上の一段高い場所にある神社の跡がが要害山城の本丸だと思われます。ただ狭くて居住性がほとんどないため、独立した城ではなく、天屋城の山の中腹に築かれた戦闘用の砦のような存在だったと思われます。

要害山城から堀切の跡を1つ越え、山の急斜面登った300m前後の稜線にあるのが高山氏の最終的な詰城である「天屋城」です。まず道なのですが、稜線直下までは古い林業の作業道のような物が残っています。最後だけテープを頼りに微かな踏み跡を辿ってよじ登る感じになります。稜線に登り着いた場所から、左(東北)に露岩の多い尾根を進むと、3つの立派な堀切で区切られた平坦地があり、その先の一段高い場所に287.3mの四等三角点があります。ここが本丸跡です。反対の南に続く続く尾根にも何本か掘切があるようですが、こちらは最初の二重の堀切を確認しただけです。下りは途中から出てきた作業道を逆に全部辿ってみました。すると終点の送電線鉄塔の手前で潰れた笹藪に阻まれて、藪の下の獣道のトンネルをはうようにして何とか脱出できましたが、ここは通れないと思った方がよいです。

高山城を築いた高山氏は上杉氏が関東から追い出された後は、後北条氏、武田氏、上杉謙信、滝川氏などに従っているため、高山城も天正18年(1580)に秀吉により後北条氏が滅ぼされるまで存続したと考えられます。その間、状況に応じて色々改造されたことが城が3つある理由のような気がします。

百間築地砦から東に進みます。「東平井古墳群金井支群」は、畑になっていて何も残っていないようです。東平井古墳群は、鮎川東岸の段丘上に分布する古墳時代後期の古墳群で、川破・塚間・飛石・時沢の4支群で構成され、昭和初期には墳丘が350基以上が確認されたそうです。

鮎川を今度は橋で渡ります。「金井稲荷神社」は、享禄年間(1528~38)に平井城笹曲輪の守護神として創建されたと伝わる神社です。平井城落城後に荒廃しますが、江戸時代に帰農した高山氏が再興したそうです。境内社に宗像神社があります。

神社から100mほど北の高台の住宅地が「笹曲輪跡」で、平井城二の丸南に永享10年(1438)に築かれたとされています。

笹廓跡から西の丘陵の麓にある「上三島神社(西平井192)」は、関東管領「上杉顯定」が伊豆三嶋大社から分祀し、平井城の氏神として祀った神社だと伝えられています。立派な門兼拝殿があり、その奥には入れないようになっています。毎年11月15日に行われる秋季大祭の前夜祭の「三嶋様の夜祭り」は、菊川英山筆「富士浅間神社祭礼絵巻」(市指定重要文化財)に描かれた行列の様子と酷似しており、祭りの古い形態を伝承しているそうです。

三島神社の横にある「仙蔵寺」は、鎌倉時代の文応元年(1260)に法印親玄によって開かれ、室町時代中期に関東管領上杉憲実により中興された真言宗豊山派寺院です。元高校英語教師の御住職は上杉氏の研究者で「平井城興亡記 山内上杉一〇〇余年の光と陰」という著書があるそうです。境内にある「蝸牛石(だいろせき)」は平井城所縁の三石のひとつで、雨がシトシト降る日には、まるで歩き出すように向きを変えて動くといわれています。また足方義政おかかえの絵師で狩野派創設者の狩野正信の文殊騎獅子手持経巻図を所有しているそうです。

住宅街の中の養蚕住宅のお宅の裏の細道が「外堀跡」で、その南側の小高くなっている場所が「福廓(二の丸)跡」だそうです。

住宅街を抜けると堀跡といわれるバス通りの向こうに平井城の旗が立っている土塁が見えます。ここが「平井城址公園」で、平井城跡の「本丸跡」だそうです。小さな広場になっており、隅に幾つも石碑が建てられています。東側は鮎川の河岸段丘の絶壁になっており、川との間に復元された掘跡があります。

「平井城」は、鎌倉公方「足利持氏」と京都の足利幕府(第六代将軍・足利義教)の対立が抜き差しならぬこととなり、それが幕府側の関東管領上杉氏と鎌倉公方の対立となり、永享10年(1438)、ついに鎌倉山内館にいられなくなった「上杉憲実」が退去先として選んだ屋敷です。家臣の長尾忠房に築城させたといわれています。持氏は平井城に兵を向け、これが「永享の乱」の初まりとなります。憲実は京都の将軍義教に救援を要請し、陸奥の篠川公方足利満直、駿河守護今川範忠、信濃守護小笠原政康らの討伐軍が派遣され、形勢は逆転し、持氏は捕らえられて幽閉され、自害に追い込まれます。

その後、平井城は、文正元年(1466)に関東管領になった上杉顕定によって拡張されたという記録が残っていますが、山内上杉氏の本拠地として永続的に使用されていたきたではなく、山内上杉氏は状況に応じて鎌倉の山之内や五十子陣、群馬県安中市の板鼻、鉢形城、菅谷城などに本拠地を移しており、平井城を拠点としたのは、永正9年(1512)の永正の乱の後、大永年間(1520年代)から天文21年(1552)に後北条氏によって関東から追い出されるまでの16世紀前半の短い期間だったと考えられています。

後日、永禄3年(1560)に、長尾景虎(上杉謙信)によって平井城は奪回されていますが、景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)としたため、平井城は廃城となったそうです。上杉や武田の本拠地となることを恐れた北条氏が城郭を破却したためといわれています。

最後に「山内上杉家」について少し述べておくと、山内上杉家は数ある上杉家の本家筋にあたる家柄で、鎌倉の山之内に居館があったことから、こう呼ばれるようになったそうです。祖先は公家である藤原氏の一族で、関東に下向した際に足利家と姻戚関係を結び(足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身)、それを背景に権力を持つようになって、やがて関東管領を世襲するようになります。大田道灌が家宰を務めていた扇谷上杉家は上杉家支流の1つです。

矢島商店前バス停の前に「三ノ丸」の標識がありました。でもここも単なる住宅地です。

次に上杉顕定の菩提寺とされる「平井山 常光寺」に向かいます。元亨3年(1323)に原常光が開基となり、観光普門和尚の開山した高野山真言宗寺院ですが、平井城落城時と文禄年間(1592~96)に焼失し、上杉家の遺品は残っていないそうです。

「塚間古墳群」は先ほどの東平井古墳群の支群の1つですが、こちらは農地の中にまだ幾つかの墳丘が残っていました。

「飛石の砦」は、運送会社の敷地内にわずかに土塁が残っているもので、平井城の北東側の防御を目的として造られた支城のようなものと考えられています。一辺が70mの単郭堡で単体では意味をなさないため、近隣の別の支城と連携をとりながら作戦を行っていたのではないかといわれています。

「護国山 円満寺」は、寺はしょぼいのですが、立派な山門があります。永享10年(1438)に上杉憲実が平井へ退去してきた際に、鎌倉の極楽寺を東平井に移して再建したといわれる真言宗智山派寺院で、上杉氏の祈願所だったそうです。山門の横にある行人塚は、江戸時代後期の文化9年(1812)に造られたものでも、中から「関東管領上杉憲房の墓碑」が発見されたそうです。昭和63年に修復した際に、憲実公碑と顕定公碑を複製した供養塔が上に建立されました。

「東平井砦跡」は、先ほどの飛石の砦と同じような位置づけの砦で、今は水田を埋め立てた造成地に太陽光パネルが設置されています。東西100m、南北70mの単純な長方形の形をしていて、城ノ内の地名が残っています。平井城の刑場の跡という伝承もあるそうです。

平井公民館前バス停の向かい側にある「満重山 高源寺」は曹洞宗寺院以外よくわかりません。

高源寺からバス通りを隔てた東側にある「東平井諏訪神社」は、立派な山門と極彩色の彫刻が施された社殿を持つ神社です。秋葉神社と雷電神社が合祀されているようです。創建は天長元年(824)7月に村が出来た時に信州より勧請したことになっており、最初は毎年藁の祠を造っていましたが、延長6年3月に社殿が建立され、今の場所に遷座されたということです。7月27日に行われる大祭は、應永28年(1421)に上杉憲実更が平井城鬼門封じの神としてさらに社殿を造営し、同年7月27日遷宮したためとそれを記念して大祭をこの日に行うようになったという伝承が残っています。上杉憲実は応永17年(1410)なので、わずか11歳ということになるのですが…。

「天神山神社」は、水田地帯の中にとり残された丘陵の残丘の上にある神社です。拝殿内に関流の和算家・岸幸太郎一門が奉納した算額が残されていることから、学問の神である菅原道真を祀る天神社であると思われますが、境内にある御嶽山座王大権現碑の裏に、幕末頃の満重山 高源寺の住職である龍橋の名前が書かれていることから、多胡郡・緑野郡・甘楽郡三郡坂東三十三所遷の内の十五番札所「満重山 山之堂」が廃仏毀釈によって神社として扱われるようになったという説もあるようです。

北へ進み、三たび鮎川を渡ります。最後の「鮎川美国神社」は、元は加賀の白山比咩神社を勧請した白山神社だったようで、明治43年(1910)に飯玉神社を合祀したときに美国神社と改称したそうです。平井城の鬼門除だったという伝承も伝わっています。拝殿の天井格子絵は緑埜が生んだ女流画家・斎藤香玉が師匠の椿椿山と共に描いたものといわれていて、斎藤香玉の母・こうは社殿の再建に寄進も行っています。

「綠埜公会堂バス停」に着きました。朝と同じ上平線で帰ります。ちなみに地名の「綠埜(野)」は、安閑天皇2年(535)5月に天皇が数多くの屯倉を設置した一つで、上毛野国に設けられた「綠埜屯倉」からとられているそうです。

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