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HOME > 特集:映画「アイガー北壁」を10倍楽しく見る方法
 映画のテーマであるアイガー北壁の初制覇。その過程で苦難と悲劇に遭遇したのは、アンディやクルツたちだけではない。このページでは、アイガーにまつわる登山・登攀の歴史を紹介しよう。
■アイガー初登頂から80年、人々の視線は北壁に注がれる!

▲アイガー北壁登攀ルート図。白線は、初登攀に成功したときの「ヘックマイアー・ルート」
 映画のテーマは「アイガー北壁の初制覇」だが、アイガーの頂に人類が立ったのは、この映画の時代よりもずいぶん昔のことだ。初めてその頂を人類に許したのは1858年のこと。アイルランドのチャールズ・バリントンらが西壁からの初登頂を果たしている。
 その後、南西稜、北東稜、北東壁などが次々と登攀される。中でも、北東稜(ミッテルレギ山稜)は日本人の槇 有恒が3名の地元ガイドとともに初登攀に成功し、日本人にとっては思い出深いルートとなっている。
 こうして、さまざまなバリエーションルートが踏破される中で、最後に残ったのが標高差1800mに切り立った北壁だったのである。
 北壁への初挑戦は、1934年、ドイツのW・ベックとG・レーヴィンガーによって行われた。しかし2900m付近で転落死。アイガー北壁の最初の犠牲者となる。
 続いて、翌1935年8月21日には、同じくドイツのマックス・ゼドゥルマイヤー、カール・メーリンガーが挑戦するも、標高3300m地点の≪死のビバーク≫にて凍死、遺体で発見される(地図参照)。
 翌1936年には、映画『アイガー北壁』で描かれるドイツのトニー・クルツとアンドレアス(アンディ)・ヒンターシュトイサーがオーストリアの2人のパーティと共にアイガー北壁に挑戦。3350mまで到達するが、メンバーの負傷や悪天候に見舞われて退却。メンバーは次々に転落、凍死して、最後まで生き残ったトニー・クルツも救助にきたガイドたちの目の前で息絶える。
 多くの犠牲者を出した北壁だが、1938年にドイツとオーストリアの4人の登山家によって初登攀される。以後このルートは、初登攀メンバーのひとりの名前を取って「ヘックマイアー・ルート」と命名される。
 なお、詳しい変遷は以下の年表を参照してほしい。
【アイガー年譜(1858~1938年)】
▲アイガー北壁に挑戦するハインリッヒ・ハラー(『山と溪谷』2006年4月号掲載、写真提供:イワタニプリムス)
1858年 アイガー初登頂。アイルランドのチャールズ・バリントンら。西壁(南西面と西稜)初登攀。
1870年 「アイガーを貫通する鉄道」として、ユングフラウ鉄道の計画に着手(着工は1896年)。
1874年 南西稜初登攀。アメリカのマルガリータ・ブレヴォールドら。女性初登攀。
1876年 アイガーヨッホ北面よりの初登攀(南稜の初登攀)。イギリスのG・E・フォスターら。
1912年 ユングフラウ鉄道開通。
1921年 ミッテルレギ山稜(北東稜)の初登攀。日本の槇有恒ら。
1932年 北東壁初登攀。スイスのハンス・ラウパー博士ら。
1934年 北壁初挑戦。ドイツのW・ベックとG・レーヴィンガー。標高2900mに達したが転落。
1935年 北壁遭難。8月21日~25日。ドイツのマックス・ゼーデルマイヤーとカール・メーリンガー。標高3300mの≪死のビバーク≫にて凍死。
1935年 北壁遭難。ドイツのトニー・クルツ、アンドレアス・ヒンタシュトイサー、オーストリアのヴィリー・アンゲラー、エディ・ライナーの4人。3350mの高度から下降中に死亡。
同年   ベルン州の議会は、アイガー北壁の登攀を禁止。
1937年 7月6日のベルン州議会の新決議により、36年の禁止令を緩和。
1937年 7~8月にかけて、6組のパーティが北壁挑戦。
1938年 北壁初登攀。7月21日~24日。ドイツのアンドレアス・ヘックマイアーとルートヴィッヒ・フェルク、オーストリアのハインリヒ・ハラー、フリッツ・カスパレクが達成。以後このルートは、「ヘックマイアー・ルート」と命名された。
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