江戸時代の秘境は今――。250年後に『遠山奇談』をひもとく

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文・写真=宗像 充、資料画像提供=飯田市美術博物館

江戸時代の秘境探検復権

長野県南部、静岡県との国境に接する地域を遠山谷と呼ぶ。旧南信濃村と旧上村という2つの村からなるこの地域は、現在の行政区分では長野県南部の中核都市飯田市の一画となっている。この遠山谷で昨年から『遠山奇談』と呼ばれる江戸時代の探検記が地域おこしの起爆剤として注目されている。

『遠山奇談』は1788年の大火で消失した東本願寺の再建のために用材を求めて遠山へとやってきた、浜松の寺の住職一行の冒険譚だ。一行は山間地で山男や3mの大ヒキガエル、ウワバミなど怪物たちと次々遭遇したという・・・。

『遠山奇談』表紙
大ヒキガエルに遭遇する住職一行(『遠山奇談』より)
大ヒキガエルに遭遇する住職一行(『遠山奇談』より)

秘境・遠山

ぼくは遠山谷の北隣の大鹿村に暮らし、遠山の人たちが地域おこしに江戸時代の奇談物に目を付けた記事を新聞で見た。読んでみると、怪物などは出てくるものの、地名はぼくも知っているのが多いし、全部が荒唐無稽とも思えない。

現在でも遠山谷は飯田市中心部もある長野県南部の天竜川の川筋とは伊那山地で隔てられていて、秘境感あふれる地域だ。天竜川の支流の遠山川が中央構造線沿いにまっすぐ北上する中、「こんなところに」と思うような雰囲気で和田の中心市街地や秋葉街道沿いの宿場町が途中現われる。

現在の遠山谷
現在の遠山谷

この地域の民俗芸能の霜月祭りは、映画『千と千尋の神隠し』のモチーフになっているという。実際、山間に現われる和田の町は、なんだか映画で登場する千尋が迷い込んだ廃墟のテーマパークが生まれ変わった神々の町の雰囲気がする。個人商店や獣肉店はあってもコンビニはない。戦後に至るまで材木の搬出でにぎわい、かつては芸者もいて映画館もあったという。林鉄(森林鉄道)も山奥まで延びていた。この遠山谷の雰囲気と秘境探検の冒険譚は雰囲気的にはとてもマッチする。

江戸時代においても遠山は森林資源の宝庫で、この物語の舞台になりえた。巨木の探索と切り出しの間に差し込まれたこういった不思議な挿話に、江戸や京・大阪の町人は魅了されて大ヒット。ヒマラヤの学術調査でイエティに出会った探検家の報告記に現代人が魅了されるような感覚だろうか。

かつて遠山は信濃(長野県)、美濃(岐阜県)、三河(愛知県)、遠江(静岡県)国境の山間地域の総称だった。『遠山奇談』はこの遠山の名前を当時の都市住民の間に知らしめた。地域おこしの素材として期待する気持ちはわかる。

遠山谷絵図(『遠山奇談』より)
遠山谷絵図(『遠山奇談』より)

遠山奇談とは

『遠山奇談』は寛政10年(1798年)に平安書林から発行されている。この年、1788年の大火から10年をかけて東本願寺の本山が再建されている。浄土真宗門徒が親鸞聖人の墳墓の地にご真影(姿を再現した木造)を安置する廟堂を建てたのが東本願寺(浄土真宗大谷派)の始まりとされる。

現在の御影堂は正面76m、側面58m、高さ38mで、2019年に修繕された世界最大級の木造建築であり、国の重要文化財に指定されている。遠山からの木材は17,325本、総費用は36,420両。御影堂、阿弥陀堂両堂再建の用材の6割を担っている。浄土真宗は定期収入のある寺領を持っていない。再建はすべてが門徒の寄進によるものである。

4度焼失、再建を繰り返しているが、寛政10年の再建はその最初のものにあたり、期間も短い。信仰の拠り所を再建するために門徒たちは爆発的なエネルギーを発散させ、その一翼を担ったのが、遠山からご用材を調達した三河の浄土真宗の教区(静岡県も含む)・門徒である。『遠山奇談』はこの用材調達の事前調査と切り出しという史実をもとにしている。

ところが、「勝手にこちらで拵えた」「まことに心掛けのよろしくないいやな本」と、飯田市の柳田家を継いだ民俗学の創始者、柳田國男はこの書物を批判している。実際のところはどうなのか。

この物語の主人公は、浜松市の浄土真宗寺院・齢松寺(れいしょうじ)の住職で、その住職の紀行文という形式をとっている。一行は寛政元年(1789年)の4月8日に浜松を出発し、天龍川沿いの平野から光明山、秋葉山を経て遠州国境の水窪(みさくぼ)に至り、青崩峠を経て遠山谷に至っている。

齢松寺の冒険

現在の齢松寺の住職は獅子吼(ししく)実さんで『遠山奇談』の主人公「齢松寺」は獅子吼さんの先祖にあたるようだ。突然訪問したのにもかかわらず、玄関先に親鸞聖人の肖像画を持ち出して説明してくれた。巻物の裏面は天明4年、本山が消失したのが天明8年のため、裏面にある「恵蕚」(えがく)が年代的に『遠山奇談』の「齢松寺」にあたるのではないかという。

「遠州一のあわてんぼう。本山が焼けたのを風の噂で聞いて、自主的に信州に行って山を見てきた。やらまいかの遠州人ならこういうこともやるわな」(獅子吼さん)

天龍川の河口にあたる浜松は、一行がたどった秋葉街道(信州街道)の起点にあたり、商人から情報も得られるし、材木を扱う問屋も多く、材木などの物資だけでなく情報の集積地でもあった。遠山谷は江戸時代には天領でもあり、屋根板材にされる榑木(くれき)や材木が、河口の掛塚港から江戸や大阪に回漕された。遠山谷の木沢には大坂山という地名も残り、大阪城建設の際にも遠山谷は用材を供出している。

一行は住職以下、山稼ぎを営む平七に杣(木こり)の平五郎、それに檀家4人の計7人で浜松を出発。この時幕府は規模を縮小しての再建を提案しているものの、大谷派は元の規模の再建を実現させている。用材も大木が求められ、「槻(つき=ケヤキ)の大立木あるよし」の情報を得て遠山をめざし、シオジ、モミ、ツガ、クリなどを山奥深くまで足を延ばして探索している。

静岡県浜松町の齢松寺
静岡県浜松町の齢松寺

プロフィール

宗像 充(むなかた・みつる)

ライター。1975年生まれ。大分県犬飼町出身、長野県大鹿村在住。高校、大学と山岳部で、大学時は沢登りから冬季クライミングまで国内各地の山を登る。大学時代の山の仲間と出した登山報告集「きりぎりす」が、編集者の目に止まり、登山雑誌で仕事をもらいルポを書くようになる。登山雑誌で南アルプスを通るリニア中央新幹線の取材で訪問したのがきっかけで、縁あって大鹿村に移住。田んぼをしながら執筆活動を続ける。近著に『絶滅してない! ぼくがまぼろしの動物を探す理由』(旬報社)など。

『遠山奇談』を歩く

山奥に分け入った僧たちを待ち受けていたのは、山男や3mの大ヒキガエル、ウワバミといった怪物だった・・・。寛政10年(1798年)に刊行された紀行文『遠山奇談』をたどる。

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